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第10章 ふたりのルイスと魔王1

いくさ下手 1552年 尾張・鳴海

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〈織田上総介信長、帰蝶、今川義元、平手政秀〉

 葬儀の翌朝、那古野城(なごやじょう)の板間にどかっと腰かけ、信長は雑穀で炊いた飯をかきこんでいる。いつもと変わらない朝の風景である。
 そこに、小袖姿の帰蝶が現れ夫の前にすっと座す。夜はともかく、朝から顔を合わせることなどめったにない夫婦である。
 信長は彼女をちらりと見て言う。
「奥方どの、何ぞあるでや」
 帰蝶はふっと微笑んで、夫を見る。
「あれだけのことをした翌朝、お屋形さまはどのように過ごされるのかと思いましたで、ご様子伺いに」

 前日、織田信秀の葬儀で肩衣も袴も付けず、仏前に抹香を投げつけた件をさしている。
 信長は目を丸くして、ハハッと大きく笑う。
 そのあごに飯粒がついているが、本人も気づいているらしくそれを手でつまみ取る。
「あれはさほどのことか」
「まあ、お屋形さまのなされそうなことではありますが……」と帰蝶は天井を仰ぐ。
「なれば、舅どのにはいかように報せる?」と信長は眼光を鋭くする。

 信長の舅(しゅうと)とは美濃の覇者である齋藤利政をさす。「美濃の蝮」である。
 帰蝶が実家の美濃と頻繁に文を交わすのは夫婦の間で了解ずみのことだった。ただ、その中身を信長が問い質すことはない。このふたりにはどこかしら相通ずるものがあり、お互いが何を考えているのか容易に推し量れるようだった。
「虎が天にも響くほどに咆哮した、ぐらいに書いておきましょうや……よく言い過ぎかもしれませぬな」

「わしは、虎か」と信長は聞き返す。
「はい、目下(もっか)は。あの目を見たら皆震え上がりますぞ。あるいは何か他にお好みがございますの?」

「いや。父が無うなったら、尾張は嵐に見舞われること必定だでや。睨みをきかすというのならば、虎で問題ないでや」と信長は呟く。
「ただ、お屋形さま。那古野のもの、近在懇意の衆らあにはその意を知らせた方がよろしいかと。いくら孤高の虎でも、足場がなければ峰にも登れませぬ。私も父にはそのような文をしたためようと思うとります」

「ありがたいこと」と飯をかきこんだ夫はすっと座を立つ。
 その背中を見ながら、帰蝶はもの思う。
 おそらく、上総介信長の頭の中にはいろいろなことが巡り回っているのだ。

 信秀の跡を継ぐのはたいへんなことだ。
 嵐が来るという信長の言葉も大袈裟ではない。

 駿河・遠江(とうとうみ)の太守・今川義元は土豪の争いに乗じて攻め入ってくる。隣接する三河の松平家も帰趨(きすう)がはっきりせず、結局今川方に付いている。北方の美濃とは婚姻をもって同盟関係が出来上がっているが、永続的なものではない。
 尾張はさらに難しい。
 信秀は守護代の織田宗家を立てながら、自身の立場を築いてきた。身内の争いは国を脆くさせ、他の侵入を容易にする。最も避けなければならないことだった。「大うつけ」と呼ばれている信長が宗家との関わりを首尾よく御せるのか。織田の一族郎党が案じているのだ。それは織田の中だけではおさまらない。どこかに綻びができれば、同盟を結んでいる土豪が一気に離反することもあり得る。

 そして帰蝶が思うに、いちばん厄介なのは信長の実母・土田御前である。
 実の息子を嫌っている母親は、じきに信秀の決定を覆して自分が産んだ別の子を織田の当主に推すだろう。それが家中を分断する火種になるのではないか。

「行く道は険しい。虎でも駆けのぼれるかどうか」と帰蝶はつぶやく。

 行く道は確かにこの上なく厳しい。
 ただ、信長は虎になろうとはいささかも思っていなかった。



 真っ先に信長に反旗を翻したのは尾張・鳴海城主の山口教継・教吉親子だった。彼らは織田信秀にはおとなしく従っていたが、信長には従えないとして今川の軍勢を領内に招き入れた。これまでの同盟関係を反故にする「裏切り」だった。信秀の死の翌年、天文21(1552)年4月のことである。
 信長19歳の年である。

 今川義元、この駿河・遠江の守護大名は土地を接する三河から尾張、甲斐や信濃にも目を光らせている。治めている領地の広大さを考えれば、じきに三河も尾張も飲み込まれるのは容易に想像がついた。早いうちに織田より今川に付く方がよほど賢いという結論になるのは仕方のないことだった。

「そうれ、お越しなさったでやっ!」
 信長は4月17日、軍勢800を率いて小鳴海に進み三の山から敵勢を見下ろすように陣を敷いた。
 山口の軍勢は息子の教吉が鳴海城を守り、父の教継は笠寺に要害を築く。そして自身は中村に立て籠った。さらに息子の教吉の軍勢は北上して赤塚に進軍していく。

 地名はすべて、現在の名古屋市南部のものである。天白川を挟んだ広範な地域で、ここが今川方に渡ってしまうと信長の那古屋城を容易に攻めることができる。

 信長はもっとも北上している赤塚に自軍を進める。
 ここで両者が激突する。
 双方馬から下りての直接的な戦闘である。
 元は同盟を組んでいた者どうし、見知った顔も多いが容赦はない。長鑓が主力の織田勢が時には有利ではあったが、懐に飛び込まれたらひとたまりもない。戦闘は数時間続き、敵味方の区別も難しく、倒れる者を踏み越えて取っ組み合うありさまであった。お互いの距離が近すぎたため、お互いの首を取る余裕もない。結局鳴海の山口勢は撤退していったが、織田勢も30余の兵を失うこととなった。
 ほうぼうに散った馬だけはきちんと揃えて人質とともに交換したという。

 この日のうちに織田勢は那古野城に戻ることができたが、信長は張り付いたように怖い顔のままでいた。
 脇に付いていた平手政秀がじっと信長を見て静かにいう。
「兵が……」
 信長は目を伏せて、つぶやく。

「わかっとる。これはいかんでや」

 それだけ言うと城のあるじは去っていった。

 平手が言いたいことを信長はよく承知していた。

 やみくもに敵味方の区別もつかないほど接近した戦闘になり、結果、雌雄は決したものの犠牲も出た。勝てばいいというものではない。もっときちんと戦闘の形を取らなければならない。考えなければならない。あのありさまで犠牲が30余人だったのは、まだよい方だったかもしれない。
 しかしそれは信長の采配のゆえではない。

 自身もすでに今川勢との戦などを経験しているが、父の采配ぶりは自身とはまったく異なっていた。
 そのことが信長の胸に重石のようにのしかかっていた。これからいくつ戦をしなければならないのか皆目見当もつかないのに、このようなやり方ではダメだ。

 人知れず煩悶する信長だった。
 しかし、ときは待つことをしない。
 次の敵がまたすぐに襲いかかってくるのだ。
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