16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第10章 ふたりのルイスと魔王1

大ローマ帝王と第六天魔王 1563年 小牧

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〈織田信長、生駒吉乃、奇妙丸、雪沙〉

 永禄6年(1563)、尾張小牧では人がせかせかと動き回っている。信長の命で新たな城がこの地に築かれることになったからだ。
 相当な数の人間がこの普請に関わっている。石垣の石は周辺から調達するのでそれを運ぶ者たちが列をなしている。また、整地のために掘る作業をする者、基礎の石積をする者、山の一部を削る者、石垣を積む者、城郭を建てる者、それぞれが懸命に働いていた。何しろ、城主は進捗を逐一確かめている。城の構造は信長の頭の中でおおむね出来上がっていたので、悠長にしているわけにもいかなかったのだ。

 この城は美濃攻略の拠点になるものだと皆が承知している。
 山に登れば、美濃の稲葉山城もよく見えるほどの立地だ。その理由がなければ、一同は勤め慣れた清洲から離れたいと思わなかっただろう。そして美濃攻めの拠点ならば、決着がつけば不要になるだろうとも考えていた。一時的な要害の城ならば、それほど本格的な普請にはならないだろうと。
 いや、本格的な普請だった。
 山を削るほどの作業もあるのだ。一時の砦のようなものでは決してない。美濃攻めの拠点にとどまらない、織田信長の新たな居城なのだ。
 それを一同は身をもって知るのである。

 美濃攻めもそうだが、主城を移すのには理由があった。
 まず彼に男子が生まれていたことが挙げられるだろう。世継ぎのために城を用意するということである。清洲城をそちらに、ということではないにせよ新たな城を築く理由のひとつにはなっただろう。信長の長子とされる男子は奇妙丸と呼ばれるが、その母は側室の生駒吉乃(きつの)だといわれる。正室の帰蝶が清洲を退いたのは男子の誕生の頃なので、何らかのいきさつがあったのかもしれない。帰蝶と信長の仲は険悪なものではなかったが、久しく子を得ることはなかったからである。

 生駒吉乃は正室を押し退けて居座るような型の女性ではなかった。信長と結ばれてからもずっと実家の生駒屋敷に住み続けた。寡婦だったこともあるのだろう。子をもうけても表に出ることなく受け入れ、見守るという立場を保っていた。
 信長は会いたくなれば三里強、馬を走らせたのである。それほど惚れ込んでいたということだ。新城に彼女を迎えたいという気持ちもあっただろう。

 雪沙が彼女を評したことがある。
「そのような女性はずっと大切にされるものだ。私の母もそうだった。愛人と言われながら、自分が産んだ子どもと離されて別に暮らしながら、いつでも優しく受け入れ、皆の理解者となっていた」

 それらは私的な理由になるが、尾張の地をほぼ制した信長にとって、拠点を重要な地に定めていくことは政策としても重要である。新城はその威容を他に知らしめ、これまで得たものの集大成といえるだけのものにしなければならなかった。もちろん、それは永禄6年までの集大成で、通過点ということである。

 新城・小牧山城は山頂に主郭を築き、都合三段の平地が石積で組まれている。削られた山肌と石を組み合わせる工夫もなされた。上段・中段・下段とでもいおうか。主郭の脇には玉砂利を敷いた庭園ももうけられている。その南側の下段には、私邸として遊興を楽しむための建物遺構があったという。
 石垣は野面積みという、石を加工しないで積む方法が採られていた。工期があまりなかったこともある。他の積みかたに通じた者が少なかったのかもしれない。特筆すべきは最上段の主郭を支える辺りにはひとつで2トンを超える巨石群を配置していたことである。それらを運ぶのはたいへんな労力だっただろうが、この城が堅固なものであると主張するのに十分足るものであった。さらに城の北西部分には張り出した部分があり、現在の調査で3・8mの高さの剛壮な石垣が確認されている。
 斎藤義龍の稲葉山城が見える位置だ。
 美濃も照準に捉えていると言わんばかりである。

 それだけの力を信長は備えていたし、それを表に出していくべき時期でもあった。



「それにしても、大きなことを軽々とするものだ」
 普請の合間に庵を訪ねてきた信長に雪沙はいう。
「様子を見とってくれたのか」と信長は尋ねる。
 白い髪がまばらになってきた老人は、ゆっくり立ち上がって庵の木戸を開き、外の音を聞かせる。人の足音、何かを引いていく音、ざわめきが風のように漂っている。
「見えはしないが、これだけ賑やかならば、老人でも気がつくだろう。いや、眩しいものだ」

 雪沙は目の前の、まだ20代の若者をまじまじと眺める。そこにかつての自分の姿を見る。それはちょうど、イタリア中部に進軍し、フィレンツェを取り囲み、ニッコロ・マキアヴェッリやレオナルド・ダ・ヴィンチとイーモラで語り合っていた頃だった。
 イタリア半島の知性が邂逅を果たした、宝石のようなひとときである。

 あの頃はーーまっしぐらに進むことしか考えていなかったし、どのような障壁も払いのけられると信じていた。

 そのような感慨を持って、信長を見ていたのである。

「わしは雪沙のようになっておるか」
 信長の言葉に雪沙ははっとする。
「いや、貴殿は私よりもっとはるかな先まで行けるだろう。身内の争いを終わらせ、尾張を制し、今川も倒した。三河とも手を結び、美濃を照準に定めている。次は近江か甲斐か、いや駿河が先か。いずれにしても、そこまで行けば日本という国の統治者も遠い先ではない」
 微笑んで語る雪沙に信長はうなずく。
「つい先頃まではよう考えておらんで、とにかく目の前に向かってくる者を薙ぎはらっとった。しかし、雪沙に聞いた話はわしの中に根を下ろしとるようだで。バラバラになったイタリアのかけらをひとつにし、大ローマ帝国の復興を目指すという、その大きな希い。この国も百年の乱世の渦中にあり、そこらかしこが戦場になっとる。それを収め、さらに古来の版図を目指す……」
「私は早々に挫折した」と雪沙は苦笑いをする。
「いや、それは運が味方せんかったからだで。どえりゃあ残念なことだった。しかし、貴殿がここにおること、それがたいへんな僥倖なのだ。そのために貴殿が海を超えてわしのところに来てくれたとさえ思っとる」

「そうか」とまだ雪沙は苦笑している。
「そうだ」と信長はいう。

「わしは目指す。この国をひとつにすることを。それができるもんだけが、為すことができるのだで。できるかどうか、ひとつやってみよまい」

 そう語る信長の姿は自ら光輝いているように雪沙には思えた。この男は決意したのだ。どのような手を使っても、人をどれだけ殺めようと、それを叶えるために働くと決めたのだ。

「それが叶ったら、わしは大ローマ帝王と名乗るでや」と信長は笑う。
「さすがにローマまで進軍するのは厳しいと思うが」と雪沙もにこりとする。
「そうか、それでは……第六天魔王とでもしておくか」
「それはそれは……大ローマ帝王より性質が悪いのではないか」と仏教のことはあらかた学んだ老人が言う。
 第六天というのは仏教で仏の階層だが、その中の魔王であるということになり、確かによい響きではない。

「本望だで」と信長は笑った。

 小牧山城築城以降、信長はその言葉を忠実に実行に移していく。

 雪沙はその輝きに触れながら、自身の生命の灯がじきに消えるであろうことをとうに察していた。この時すでに88歳になろうとしている。己の寿命を一度、二度、三度越えてここにたどり着き、常人より永く生き延びてきた。それもじきに終わる。
 果てしなく長い長い旅の終点はここなのだろうか、と雪沙は、セサル・ボルハは、チェーザレ・ボルジアは思う。故国に戻ることはもう叶わない。それはよく分かっている。
 もう一度、旅に出られないだろうか。
 雪沙は信長を眺めながら、そのようなことをぼんやり考えていた。

 一方、遠く離れたローマでも、同じ年の芸術家がまだ生きているのだが、彼は知るすべもない。


※第10章は12月8日更新分で終了します。第11章は2022年1月から始める予定です。

※小牧山城の遺構については『城びとー理文先生のお城がっこう歴史編 第42回 織田信長の居城(小牧山城2)』を一部参考にしました。
https://shirobito.jp/article/1423
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