悩める子爵と無垢な花

トウリン

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フランジナへ

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 エイリスサイドから出港する連絡船に乗り込んだフィオナとルーカスは、談話室の片隅に腰を落ち着けた。

「少し遅い時間にはなるけれど、フランジナの港町ル・アールには今日中に着けるよ」
 お茶を運んできてくれた給仕が去って行くのを待って、ルーカスはそう教えてくれた。
 室内にはフィオナ達の他にも何人かが憩いでいるけれど、皆、見るからに上等な身なりをしている。お茶は香り高く、添えられた菓子は可愛らしく手が込んでいて、座っている椅子はフカフカだ。もしかして、支払う船賃で使える部屋が違うのかもしれない。
 ブラッドはこの旅にかかる費用は全てグランスが出してくれると言っていたのに、こんな贅沢をしてもいいのだろうか。

 フィオナは少しばかり居心地悪く身じろぎする。と、その動きに気付いてルーカスが小首をかしげた。
「どうかした? お腹が空いたかな? お昼にはまだ少し時間はあるけれど、何か頼もうか」
 言うなり片手を上げて給仕を呼ぼうとするルーカスを、フィオナは慌てて止める。
「あ、いえ、大丈夫です。お茶とこのお菓子だけで充分です」
「そう?」
 眉をひそめたルーカスに、コクコクと何度も頷いてみせた。
「まあ、いいけど……人心地ついたなら、いくつか話をしておこうか」
「お話、ですか?」
「そう。まずは君のこと――君かもしれないと言われている子のことについて、かな」
「わたくし、かもしれない……」
 何とも曖昧なルーカスの表現をフィオナが繰り返して呟くと、彼はお茶を一口含んでから続けた。

「その子は、黒髪に青い瞳をした、とても綺麗な女の子らしい。フランジナの貴族の令嬢で、今は十七歳、もうじき十八になる」
 それだけ言って、彼は「どう?」という眼差しを彼女に向けてきた。

「え、と……それだけ、ですか?」
「そう、外見についての情報はこれだけ」
「それがどうしてわたくしなのですか?」
 ルーカスが挙げたその少女とフィオナとの共通点は髪と目の色、そして年齢だけだ。もっとも、フィオナの年齢ははっきりしないから、推定になるけれど。
 わざわざ海を渡って何日もかけて確かめに行くには、随分と薄弱な根拠のような気がする。
 その疑問が顔に出てしまったのか、ルーカスがクスリと笑った。

「髪と目は言わずもがなだな。あと、言葉だ。君はきれいな大陸公用語を話しているだろう? だから、グランスにいても違和感がなかったんだ」
「大陸、公用語?」
「そう、グランスとフランジナ、その周辺の国が用いている言葉だよ。あまり学ぶ時間を持てない人たちは、その国の訛りが強く出てしまうけれど、君の言葉は完璧だった。まあ、言葉遣いそのものは、ずいぶんとケイティや隊員たちの影響を受けてしまったようだが、発音自体には訛りがない。それほど癖のない大陸公用語を学ばされているのは、貴族である証拠だ」
 そう言われてみると、自分の発音とケイティのそれとは、少し違うかもしれない。思い返して頷いているフィオナの頬に、ルーカスの手が伸びてきた。彼は伏せ気味だった彼女の顔をそっと持ち上げ、目を覗き込んでくる。

「それとね、君は『綺麗な女の子』なんだよ? あちらに行ったら絶対にそれを忘れないように」

 フィオナは目をしばたたかせた。
「どういう意味、ですか?」
「人がたくさんいる場所に行くときは、私の傍を離れないように、という意味だよ」
 あまり答えになっていないような気がする。
 眉をひそめるフィオナを置き去りにして、ルーカスはニコリと笑って話を切り替えてしまう。
「で、その行方不明の少女が君なのだとすれば、君の本当の名前はベアトリス・トラントゥールだ。お父上は男爵らしい。ご両親の他に、お兄さんとお姉さんがいる」

 ベアトリス。
 耳に、馴染まない。

 両親と、兄姉。
 全然、ピンとこない。

 フィオナは、カップの中のお茶に映る自分の顔を見つめた。
(家族なら、わたくしに似ている……?)
 彼女の心の中のその問いを聞き取ったかのように、ルーカスが静かな声で問いかけてくる。
「早く家族に会いたいかい?」

 どうだろう。

「良く……わかりません」
 やはり、自分は薄情なのかもしれない。
 フィオナは唇を噛んでうつむいた。
『家族に会いたい』という気持ちよりも、『記憶を取り戻したい』という気持ちの方が大きい。ちょっと胸の中を掘ってみれば、記憶を取り戻したいから家族に会う決心をしたという本音が見え隠れした。

「フィオナ」
 名前を呼ばれ、彼女はためらいがちに目を上げる。その目を真っ直ぐに見つめながら、ルーカスが言った。
「今ならまだ引き返せるよ。君はどうしたい?」
 静かな声でそう問われ、フィオナは胸の内にある思いを言葉にしようとして口ごもる。
「わたくしは……わたくしは――」
 顔も知らない、声も知らない人たちに会いたいか。

 ――判らない。
 ただ、彼らに会えば記憶を取り戻せるかもしれないし、記憶を取り戻せば、色々なことがもう少し定まるような気がする。

 だから、家族よりも、何よりも。

「わたくしは、『自分』を見つけたいです」
 言葉を選び、フィオナが見つけ出した答えを耳にして、ルーカスは束の間目をみはった。そして、ふわりと微笑む。彼女は、一瞬にして、それに眼と心を奪われた。

「そうか。この旅で見つけられるといいね」
 彼は、柔らかな口調でそう言った。
 その打ち解けた様子は、昔のルーカスに戻ったかのようだった。距離を取り始める前の、ルーカスに。
 嬉しくて思わず笑みをこぼしたフィオナを見て、不意に彼が真顔になる。その手が上がり、フィオナに、ゆっくりと近づいてきた。彼女はその動きを見るともなしに目で追う。

 けれど。

 その指先がフィオナの頬に触れそうになった、その時、バネ仕掛けの人形もかくやという動きでルーカスの手が遠ざかった。その唐突な動きに、フィオナは目をしばたたかせる。
「ルーカス、さん?」
 一体どうしたのだろうと首を傾げたフィオナの前で、ルーカスは先ほどとは違う笑みを浮かべる。少しよそよそしい、浮かべようとして浮かべている、笑みを。

「ああっと、そう、昼食を手配してこないといけない。すぐに戻るから、少しの間ここで待っていて」
「え、あ、はい……」
「この部屋から出たらいけないよ?」
「はい」
 念を押すルーカスを見つめて頷くと、彼はどことなく気まずそうに目を逸らし、立ち上がった。

 彼は部屋を出る前に給仕の一人に歩み寄り、何かを言って、去って行く。その背中が見えなくなるまで目で追って、フィオナはため息をついた。
 さっきは少し距離を縮められたような気がしたけれど、やっぱり、遠い。

 どうして、ルーカスはあんなに急に行ってしまったのだろう。
 まるで、何かに叩かれでもしたかのように。

(わたくしが、何かしてしまった……?)
 彼の手が伸びてきて、それに触れられることを期待して待ってしまったから、その願望が伝わってしまったのだろうか。

 ――解らない。
 ルーカスの胸のうちは、何一つ。

 フィオナはすっかり冷めてしまったお茶を口に運び、そして、二度目の吐息を深々とこぼした。
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