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ただいまと、さよならと

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 冷たい手に引かれて階段を上がる。
 カンカンと不揃いな足音が響く。乾ききらない雨の匂いが鼻をつく。
 部屋にあがって真っ先に口を開いたのは氷雨だった。

「お説教です。そこ座ってください」

 僕は促されるままにベッドに座る。

「絆創膏とかって、どこっスか」
「右の棚に救急箱が」
「ああ、ありました。有難う御座います」
 
 会話は息を引き取っていた。
 救急箱を取ってきた氷雨が僕の頬に脱脂綿を押し当ててくる。消毒液の香りに混じって、微かなシャンプーの香りが鼻先をかすめる。
 言葉を探す言葉でさえ、僕の頭から抜け落ちていた。

「……アタシ、嫌なんスよ」

 手際よく僕の頬にガーゼを貼りながら、氷雨がポツリと言った。
 俯いた表情はよく見えない。それでもその顔が、笑っていないことは知っていた。

「よぎセン優しいから、アタシなんかのために傷付いてくれます。ホントもう「バカじゃん」ってくらい無鉄砲で、何も考えてません」
「考えてるよ」
「考えてたら、もっと話してくれてもいいじゃないスかっ」

 否定すると、すぐに否定が返ってくる。
 「ごめん」と僕はうなずく。弱い追撃が小さく僕の頬を張った。

「もう誰も、アタシの見える所で傷ついてほしくない。なのによぎセンは、無茶してもケガしても、平気な顔して笑ってるじゃないっスか」

 氷雨は強い女の子だった。けれど、僕に弱さを見せてくれるようになった。
 前みたいにどこか一歩を踏み込ませない、臆病な強さじゃない。矛盾を含んだ、人間的な弱さを。
 右目に保冷剤を当ててくれた氷雨の手を、そっと取って僕は言う。

「傷つけることに慣れてしまうよりは、ずっといいと思うよ」

 僕は彼女に優しくしてやろうと思った。
 愛するためじゃなく、彼女には幸せになってもらいたかったから。

「なんで両極端なんスか……。傷つくことにも慣れないでくださいよ。よぎセンが傷つくことで傷つく、他の誰かがいるってことも忘れないでください」
「そんなことを言われたのは初めてだ」
「嬉しくないっス、そんな初めてもらっても。何回だって言ってあげます」

 握り返した僕の手を胸元に添えて、氷雨は涙で揺らいだ瞳で僕を睨んだ。

「いつか産まれてくる赤ちゃんにお父さんいなかったら、アタシ怒りますよ」

 心臓の鼓動が手のひらを包んで、その速さと熱が伝わってくる。
 気の早い話だとは思わなかった。真剣な氷雨に言われてしまえば、不思議と「そうなのかもしれない」と思った。
 僕が遠く未確定な「二人の未来」を想像して鼓動を早めたのは、その副作用みたいなものだった。

「そうだな」

 とうなずいて、僕は手を滑らせていく。
 腕に、肩に、首筋を通って頬へ。くすぐったそうに身をよじる氷雨の頭に手を止めてから、くしゃりと一撫でする。
 氷雨はしばらくされるがままになっていたけれど、ふと思いついたように僕の名前を呼んだ。

「ねえ、

 俯いた氷雨の声が震えて聞こえて、僕は彼女に耳を寄せる。

「晴冴くんに伝えたいことがあるって約束、忘れてないスよね」
「ああ、もちろん」

 できるだけ穏やかな声でうなずくと、氷雨はゆっくりと顔を上げた。
 涙に沈んだ瞳を強く瞑って、それからひどく悲しげな顔で、氷雨は。

「愛してますよ」

 と、僕に口づけをした。
 昨日そうしたよりもずっと優しく、そして柔らかい感触があった。
 キスについてきた言葉を理解するまで、少し時間があった。それからようやく、僕からも氷雨を求めた。
 キスをして、離れてから見つめ合って、そしてまたキスをする。

 交わった口の中には、鉄の味が溶け出していた。

 結晶が「その時」を連れて来たのだろう。
 やってくる最期の瞬間を、僕はキスをして待っていた。
 時間は一秒にこれまでの幸福を詰め込んで、密度を増しているようだった。
 それでも秒針は容赦なく時を刻んで、容赦なく結晶化を進めていく。時間だ。
 僕はゆっくりと氷雨を引き剥がす。
 そして僕は出来るだけ優しく笑った。

「……君だったんだね」

 直後、僕は大量に喀血した。
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