悩める子爵と無垢な花

トウリン

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 フィオナとルーカスがフランジナへと旅立つ日になった。

「気を付けて行ってきてね」
 詰所の門前でケイティが力いっぱいフィオナを抱き締める。

「あたしもついて行ければいいのに」
 ため息混じりのその台詞にギョッとしたような顔になったのはブラッドだ。
「おい!?」
「行きませんって。二人一緒に留守にして、戻ってきたらまたゴミ屋敷の掃除から始めるなんて、嫌ですから」
 警邏隊詰所で働き始めた時の惨状を、ケイティがほのめかした。無邪気な笑顔でのその台詞に、ブラッドがグゥと喉を鳴らす。ケイティとフィオナが来るまでの詰所はまさに男所帯を絵に描いた状態で、特に厨房などは惨憺たる有様だったのだ。先日のデリック・スパーク襲撃の後片付けなど片手間仕事に思えるほどに。
「いや……もしも君が本当に行きたいのなら……」
 ブラッドがボソボソと呟いたが、らしくない歯切れの悪さだ。そんな彼をクスリと笑って、ケイティはまたフィオナに目を戻す。

「ルーカスさんが一緒なんだから何があっても大丈夫だと思うけど、くれぐれも、人混みではルーカスさんから離れないようにね。知らない人に声かけられても、ついていったらダメなのよ?」
 鬼気迫ると言っていいほど真剣この上ない顔をしたケイティの訓告に、フィオナは唇を尖らせる。
「ケイティ、わたくしは小さな子どもではないわ」
「だから危ないんじゃない」
 はあ、とこれみよがしに大きな息をついたケイティは、フィオナの隣に立つルーカスに目を遣った。
「港とか、きっとすごい人でしょう? 何か、彼女をつなぐような紐をもっていった方がいいかしら」
 ケイティの眼は、あながち冗談を言っているようには見えなかった。そんな彼女に見せつけるようにして、ルーカスがフィオナの手を取る。
「大丈夫、しっかりと捕まえておくから。誰かに盗られたりなんかしないよ」
「絶対、ですよ」
 頭一つ分以上高い位置にあるルーカスの顔を睨み付け、ケイティが念を押す。そうしてから、彼女は空いている方のフィオナの手を取り、上向け、そこに何かをのせる。

 ケイティはフィオナの手を両手で握り締めたまま、真っ直ぐに見つめてきた。
「いい? あなたはこの三年間でビックリするほど変わったのよ? それを覚えておいてね?」
「ええ、……?」
 頷きながらも、フィオナは首を傾げた。
 ケイティの台詞の内容は理解できるけれども、どうして突然彼女がそんなことを言い出したのかがよく解らない。
 顔中に疑問符を浮かべているだろうフィオナを見つめ、ケイティが微笑む。そうして、名残惜しげにゆっくりと、フィオナの手を離した。

 フィオナは自由になった手を開き、そこにあるものを見る。それは、淡い紅色をした手のひらにのるほどの小さな巾着袋で、緑色の糸で四つ葉が刺しゅうされている。握っていた時の感触から、中に小指の先ほどの大きさの硬い何かが入れられていることには気付いていた。
「これは?」
 巾着袋からケイティに眼を移して問うと、彼女はまた微笑む。
「中にね、お守り石が入ってるの」
 そう言ってから、少し口ごもり、続ける。
「えっと……旅から無事に帰るっていう効果があるんだ」
「無事に、帰る?」
 ケイティの言葉を繰り返したフィオナに、彼女がコクリと頷く。
「そう」

 つまり、ケイティはフィオナがここに帰ってくることを望んでいる。
 そう思っていて、いいのだろうか。

 マジマジと手の中の巾着を見つめるフィオナに、少し速い口調でケイティが続ける。
「もちろんね、ご家族が見つかって、そこに戻れるのが一番だと思うよ。ご家族だってもう絶対手放さないぞって感じになるだろうし、フィオナが帰る場所っていうのは、本当は、そこなんだと思う。でも、でもね……」
 そこでこらえきれずに唇を震わせたケイティの肩に、彼女を支えるように背後にそびえたブラッドが両手を置いた。そうして、ケイティが言わんとしていたことを引き取る。

「君がしたいようにすればいい。それがどういうものでも、君の決定を尊重する」
 そう言った後、ブラッドは厳めしい顔をほんの少し和らげた。
「だが、ここも、君の居場所で君が帰る場所だ。オレとケイティ――他の連中も、いつでも君を待っている」
「――はい」
 微かに震える声でそれだけ答えたフィオナに、ブラッドは顎を引くようにして頷いた。

「じゃあ、そろそろ出発しようか」
 ルーカスがそっとフィオナに声をかけ背に手を添えて、待っている馬車の方へと促す。

 行きたくない。

 咄嗟にそう口走りそうになるのを、フィオナは唇を噛んで押し止めた。
「じゃあ、行ってきます」
 存外しっかりした声で告げることができた別れの言葉に、ケイティの緑の目がキラリと光る。

 後ろ髪を引かれるとは、こういうことか。

 その思いを噛み締めながらも、フィオナは一歩を踏み出し、馬車に乗り込んだ。
 やがて走り出した馬車の窓から外を覗くと、千切れんばかりに手を振るケイティの姿が見え、それはみるみるうちに小さくなっていった。
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