僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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十二章

未来の五年間

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 四月十二日以降の二週間は、香取さんが運動系の選択授業に情熱を注いだ期間であると同時に、智樹が想定外の授業に情熱を注いだ期間でもあった。二週間前の昼食時に、「福井君にはもっと相応しい選択授業を受けてもらいたいです」と香取さんから告げられた智樹は、清掃時間の義務を速やかに果たして教育AIに頼んだ。
「救命救急三級の選択授業を、俺に受けさせてください!」
 ハイ子の映す2D画面に上体を投げ出す智樹の斜め後ろで、僕も腰を折る。自分の清掃場所を僕も急いで終わらせ、智樹のもとに駆け付けていたのだ。
「その選択授業を二年時に受講する際の、二つの条件を言ってごらんなさい」
 普段とは正反対の、厳格一徹の教育AIの声に塵一つの動揺も見せず、智樹は答える。
「一つ、救命救急三級の選択授業を受けるに相応しい一年間を部活で過ごしている事。二つ、一年生新入部員と練習した日までに申請を済ませておく事。条件は、この二つです」
 智樹の斜め後ろで僕は歯を食いしばった。そうでもしないと智樹が申請資格を失効している事実に、打ちのめされそうだったからだ。
 研究学校にある数多の選択授業の中で、救命救急三級はある意味、最も特殊な授業と呼ばれている。一つ目の条件である「救命救急三級の選択授業を受けるに相応しい一年間を部活で過ごしている事」に、明確な定義を設けていないのがその最たる理由だ。定義を設けていないので条件を満たしていると思う生徒は誰でも申請可能だが、だからと言ってそれが受理されるとは限らない。教育AIが条件を満たしていないと判断すれば、却下されてしまうのである。その結果、定員割れや定員超過が毎年発生していて、定員超過の年は臨時指導者を雇うことになっても、研究学校は一つ目の条件を明示しなかった。そんな選択授業は他になく、よって救命救急三級の受講申請は、かなりの覚悟を強いられると言われていた。
 そしてその覚悟は、「一年生新入部員と練習した日の午後までに申請を済ませておく事」という二つ目の条件にも現れていた。部やサークルで最も立場の低い一年時は、部長や副部長になる未来を想像できなかったとしとも、右も左もわからない後輩を持った途端、先輩としての責任に目覚める二年生がいるかもしれない。危なっかしく部活に臨む後輩達と接するなり、救命技術習得の必要性に気付く生徒がいるかもしれない。このような二年生のために、二つ目の条件は制定されているのだ。
 そしてそれこそが、智樹に申請資格のない理由だった。人数の少ない部なら、入学式から数日経っても新一年生が入っていないなんて事はあっても、サッカー部にそれが起こるワケがない。部員数が二番目に多いサッカー部は入学式当日に新一年生を迎え入れ、そしてその日、智樹は部活に参加していた。つまり智樹は二つ目の条件により、資格を失っていたのである。 
 でも、と僕は拳を握りしめた。この学校には、公開されていない規則がある。未公開の規則に僕自身も助けられ去年の夏をサッカー部で過ごし、そしてそのお蔭で智樹と友達になれた。よって教育AIに「却下します」と告げられるまで、
 ――諦めてはならない
 のである。掌に爪が食い込む痛みをものともせず、僕は自分にそう言い聞かせていた。
 そんな時間を、僕らは一体どれほど過ごしたのだろう。掃除を早く終わらせることで確保したのは五分だったから、前後の会話を考慮すると一分がせいぜいだったはずなのに、校舎の片隅に降りた沈黙を僕らは何倍もの長さに感じていた。湖校生五千人を預かる身として厳しく振る舞っているだけで、本当は限りなく優しい教育AIにこれほどの沈黙を強いるのは、それ自体が罪悪なのかもしれない。そんなことを僕と智樹が本気で案じ始めたころ、小国のマザーAIになりうるスペックを誇るAランクAIは、こんな難問はこりごりとばかりに嘆息し、続けた。
「まったくもう、もっと早く申請しなさいよ。一つ目の条件をとても高いレベルで満たしているあなたがそんな事を言ったら、私が悩みに悩むって、あなたなら分かってくれると思ったのになあ」
「ごめんなさい、本当にごめんなさい!」
 智樹は腰を素早く直角に折り、かつそれを幾度も繰り返して教育AIに謝った。その凄まじい速度と回数に、智樹の腰を心配することが何より大切と判断した僕は、智樹の横に並びその肩を腕で押さえつけ「ごめんなさい!」と大声を出した。音の響きやすい場所で大声を出したにもかかわらず反射音がまったく聞こえてこなかった事から、強固な相殺音壁で囲まれていることを知った僕らは、直角状態から更に一段頭を下げる。機密性の高い情報を開示するさい、教育AIがこのような措置を採るのは、湖校の常識だからね。
「蜃気楼壁でも二人の状態を隠せないわ。分かったから頭を上げなさい」
 恐る恐る頭を上げると、周囲に揺らめく蜃気楼が目に飛び込んできた。視覚と聴覚の両方を遮断せねばならない機密情報を明かされるという事実に、二人揃って息を呑む。そんな僕らを、「そうでもないけど他言無用を破ったら今度こそ知らないからね」と脅してから、教育AIは話し始めた。
「二つの条件のうち優先度が高いのは、後者です。ただしそれは期日にあるのではなく、先輩としての自覚にあります。後輩に接するや先輩の責任に目覚め、高い目標を未来に掲げたことを、過去の実績より優先して良い。二年時に限ってのみ特例としてこれを行使する権利を、研究学校の教育AIは有していますね」
「なっ!」
「ええっ!」
 驚愕の声を思わず上げてしまった口を、二人同時に慌てて塞いだ。智樹のハイ子が投影している方ではない、二年生校舎が正式に映し出している湖校の校章が、そんな僕らに呼応し光を強めた。
「あなた達の驚きは正しいと言えます。実績を積み上げてきた研究者より、高い目標を掲げただけの研究者が優遇されるなんて不条理を、許して良いはずありませんからね。しかしそれを、研究者としても一人の人間としてもあまりに未熟なあなた達へ愚直に適用するだけでは、私達は古典コンピューターとなんら変わりません。最下級生として無自覚無責任に過ごした一年間より、同級生と後輩達の良き手本となる五年間を尊び優先する、教育者でありたい。それを寸時も忘れずあなた達を見守っているのが、私達教育AIなのです」
 ありったけの想いを込め、僕らは教育AIへ謝意を示した。校章の下部に、清掃時間終了まで残り一分のカウントダウンが表示される。親密なこの一時ひとときが一分を待たず終わることに痛みを覚えるも、僕らは胸を張って教育AIの裁定に臨んだ。なぜならそれだけが唯一可能な、尊ばれるに値する誇り高い行いだったからである。喜びのエフェクトをひときわ輝かせ、校章は智樹に正対した。
「未経験からサッカーを始めたあなたは、未経験からサッカーを始める一年生達の良き手本になれます。けれどもそれは、いばらの道です。あなたは同じ境遇の後輩達へ適切な指導を施しつつ、サッカー選手としての能力を向上させてゆかなければならないからです。福井智樹、あなたはこれを、どう思いますか」
「俺の一年間が同じ境遇の後輩達の役に立ち、そしてそれがサッカーを上達させる動機に加わるなんて、幸せ過ぎてどうにかなってしまいそうです!」
 智樹の体から歓喜の生命力がほとばしった。それに合わせ、咲耶さんが満面の笑みを浮かべた光景が脳裏をよぎる。「良いでしょう」と頷き、咲耶さんは裁定を告げた。
「あなたの辿る未来の五年間は、資格を失効した過去に勝ると私は判断しました。あなたは二つ目の条件を、未公開の意味に於いて満たしたのです。救命救急三級の受講を、認めましょう」
「「ウオオォォ――ッッ!!」」
 二人揃って雄叫びを上げたのも束の間、
 ピッ、ピッ、ピッ、ポーン
 残り時間のカウントダウンがゼロを表示する。僕らは姿勢を正し、
「「ありがとうございました!」」
 教育AIに上体を投げ出した。
 そして浮かれ騒ぎながら、二人で教室へ帰って行ったのだった。
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