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第零章 先代編(後編)
悚然
しおりを挟む「春雪さま」
深く呼吸を吐いてしっとりと汗ばんだ頬に口付けるドナ。
出会った頃より少し伸びた細く艶やな黒髪をサラリと撫でると春雪は浅い呼吸を繰り返しながらドナを見た。
「上手く出来るか分からないと言っていたのに」
開口一番がそれかとドナは吹き出して笑う。
「自信がなかったのは本当です。緊張していたので」
緊張しながら行為に及んだのは初めてのこと。
嘘をついたのでも騙したのでもない。
「そう恨み言が出るということはそれなりに上手く出来ていたと捉えて良いのでしょうか」
思い出したように頬を染める春雪がまた愛らしくて、ドナは笑みに綻んだ口で軽く口付けたあと春雪の隣に横になる。
「痛みはありませんか?」
「大丈夫です。回復をかけてくださったので」
春雪にとっては初めての体験。
人体についてはもちろん性行為についても研究所で学んでいたものの想像以上だった痛みを堪えていたら、ドナがすぐに気付いて回復をかけてくれてそれ以降は痛みを感じなかった。
「申し訳ありません。早急に進めすぎたようですね」
「それはないと思います」
ドナが早急に進めた所為で痛みがあったのであれば、開口一番あのような恨み言は口にしていない。
春雪の体を気遣い時間をかけ充分なほどに緊張も体も解した状態でのあの痛みだったのだから、単純に……。
「視線が」
「す、すみません」
ついジッと見てしまいドナに指摘されて春雪は目を逸らす。
単純に痛みは大きさの問題で、成長途中のままの自分の内性器とドナの外性器では痛みが伴うのも当然だったと言うだけ。
狭いところに大きなものが入れば痛くないはずもない。
「興味があるのでしたら幾らでもどうぞ?」
「そういう意味で見たのではありません」
否定する春雪にドナはクスクス笑う。
分かっていて少しからかっただけだが、真剣に否定しているのが愛らしい。
「今更ですが、後悔していませんか?」
「後悔?」
「初めての相手が私で良かったのかと」
王家の男児の中で一番継承権が低い王子。
第一王子のマクシム、第二王子のセルジュ、第三王女のグレース、第四王子のフレデリク、そして私は第五王子。
自分で言うのもなんだが、精霊族の宝であり美しい勇者で英雄の相手としては分不相応だと自覚している。
「好きな人が初めての相手で何の問題が?」
好意がなければ最初から拒んでいる。
後悔するはずもない。
「ドナ殿下は後悔してるのですか?」
「まさか。夢ではないかと疑うほど幸せです」
真剣な顔で問う春雪を腕におさめるドナ。
ハッキリと好きな人と言ってくれることが嬉しい。
他の誰でもない、私に身を委ねてくれたことが嬉しい。
これが夢で今もし夢から醒めたならば「まあそうだろう」と納得してしまうだろう。
「春雪さま、お慕いしております」
「私もドナ殿下が好きです」
何度伝えても伝え足りない。
この感情は到底言葉では表せない。
ただただ愛おしい。
「全てを終えたら一緒に旅をしませんか?」
「え?」
「残された時間は二人でこの世界を旅して、様々な物を自分たちの目で見て回るのもよいのではないかと」
天地戦後にどうするかと勇者方で話をしていた時、春雪さまは『この世界を知るために色々な所へ行きたい』と言っていた。
ふわっとした望みだと勇者方は笑い、私も何とものんびりした余生の過ごし方だと思ったが、あれは限られた寿命で少しでもこの世界を見たいと言うことだったのだと分かる。
「で、でもドナ殿下は王子だから旅になんて」
「継承権は放棄します。私がなりたいのは研究者ですので」
「旅をしていたら研究は出来ないんじゃ」
「知識は私の中にあります。どこに居てもできますよ」
知識はもちろん多少の道具も持って行ける。
大規模な実験は出来なくなると言うだけで、それでも研究することは沢山あるのだから。
「ハッキリ申しましょう。私の伴侶になってください」
「は、伴侶!?でも私は天地戦に」
「これも天地戦後の話です。勇者としての役目を終えた後の春雪さまの余生を私にください」
それは紛れもなくプロポーズ。
残された人生をドナの伴侶として生きて欲しいという願い。
「春雪さまに残された時間が長くないのであれば尚更、私はその時間で精一杯春雪さまを愛したいと思います。生まれて良かった、私と会って良かったと思って貰えるように」
真剣に話すドナに春雪の目から涙が落ちる。
そこまで考えてくれていたのかと。
「精霊族の勇者ではなく私の伴侶になってくださいますか?」
「……はい」
ドナにギュッと抱きついた春雪からポロポロ落ちる涙。
天地戦に勝利して大切な人たちへの恩返しができたら、残りの余生はこの人と二人で悔いの残らないよう自由に生きよう。
「お慕いしております」
「何度言うのですか」
「何度伝えても伝え足りません」
そう話して二人はくすりと笑う。
「私もドナ殿下が好きです」
そう言ってそっと重ねられた唇が離れないよう深く口付ける。
ドナと春雪にとっては貴重で幸せな時間。
互いの存在を確認するように二人は再び肌と肌を重ねた。
「部屋に戻りますね」
明け方まで春雪と抱き合って眠ったドナは、寝起きでまだ寝ぼけ眼の春雪を愛おしく思いつつ額に口付ける。
「ドナ殿下……」
「すみません。名残惜しくて」
今の今まで抱き合って眠っていたのにもう名残惜しい。
その名残惜しさを埋めるようにドナは何度も額に口付ける。
思いが通じたなら幸せだと思っていたのに、いざ通じ合えたら離れ難くなるとは強欲なものだとドナは自嘲した。
「後ほど使用人が湯場の準備のため部屋に足を運びますが、湯浴みやお着替えはご自身ですると伝えてありますので」
「あ、はい。ありがとうございます」
このままここに居ては使用人に見られてしまう。
公表前におかしな噂を立てられては困る。
そう自分に言い聞かせてベッドから立ち上がった。
「では後ほど食堂で」
寝衣の上にロングガウンを羽織ったドナは身を屈め、ベッドに座っている春雪の額にもう一度だけ口付けた。
「あ、あの!」
唇を離すと春雪がぎゅっとガウンを掴む。
「昨晩私に何か言いましたか?」
「何かと言うのは?」
「……伴侶にとか、旅にとか」
小さな声でボソッと言った春雪の顔はほんのり赤い。
「その場の勢いで言ったとお考えですか?」
「あ、現実だったんですね」
「ん?」
それは聞き捨てならないと思えばホッとした表情をされてドナは大きな疑問符を浮かべる。
「ドナ殿下の夢を見たんですけど、もしかしてあの時言われたことも夢の中での出来事だったのかもと思って確認を」
見上げて話す春雪を押し倒したい衝動に駆られるドナ。
まだ寝起きだからか夢か現実かの自信がないらしく、不安そうに見上げるその表情が堪らなく愛らしい。
私の好いた人が愛らしすぎて困る。
「ではもう一度。勇者の役目を終えた後の春雪さまの余生を私にください。私の伴侶となって一緒に旅をしてください」
「はい。喜んで」
跪き差し出されたドナの手に手を重ねた春雪は笑みで答える。
その笑みが眩しくて、ドナは堪えきれない笑みに緩んだ口許で春雪の手の甲に口付けた。
・
・
・
緋色宮殿大食堂。
朝食の時間になり最初に大食堂へ足を運んだのはセルジュ。
従僕が引いた椅子に座る。
「……ドナ?」
セルジュから数分遅れてドアから入って来た人物。
その姿を見て声を洩らす。
「おはようございます。兄さん」
「髪を切ったのか」
「はい。お蔭でリベリオに小言を貰いましたが」
「小言?」
「王家の王子が自分で髪を切るとは何事かと。前髪くらいなら自分でも切れるだろうと思ったのですが甘かったようです」
結んでいた長い後ろ髪も目許の隠れる長い前髪もバッサリ。
月に一度宮殿へ美容師を呼び髪を切っているが、顔が見える長さにだけはしなかったドナが何故とセルジュは内心驚く。
「いつ切った」
「今朝です。髪を切って湯浴みを済ませてきました」
「思いきったな。無精者のようだった今までより良いが」
「研究者などそんなものです」
研究室に籠る研究者は身なりに無頓着な者も多い。
薄汚れた白衣に長い髪に無精髭という姿の者も珍しくない。
白衣は清潔なものを着て髭を蓄えないだけドナはマシな方。
「後ろも自分で切ったのか?」
「いえ。家政婦長が切ってくれました」
「ほう。新しい家政婦長は器用なのだな」
「そのようです。ただ、後ほど美容師に整えて貰うようにと」
「そのままでも問題ないように思うが」
「私もそう思うのですが、素人が切ったものだからと」
ドナが自分で前髪をバッサリとやってしまったからそのままに出来ず、家政婦長が家族の髪を切った話を耳にしたことのあったリベリオが頼みに行って切って貰った。
「では後で美容師を呼んでおこう」
「お願いします」
どのような心境の変化があったのかは知らないが、身なりに無頓智なドナが髪を切ったのは良いことだ。
「勇者さまがお越しになりました」
「お通ししろ」
「はっ」
春雪が来たことを従僕から聞き立ち上がったセルジュとドナ。
身分が上の人を出迎える時には立ち上がるのが礼儀。
「おはようございます」
「「おはようございます」」
私服姿の春雪が入って来て二人は胸に手をあて頭を下げる。
「え?……ドナ殿下?」
従僕に案内されてきた春雪はセルジュの隣で頭を下げている人物が一瞬誰か分からず、ドナだと気付いて驚く。
「髪を切ったのですか?」
「はい。おかしいですか?」
「いえ。短い髪もよくお似合いです。サッパリされましたね」
「ありがとうございます」
明け方に自室へ戻るまでは長かった髪が短くなっているのだから驚かないはずもない。
「何を思ったのか最初は自分で前髪を切ったようで、家政婦長に急ごしらえで切り揃えて貰ったそうです」
「ご自分で?何故急に」
「もう必要ないかと」
「必要ない?」
従僕が引いた椅子に座りながら話を聞いた春雪は首を傾げる。
それを聞いて、ドナが公務以外で顔を出さなかった理由を知っているセルジュは隠す必要がなくなったのだと理解した。
春雪さまを見るドナの表情に翳りはない。
あの後どうなったのかなどと無粋なことを聞くつもりはなかったが、どうやら健気な求愛は実を結んだようだ。
正直に言えば複雑な心境ではあるものの、二の足を踏んでいた私が努力をしてきたドナを妬ましく思える立場にない。
努力した者が勇者の心を射止めたと言うだけ。
至極当然の結果だ。
「改めてこう見ると、お二人とも美形ですね」
テーブルを挟んだ向かいに座っているセルジュとドナ。
二人とも美形なことは知っていたけれど、ドナの顔がハッキリ見えるようになった今改めて思う。
「ララ姫殿下も可愛らしい方ですし、美形兄妹ですね」
そう言って微笑する春雪。
ララの話題に朝食を三人の前のテーブルに置いていた使用人たちは内心驚き、セルジュとドナもチラリと目を合わせる。
「ララを恨んでいないのですか?」
「恨む?なぜですか?」
「母の共犯者の一人ですので」
嫌なことを思い出させてしまうのではないかとセルジュもドナも二妃やララの話題は極力避けていたが、そんな心配をよそに春雪の方からララを話題にしたことでセルジュが問う。
「恨みなどありません。真っ暗な部屋で顔が見えなかったので少し会話した子供が姫殿下だったことは後から知りましたが、誰かに命令されて監視していることは分かりましたから。お腹は空いてないか、喉は渇いてないかと心配してくれましたし、逃がしてくれないかと頼んだら怒られるから無理ですと言って泣きながら謝ってましたし、この子も好きで協力してる訳ではないんだと分かって不憫に思いました」
恨みなど一切ない。
むしろあの時は子供を泣かせた罪悪感があった。
「それを父上に話しましたか?」
「はい。一通り説明しました」
レオのことだけは伏せて全て話した。
尤もその時はまだララだとは知らず『最初に子供と話した』と説明しただけで、後からその子供がララだったことをイヴから聞かされたのだけれど。
「それで追放処分に」
全て正直に話したとは言え勇者の誘拐という許されることではない大罪に協力したにも関わらず追放で済んだのは、被害者の春雪がそれを話したからだったのだとセルジュは納得する。
「姫殿下と知らなかったとは言え、私が話さなければ追放されずに済んだのかと思うと申し訳ないことをしたと思います」
子供と話したことを言わなければ。
結果的に自分の証言が二人の妹の追放処分に繋がってしまったことは申し訳ないと思う。
「逆です。春雪さまが証言してくださったお蔭でララは追放処分で済んだのです。本来ならば極刑だったでしょう」
「え、極刑?」
「誘拐に協力すると言うことはそれだけの大罪です」
王家だから、成年前だからなど、勇者保護法には関係ない。
誘拐がどのようなことか知っていながら協力したのだから、本来ならば二妃の腰巾着と同じように極刑処分になっていた。
「そうですか。王家の身分を剥奪されて追放されても命があるるだけ良かったのか、失った物の多さを考えれば極刑になった方が良かったのか私には分かりませんが、少なくとも私の中にララ姫殿下はもちろん第二王妃への恨みもありません」
自分なら命があったことを喜ばしく思うが、王家の王女として生きてきた人が身分を落とされて遠い地で生きることを幸いと思うかは分からない。
だから『極刑にならずに済んで良かった』とも言わない。
「……母上にも?」
ララはまだしも二妃へも恨みはないと聞き驚く二人。
二妃はまさしく勇者を誘拐した主犯。
未遂だったとはいえある程度の手は出されている。
春雪がどこまで覚えているのかは分からないが、卑劣な方法で手篭めにされかかっていたことは知っているのに。
「恨みや憎しみのような深い感情を抱くほど印象に残っていないのです。お香で意識が朦朧としてからの記憶がないのでお会いしたのかも分かりませんし、意識が戻って逃げる際にお見かけしましたが会話をした訳ではないですし、晩餐と屋敷の二度お会いした人という程度の認識しかありません」
春雪が二妃の姿を見たのはレオに抱えられて逃げてる最中。
あの時に会話したのはレオで春雪は一言も話していないし、その前のことは二妃と会ったのかすら記憶にない。
二妃とレオの会話で初めて自分を拐ったのが二妃だったと知ったくらいなのだから。
「なるほど」
春雪の話を聞いてドナはクスクスと笑う。
「記憶に残るほどの興味がなかったと言うことですね」
誘拐までしたのに記憶に残っていないとは滑稽で笑える。
母上が聞いたら嘸かし怒り狂ったことだろう。
手に入れるため命まで費やしたというのに不憫な。
「肉親の御二方には失礼な話で申し訳ありません」
「謝る必要はありませんよ。納得の理由でしたので」
生前は悪評高かった者を故人になった途端に良い人だったかのように言う者の方が気持ちが悪い。
没後でも変わらない春雪さまは正直だ。
「春雪さまのお心に酷い爪痕が残らず済んで安心しました」
「本当に。私どもが気になっていたのはそこですので」
「気を使わせて申し訳ありませんでした」
心の傷にならずに済んだのならば幸い。
粛清した後も兄さんや私が気になっていたのはそこだ。
「料理が冷めてしまいますね。食事にしましょう」
「はい」
料理を口に運ぶセルジュとドナの表情は穏やか。
誘拐事件が春雪の心の傷にはなっていないことを知ることができて、漸く全てが終わった気分だった。
朝食を済ませたあと春雪は訓練所へ。
勇者一行との訓練があるためゆっくりとはいかない。
「おはよー」
「おはようございます」
「おはよう」
訓練所に着くと既に三人は来ていて、元気に挨拶する美雨と柊に春雪は微笑して挨拶を返す。
「体調を崩してるのか?」
「え?健康だけどなんで?」
時政に訊かれて春雪は目をぱちくり。
「食堂に来なかっただろう?」
「ああ、それで」
体調を崩しているように見えたのかと思えば、今朝食堂で見かけなかったからかと納得する。
「緋色宮殿に泊まったから。朝食も宮殿で食べた」
「え!外泊したの!?」
時政との会話で外泊したことを知って一番驚いたのは美雨。
「ちゃんと外泊許可は貰った」
「そうじゃなくて!」
「?」
昨日ドナと外出したことは勇者一行の三人も知っていた。
王都地区へ行くと春雪の口から直接聞かされていたから。
ただ外泊するとは。
「ど、どうだった?」
「なにが?」
「お泊まりして」
ドナとデートをしてお泊まりコース。
それはつまり……。
「ああ。初めて人の家に泊まったけど、セルジュ殿下やドナ殿下と呑みながら色んな話ができて楽しかった」
「私が期待してたのと違う!」
がくりと項垂れた美雨。
期待したのは王子とのラブロマンスだったのに。
「外出はどうだった?そちらでも気晴らしできたか?」
「うん。公園を散歩したり劇場に行って歌姫の公演を見たり美味しいものを食べたり、いい気晴らしさせて貰った」
「そうか。それなら良かった」
久しぶりに春雪の穏やかな表情を見て時政もホッとする。
最近の春雪は何かに取り憑かれたように特訓に打ち込んでいることが気になっていたから。
「なんか違う」
「美雨の心が穢れすぎ」
ラブロマンスの欠片も感じられずスンとした美雨に柊がボソッとつっこみ腹パンを喰らう。
今日も美雨と柊は元気だ。
「勇者さま方、おはようございます」
『おはようございます』
そうこうしてる間に講師が来て会話は終わり。
春雪はごましたのではなく、少し天然が入っているため楽しかったかどうかを訊かれているものと思い答えたが、実は美雨の期待した展開になっていたことを三人が知る由もない。
・
・
・
その日から数日後のこと。
「…………」
国王の執務室でミシェルは黙り込む。
テーブルを挟んだ対面に居るのはドナ。
間者を通して謁見の申し入れがあり執務室へ呼んだが、思いもよらない内容の話を聞かされ言葉がでなかった。
「……そうか」
呟いて眉根を押さえるミシェル。
報告を受けた内容はドナと春雪の関係についてだった。
「ならば婚約発表の準備を」
「発表はいたしません」
「なに?」
様々な感情を堪え平静を装い紡ぎ出した言葉を遮られる。
「天地戦後に継承権を放棄して二人で王都を出ます」
真剣な表情で話すドナ。
それを聞き平静を装っていてもミシェルの心はズキズキ痛む。
「勇者さまが半陰陽だと知っている者は極僅か。同胞の勇者一行にも話していないと申されておりました。ですのでこのまま私たちの関係は隠したまま、天地戦後に継承権を放棄し二人で王都を出て静かに生きていこうと思います」
王家の者は婚約発表をするのがしきたり。
継承権を放棄する事で婚約発表を回避するつもりなのだろう。
国王になるつもりがないことは本人の口から聞いていたが、人によって男性とも女性とも思われている春雪が婚約発表によって好奇の目に晒されることがないよう、自分が王位継承者という身分を捨てて愛する者と生きていくと。
「春雪殿は知っているのか?私に報告することを」
「はい。勇者召喚を行う国の王として、勇者を保護する義務を持つ陛下のお耳に入れない訳にはいかないと話しました」
「それを聞いて春雪殿はなんと?」
「分かったとだけ」
つまり私に報告されても問題がないと言うこと。
同じ閨に居ながらも平然と眠る時点で分かっていたことではあるが、私は恋や愛の対象としてはみられていなかった。
「承知した。春雪殿も同意のうえであるなら私が口を挟むことはではない。天地戦後までは私の胸だけに留めておこう」
「ありがとうございます」
胸に手をあて軽く頭を下げたドナは執務室を出る。
「……お許しください、父上」
歩きながら呟くドナ。
父上の気持ちに気付いていながらわざと報告した。
私は怖いのだ、父上が。
民から尊敬される偉大な国王で大賢者。
見目麗しく逞しく、剣の才も魔法の才も持つ絶対強者。
そんな父上に本気になられたら勝てる自信がない。
だから春雪さまはもう私のものなのだと諦めて欲しい。
「こればかりは負けられないのです」
春雪さまのことだけは父上が相手でも。
「殿下。如何なさいました?」
「いや。考えごとをしていただけだ」
宮殿の護衛と王城の前で待っていたリベリオは出てきたドナの表情が珍しく険しいことに気付いて問うと、ドナは少し俯いていた顔をあげ表情を笑みに変えて答える。
「用は済んだ。宮殿へ」
「承知しました」
そう短く会話を交わしてドナは馬車に乗り込んだ。
「ですから申しましたのに」
隣室で仕事をしていたイヴは執務室に入って溜息をつく。
そのように肩を落とすくらいならば行動するべきだった。
後悔なきようにと何度も忠告したというのに。
「暫く席を外せ」
「承知しました」
イヴに部屋を出ておくよう言って執務机から葉巻を出したミシェルは火魔法で葉巻の先に火をつけバルコニーに出る。
ドナの春雪への深い愛情は伝わった。
今まで顔を隠すために伸ばしていた長い髪を切り私と真っ直ぐに目を合わせ、言い淀むことなく春雪との関係を報告した。
息子に心から愛せる者が出来たことを父としては喜ばしく思うが、一人の男としては割り切れない。
私にとっても春雪は特別な存在。
勇者としてでなく一人の人間として。
幾度愛おしいと思い、幾度その思いを伝えてしまいたい衝動に駆られたことか。
「愛児を羨む日が来るとはな」
継承権を放棄して愛を貫く選択肢があるドナが羨ましい。
私にはその選択肢がなかった。
この国に生きる多くの民の盾となるヴェルデ王家の血を絶やさないため、私には国王となる以外の選択肢などなかった。
私が国王でなければ。
父も母も王太子の兄も健在であれば。
もし私にも国王となること以外の道があったなら、国王ではない私は春雪だけを思い愛することができたのだろうか。
胸を締めつける感情にミシェルは胸元の衣装を握る。
そんなもしなど考えても意味がないだろうに。
私の身体も能力も感情も命すらも民を護るためのもの。
国や民のために存在する国王が誰か一人を熱烈に愛し安らぎに溺れることなど許されない。
全ては国のため、民のため。
それが王家として生きる者の宿命。
それが国王となった者の定め。
九つで国王となったミシェル。
亡き先帝や王太子に代わりたった九つで国王として生きることを覚悟し、それから数十年、国と民のために生きてきた。
たった九つで自分の感情に封をして一回り以上離れた妃三名を娶り、身体が成熟するよりも早く夜伽を行い国王の責務である世継ぎを遺し、国王の執務や公務も欠かさず行ってきた。
どうすることが国のためになるのか。
どうすることが民のためになるのか。
たった九つでそんなことを考える子供など居ないだろう。
けれどミシェルはそれを考え生きてきた。
いや、そうするしか道がなかったのだ。
自分の人生を国や民のために捧げて生きてきた。
それが王家の務めと。
九つで自分の感情に封をしたミシェルの心は成熟しないまま。
取り憑かれたように『国のため、民のため』を重視する。
国王はそうでなければならないのだと。
そうして当然なのだと。
多くの民から尊敬される偉大な国王。
立派な国王になるほどミシェルはミシェルではなくなった。
有識者の期待が作りあげた国王。
民の願望が作りあげた国王。
それが今の国王ミシェル。
国王とは生涯逃げることの出来ない籠の鳥。
自分の意思で美しく歌うことも飛び立つこともできない、ブークリエ国という籠の中に閉じ込められた傷だらけの鳥。
身体にも心にも残るその痛々しい傷跡に気付く者は少ない。
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