僕の名前は、猫将軍眠留

初山七月

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三章

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「ゴールデンウイーク明けの体育祭の準備授業で輝夜の神業を見た私達に、張り合おうなんて気持ちは残っていなかった。なのに輝夜ったら神業の後で、恥ずかしそうに頭をかいて苦笑いしたの。その仕草がおかしいやら可愛いやらで、私達は大笑いしたわ。そして笑いが収まったら、みんな自然にこう思っていたのよ。輝夜は確定で、残りは立候補者を抽選すればいいって。私達はあの子に、序列の毒気を抜いてもらったのね」
 十組の女子はそれ以降、心を許せる度合いがちょっぴり増えて、みんなちょっぴり仲良くなった。だからさっきの眠留の話、凄くよくわかるわと、昴は陰る声音で話した。僕は気を引き締め、その続きを待った。
「私は体育祭実行委員になっても、委員代表になろうとはしなかった。それを、序列への執着のなさと感じたみんなは、私を褒めそやしたわ。でもそれ、勘違いもいいとこなの。私が委員代表にこだわらなかったのは、そんなものは私の地位に何の影響も及ぼさないから。十組の代表になれば自動的に体育祭実行委員長になったはずだけど、そんなのどうでも良かったのよ。それを、今ははっきり口にできる。本当は私こそが序列意識のかたまりだったんだって、はっきり言えるの。全ての面で輝夜に負けた、今ならね」
 そんな事はない。輝夜さんが輝夜さんの良さを持っているように、昴は昴の良さを持っている。誰かが誰かに全ての面で負けるなんて、そんなのあり得ない。僕はそう、強く訴えた。しかし昴は、悲しげに首を横へ振る。
「眠留の主張は正しいわ。でもそれは、眠留が私に言うから正しいのであって、私が私に言って良いことではない。自分を誤魔化すため、自分で自分にそう言い聞かせてはならないのよ」
 覚悟と理解力のなさに両手で顔を覆いそうになるも、僕はそれをねじ伏せた。昴は今、自分と必死で戦っている。ならばせめて僕も、自分と戦うのだ。
「そんな女だから、友達ができなくて当然よね。自分に酔いしれ、選民意識の塊になっていた私と友達になろうなんて、誰も思うはずない。私はただ皆から、避けられていただけ。おだてられ、遠ざけられていただけ。そのことに、私はやっと気づいたのよ」
 昴がやっと気づいたように、僕もやっと気づいた。かつて無いほど弱音を吐く昴の姿が、やっと気づかせてくれた。僕の前で弱音を吐かないことを、僕はこの幼馴染に、ずっと強要してきたのだと。
 出会った頃から、僕は昴が落ち込むことに耐えられなかった。そして昴も、僕がそういう子供であることを知っていた。だから昴は、僕の前で落ち込むことができなかった。弱音を吐きたくても、吐くことができなかった。つまり僕は、落ち込む昴に耐えられないという自分を優先するあまり、僕の前で落ち込まないことを昴に強いてきた。弱音を吐きたくても、吐かないことを強要し続けてきた。そのことに今、僕はやっと気づいたのだ。僕は自己嫌悪の奈落へ倒れかかった。
 が、倒れなかった。僕は、見知らぬ僕に支えられていた。自分として意識している領域の外からやってきた、見知らぬ自分に支えられていた。その僕が僕に言った。さあ、胸を張るんだ。弱音を吐かせてやれなかった過去の自分と決別し、胸を張り、彼女の弱音を受け止めるんだ。たった今から、そんな自分に、自分でなるんだ!
 正直いうと、そんな自分になれるなんて信じられなかった。だが思った。信じられないという理由にすがって何もしないより、信じられずとも、とりあえず一歩を踏み出してみよう。そんな自分になるための最初の一歩を今、踏み出してみよう。
 僕は踏み出した。前かがみになっていた姿勢を改め、背筋を伸ばし顎を引き胸を張り、僕は顔を上げた。すると目の前に、初めて見る笑顔があった。同い年のお姉さんではない、母親代わりの幼馴染でもない、ただの、普通の、一人の女の子になった、昴の笑顔があった。その笑顔に、僕は笑って頷いた。昴もそんな僕に頷き返した。昴はゆっくり、話を再開した。
「私は、井の中のかわずだった。けど輝夜は違った。輝夜は井の中の蛙としての自分を知り、そしてそんな自分を変える努力をしてきた人だった。体育祭の準備授業で、序列の毒消しを輝夜にしてもらった私は、そのことに気づいたの。だから、思えたのよ。ああ私はこの子に、全ての面で負けたんだって」
 昴の言うとおり、輝夜さんは自分を井の中の蛙と呼んだ。そして、そこから抜け出す努力をすると僕に誓った。けど輝夜さんがそう誓ったのは、五月五日の事。体育祭の準備授業が行われたのは翌日の五月六日だから、一日前の事でしかないのである。僕は胸の中で語りかけた。二人の差はたった一日しかないんだよ、昴がんばれ、と。
「それ以降、私は輝夜を一層好きになったわ。あのころの私が自分を制御できていたのは、そのお蔭でもあるの。わたし、あの子のことが、本当に好きなんだ」
 二人のあまりの仲の良さに、僕は何度か嫉妬したことがある。その都度、そんな自分が情けなくて恥じ入ったものだが、いつか一回だけ、嫉妬する自分を素直に晒してみるよ。僕はそう、昴に告げた。だがそのとたん「あなたまさか、隠しおおせていたなんて考えているんじゃないでしょうね」と、心底呆れた眼差しを向けられてしまった。とんでもございませんと、僕は疲れ果てたロバのように項垂れた。
 けどこのやり取りは、昴に何らかの力を与えたらしい。柔らかな息を一つ吐き、彼女は達観した笑みを浮かべた。そして、こんなことは一度しか言えないから聞き返さないでねと前置きし、昴は秘めた想いを打ち明けてくれた。
「眠留と輝夜が大嫌いになって、そして自分を世界で一番嫌いになっても、銀河の妖精に臨む輝夜を応援する気持ちは小揺るぎもしなかったわ。でも競技が始まると、ある思いが頭をよぎったの。眠留はもうすぐ、輝夜の神業を目の当たりにする。眠留はきっと全てを忘れて、輝夜だけを見つめるんだろうなあって、頭をよぎったのよ。私は動転したわ。眠留への想いは断ち切ったはずなのに何故こんなことを考えたのかしらって、私は酷いパニックになった。するとまさにその瞬間、眠留が話しかけてきたの。その会話が楽しくて心地よくて、私は口走ってしまった。輝夜だけを見ず、私も見てって。もちろん、そこまでストレートには言えなかったけどね」
 それから暫く、僕と昴は二人とも、メデューサの顔を見て石化したかのように硬直したのだった。

 数十秒に及ぶ硬直の末、僕は言った。
「昴ごめん。僕は、何もかもが分からなくなってしまった」 
 これは、厳密には正しくない。現時点で分かっている事が、僕には一つあったからだ。それは、『何も分からないから何も言うことができないという状況説明だけは、しておいた方が良い』という事。この説明をしておいた方が断然いいって事だけは、分かっていたのである。そしてそれは次の昴の一言で、正しい判断だったことが証明された。
「ええ、私もそう。もう、何もかも分からなくて」
 この一言は僕に、ある事を教えてくれた。それは、昴は恥ずかしさのあまり黙っていたのではないという事だ。昴は、羞恥心によって硬直していたのではない。昴も僕と同じく、何を話せばいいか分からないだけだったのである。それを知ったお蔭で、僕はある提案を閃くことができた。
「じゃあとりあえず、分かることから初めてみようか」
 僕は多分、こう考えたのだのだと思う。恥ずかしさのあまり硬直する女性への対応と、何を話せばよいか分からない女性への対応は、違うんじゃないかな、と。
「分かること?」
「う~ん、分かるって言っちゃうと、語弊があるかもしれないんだけどさ」
 ちょこんと首を傾げて訊く昴に、僕は頭をかき、ワンクッション置いてから説明した。
「僕達がこの会議室を使用している目的は、高速ストライド走法について話し合うためだよね。昴は体育祭で、僕より高度な高速ストライド走法を披露した。僕はその仕組みが、無性に知りたい。だから二人で押し黙っているより、それについて話し合いたいなって思ったんだよ」
 昴は数秒ポカンとしてから、手をパンと打ち鳴らした。
「うわあ、ビックリ。男と女って、こうも違う生き物なのね!」
 謎は全て解けたとばかりに、昴はしきりと首を縦に振っている。一方僕は、はてなマークを大量生産していた。ええっとあの天川昴さん、それは一体どういう事なのでしょうか??
「ごめんごめん。男と女は違うからこそ、眠留には意味不明に感じられるんだったわね。つまり、こういうことなの。私はずっと、あなたの言う『仕組み』について、話していたつもりだったのよ」
「????」
 僕は頭を抱えて、はてなマークを更に増産した。そんな僕に、昴は大層感心した顔を向ける。
「それにしても凄いわ。この会合とは無関係の話を私がしているって眠留は思ってたのに、私の話をあんなに一生懸命聴いてくれるんだもの。あなたは、きっと知らないんでしょうね。自分がどれほど、凄い人なのかを」
「いやいやいや、そんなこと無い無い無い!」
 僕は顔と両手を人生最速のスピードで横に振り、昴の誤解を解こうとした。けど昴は僕に両手を差し出し、とろけるような笑みを浮かべた。
「さあ、立ち上がって椅子に座りましょう。跪座は、凛々しい眠留に似合うのであって、頭を抱える眠留に似合う座法ではないわ。はい、手を出して」
 はてなマークを大量生産していようとこんなふうに言われると、即座に手を差し出してしまう。これじゃまるで御主人様にお手をする豆柴だよと思いつつも、無条件に信じられる人のいる幸せを、僕は噛みしめていた。
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