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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
少年は天才に憧れて旅に出る 1520年 アヴィニョン
しおりを挟む〈アヴィニョンの学生ミシェルとその学友、国王フランソワ1世、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランチェスコ・メルツィ〉
1520年、アヴィニョン(現在のフランス、プロヴァンス地方の町)の学生ミシェルは、はからずも人生の岐路に立たされていた。それはミシェルの身にのみに起こったことではなく、他の学生にも、周辺一帯にも広く影響を及ぼすようなことだった。
黒死病(ペスト)の発生が伝えられたのである。
それはアヴィニョンではなく、かなり離れた町のことだったが、周辺一帯の全住民に身が総毛立つほどの恐怖を与えたのだ。
前の大流行(パンデミー)は14世紀のことだったが、住民を全滅させるほどの凄まじい災禍はまだ根強く人々の心に残っていた。それに、14世紀のパンデミーが終息したあともペストはたびたび散発的に発生していたのだ。そのつど、発生した地域の住民は家の門戸を固く閉ざし、外を歩いているのは鳥のようなマスクを被った医者や消毒人だけになる。それを知らない人間が見てもたいそう恐ろしい光景である。
幸い、14世紀の大流行はまだ再来していないものの、ペストは軍隊よりも恐ろしい恐怖だったのだ。
ペストはノミとネズミを介してヒトに感染する。そして、感染したヒトの血痰などからヒトに感染して広がる。その症状によって種類が分かれていて、リンパ節がペスト菌によって侵される腺ペスト、肺が侵される肺ペスト、皮膚ペストや眼ペストがあるほか、局所に症状が出ないうちに敗血症を発症するものがある。
14世紀にこの伝染病が「黒死病」と呼ばれたのは敗血症型の罹患者の症状から採られたものである。患者は急激なショック症状を起こし、皮膚の各所に出血斑を生じる。そして、手足が壊死し全身が黒いあざだらけになって死亡する。
ひとつの例として、14世紀のイギリスの記録では1日あたり200人を埋葬したという記録がある。
そのような記録や言い伝えは16世紀の初頭にも十分生きていた。局地的にでもペストの発生が伝えられれば国がかりで対策が取られる。通信や交通網が現代ほど発達していないにも関わらず、それは驚くほど徹底されていた。まず、集団生活の場はたちまち封鎖される。学校がまさにそれにあたる。
子どもたちの歌声も、今は聞こえてこない。
そのようなことで、アヴィニョン大学も無期限の休校となった。学生たちは開校している他の大学に行くか、家業を従事するために故郷に帰るのか、あるいは青春の放浪生活を楽しむのか、選択することになった。現代の大学でも講師の事情で長い休講となることがあるが、学校まるごと無期限の休校というのが、いかに特別なことか。もう戻ってこない学生が大半なのだ。
ミシェルは故郷のサン・レミに戻って家族に大学休校を報告してから、見聞のためにフランス国内を旅することにした。馴れ親しんだ学友ともいったん別れることになる。
「本当は、大学にある本を全部読んでおきたかったな」とミシェルはぽつりとつぶやく。この時代にはすでに活版印刷が普及していたので、古今東西の文献も潤沢に揃っているのだ。
「あはは、きみはやっぱり学問好きだね。でも本から離れて外に出てみるのも、面白いことだと思うよ。旅に出るんだろう?」
ローヌ川の向こう側にかつて7人7代の教皇が住んでいた宮殿がそびえている。今も貴族の管理のもと、建物がそのまま残っているのだ。
ミシェルはその宮殿の方を眺めてうん、とうなずく。
「とりあえず、パリに出てそれからブロワの方に行く。黒死病からは離れていくということだね。それ以後は考えていないな」
「パリは分かるけれど、なぜブロワなんだい?フランス王に謁見するつもりかい?」と友人が尋ねる。ブロワの近くにはフランス王フランソワ1世の持ち城であるアンボワーズ城があるからだ。
ちなみにその城はチェーザレ・ボルジアが結婚式を挙げた場所でもある。
「うーん、いくら何でも王様が会ってくれるとは思わない。ぼくはね、レオナルド・ダ・ヴィンチの足跡をたどってみたいんだよ」
「レオナルド・ダ・ヴィンチ? きみから芸術家の名前が出るとは。きみはつくづく、あらゆることに興味を持っているんだなあ。でも確か、レオナルド・ダ・ヴィンチは去年亡くなったと聞いたけれど……」
友人の言う通り、レオナルド・ダ・ヴィンチは1519年5月、アンボワーズ城の側のクロ・リュセ城で亡くなっている。享年67歳だった。
1508年以降、ミラノで活動していたレオナルドは、1516年にフランソワ1世の招聘を受けてフランスに移り住んでいた。名声の揺らぐことのない芸術家をフランソワ1世は国賓の扱いで厚遇し、レオナルドもそれに応えるように周辺の都市設計に携わった。中世の城塞都市ではなく、城の周囲に水路を張り巡らし、周囲の森林も含めて自然の要害とするなど、かつてイタリア半島を視察して回った成果が活かされていた。
それは、チェーザレ・ボルジアとイタリア半島で実現することができなかった「夢」でもある。
そのようなことを露ほども知らない少年は、自分の考えを立て板に水のごとく語り出す。
「ああ、そうだね。でも、あの人のした仕事って本当にすごく幅が広いんだよ。絵を描いただけじゃないんだ。ぼくはミラノから来ていた人に話を聞いたのだけれど、あの人は飛ぶ機械を真剣に作ろうとしていたそうだ。それと天体の動き、特に月の満ち欠けの観察をかなり詳しくしていたらしい。それだけじゃない。水の力がどのように物体に働くかも調べていたんだって。そして、ぼくがいちばん驚いたのが……人の解剖図も描いていたことだよ。機械の職人、科学者、医者を合わせても足りない……いったいどれほどの観察と思考があの人の頭の中にあったんだろう。これをもってして、あの人を単なる芸術家と呼ぶのは失礼だ。あの人の発想はありとあらゆるものに飛び出していた。すごいよ。本当にすごいよ。ぼくは本当に興奮したんだ。ぼくがぼんやりとして無駄に使っている時間を、こんなにもたくさんのことに使っている人がいるんだって、本当に感動したんだ」
◆
レオナルドはその生涯で絵画やスケッチ、デッサンだけでなく、膨大な量の手稿(図解もある論考)を遺した。現代に残るのは全体の半分弱だといわれるが、それでも8000ページにもなる一群である。ミシェルが興奮しているのはその手稿に綴られた内容であるが、その話がフランス人にも伝わるだけの根拠はあった。
この手稿はいくつもの種類がある。最たるものといえば『アトランティコ手稿』で、1118枚に渡って綴られている。これは後世でいえば機械工学の分野に属する。水を汲み上げる装置の設計図から戦車の設計まで、図入りで詳細に書かれている。
その他に学術用語からラテン語を綴った語彙集『トリヴルツィオ手稿』、飛行機械を研究する一端になったであろう『鳥の飛翔に関する手稿』、天文学や地球物理学など科学がテーマの『レスター手稿』、機械工学や光学をはじめ多岐のテーマが扱われる『アランデル手稿』、『解剖手稿』がよく知られている。
これらの手稿はレオナルドとともにフランスにやってきた。彼はもうイタリア半島に戻る気がなかっただろうし、この膨大な紙の束を出版したいという希望も持っていただろう。厚遇を受けたフランスで刊行できれば申し分なかったのだが、手稿のほとんどがイタリア語で書かれていたので、難しい面があったのかもしれない。結果、この膨大な手稿はレオナルドの臨終まで付き添った、弟子のフランチェスコ・メルツィに遺贈された。メルツィはミラノの貴族の出で、画家でもあった。晩年のレオナルドにずっと付き添っていた人である。
メルツィが託された手稿の話は極秘事項ではなかったと思われるので、噂としてフランスで伝わっていたかもしれない。何しろ、国王にこれ以上はないほどの厚遇を受けた人物なのだから。当の国王も大いに自慢したいと思ったことだろう。
◆
友人は、ミシェルの興奮が静まるまで、にこにことして眺めていた。ミシェルはそれに気づいて、はっとして恥ずかしそうな顔をする。
友人はまだ微笑んでいる。
「きみがそんな風に熱中して話す姿を、もう見られないのかぁ。淋しいなぁ……もっと喋ってくれていいんだ。ぼくもできるだけ、記憶に刻んでおきたいからね」
ミシェルは口先をとがらせて、うつむく。
「そんな風に言わないでくれよ。きみはいつもぼくの話を聞いてくれて、変だとかつまらないとか言わずに聞いてくれて、ぼくの方がずっと淋しいよ。これから、きみのような友達は一生現れないような気がする……」
そう言いながら、彼はぽたぽたと涙をこぼすのだった。友人はミシェルの肩をポンポンと叩く。
「そんなに泣いたら、きみの抱えているお気に入りの時祷書(じとうしょ)が濡れてしまうよ。大のお気に入りなんだろう」
ミシェルはハッとして手に持った絵入りの書物を見る。それが濡れていないことを確かめると、ほっと胸を撫で下ろす。
それを友人に差し出した。
友人は面食らった。
「ミシェル、ぼくにそれをくれると言うのかい? それは、きみがアヴィニョンに来たときからずっと大切にしていた、きみの宝物じゃないか! そんな大切なものを、ぼくがもらえるはずはないだろう。もらえるわけがない!」
今度はミシェルが微笑んだ。
「きみもぼくの宝物なんだよ。だから、きみにぼくのことをたまには思い出してほしいんだ。これを見たら、そうしてもらえるかもしれないと思って」
「もちろん、もちろんだよ!」
「ぼくは旅をしながら、ほうぼうでいろいろな時祷書を見たり、手に入れたりしようと思っているんだ。だからきみにそれを譲ってもまったく構いやしないんだ。だから受け取ってほしい。
これまでありがとう、アルベール。
きみに神のご加護がありますように」
二人は固い握手を交わして、別々の方に歩きだした。
※レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿については、『レオナルド×ミケランジェロ展』図録(2017年、三菱一号館美術館で開催)を参考にしました。
ちなみに、現在『レスター手稿』を所有しているのはビル・ゲイツです。オークションで3080万2500ドルで落札したそうです(額はWikipediaより)。Windowsのスクリーンセーバーになっていたこともありました。
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