僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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二十三章

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 けど繰り返しになるが、この世はわからぬもの。花をウットリ見つめていた大和さんと、ズボンの右ポケットからハイ子を取り出した清水は、予想を数倍する一秒強、互いを認識するのが遅れた。かつ、ここからが真にわからぬ事だったのだけど、顔と顔が50センチほど離れた状況で互いの存在をようやく認識した二人はほぼ同時に、
 ボンッ
 と顔を赤くしたのである。
 ただ、いつの間にやら他者の恋愛感情に詳しくなった僕の直感によると、現時点で相手に恋心を抱いているのは、清水だけらしい。そう思う根拠は、赤面の時間差にあった。清水は大和さんを認識すると同時に赤面したが、大和さんには僅かな時間差があった。それはまるで、「清水が50センチの距離にいただけなら驚くのみに留まったが、清水に関連する何かを思い出したとたん、図らずも顔が赤くなってしまった」のような時間差だったのである。もちろん本人に聴いてみないことには、推測の域を出ないけどね。
 なんて事柄を、まあまあ悠長に考えていられたのは、二人が歩みをピタリと止めたからだった。歩みを止めればぶつかる事もなく、最大の危機は脱したと言える。ならば注目すべきは、二人の恋の行方なのだ。去年に続き今年も級友の恋の手助けをできるというのは、なかなか素敵なことだなあ・・・と、僕は頬を緩めかけた。
 が、そうはならなかった。清水の手から、ハイ子が零れ落ちたのである。ハイ子はとても丈夫に作られており、あの高さから廊下に落としても壊れることは滅多にない。しかし翔人としての勘が、ハイ子に注目するよう僕に呼び掛けた。それはまさに正しく、親指と人差し指の間から零れ落ちたハイ子は大和さんに近づきつつ落下していて、仮にそれがボールだったら床とぶつかったのち、大和さんのいる方角へ跳ねるに違いなかった。ハイ子はボールではないからその可能性は低くとも、いや低いはずなのに、勘に促され僕はハイ子から目を離せなかったのだ。そのコンマ数秒後、
 コンッ
 ハイ子が廊下と接触した。接触したのは俗に、お尻と呼ばれる部分だった。お尻が廊下に触れたことを嫌がったのかハイ子は勢いよく跳ね、そして大和さんの右足めがけて、飛んで行ったのである。
 仮に大和さんが手に何も持っておらず、また一連の出来事を落ち着いて眺めていたなら、剣道で鍛えた身体能力と動体視力を活かし、ハイ子を難なく受け止めただろう。だが状況は、それとは真逆だった。大和さんは花瓶を両手で抱えており、かつ花瓶の花は大和さんの視界の下半分を塞ぎ、更に加えて大和さんの意識は、眼前の清水にほぼ100%向けられていた。つまり落下するハイ子にまったく気づいておらず、然るに右足の爪先の少し先で鳴ったコンッという音に、
 ビクッ
 大和さんは過剰反応したのである。
 けれどもまだ、ここまではよかった。ここで終わっていれば、花瓶を持っていようと何も起こらなかった。だが、そうはならなかった。清水のハイ子は宙を飛びつつ緩やかに回転し、そして俗にハイ子の背と呼ばれる平らでツルツルな部分が大和さんの足に向いたとたん、
 ピト
 大和さんの素肌に、ピッタリ張り付いたのである。
 想像して欲しい。人は不意を突かれると、ほんの些細な事柄にも凄まじく驚くもの。しかもその現象を目で見て確認できないと来れば驚きは何倍にも膨れ上がり、さらに加えて、得体のしれない何かが自分の素足にピトっと張り付いてきたのだ。大和さんの驚愕は推して知るべしであり、ではそのような場合、人はどう行動するだろうか? 何もかも放り投げ、逃げようとするのではないだろうか? 放り投げさえすれば視界が開け、手の自由も利くようになる場合、人はそれを躊躇うだろうか? 人は多種多様なので一概には言えないが、僕が大和さんの立場だったら手に持つ物を放り投げ後方へ跳躍し、と同時に視線を足元に向け、事態の把握に努めたと思う。そしてそれは、格闘系部活に所属する生徒にとって、一般的な対応なのかもしれなかった。少なくとも大和さんは、僕と同種の対応をした。即ちキャーッと叫ぶより早く、
 ブンッ
 花瓶を躊躇なく放り投げたのである。
 花瓶が廊下を横切り、中庭に面する窓ガラスへ勢いよく飛んでゆく。便宜上それは窓と呼ばれているにすぎず、実際はアクリル板だから、花瓶が当たった程度ではひびすら入らない。花瓶も樹脂製なので壊れることはなく、ただ宙を勢いよく飛んでいるぶん、花と水の散乱が広範囲に及ぶのは避けられないだろう。花も窓ガラスと花瓶に挟まれ、押しつぶされ、ほとんどがダメになるはず。それは花をうっとり見つめていた大和さんにとって、悔やんでも悔やみきれない出来事になるに違いない。現に大和さんは、足元を確認するより早く自分がしたことに気づいたらしく、宙を飛ぶ花瓶を後悔一色の瞳で見つめていた。大和さんより花瓶に近い場所にいる清水も、自分のハイ子が大和さんの足に張り付いたことに気を取られたせいで、手を伸ばし花瓶を掴むタイミングを逸していた。廊下に複数の生徒はいても、未来を変えられる場所にいる生徒は誰もいない。それを一瞬で悟った大和さんの顔が、絶望に染まる―――
 ことは無かった。なぜなら箒のの先端が、
 スルッ
 と花瓶の取っ手に差し込まれ、花瓶を止めたからだった。     

 正確な比率は判らないが、花瓶には取っ手のあるものと無いものがある。取っ手も片側付きや両側付きと様々であり、三年一組の備品の花瓶には、取っ手が一つだけ付いていた。その取っ手を大和さんは左手で持ち、右手の掌の上に花瓶を乗せて水場へ向かっていた。大和さんがなぜ、利き腕の右手で取っ手を掴まなかったかは定かでない。だが仮にそうしていたら、僕は花瓶の取っ手に箒の柄を通せなかったと思う。しかし、運は大和さんに味方した。大和さんは左手で取っ手を持ち、その左手の方角に僕がいて、しかもその取っ手が最も柄を通しやすい、
 ―― 下向きになる
 という幸運は訪れなかったと思うのだ。まあホントのところは、分からないんだけどね。
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