16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第10章 ふたりのルイスと魔王1

泳ぎきったら何がある 1553年 尾張国

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〈織田上総介信長、織田信光、平手政秀〉

 天文21(1552)年、尾張の豪族・山口教継親子を辛うじて退けた織田信長だったが、それは長い長い戦いの序章に過ぎなかった。その原因となった駿河の太守、今川義元は攻勢の手を緩めることなく次々に尾張に入り込む算段をすすめている。

 同じ年の夏にはさらなる争乱が勃発する。
 今度は同盟する豪族の離反ではなく、身内の家臣が噛んでの謀略である。
 清洲城で家老の坂井大膳、坂井甚介らが謀って、南の知多半島への途上にある松葉城と深田城に攻め入り占領したのである。清洲の城主・織田信友は守護代をつとめた織田達勝の跡継ぎである。攻め入られたのは双方とも信長方の城で、人質をとった上で城に立て籠った。
 この軍事行動は信長に対抗する意思を表し、その勢力を削ごうとするものだった。表向きは清洲城家臣の謀りごとであるが、城主の織田信友が暗に了承していることは明らかだった。

 つまり、信友は信長を敵だと思っているのである。

 8月15日のことだった。
 一夜明けて8月16日、日がしらじらと明ける頃に信長は自軍を率いて那古野城を出発した。これに守山城主の織田信光も軍勢を率いて合流する。

 信光は信長の叔父であり、信長が信用できる唯一の親族だった。「尾張の大うつけ」と呼ばれて身内にも敬遠されがちな信長だが、この叔父は大うつけとみなされた甥っ子の気性を見抜いていただけではなく、じつは誰よりも買っているのだった。

 合流した軍勢は松葉城、清洲城など3つの拠点に人を分けて攻撃をかける。清洲の側でも30町(約3.3km)ほどの萱津(かやづ、現在の海津)村まで軍勢を寄せた。ここで両軍は衝突した。
「うおおおっ」と先駆け、突進していったのは信光勢の足軽組頭の赤瀬清六だった。後に彼らの隊も続く。辰の刻(およそ午前9時頃)のことである。
 信長はその様子に目を見張った。
 突進の様子にためらいや無駄な動きがなかったからである。しかし、自身がぼけっと突っ立っているいとまはない。自身も叔父に合図をし、一気呵成に突っ込む。先鋒の赤瀬の勢いに力づけられたように、他の皆果敢に敵に向かっていく。敵方は一瞬怯んだ。
 すぐにその風景は鑓と人で埋まり、金属音と雄叫びが一帯に響き渡る。

 信長にはその音ひとつひとつがはっきりと聴こえていた。
 戦に限ってのことだ。
 音だけではない。人の動きも鑓の動きも、ゆっくりとして見えるのだ。「どうも、生き物としての「五感」が最大限に発揮されるようだで」と信長は自覚している。
 叔父が大鑓を振るって敵兵をなぎ払うのも、赤瀬が清洲方の頭領・坂井甚介にまっしぐらに鑓で突きかかっていくのも、よく見えていた。そして、自分にかかってくる敵も面白いほどよく見える。
 すぐに信長は鑓で一息に仕留める。それを抜いた力を次の獲物に振るう。そして、頭には次の考えが浮かんでいる。

 敵も清洲から出ている衆がいちばん多いはずだでや。ここを落とせばあとは寡勢、わが衆らが苦戦しとるとは思えんが、早よ片づけんといかん。

 ただ、ほんの一刻ですべてが決するというわけにはいかなかった。
 信長の目にはいろいろなものが映り続けた。
 真っ先に出ていった赤瀬が坂井甚介を討ち果たすこと叶わず、敵の餌食になるのも見えた。そして、その坂井を柴田勝家らが取り囲み絶命に至らしめ、首を取るのも見ていた。信長、信光勢は始終優勢に立っていることも分かった。
 二刻ほどの戦闘ののち、雌雄は決した。
 信長、信光勢はそのまま松葉城の奪回に向かう。そして、一気に松葉も深田も獲り返す。降参した軍勢は清洲城に粛々と退却していった。

 夕暮れ、萱津に自軍の犠牲者が倒れているのを数える。
 清洲の衆が50余り、自軍はそれより少なかったが無傷というわけにはいかなかった。

「おう、片付いたでや。戻ろまい」と信光は馬上から信長に告げる。
「叔父上……済まぬ」と信長はつぶやく。
「ん?」
 自身の采配を省みているのだと信光にはすぐ分かった。分かったが、戦闘のあれこれを悔いても結果が変わるわけではない。
「戦はかようなもんだで、後に生かしゃあええ」
 信光はそう言って、馬の向きを変えようとした。

「わしはまだまだ戦下手だぎゃ」

 甥がつぶやいた言葉を信光は耳に留め、また信長に向きを変えた。
「下手ならば上手くなるしかないで、それが喪った者への弔いにもなろう。それに戦は決まった妙手があるわけではない。上手いだの下手だのは言っとられん。自在に動くしかないがや。
もうおぬしは激流に飛び込んだようなものだで。そこは泳ぎきるしかない。将として」
「将として泳ぎきる、か」と信長はつぶやいた。

 泳ぎきった先には何があるのだろうか。
 泳ぎきったと思っても、その先にまたさらなる激流があるだけではないのか。
 だとしたら、何のために泳ぐのか。
 信長はそのようなことをふと思った。

 信長はこの戦いの後で、清洲城周辺の田畑から作物をすべて刈り取るように命じる。今後また叛意を抱くことのないよう、強く警告する示威行動である。
 清洲はもう信頼できるものではない。
 ならば、刈り取るしかない。
 そのようなことでもある。


 一方、この一連の小競り合いの中で、平手政秀は人知れず煩悶していた。
 彼の息子たちがあからさまに信長への敵意を表すようになっていたのだ。そしてこの頃には、信長から離反するよう暗に勧めてくるようになった。
 その叛逆心は以前から息子たちの内に巣くっていたものだった。
 以前政秀の一男、五郎右衛門の馬を信長が欲しいと言ったことがあった。五郎右衛門はそのとき、「馬は必要なものですので、どうぞご勘弁ください」と断った。それ以来、信長の態度はあからさまに変わった。五郎右衛門に冷たくあたるようになったので、周囲も気を遣って彼と信長をあまり近づけないようにしている。
 それが五郎右衛門には耐え難く思えたのだった。
 政秀には五郎右衛門、監物、甚左衛門の3人の男子がいたが、五郎衛門の不満は兄弟にも伝播し父に離反を勧めるほどに育ってしまったのだった。
 ここまで書いてきたわずかの間だけでも、信長の周りは敵ばかりである。生母に始まり宗家筋も少なくない数の土豪たちも、もちろん今川義元もだが、ほうぼうに敵が潜んでいるといってよい。それは何より、守役の平手政秀がもっともよく分かっていた。今や「反信長」の空気はみずからの家臣団にまで漂っていた。陰で信長を廃し、弟の信勝を立てるべきだと徒党を組む動きもある。さきの戦いで坂井甚介の首を取った柴田勝家はその先鋒だった。

 平手政秀は織田信秀に信長の守役を託された。それを貫く意思はいささかも変わらなかった。ただ、信長を廃する動きが足下まで来ていることを知るにつけ、どう事態を変えられるのか悩み、そして答えを見つけられなかった。

 平手政秀はある日、春日井の城(志賀城)の一室に息子たちを呼んで、とうとうと諭した。

 自身は先代の命により信長に付いた。主君が信長であることは一生変わらない。息子たちもそのように信長に仕えることを望んでいるが、もしそうでないのならば、ここで袂を分かつ他はない。
 そのように伝えた言葉を息子たちは真剣な面持ちで聞いていた。五郎右衛門はしばらく難しい顔をしていたが、静かに父に告げた。
「私はあのお方を主君とは仰げませぬ」

 場の空気が緊張する。二男も三男もうつむいて拳を固く握りしめている。その様子を見た政秀は、「あい承知した」とだけ口にして、静かに座を立った。

 それからほどない、天文22(1553)年1月、平手政秀は自刃してこの世に別れを告げた。刀を持つ手が凍えて動かないほどの、格別寒さの厳しい日のことだった。

 春はまだ遠かった。
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