私を支配するあの子

葛原そしお

文字の大きさ
上 下
11 / 78

第三話①

しおりを挟む
 保健室に着くと、養護の、若くて綺麗と評判の先生がいた。
「たぶん貧血か何かで転んだみたいです。少し休ませてもらってもいいですか?」
 何も話せないでいる私の代わりに、羽鳥さんは保健室の先生に事情を説明してくれた。
 いじめられていたことは、私のことを察してくれたのか、羽鳥さんは何も言わなかった。
 私は椅子に座らされ、膝を消毒してからガーゼを貼られた。前はこの消毒液が嫌いだった。痛くて染みるから。怪我をしているのに、どうしてまた痛い目にあわなければいけないのか。今はこの痛みが、今だけは私は安全な場所にいるのだと思わせてくれた。
 それから私はブレザーを脱がされ、ベッドに寝かされる。ベッドは白いカーテンに仕切られていた。
「それじゃ私は授業があるので──」
 姿の見えない羽鳥さんが先生にそう告げた。私は彼女が去ってしまうことが心細くて仕方なかった。
 去り際に、羽鳥さんはカーテンの間から、おどけたように顔だけを出す。
「咲良さん、無理しないでね。またあとで様子見に来るから」
「あの──」
 私はここでようやく声を出すことができた。
「羽鳥さん、ごめんなさい……」
 それに羽鳥さんは不思議そうな顔をした。
 私は羽鳥さんを巻き込んでしまったかもしれない。加藤さんはこのことを砂村さんに話すだろう。怒った砂村さんが何をするか分からない。もしかしたらその怒りは、羽鳥さんにも向けられるかもしれない。
「いいよ、気にしないで」
 羽鳥さんは優しく微笑んでくれた。
 私は胸が痛かった。それは転んだ時に打ちつけたからではなく、自分自身の弱さに対する嫌悪感によるものだった。
 もしも羽鳥さんの身に何かあったら、私は彼女のために立ち向かうことができるだろうか。
「それじゃ咲良さん、またあとでね」
「うん……」
 カーテンが閉じられ、羽鳥さんの姿が消えた。
 彼女が去ると、保健室は静かになった。時折、保健室の先生がペンを走らせているような音や、衣ずれの音がした。
 私はひんやりした掛け布団を握って、体を丸くする。
 嫌なこと、怖いことを考えたくない。とにかく眠ろうと思った。しかしお腹がキリキリと痛んで眠れなかった。加藤さんに踏まれたところは、今はそんなに気にならない。
 それ以上に私の中にある、私自身への感情、砂村さんや加藤さんへの恐怖、羽鳥さんへの罪悪感が、鈍い痛みとなってお腹の中に沈んでいた。それは黒くて冷たくて、その塊ごと吐き出せたら、どんなに楽になれるだろうか。
 こんなことになって、砂村さんは私を許さないだろう。カッターで背中に『ブタ』と文字を刻まれるかもしれない。
 このことを、お母さんに相談すれば解決するだろうか。そうすればきっとお母さんを悲しませてしまう。学校の先生に相談すれば、助けてもらえるだろうか。
 二人目の子が、ブタのことを先生に言うと砂村さんに告げた時、砂村さんは冷笑した。
「別にいいわよ。その場合どうなるか、想像力がないのならね。あなた、妹が二人いるのよね。素敵な家にも住んでいるのね。滅多刺しにするのと、生きたまま焼くの、どっちが面白いかしら」
 それをただの悪趣味な脅しだと、砂村さんの常軌を逸した暴力性から、どうしても思えなかった。
 いったい私は誰に助けを求めればいいのか。そもそも私が助かる道は最初からなかったのかもしれない。

   *  *  *

 五時間目の終鈴が鳴った。
 私はいつの間にか眠っていたようだった。
 瞬きをしたぐらいのつもりだったのに、時間がまるごと消えてなくなってしまったように思えた。
 これからどうしたらいいのか、私は何も思いつかなかった。本当はこの時間のうちに考えなければいけなかったのに。
 少しして、保健室のドアの滑車が鳴る。誰かが入ってきた。カーテンがレールを滑って開けられた。
 羽鳥さん──そう思って私は体を起こした。
「ほら、いた!」
 そこにいたのは砂村さんだった。彼女は満足げに笑っていた。
 私は心臓が止まるかと思った。
「お前、なにサボって保健室で寝てるんだよ!」
「あ、あの、これは、私、じゃ……」
 私じゃなくて、ほかの人に連れてこられた。そう言い訳しようとして、私は言葉を呑んだ。もしそんなことを言えば、それが誰か問い詰められるかもしれない。そうなった時、私は羽鳥さんの名前を黙っていられるとは思えない。
 砂村さんは眉を寄せ、私を睨みつける。
「ブタのくせに、私に口答えするつもり?」
 それに私は背筋が凍りつき、目眩と耳鳴りがした。頭が、心臓が、お腹が締めつけられるように痛い。息が苦しい。
「このブタ、おかしくない? ブタなのに服を着ているわ」
 砂村さんの隣には姫山さんがいた。彼女は無表情に私を見ていた。一ヶ月前に砂村さんに乱雑に切られた髪は、今では整えられて、耳が半ばまで隠れるぐらいのベリーショートだった。
 彼女は一番最初にブタにされたが、ブタは次のブタが決まれば解放される。今では砂村さんの取り巻きの一人になっていた。
「マリー、このブタの服を脱がせて」
「分かった」
 姫山鞠依──姫山さんは、私の上に乗ると、リボンタイを引っ張って乱暴に解くと、ブラウスのボタンに手をかける。
「やめてっ、やだっ……」
「ブタが人語を喋るなって、何回言ったら分かるの? お仕置きが必要ね」
 砂村さんはブレザーのポケットからカッターを取り出した。
「ねぇ、マリー。どこに刻もうかしら?」
 姫山さんは背中にブタと刻まれていた。私はその現場を見てはいないけれど、体育の着替えの時、彼女の背中にあるミミズ腫れのような傷跡を見たことがある。
 私は怖くて泣いた。ブタと刻まれること、カッターで切られること、全部が怖かった。
「やめてくださいっ、お願いします! 何でもします! 許してください!」
 私は砂村さんに哀願した。保健室の先生はどこに行ったのか。いつの間にかいなくなってしまったのだろうか。
 砂村さんは呆れたような、うんざりしたような顔で、カッターの刃を繰り出す。
「なら、おとなしく裸になりなさい。二度と人語も話さないこと。分かった?」
 私は声を出すわけにはいかないので、大きく、何度もうなずいた。あまりにも強くうなずきすぎて、首と頭が痛かった。
 私は姫山さんにブラウスを脱がされ、キャミソールを奪われる。上半身裸になった。肌寒いわけではなかったが、凍えそうな気がして、両手で体を抱いた。
 私はただ泣いて、されるがままだった。抵抗すれば何をされるか分からない。
「ダリアちゃん、どうしたの?」
 不意に羽鳥さんの声がした。砂村さんと姫山さんが振り返る。砂村さんの後ろに羽鳥さんは立っていた。
 砂村大麗花──羽鳥さんは砂村さんを下の名前で呼んだ。
「エリザ……」
 羽鳥英梨沙──砂村さんも羽鳥さんの下の名前を呟いた。
 羽鳥さんが砂村さんの隣に立ち、私と姫山さんを見る。
「羽鳥さん……」
 逃げて──そう口にしようとして、砂村さんの手にあるカッターを思い出して、それ以上何も言えなかった。
 羽鳥さんは目だけを動かして、私と砂村さんを見て、声を低めて砂村さんに言う。
「咲良さんに何をしているの?」
 それに砂村さんは吐き捨てるように言う。
「別に。着替えを手伝っていただけよ」
「そう。ならあとは私がやるから。ダリアちゃんは帰っていいよ。それに、マリーちゃんも」
 羽鳥さんは砂村さんと姫山さんを交互に見る。
 砂村さんは一度大きく息を呑み、何か言いかけると、私の方を見ることもなく、すぐに背中を向けた。
「マリー、行くわよ」
「はい」
 恐ろしいぐらいあっさりと、砂村さんたちは引き下がった。
 私はそれをただ見ていることしかできなかった。
「平気?」
 羽鳥さんの手が私の頬に触れて、その冷たい感触に、私は我に返った。
「ひどいことされなかった? 怪我はない?」
 優しく、心配してくれる羽鳥さんに、私は抱きついた。
「怖かった……怖かったぁ……」
 そのまま声をあげて泣いた。羽鳥さんの制服を汚してしまうと思ったが、彼女の手に優しく抱きしめられて、それがすごく嬉しくて、安心できて、彼女から離れることができなかった。
 しばらくしてから私は脱がされた服を着る。指が震えてうまくボタンを留められなかったので、代わりに羽鳥さんが留めてくれた。
 羽鳥さんは優しく微笑んでいた。
「六時間目、始まっちゃったね。このままサボっちゃお」
 羽鳥さんはブレザーを着たまま、私の横に寝転がる。
「あの、羽鳥さん……」
 ありがとうと言いたかった。しかし私は彼女を巻き込んでしまったことに、ひどい罪悪感を覚えた。
「ごめんなさい、その、巻き込んで……もしかしたら、羽鳥さんも、砂村さんに……」
 羽鳥さんがブタにされるのを想像してしまった。
 砂村さんは、自分に逆らう相手に容赦しない。それは陰湿なイジメなどではなく、激しい暴力だった。
 もしかしたら羽鳥さんは殺されてしまうかもしれない。
 そう思うと、これ以上巻き込んではいけない。
「私は、平気だから……羽鳥さんは、授業に戻って……それで、もう私に、関わらない方が……」
 言いながら涙が出てきた。
 震える私の手を、羽鳥さんは握ってくれた。
「咲良さん、安心して。私が咲良さんを守ってあげるから」
「でも、でも……」
「ダリアちゃんは私には何もできないから。私に借りがあるの。だから安心して。それにもし、彼女が咲良さんに何かしたら、私に言って。私が咲良さんを守ってあげる」
 その言葉がどこまで本当か分からない。それでもその言葉にすがりたかった。
 羽鳥さんは私の指を絡めて握り、額を合わせる。
 薬品臭い保健室の中、羽鳥さんから甘い花のような匂いがした。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

鐘ヶ岡学園女子バレー部の秘密

フロイライン
青春
名門復活を目指し厳しい練習を続ける鐘ヶ岡学園の女子バレー部 キャプテンを務める新田まどかは、身体能力を飛躍的に伸ばすため、ある行動に出るが…

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

【完結】【R18百合】会社のゆるふわ後輩女子に抱かれました

千鶴田ルト
恋愛
本編完結済み。細々と特別編を書いていくかもしれません。 レズビアンの月岡美波が起きると、会社の後輩女子の桜庭ハルナと共にベッドで寝ていた。 一体何があったのか? 桜庭ハルナはどういうつもりなのか? 月岡美波はどんな選択をするのか? おすすめシチュエーション ・後輩に振り回される先輩 ・先輩が大好きな後輩 続きは「会社のシゴデキ先輩女子と付き合っています」にて掲載しています。 だいぶ毛色が変わるのでシーズン2として別作品で登録することにしました。 読んでやってくれると幸いです。 「会社のシゴデキ先輩女子と付き合っています」 https://www.alphapolis.co.jp/novel/759377035/615873195 ※タイトル画像はAI生成です

男子中学生から女子校生になった僕

大衆娯楽
僕はある日突然、母と姉に強制的に女の子として育てられる事になった。 普通に男の子として過ごしていた主人公がJKで過ごした高校3年間のお話し。 強制女装、女性と性行為、男性と性行為、羞恥、屈辱などが好きな方は是非読んでみてください!

性的イジメ

ポコたん
BL
この小説は性行為・同性愛・SM・イジメ的要素が含まれます。理解のある方のみこの先にお進みください。 作品説明:いじめの性的部分を取り上げて現代風にアレンジして作成。 全二話 毎週日曜日正午にUPされます。

ずっと女の子になりたかった 男の娘の私

ムーワ
BL
幼少期からどことなく男の服装をして学校に通っているのに違和感を感じていた主人公のヒデキ。 ヒデキは同級生の女の子が履いているスカートが自分でも履きたくて仕方がなかったが、母親はいつもズボンばかりでスカートは買ってくれなかった。 そんなヒデキの幼少期から大人になるまでの成長を描いたLGBT(ジェンダーレス作品)です。

マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子

ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。 Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。

意味がわかるとえろい話

山本みんみ
ホラー
意味が分かれば下ネタに感じるかもしれない話です(意味深)

処理中です...