僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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六章

貴子さん

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 セピア色に染まり始めた大石段を登り終え、鳥居をくぐる。すると母屋の方角から、三人娘の笑い声が聞こえてきた。帰るべき場所へ帰ってきたという想いに、僕の足取りは自然と速まっていった。
 が、母屋を囲む玉砂利まであと一歩の場所で、僕は頭を抱えてヘタリ込んでしまった。あろうことか、これから経験するであろう三つの映像が、三等分された心のスクリーンに同時上映されたのである。
 左端のスクリーンには、「お兄ちゃんお帰り。洗濯は私がするからお兄ちゃんは座っててね」とスリッパを軽やかに奏でて近づいて来る、美鈴が映し出されていた。
 中央のスクリーンには、「洗濯は私に任せて早くテーブルで休みなさい」と言い放ちバッグを奪い取ってゆく、昴が映し出されていた。
 そして右端のスクリーンには、初々しいエプロン姿で両手を差し出し「眠留くんお帰りなさい。汚れもの、洗濯してくるね」と幸せそうに笑う、輝夜さんが映し出されていた。
 正確には、左と中央は現在の台所が舞台になっていて、右だけはどことも知れない未来のスウィートハウスが舞台になっていた。三つの未来が同時上映されただけでも人としてどうかと思われるのに、僕は大胆にもスウィートハウスで輝夜さんとし、し、新婚生活をっっっ!!!
 ポカ~~~ン♪
 中身が空っぽの物を勢いよく叩いたらこんな音がしました、という音が境内に鳴り響いた。振り返ると、安物のビニールスリッパで僕の頭をはたき終えた、貴子さんがいた。日いずる国に住まう猫の三割強を統括する大長老中吉、その人バージョンである貴子さんは、情けないという概念を物質化したような表情でしばし僕を見つめたのち、
「私が洗ってやる。女の子を待たせるんじゃないよ」
 と左手を差し出してくれた。僕は脊髄反射で立ち上がりバッグを開け、洗濯物を密封した除菌消臭パックを取り出そうとした。でもそれを手に掴んだとたん、硬直してしまう。パック越しに、汗と泥まみれの衣類がはっきり感じられたからだ。幾らなんでもこれは申し訳なさ過ぎる、というか貴子さんとはいえパンツを洗ってもらうのは耐えられない、などと逡巡していると、かっこ良くて鯔背いなせなお姐さんは、胸を締め付ける懐かしい笑みを零した。
「ボンのオムツを私が何度替えてやったと思ってるんだい。まどろっこしいから全部よこしな」
 貴子さんが僕と美鈴の育児をいつも買って出てくれて、それにどれほど助けられたかを、母はよく僕ら兄妹に話していた。幼い妹と並んで見上げたその笑みと、瓜二つの笑みをたたえるこの女性に、抵抗などできる訳がない。僕はバッグを貴子さんに渡した。
「終わったら部屋に放り込んでおくから、台所でのんびりおし」
 などとぶっきらぼうに言い捨て、貴子さんはバッグ片手にずんずん遠ざかってゆく。
 でも、僕は知っていた。
 終わったらというのは、洗濯物を乾燥させたらという事。
 放り込んでおくというのは、丁寧に畳んで机の上に置いておくという事。
 そして足早に遠ざかって行くのは、少しでも早く僕を台所で休ませようとしている事。
 それらを芯から知っている僕は、その背中を急いで追いかけた。
 そしてその横に並んだとき不意に、本当に不意に知った。
 親離れの時期を迎えた僕の、親離れされる方の役を、貴子さんは小学四年生以来ずっと、引き受けてくれていたのだと。

 おそらく三歳前後の、最初期の記憶。
 僕は貴子さんを、お姉ちゃんと呼んでいた。貴子お姉ちゃんは、僕のもう一人の母親だった。四歳の誕生会で、お姉ちゃんという言葉はもう一人の母親を差すのではないと初めて理解した時、悲しくて泣きじゃくったのを、今でもはっきり覚えている。
 幼稚園入園を機に、お姉ちゃんではなく貴子さんと呼ぶよう、祖父母は僕に命じた。僕は食い下がり、貴子お姉さんと呼ぶ妥協案を祖父母に認めてもらった。
 だが小学校の入学式前日、「人間でない私をいつまでもお姉さんと呼んではならない」と、貴子さん自身に僕は説得された。何度尋ねても、貴子さんはその理由を口にしなかった。今なら理解できる。「小学校なんて行かない、友達もいらない」と僕に言わせないため、貴子さんはその訳を僕に教えなかったのだと。
 表向きは父の従妹という親戚になっていても、僕がお姉さんと呼んでいる限り、小学校でできる新しい友人達は、貴子さんを僕の姉として認識する。けどそれは年齢的に無理のある、違和感を覚えずにいられない姉なため、それを解消すべく友人達は親に質問する。叔母さんをお姉さんと呼んでいるのでしょうと回答することで、貴子さんの存在は親達にも知られていく。鯔背な姐さんを地でゆく容姿であり、地域に根差した神社の神主の姪であり、そして結婚適齢期の美女である貴子さんが、大人達の耳目を集めるのは想像に難くない。だがいくら人の姿をしていようと、貴子さんという人間は、この世にいないのだ。幼稚園の二年間ならまだしも小学校の六年間では、それは絶対避けねばならぬ事だったのだろう。だがその説明をするとどうしても、新しくできる友達が原因という印象を持つため、「友達なんていらない小学校も行かない」と僕は口走ってしまう。それを、貴子さんは恐れた。なぜなら、小学校入学を心待ちにする僕と、僕以上にそれを心待ちにしている両親と祖父母の気持ちを、貴子さんが無下にするはずないからだ。僕や皆のために身を挺してくれた貴子さんのお蔭で、「あの人はだれ」と問う小学校の友人達へ「遠い親戚の人」と、演技でない苦い声音と顔で僕は答えられるようになったのだった。
 四年後、僅かなりとは言え成長し世間というものを知った僕は、ある期待を胸に「貴子叔母さんって呼んでもいい?」と尋ねた。だが世間への知識は増えても、「三十歳の大台まで残り数カ月となった女性」への知識などまるで持ち合わせていなかった僕は、貴子さんの放った巨大雷の直撃を受けてしまった。僕に他意はない事を大吉に懇々こんこんと説かれた貴子さんは、叔母さんと呼ばれることを渋々認めた。けどそれは演技にすぎず、その後僕は人目のない場所にしょっぴかれ、「誰もいないときは貴子姉さんとお呼び!」と脅された。そのあまりの理不尽さに僕は反抗した。お姉さんと呼んではならないと理由も告げず無理強いしたのは中吉じゃないかと、僕はあえて中吉と言う名前を使い反抗した。だが幾ら僕が食って掛かろうと中吉は鼻で笑い続け、僕の反抗心はみるみる膨れ上がって行った。と言ってもそれは、ヘタレな僕が生まれて初めて持った反抗心だったから真実鼻で笑う程度でしかなかったけど、それでも許す気持ちを僕はどうしても持てず、中吉と水面下でいがみ合う日々を送った。その甲斐あって「あの人は誰」と問う友人へ「遠縁のオバサン」と、僕は年齢相応に振る舞うことができた。水面下でいがみ合っていても根っこの部分で優しい中吉を心底嫌いはしなかったが、その優しさを疎ましく感じて、中吉だけにそれを見せたこともあった。そんな僕らの関係が、小学校の卒業式の日に変わった。
 卒業証書の入った筒を抱えて学校から帰って来て僕は、留守番をしていた中吉にもそれを見せようとその姿を探した。中吉は、風通しの良い台所の日溜まりにいた。中吉は貴子さんの姿ではなく、猫の姿で日溜まりにいた。僕は、中吉に声を掛けることができなかった。母が亡くなってから決して近づこうとしなかった二人のお気に入りの場所で、中吉は一人静かに座っていた。僕は無言で中吉に近づき、卒業証書を見せ、その首元を撫でた。中吉も何も言わず、気持ちよさげな顔をして撫でられていた。
 そして僕らは、仲の良い普通の家族に、戻ったのだった。

 でも僕は、結局なにも知らなかった。
 親離れすべき親がすぐ近くにいない僕を一番気に掛けてくれたのは、貴子さんだった。
 どれほど誤解されようと、必要な誤解としてそれを受け止めてくれたのは、貴子さんだった。
 反抗期を促し、反抗される役を買って出て、親離れさせてくれたのは、貴子さんだった。
「貴子姉さん、ありがとう」
 廊下の向こうに去ってゆく貴子さんへ、声にならない声を贈る。
 それでも貴子さんは去り際、バッグを持っていない方の腕を、ひょいっと挙げてくれたのだった。
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