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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ
つぶやきの旅とためいきの夕暮れ 1520年 ローマ
しおりを挟む〈カテリーナ・ディ・メディチ、クラリーチェ・オルシーニ、教皇レオ10世、ジュリオ枢機卿、フランス王フランソワ1世〉
1520年の春、1歳にもならないカテリーナはフィレンツェからローマに移されていた。
教皇と枢機卿が赤子をあやしたいからと呼び寄せたわけではない。それならばたいへん微笑ましい話なのだが。
前年の夏、生後3カ月の彼女は高熱を出した。乳児の発熱といえば、現代では突発性発疹が有名で多くは軽快するのだが、この時代にはたいへん危険なことだった。現代でも熱性けいれんや脳症を起こして症状の重くなる例があるのだ。
さらにこの時代、夏は衛生環境の問題で他の伝染病も流行し、大人でも倒れる。腸チフス、マラリア……さきに紹介した通りフランスでペストが発生したという話もじきにこの町に届くことだろう。フィレンツェはイタリア半島の中で、もっとも親フランスの土地なのだ。
子を持つ親の心配の種は大量にまかれているのである。本当ならば家に鍵をかけて、一歩も外に出させないだろう。しかし、彼女の場合そうはいかなかった。両親がすでに他界しているカテリーナの世話をするのは、出生時から彼女に付いていた乳母や使用人が数名と、彼女の曾祖母であるクラリーチェ・オルシーニである。
曾祖母!
男は次々と倒れて、残るのはローマ教皇庁の住人ばかりである。女性はまだまだ元気だった。ルクレツィア・サルヴィアーティ、クラリーチェ・ストロッツィら、メディチの「妻たち」がいるのである。さすがに、栄光のロレンツォの妻であるクラリーチェ・オルシーニはこのとき高齢の域になっている。
ちなみに、妻たちは結婚しても生家の苗字を持っている。
カテリーナが熱を出して寝込んだ話は、すぐさまローマまで伝わった。そこで彼女の後見役の教皇レオ10世とジュリオ枢機卿が話し合いを持った。そして、赤ん坊はローマに移すことにしたのである。
フィレンツェの豪壮なメディチの邸宅に置いてもなお不安が残る。この赤ん坊はすぐに死なせるわけにはいかないのだ。その理由はさきにも少々触れたが、「彼女には今後一定の役割を果たしてもらわなければならない」というのが主たるものである。
そのようなことで、赤ん坊カテリーナは2度目の引っ越しを余儀なくされたのだ。生後5カ月での長い移動、それは彼女にとって生まれて初めての長旅だった。
もちろん道中、初秋の風や雨で小さな身体を冷やさないよう、移動には細心の注意が払われた。女性と赤ん坊を連れた一行は早馬のようにすいすいとは進めない。しかも、赤ん坊を抱いて進むのは曾祖母のクラリーチェだ。彼女もローマに住む仕度を整えてフィレンツェを出発した。彼女はもともとローマの出身だったので、この移動に関して特に異存はなかった。すでにフィレンツェに嫁した頃の清楚な乙女ではなく、威風堂々としたメディチ家の女家長である。すでに60半ばを越えて高齢の域に達していたクラリーチェは赤ん坊を抱きながら、輿の揺れに文句を言う。
「まったく、このひどいありさまと言ったら! この私を何だと思っているのかしら。ロレンツォ・イル・マニーフィコの妻なのよ! そしてこの赤ん坊はメディチの唯一の嫡流の子なのよ! それがどうしてゆりかごではなく、旅の輿に揺られなければならないの。こんなに小さな赤ん坊が何日も旅の途につかなければならないなんて! 鍛冶屋の子も農民の子も、決してこんな目に遭わないのに!」
鍛冶屋の子でも農民の子でもなく、メディチ家の子だから、このようなことになったのかもしれない。それに律儀に付き合う曾祖母も見上げたものである。とはいえ、5カ月の赤ん坊がそのような複雑な事情を理解できるはずもない。時おり乳母の乳を求めてはぐずって、抱くのを乳母と交替することになる。そして乳母もまた、輿の中で赤ん坊を抱きながら繰り言をつぶやくのである。
この一行には旅の景色を堪能する余裕はない。誰もが感嘆するトスカーナの美しい丘陵も、イタリア半島の中部を走る古代の街道から仰ぐ清々しい青空も、繰り言の中で過ぎていく。アレッツォの辺りにさしかかると、今度は輿を抱える従僕がつぶやく。
「ここを左に曲がるとウルビーノだな」
「そうだ。ロレンツォ様はウルビーノで爵位を得たのだったが……」
「そのまま変わらなければ、お嬢様も公爵令嬢として過ごせたのに……」
そう、令嬢カテリーナの父であるロレンツォは亡くなるまで、ウルビーノ公国の領主だったのだ。その際に公爵の称号を得たのである。
1516年、教皇レオ10世がローマからアドリア海に抜ける要衝であるウルビーノを教皇領にしようと考えて、武力を持って制圧したことがある。そして甥のロレンツォを領主に据えたのだ。しかし、それもロレンツォの死までしか持たなかった。今はその前からの領主、フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレが復してウルビーノにいる。
(※このいきさつについては第4章の『ラファエロの変容』で少し触れています)
「ロレンツォ様のご臨終もたいそう淋しいものだったが、お嬢様をローマにお連れするこの旅もどこか淋しいものだな。秋だからというだけでもないだろう」
輿の持ち手はひそひそとつぶやき続ける。
何はともあれ、一行は無事にローマに到着し、メディチの別邸に住むこととなった。令嬢カテリーナはここで温かいクリスマスを過ごすこととなった。
年が明けて1520年、カテリーナは大病をすることもなく、1歳の誕生日を迎えようとしていた。
その頃、ローマでは令嬢の後見である教皇のレオ10世がバチカンの一室で執務を行っている。年季を加えた重厚な木の執務机はぴかぴかに磨かれて飴色の艶が美しい。それも毎日見ていると、あまり特別には見えなくなるものだ。
教皇は書類の山の隙間で難しい顔をしていた。悲しみがその合間に仄かに混じる。
その手には、さきほどフランスの大使から届いた書簡が握られている。そこに、ジュリオ枢機卿が早足で現れる。緋色の衣が鮮やかに風を切る。
緋色の衣は枢機卿の着衣である。
枢機卿はまた教皇に呼び出されたのだった。
「ああ、またフランス王から手紙が来ていたのですか。まるで恋文のようだ」と枢機卿は教皇の握りしめた紙片をちらりと見やる。そこになにがしかの感情は読み取ることができない。
手紙の内容はもう分かっている。
これまでに何度も届いているのだ。
〈フランスの王室にも続く、由緒正しい貴族のマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの唯一の子女たるカトリーヌ嬢、生まれてすぐ両親を失った悲劇の子に私は深甚かつ哀切な同情を禁じえない。フランスにはカトリーヌ嬢に公爵位を与え立派に養育する準備ができている。国王である私、フランソワも責任を持って後見を務めることにやぶさかではない。しかるべき時期、いや、可及的速やかにカトリーヌ嬢をフランスにお連れくださるよう、強くお願いするものである。
フランソワ〉
カトリーヌというのはカテリーナのフランス読みである。教皇レオ10世やジュリオ枢機卿がいろいろとカテリーナの行く末について考えているのと同様に、フランソワ1世も彼女のことをいろいろ考えているのだ。一種の外交問題になっていたといってもよい。
「カトリーヌ嬢はまだごく幼いため、今しばらくローマにて養育するつもりでいるーーとまた返すのでしょう。それほど悩まれることではないのでは」と枢機卿は言う。
「ああ、そうなのだが……フランソワ1世は気づいているのだ」とレオ10世がため息をつく。
「バチカンが神聖ローマ帝国と親しくしていることをですか?」とジュリオ枢機卿は続ける。ここにもとり立てて強い感情はこもっていない。
「そうだ。だからなおさら、カテリーナを欲しがる。人質に取りたいということだよ。私もフランスと表だって争う気はない。だから、まあ、カテリーナをフランスに出して、当面の関係を保持する手もあると……」
ジュリオ枢機卿は強くかぶりを振る。
「それはいけません。あの子の行く末を一時の事情で決めては、フランス王の思うつぼでしょう。もっとじっくり考えなければいけません」
「そうだな……」とレオ10世は力なくうなずく。その表情には疲労の色が濃く浮かんでいる。
神聖ローマ帝国とつながりを太くするのは、教皇庁にとって非常に大切なことだった。何しろ、神聖ローマ皇帝カール5世はその帝国の範囲を現在のドイツとその周辺から、スペインとナポリにまで広げているのだ。西ヨーロッパで最も大きな勢力を持っているこの帝国を敵に回したらどのようになるか……それは教皇でなくとも十分想像することができた。そのため、フランス王も躍起になって『メディチの子』を欲しがるのだ。
教皇はふと立ち上がって、「散歩にでも出てみる」と枢機卿に告げた。
「最近、少しお疲れのようですね」とジュリオは穏やかな口調で言う。
「ああ、ティヴェレ川の夕陽でもゆっくり見ようかと思う」
「お付き合いしましょうか」
「いや、結構だ。ラファエロが若くして亡くなったことが本当に……辛いのだ。まあ、あなたにしか言わないが……」
教皇はそう告げると部屋からゆっくりと出ていった。
画家ラファエロ・サンティはこの数日前、39歳で天に召された。
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