16世紀のオデュッセイア

尾方佐羽

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第8章 さまよえる小公女 カテリーナ・デ・メディチ

教皇と枢機卿の会話 1519年 ローマ

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〈教皇レオ10世(ジョヴァンニ・ディ・メディチ)、ジュリオ・ディ・メディチ枢機卿、ロレンツォ・ディ・メディチの遺児、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ラファエロ・サンティ、神聖ローマ皇帝カール5世〉

 メディチ家当主であるロレンツォ夫妻逝去の報せはすぐさまローマにもたらされた。
 教皇の側近であるジュリオ・ディ・メディチ枢機卿(すうきけい、すうききょう)がすたすたと勝手知ったるバチカン宮殿を歩いていく。そして、教皇居室の手前でプラトンとアリストテレスを見上げる。

 ラファエロ・サンティが10年ほど前に描いたフレスコ画『アテナイの学堂』がそこにあるのだ。アーチ型の天井の学舎の奥から古代ギリシアの哲学者プラトンとアリストテレスが議論をしながら歩いてくる。二人は他のものには目もくれず、熱心に話をしている。周囲にはたくさんの人がいて、それを気にするでもしないでもなく、おのおのが有為なり無為のときを過ごしている。

「あれはダ・ヴィンチだし、石段にいるのはミケランジェロだ。左端にはラファエロもいるし、隅にはローヴェレ(フランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ、第4章を参照)も……まったく立派なアカデメイアだ。古典と芸術を礼賛するもので、キリスト教的な要素がない。素晴らしい作品であることは間違いないが、これが教皇を毎日出迎えているのだから、まったく愉快な話だ」

 ジュリオ枢機卿は諧謔的(かいぎゃくてき)なのだろうか。単なる皮肉だと考えるのが自然かと思う。枢機卿は何より現実を重んじており、このときは特にメディチ家の今後について真剣に考えなければならなかったので、目に見えるものすべてがやや斜めに見えていたのかもしれない。



 さきに述べたが、ジュリオ枢機卿と教皇レオ10世はメディチ家の出身で、従兄弟どうしである。フィレンツェの黄金時代を現出したロレンツォ・イル・マニーフィコの二番目の男子がレオ10世で、ロレンツォの弟ジュリアーノの子がジュリオ枢機卿である。ジュリアーノが『パッツイ家の陰謀』によって暗殺されたとき、その子ジュリオはまだ赤子で、伯父のロレンツォ・イル・マニーフィコが引き取ったのだ。
 したがってジュリオは実の父親の顔をまったく覚えていない。
 その意味では、今回メディチ家の当主夫妻が乳児を残して急逝したことにいちばん共感できるのはジュリオだけだっただろう。ただ、彼自身が父親の悲劇をまったく覚えていないので、共感もどこか後付けになってしまっているようだった。

 レオ10世は眠たそうな目をしてジュリオ枢機卿を出迎える。
「ああ、フィレンツェの方は葬儀まで無事に済んだようだ」
 ジュリオ枢機卿は黙ってうなずく。教皇はこのところ身体のだるさを訴えることが多く、すぐさま大きな椅子に腰かける。ジュリオ枢機卿と3つしか年齢が離れていないが、立場と不摂生による肥満があいまってかなり老け込んで見えた。
「子どもはクラリーチェ伯母が引き取るそうですが」と枢機卿はつぶやく。クラリーチェはイル・マニーフィコの妻である。メディチ家の中で重鎮と呼ぶべき存在である。
「ああ、あれほど不憫な赤ん坊はなかなかいないだろう。メディチの女性は皆深く同情しているよ。誰が引き取るかで話し合いを持ったらしい」
「不憫……確かにそうでしょう。ただ、赤ん坊はメディチを継ぐ唯一の存在です。どのように養育していくかはよくよく検討しないといけませんね」
「その通りだ。私たちが後見することになるのだろう」と教皇はうなずく。
「ええ、どこと縁組みさせるかについても考えておかなければなりません」とジュリオ枢機卿は冷静な調子で告げる。
 レオ10世は少し面食らって尋ねる。
「もう、どこかから話が来ているのか」
 枢機卿はその質問について具体的に答える気はないようだった。
「そうですね、お悔やみのときに社交辞令として発されただけでしょうから、まだかすかな可能性ぐらいのものですよ。もっと具体的な話もありますが、まだお時間をいただけますか」
「ある。もったいぶらなくていい」とレオ10世はやや不機嫌になってつぶやく。
「赤ん坊は母親の領地を相続します」
 そして、ジュリオ枢機卿は話を続ける。赤ん坊の母親マドレーヌはフランスに領地を持つ「女伯爵」だったので、その領地を赤ん坊が相続することになるというのだ。
 すでにマドレーヌの父、ドーヴェルニュ伯爵は亡くなって久しい。マドレーヌと姉のアンヌだけが伯爵領を分けあっていた。
「そうか……それならば、フランスとの関係を一層強固にするのに役立つのかもしれない。しかし、ジュリオ、メディチ家に嫡流の男子がいないというのは今後のことを考えると大問題だ。そちらを重点に考えるほうがいいようにも思うが」
 難しい顔をしているレオ10世に、ジュリオ枢機卿はうなずきながら告げる。
「ですから、今からよくよく子の行く末を考えるほうがいいということになりましょう」

 教皇は「神の代理人」なので、このような世俗的な話をしていると表に出すべきではない。ただ、生まれるやいなや両親を亡くした「かわいそうな子」がどのような運命(さだめ)を持っているのか、読者諸氏に伝えるのに必要だと考えるので、あえてつまびらかにした。
 フィレンツェを実質的に治めてきたメディチ家嫡流の女子として生まれ、母親が持っていたフランスの伯爵位も継いだ子。加えて大叔父二人は教皇と枢機卿である。そのような出自を持つ子が、周囲にどれほどの思惑を抱かせるのかーーということを示すためである。
 決して、「二人がそのような話しかしていない」というわけではない。二人とも赤ん坊の養育には後見として責任を持つことにしていたのだ。血縁者どうしの助け合いという意識がまずあっただろう。

 枢機卿が去っていったあと、レオ10世は椅子に深く腰かけたまま、ぼんやりと考え事をしていた。

 甥っ子が死んでしまうなどとは思ってもいなかった。
 確かに病気だとは聞いていたが、それほどの重症だったのか。甥っ子の父親、すなわち私の兄ピエーロも通風持ちで苦労していたが、甥っ子までこんなに若くして逝ってしまうのか。
 最近は、気の滅入るような話ばかりだ。
 あのいまいましいヴィッテンベルグの学者風情(マルティン・ルター)も、私を毒殺しようとした者(バチカン内で暗殺未遂事件があった)も許しがたい。あれでどれほど肝を冷やしたことか、いや、寿命が縮まったことか。
 そうだった。
 レオナルド・ダ・ヴィンチがフランスで亡くなったという報せも最近届いたのだった。なんという損失か。甥っ子の逝った日とほぼ同じだ。
 臨終のとき、フランス王が看取ったと聞いて、私は苛立ちを覚えた。まるで、あの偉大なる芸術家をわがものだと言わんばかり。レオナルドはフィレンツェやミラノを転々としていたが、決してフランスの人間ではない。
 ジュリオ枢機卿によれば、もう一人の偉大なる芸術家、ラファエロ・サンティも体調を崩しているらしい。今はジュリオが依頼した、『キリストの変容』の絵を一心不乱に描いており、他の仕事は工房が担っているという。彼にはサン・ピエトロ聖堂の設計も依頼しているが、もうそれにはかかることができないだろう。
 なぜだろう。
 数年前まで当たり前のようにそこにあったものが、いた人間が、どんどん自分の手から離れていくような気がする。
 私も最近、ひどく疲れを感じるようになった。
 それが老いというものなのか……。

 レオ10世はこのとき44歳である。それを老いととらえるべきかについては、明確な答えがない。

 ただ、時代の車輪が少しずつ回り始めた時期だということは確かだ。この直後に、スペイン王カルロス1世が神聖ローマ帝国の皇帝カール5世となったことが、最も象徴的な出来事になるだろう。

 ローマのティベレ川、水面が夕陽に照らされて輝く頃、フィレンツェのアルノ川にも同じ夕陽が射している。メディチ家の館ですやすやと眠る赤子を乳母が見守っている。

 カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチと名付けられた赤子が眠る。
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