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 もう一つ、私が観測した出来事を聞いてほしい。これが最後だ。これまで語った意識と現象、禁忌と侵犯の二つの挿話は一つの結に収束する。その為にも今しばらく耳を傾けてもらいたい。
 とあるスラムに孤児の少年がいた。親は強盗に殺され、自身はそのまま攫われてしまったのだ。何処とも知れぬ外国へ売り飛ばされそうな所を命からがら抜け出したものの帰途がわからず、それから彼は成り行きで辿り着いた街の路上にそのまま住み着いていた。歳は十三か十四といったくらいで年少の孤児の世話をしつつ、年長者からの言いつけをよく守る、生真面目な性根をしていた。手先が器用で廃材を使ってアジトの寝床を修理したり、小動物を捕まえる罠を作ったりしており、環境が違えば融通は利かないが優秀な職工となっていたかもしれない。
 少年は今の境遇を豊かではないが、決して不幸とは思っていない。むしろ強盗に遭うまでの方が彼の生活は息苦しかった。父親は寡黙で大人しいように見えて内実怒りの沸点がわからない癇癪持ちであり、母親はいつもヒステリックに父へ当たり散らす一方で、父が居なければ何もできなかった。常に両親の顔色を窺わなければならなかったあの頃より、路上で明日をも知れぬ生活をしている方が満たされているとさえ彼は言ってのける。
 彼は死ぬことも怖れていない。命と名前以外の全てを失った。永らえた命だって本来は強盗の手にかかるか、売り飛ばされた先であえなく失われるはずだったもの。今はたまたま拾った余生を過ごしているに過ぎないと年不相応に達観していた。孤児仲間の死に関しても同様だ。もちろん悲しいが、機会を重ねる内にそういうものだと割り切れるようになっていた。
 この齢にして枯れた死生観を培うに至った彼だが「生まれる」ことに関しては年齢に見合った関心をもっている。年上の者が行為について色めき立って話す時には端で無関心を装いつつ聞き耳を立てていたし、歓楽街で繰り広げられる男女の諸相を遠目に眺めては自分もあんなのから生まれたのだろうかと思いを巡らせた。そうしてあれらの果てが自分なら命に大した価値はないのかもしれないと、偏ったサンプルから自らの思考を肯定するのである。ただ、生誕の価値を貶めるほどに内心では命を生む行為に対する関心が増すのであった。
 そうして勃々と性への関心が高まる中で、孤児仲間の少女が妊娠した。身を売って生計を立てていた為、父親はわからない。堕ろすにも金がない。何より彼らは公共の機関について、善意の下にこちらの事情の何もかもを否定する忌むべき場所であると敵視していた。
 ならば産むしかない。孤児の面々はかつてない団結を発揮し、子どもが無事に生まれるよう尽力した。食事はなるべく良い物を少女に優先して与え、アジトの寝床を一層拡充し、古びた書物を拾い集めたり、情報端末をクラックしたりして育児の情報を調べるなんてこともした。生まれた後のことを考えて赤ちゃん用の清潔な衣服を縫って作ったりもした。
 陳腐な物語なら無事に子どもは生まれ、貧しく苦しいながらも少年少女は満たされた日々を過ごせただろう。しかし、現実は非情だ。栄養状態が悪く、努力が実を結ぶ前に赤子は早々に流れてしまった。母体は無事であったが、少女は居たたまれなくなり、アジトから姿を消してしまう。
 一同が悲嘆に暮れる中、しばらくして少年は薪集めの為に入った町外れの山中で少女を発見した。だが、再会を喜べる状態ではなかった。
 少年は横たわる少女の身体に自分のつぎはぎだらけのジャケットを掛けてやる。所々切り刻まれた衣服と傷ついた肌を視界に収めることができなかった。
 ――誰が、いったいどうして……?
 頭を抱えて混乱を抑え込もうとしても、思考はまとまらず目から涙が滲み出てくる。少年は気付いた。自分は彼女に恋をしていたのだと。食事を譲った時に「ありがとう」とはにかんだ顔、改造されたアジトのベッドを見て「すごい!」と手を叩いて驚いた顔、まだあまり膨らんでいないお腹を擦って微笑んだ顔、顔、顔、顔、目を手で覆っても浮かんでくる。
 ――ああちくしょう! どうして神様! どうしてこの子がこんな目に! 
 身を裂かれるような悲憤慷慨の痛みに少年は蹲って耐え忍んだ。今まで抑圧されてきた感情がぼたぼたと地面に零れて止まらない。ここで初めて彼は「死」に触れたのだ。今まで心を守る為に被っていた殻を脱ぎ捨てて抜き身で真正面から。
 ――死がこんなにも恐ろしいものだったなんて! そしてこの世に生まれ、生きていることがこんなにも! こんなにも……。
 途方に暮れて少女の傍に腰かけている内に日は沈み、辺りはすっかり闇に包まれていた。眼下に街の灯りが遠くチカチカと星のように煌いているのが見える。少年はどうすれば良いのかわからなかった。弔い方を知らないのだ。路上生活者は死ねばその場に放置されるか、警官が無作法に遺体を担架に乗せてどこかへ連れて行く。その程度の知識しか持ち合わせていない。
 ――仲間に知らせるべきか? だが彼らだってこの子のことを……。
 走馬灯のように過去を振り返ると、仲間の皆だって少女に淡い思いを抱いていただろうと容易に想像できた。彼らにこのような残酷な事実を突きつけるべきか少年は迷う。それに――少年は自らの内に黒き炎が燃え上がっていることを感じ取る。不幸にも最悪なタイミングで彼は性徴を迎えてしまった。
 ――仲間に知らせれば彼女を独り占めできなくなる。
 暗澹たる山中にいるのは自分と少女のみ。周囲はひっそりとしており、時折風が樹々を揺らすだけである。少年は肌寒さを覚えて、遺体にかけていたジャケットを手に取って再び袖を通す。この時、折悪く月明かりが樹々の間から射し込み、周囲がうっすらと照らされた。ここでようやく彼は闇の中で透けて浮かぶ斑点混じりの柔肌を目の当たりにする。
「…………」
 この瞬間に彼がどのような感情を抱いたのか、私にはわからない。だが、彼の眼には燃えるような迸りと愁いを帯びた鈍色の光が湛えられていた。
 そして、焦燥や混乱を表わさず、彼はそうするのが当たり前かのように服を脱ぎ始めたのである。全裸になった彼の生命樹は天を衝くように屹立し、先端を濡らしていた。少年はおそるおそるまずは少女の頬に指先で触れ、生の瑞々しさを失った肌を優しく撫でる。指先はだんだんと下りてゆき、首筋から肩口へ。それから胸へと伝っていく。
 膨らみの上で止まった指にわずかに力が込められ、その先端が脂肪の塊の中にゆっくりと沈んだ。一旦、少年は手を放し、感触を確かめるように空を掴んだ。感覚を神経に刻み込むかのように、まじまじと掌を眺めながらしきりに手を開いては閉じてを繰り返す。それを終えると彼は少女の額にそっと口づけをし、それから己の身を遺体の両脚の間へ滑り込ませる。硬直が解けて弛緩した肉塊は易々と脚を開き、秘所を露わにした。この時、彼は目を見開いてかすかに息を呑んだ。漏れ出た体液から発せられる、すさまじい死臭を嗅いだからではない。
 それから少年は両手で自身の首根っこを掴んで、少女の秘部の前に跪いた。いずれの宗教にも見られない姿勢だが祈りだと想像できた。何に祈っているのか……。少女に? 神に? 世界に? 己に? それは彼にしかわからない。
 祈りを捧げた後、彼は愛する者を抱いた。強く、激しく、いつまでも。

 それから長い時が経ち、彼らがいた街で新たな資源が発掘される。人の感情、とりわけ性的衝動に呼応してエネルギーを生み出すこの新資源は「エクスタシウム」と名付けられた。莫大な変換効率を誇り、それはやがて化石燃料や自然エネルギーなどの資源を過去のものにするに至る。資源が資本を呼び、街は都市へと目覚ましく発展を遂げ、貧困に喘いでいた路上生活者にも職と富が行き渡り、文化をもたらした。スラムは一掃され、人が人を呼び、あらゆる者に教育が施された。格差を物ともしない程に富はあり余り、それらは弱者の救済に充てられ、理想郷とも言うべき福祉社会が実現する。
 研究が進められるにつれてエクスタシウムは世界各地で存在が観測され、社会構造を一変させてゆく。強い意志をもつ人間のとてつもない性的欲求が物質となって顕現する性質を持つ故に、世界中でインモラルな体験談や逸話の収集が進められた。それに伴い、エロティシズムのメカニズムに関する研究も飛躍的に進展する。その過程でエクスタシウムは強い情念と結び付くことで空間と時間を超越するという驚異の性質を有しており、理論上では次元の壁を飛び越えて並行世界や異世界とエネルギーの相互供給をも可能にするという仮説さえ生まれた。先に私が語ったいくつかの逸話は、意識と現象ならびに禁忌と侵犯に関する研究の過程で極めて特異な事例として耳目を集めたものである。
 エクスタシウムの発見は性的欲求やそれに付随するコンテンツの価値を一変させ、停滞していた社会の活力を再起させるに十分なインパクトを有していた。性の開放はタブーへの侵犯を加速させ、良くも悪くも進歩的な試みが評価され、社会は益々発展する。さらに、情念と呼ばれる非合理な存在への思索が進み、その性質に対する理解が深まったことで合理性一辺倒な価値観はなりを潜め、個と個の身体及び心理双方の結びつきを重視する声が盛んになった。性的欲求の積極的な肯定は人口爆発を引き起こすに至り、あり余る活力の行き場を求めて、人類は宇宙へと活動の場を広げていった。大地を離れてからも性的動力の恩恵に預かって着々と子を増やし、繁栄の一途を辿る。
 しかし、急激な進歩は施策の功罪を顧みる暇を与えてくれない為、得てして歪みを生み出すものである。社会の発展速度に比して種としての進化が追い付いていないまま、人類は飽くなき欲求に従って宇宙へ繰り出してしまった。狭い地球の中でさえ折り合えなかった我々が広大なる宇宙を棲み処として安寧を得られるか。答えはノーだ。価値観は一層多様化し、各共同体間で意識の隔たりはさらに深くなっていった。かつて地球で共存していたはずなのに、やがて人類は同じ人類を「異物」と認識して互いの領域を侵し始める。その果てに辿り着いた先がこのろくでもない星間戦争の世界だ。エクスタシウムを通じて語られる人類の愛と願いはただの熱量へと消費されるにまで貶められ、誰も彼もが絶望して――いや、絶望どころではない。無感情に命を奪い合っている。
 こんな世界が自分は嫌いだ。それなら罪深くとも、神に罰せられようとも、人々に疎まれようとも愛に生きたい。そう夢を見ながら戦い続け、私は力を与えられた。
 OKT-9エンキュバス――。ラヴドール開発でオリエント重工に後れを取ったオカモト機工が総力を結集して生み出した新造機動兵器。機体性御機関「システム色羽イロハ」を搭載し、乗り手の性的欲求をダイレクトに出力へと変換することにより絶大なる性能を実現した。敵が先んじて製造した「魔女」は兵士が恐怖を克服する必要に駆られて性愛を利用して生み出されたのとは対照的に、こちらは性を探究する過程で紡ぎ出された、まさに性愛の具象と称するべき機体……と開発者は豪語していた。ただ実際、完成度ではこちらが上回っているらしく、今の戦況を見れば彼らの言い様もあながち間違いではない。だが、そんなものはどうでも良い。噂もかねがね耳にしているが関係ない。とにかく彼女――首の付け根で女性だと感じた――と一戦を交えたいと、私はその時を待ち焦がれていた。まるで結ばれるべき運命の相手を迎えに行く花婿のように。
 たとい命のやり取りをした宿敵であっても惚れたらそれは宿縁。真っ黒に塗りたくられた世界で、宿命を超えて進んだ果てに何があるのか。それはわからない。だけど、あれと交わり、悦楽の賛歌を轟かせたい。それで戦いが終わらせられるかもわからない。個と個が並び立てば争いは生まれる。だけど、愛だって生まれる。愛に生きるのが私の夢だ。夢は時に人を縛る呪いにもなる。
 けれど、夢を語ることが呪いになるというのなら、私……僕は、世界に呪いを振り撒く魔王になろう。

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