私を支配するあの子

葛原そしお

文字の大きさ
上 下
11 / 23

第三話①

しおりを挟む
 保健室に着くと、養護の、若くて綺麗と評判の先生がいた。
「たぶん貧血か何かで転んだみたいです。少し休ませてもらってもいいですか?」
 何も話せないでいる私の代わりに、羽鳥さんは保健室の先生に事情を説明してくれた。
 いじめられていたことは、私のことを察してくれたのか、羽鳥さんは何も言わなかった。
 私は椅子に座らされ、膝を消毒してからガーゼを貼られた。前はこの消毒液が嫌いだった。痛くて染みるから。怪我をしているのに、どうしてまた痛い目にあわなければいけないのか。今はこの痛みが、今だけは私は安全な場所にいるのだと思わせてくれた。
 それから私はブレザーを脱がされ、ベッドに寝かされる。ベッドは白いカーテンに仕切られていた。
「それじゃ私は授業があるので──」
 姿の見えない羽鳥さんが先生にそう告げた。私は彼女が去ってしまうことが心細くて仕方なかった。
 去り際に、羽鳥さんはカーテンの間から、おどけたように顔だけを出す。
「咲良さん、無理しないでね。またあとで様子見に来るから」
「あの──」
 私はここでようやく声を出すことができた。
「羽鳥さん、ごめんなさい……」
 それに羽鳥さんは不思議そうな顔をした。
 私は羽鳥さんを巻き込んでしまったかもしれない。加藤さんはこのことを砂村さんに話すだろう。怒った砂村さんが何をするか分からない。もしかしたらその怒りは、羽鳥さんにも向けられるかもしれない。
「いいよ、気にしないで」
 羽鳥さんは優しく微笑んでくれた。
 私は胸が痛かった。それは転んだ時に打ちつけたからではなく、自分自身の弱さに対する嫌悪感によるものだった。
 もしも羽鳥さんの身に何かあったら、私は彼女のために立ち向かうことができるだろうか。
「それじゃ咲良さん、またあとでね」
「うん……」
 カーテンが閉じられ、羽鳥さんの姿が消えた。
 彼女が去ると、保健室は静かになった。時折、保健室の先生がペンを走らせているような音や、衣ずれの音がした。
 私はひんやりした掛け布団を握って、体を丸くする。
 嫌なこと、怖いことを考えたくない。とにかく眠ろうと思った。しかしお腹がキリキリと痛んで眠れなかった。加藤さんに踏まれたところは、今はそんなに気にならない。
 それ以上に私の中にある、私自身への感情、砂村さんや加藤さんへの恐怖、羽鳥さんへの罪悪感が、鈍い痛みとなってお腹の中に沈んでいた。それは黒くて冷たくて、その塊ごと吐き出せたら、どんなに楽になれるだろうか。
 こんなことになって、砂村さんは私を許さないだろう。カッターで背中に『ブタ』と文字を刻まれるかもしれない。
 このことを、お母さんに相談すれば解決するだろうか。そうすればきっとお母さんを悲しませてしまう。学校の先生に相談すれば、助けてもらえるだろうか。
 二人目の子が、ブタのことを先生に言うと砂村さんに告げた時、砂村さんは冷笑した。
「別にいいわよ。その場合どうなるか、想像力がないのならね。あなた、妹が二人いるのよね。素敵な家にも住んでいるのね。滅多刺しにするのと、生きたまま焼くの、どっちが面白いかしら」
 それをただの悪趣味な脅しだと、砂村さんの常軌を逸した暴力性から、どうしても思えなかった。
 いったい私は誰に助けを求めればいいのか。そもそも私が助かる道は最初からなかったのかもしれない。

   *  *  *

 五時間目の終鈴が鳴った。
 私はいつの間にか眠っていたようだった。
 瞬きをしたぐらいのつもりだったのに、時間がまるごと消えてなくなってしまったように思えた。
 これからどうしたらいいのか、私は何も思いつかなかった。本当はこの時間のうちに考えなければいけなかったのに。
 少しして、保健室のドアの滑車が鳴る。誰かが入ってきた。カーテンがレールを滑って開けられた。
 羽鳥さん──そう思って私は体を起こした。
「ほら、いた!」
 そこにいたのは砂村さんだった。彼女は満足げに笑っていた。
 私は心臓が止まるかと思った。
「お前、なにサボって保健室で寝てるんだよ!」
「あ、あの、これは、私、じゃ……」
 私じゃなくて、ほかの人に連れてこられた。そう言い訳しようとして、私は言葉を呑んだ。もしそんなことを言えば、それが誰か問い詰められるかもしれない。そうなった時、私は羽鳥さんの名前を黙っていられるとは思えない。
 砂村さんは眉を寄せ、私を睨みつける。
「ブタのくせに、私に口答えするつもり?」
 それに私は背筋が凍りつき、目眩と耳鳴りがした。頭が、心臓が、お腹が締めつけられるように痛い。息が苦しい。
「このブタ、おかしくない? ブタなのに服を着ているわ」
 砂村さんの隣には姫山さんがいた。彼女は無表情に私を見ていた。一ヶ月前に砂村さんに乱雑に切られた髪は、今では整えられて、耳が半ばまで隠れるぐらいのベリーショートだった。
 彼女は一番最初にブタにされたが、ブタは次のブタが決まれば解放される。今では砂村さんの取り巻きの一人になっていた。
「マリー、このブタの服を脱がせて」
「分かった」
 姫山鞠依──姫山さんは、私の上に乗ると、リボンタイを引っ張って乱暴に解くと、ブラウスのボタンに手をかける。
「やめてっ、やだっ……」
「ブタが人語を喋るなって、何回言ったら分かるの? お仕置きが必要ね」
 砂村さんはブレザーのポケットからカッターを取り出した。
「ねぇ、マリー。どこに刻もうかしら?」
 姫山さんは背中にブタと刻まれていた。私はその現場を見てはいないけれど、体育の着替えの時、彼女の背中にあるミミズ腫れのような傷跡を見たことがある。
 私は怖くて泣いた。ブタと刻まれること、カッターで切られること、全部が怖かった。
「やめてくださいっ、お願いします! 何でもします! 許してください!」
 私は砂村さんに哀願した。保健室の先生はどこに行ったのか。いつの間にかいなくなってしまったのだろうか。
 砂村さんは呆れたような、うんざりしたような顔で、カッターの刃を繰り出す。
「なら、おとなしく裸になりなさい。二度と人語も話さないこと。分かった?」
 私は声を出すわけにはいかないので、大きく、何度もうなずいた。あまりにも強くうなずきすぎて、首と頭が痛かった。
 私は姫山さんにブラウスを脱がされ、キャミソールを奪われる。上半身裸になった。肌寒いわけではなかったが、凍えそうな気がして、両手で体を抱いた。
 私はただ泣いて、されるがままだった。抵抗すれば何をされるか分からない。
「ダリアちゃん、どうしたの?」
 不意に羽鳥さんの声がした。砂村さんと姫山さんが振り返る。砂村さんの後ろに羽鳥さんは立っていた。
 砂村大麗花──羽鳥さんは砂村さんを下の名前で呼んだ。
「エリザ……」
 羽鳥英梨沙──砂村さんも羽鳥さんの下の名前を呟いた。
 羽鳥さんが砂村さんの隣に立ち、私と姫山さんを見る。
「羽鳥さん……」
 逃げて──そう口にしようとして、砂村さんの手にあるカッターを思い出して、それ以上何も言えなかった。
 羽鳥さんは目だけを動かして、私と砂村さんを見て、声を低めて砂村さんに言う。
「咲良さんに何をしているの?」
 それに砂村さんは吐き捨てるように言う。
「別に。着替えを手伝っていただけよ」
「そう。ならあとは私がやるから。ダリアちゃんは帰っていいよ。それに、マリーちゃんも」
 羽鳥さんは砂村さんと姫山さんを交互に見る。
 砂村さんは一度大きく息を呑み、何か言いかけると、私の方を見ることもなく、すぐに背中を向けた。
「マリー、行くわよ」
「はい」
 恐ろしいぐらいあっさりと、砂村さんたちは引き下がった。
 私はそれをただ見ていることしかできなかった。
「平気?」
 羽鳥さんの手が私の頬に触れて、その冷たい感触に、私は我に返った。
「ひどいことされなかった? 怪我はない?」
 優しく、心配してくれる羽鳥さんに、私は抱きついた。
「怖かった……怖かったぁ……」
 そのまま声をあげて泣いた。羽鳥さんの制服を汚してしまうと思ったが、彼女の手に優しく抱きしめられて、それがすごく嬉しくて、安心できて、彼女から離れることができなかった。
 しばらくしてから私は脱がされた服を着る。指が震えてうまくボタンを留められなかったので、代わりに羽鳥さんが留めてくれた。
 羽鳥さんは優しく微笑んでいた。
「六時間目、始まっちゃったね。このままサボっちゃお」
 羽鳥さんはブレザーを着たまま、私の横に寝転がる。
「あの、羽鳥さん……」
 ありがとうと言いたかった。しかし私は彼女を巻き込んでしまったことに、ひどい罪悪感を覚えた。
「ごめんなさい、その、巻き込んで……もしかしたら、羽鳥さんも、砂村さんに……」
 羽鳥さんがブタにされるのを想像してしまった。
 砂村さんは、自分に逆らう相手に容赦しない。それは陰湿なイジメなどではなく、激しい暴力だった。
 もしかしたら羽鳥さんは殺されてしまうかもしれない。
 そう思うと、これ以上巻き込んではいけない。
「私は、平気だから……羽鳥さんは、授業に戻って……それで、もう私に、関わらない方が……」
 言いながら涙が出てきた。
 震える私の手を、羽鳥さんは握ってくれた。
「咲良さん、安心して。私が咲良さんを守ってあげるから」
「でも、でも……」
「ダリアちゃんは私には何もできないから。私に借りがあるの。だから安心して。それにもし、彼女が咲良さんに何かしたら、私に言って。私が咲良さんを守ってあげる」
 その言葉がどこまで本当か分からない。それでもその言葉にすがりたかった。
 羽鳥さんは私の指を絡めて握り、額を合わせる。
 薬品臭い保健室の中、羽鳥さんから甘い花のような匂いがした。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

妖精の見える君へ

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:214pt お気に入り:0

どう見ても貴方はもう一人の幼馴染が好きなので別れてください

恋愛 / 完結 24h.ポイント:184pt お気に入り:2,761

悪役令嬢クリスティーナの冒険

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:56pt お気に入り:532

追い出されたら、何かと上手くいきまして

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:156pt お気に入り:10,452

運命に抗え【第二部完結】

BL / 連載中 24h.ポイント:99pt お気に入り:1,639

ダイヤモンド・リリー

BL / 連載中 24h.ポイント:2,727pt お気に入り:170

処理中です...