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汚れた下着と金髪と

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 薄暗いトイレの個室で、桂木穂乃香は頭を抱えていた。目の前の床に転がっているのは、大便に塗れたストッキングと下着。つい先ほどまで、自分が穿いていたものだ。

「本っ当に、最後の最後でなんでこんな目に」

 憎々しげな呟きが静寂の中に響く。

 今日は全てが完璧な一日のはずだった。午前中は勤め先のミーティングで上司から今までの業績を褒められ、午後は取引先のホテル宿泊管理ソフトのプレゼンを行いかなりの好感触を得られた。

 しかし、取引先の冷房が効きすぎていたことが問題だった。

 プレゼン中は平静を装っていたが、徐々に腹の調子が悪くなっていき、担当者に見送られながら外に出る頃には、すでに決壊寸前になっていた。近くの百貨店へ駆け込み、一階の隅にあるトイレの個室に入ったものの、あと一歩が間に合わず、汚れた下着を床に脱ぎ捨て頭を抱えるに至った。

 学生時代も社会人になってからも、万事において優秀な成績を残すために、必死になって努力をしてきた。時には、心底腹の立つ相手に笑顔で頭を下げる事さえあった。そうまでして築いてきた全てが、この汚れた下着一枚のせいで、一瞬にして崩れ去ってしまうかもしれない。

 穂乃香は悪臭を堪え、深呼吸をして耳を澄ませた。

 個室の外からは会話も、足音も、水が流れるも聞こえない。替えのストッキングはないが幸いにもスーツのズボンは無事だ。それならば、このまま何食わぬ顔で個室を出て、足早にトイレを後にすれば、この下着が自分の物だと気づく者はいないはずだ。

 意を決して、ウォシュレットで洗った尻をズボンにしまい個室のドアを開ける。
 扉の外には誰もいない。

「失礼いたします」

 はずだった。

 ちょうど個室から出たところで、紺色の制服を着た若い女性の清掃員と鉢合わせになってしまった。

 明るい金色に染めた髪を一つに縛り、目元には付け睫毛とアイラインを強調したメイク。彼女は軽く頭を下げて個室へ向かい、汚れた下着をトングで摘まみ上げ、小さなビニール袋で包んでからゴミ回収用のバッグに投げ入れた。表情は一切変わっていないが、ゴミの主が誰かは間違いなく気づいているだろう。これ以上顔を見られる前に立ち去ってしまわないと。そんな思いから、出口へ向かう足が自然と速まる。

「お客様。えーと……、カツラギさん?」

 突然、気怠そうな声が名前を呼んだ。振り返った先で、爪を金色に染めた指先がトイレットペーパーホルダーの上を指さしている。

「あの、定期忘れてますよ」

 絶望的な言葉に冷や汗が噴き出した。
 定期には名前だけでなく、自宅や勤め先の最寄り駅まで記載されている。
 こんなことになるならば、面倒くさがらずにICカードからアプリに変更しておけばよかった。そんな考えても仕方がないことが頭の中でグルグルと回る。

「これは違うの。わざとじゃなくて、仕方なく」

 敬語も忘れて言い訳をすると、彼女は派手なメイクが施された目を一瞬だけ向けてから個室以外の掃除をはじめた。

「さっき冷房が強すぎるところにいて……」

「そうですか」

「急にお腹が痛くなって……」

「そうですか」

「急いだけど間に合わなくて……」

「そうですか」

 作業をしながらの淡々とした返事に、不安が募っていく。

 きっとこちらの事情も知らずに、SNSにこのことを面白おかしく書くに違いない。万が一名前や最寄り駅まで晒されてしまえば、自分の事だとバレてしまうに違いない。そんなとこになれば、今まで築き上げていたものが全て崩れてしまう。

 そんな思いが、穂乃香を突き動かした。

「いくら必要?」

「……はい?」

 彼女は煩わしそうな表情を浮かべながら、ようやく顔を向けた。

「いくら払えば、この件を秘密にできる?」

「……別に、よくあることですし、誰かに言うつもりなんてないですけど」

「絶対にSNSに投稿するでしょ!?」

「しませんよ、そんなこと」

「嘘つかないでよ!」

 怒鳴り声を上げても煩わしそうな表情が変わることはなく、トイレには深いため息が響く。

「分かりました。じゃあ、何か夕食をおごってください」

「分かった。それじゃ、なにが食べたい?」

「パッと思い着かないんで、そっちで決めといてください。じゃあ、私はこれで」

「逃げる気?」

「まだ仕事が残ってるだけですよ。十九時半くらいには終わるんで、正面出入り口辺りで待っててください。それじゃあ」

「あ、待ってよ!」

 引き止める声も虚しく作業着の背中は見えなくなる。一人になった途端、下着なしでズボンを穿いた下半身の違和感が強くなった。

「……くそっ」

 悪態を吐きながらも、穂乃香は替えの下着を買いにトイレを後にした。

 その後、少し離れたコンビニエンスストアで下着とストッキングを買い最寄り駅の改札外にあるトイレで着替えているうちに、時刻は待ち合わせ時間の十分前となった。
 急いで待ち合わせ場所に向かうと、彼女の姿はまだなかった。初めて大きな案件を受注したときの報奨金で買ったブランドの腕時計を確認すると、十九時二十八分を示している。

 まさか、逃げられた?
 今頃、SNSに失禁のことが、脚色されて投稿されているんじゃ。

 慌ててスマートフォンを取りだし、登録しているSNSで「楡駅」、「大島百貨店」、「トイレ」、と検索した。しかし、画面に表示されるのは、「わりとキレイ」、「古い」、「和式が多い」、等のトイレに関する評判のみで、先ほどの失態についての記事は表示されていない。

「お待たせいたしました」

 突然の声に顔を向けると、丈の短い黒のワンピースを着た彼女が立っていた。おろした金髪と身体のラインが強調された服装が派手さに拍車をかけている。

「すみません、少し時間がかかる作業がでてしまったので」

「気にしないで。ほぼ時間通りだから」

「そうですか」

「うん。それで、酒は飲める?」

「はい。一応、成人済みなので」

「そう。なら今から案内するから」

「ありがとうございます」

 そうして、穂乃香はよく接待に利用する完全個室の店に移動した。予約はしていなかったが、運良く待ち時間もなく店内に通された。

「ここは、魚介が強いけど何か食べたいものは?」

「特には」

「じゃあ、お勧めの品をいくつか頼むかんじでいい?」

「はい、それで」

 彼女は表情を変えることなく軽く頷いた。かなり値の張る店なのだから、もう少し嬉しそうにすればいいのに。そう思いながら飲み物と料理の注文を済ませる。程なくして、個室に二人分のビールが運ばれてきた。

「お疲れさま」

「ああ、どうも」

 二人はジョッキを合わせ、ビールに口をつけた。

「それでさっきの件、本当に黙っててくれる?」

 一息つくと同時に、穂乃香は眉間にシワを寄せながら本題を切り出した。

「だから、誰にも言うつもりはないって言ってますよね」

 答えに小さなため息が混じる。

「それに、仮に誰かにバレたとしても、事情を説明すればいいじゃないですか」

「貴女みたいに、社会的になんの責任もないバイトならそうかもしれないけどね」

「責任のない?」

 にわかに細く整えられた眉が動いた。

「そ。でも、私は違うの。もしも、さっきのことを面白おかしく吹聴されたりしたら、会社はおろか取引先にまで迷惑をかけることになる。そうなったら、今まで必死になって築き上げてきた何もかもが水の泡になるんだから」

「へえ」

 相変わらず気のない返事だったが、先ほどよりも声が低い。ここで機嫌を損ねれば、状況が悪化するばかりだ。

「だから、面白半分にSNSとかで言いふらされたら本当に困るの」
 懇願するように告げると、彼女は表情を少し緩めた。

「だから、そんなことしませんよ。それに、SNSは一切やってませんし」

「は? SNSやってない?」

 意外な言葉に、穂乃香は思わず聞き返した。いかにもSNSで同じような仲間とつるんで、はしゃいでいそうに見えるのに。

「失礼いたします。お料理をお持ちいたしました」

 不意に個室の扉がノックされ、刺身の盛り合わせを載せた盆を持った女性店員が現れた。

 次の瞬間、店員は敷居に躓き刺身を乗せた皿が宙に舞った。

「あっ!」

 短い悲鳴とともに皿が翻り、床一面に刺身が散らばる。

「ちょ、何してるの!?」

「も、申し訳ございません!」

 店員は顔を真っ青にして勢いよく頭を下げた。

「今すぐ片付けて、代わりの物をお持ちいたしますので!」

「当たり前でしょ!」

 個室の中には、申し訳ございません、という声が繰り返し響く。

「誠に申し訳ございませんでした!」

 最後に一度深々と頭を下げ割れた皿と汚れた刺身を盆に載せて、店員は足早に出ていった。

「まったく、不注意にもほどがあるんだから」

「そこまで言わなくても、いいんじゃないですか? わざとしたわけじゃ、ないんですから」

「事故だろうと故意だろうと、迷惑を被ったことにはかわらないでしょ」

「でも、連日の激務で疲れてた、とかかもしれませんよ?」

「は? だから許せって言うの? 疲れてても、ちゃんとしてる人はしてるよ」

「そうですか」

「そうだよ。だいたい、ビールを運んで来たときから、客のことも考えずに辛気くさい顔をしてて気に入らなかったんだから」

 穂乃香は残っていたビールを一気に飲み干した。

「ああいう不幸ぶってる奴を見ると、イライラしてしょうがないのよ」

「ふーん。そうなんですか?」

「そう。だって、不幸になるならないは、全部自分の責任じゃない。それなのに周りだけのせいにして、何も解決策を講じずに現状に甘んじてるんだもの。そんな向上心のない奴、視界に入れるのだって嫌」

「へえ」

 再び低くなった返事に、苛立ちと酔いが一気に覚めた。

「あー、だから、えーと」

「失礼いたします」

 話を繕おうとした矢先、再び扉がノックされた。

「お料理をお持ちいたしました」

 扉が開き、先ほどとは別の店員が刺身の盛り合わせを持って現れる。

「先ほどは誠に申し訳ございませんでした。こちら、お刺身の盛り合わせです」

 店員は深々と頭を下げ、刺身をテーブルに置いて個室を出ていった。

「ともかく、食事をご馳走してもらえらば、誰にも口外しませんから。じゃあ、いただきますね」

 彼女は金色に染めた爪を光らせながら箸を取り、鰆の刺身を口に運ぶ。

「美味しいですね」

 声色は淡々としているが、不機嫌さは感じられない。

「そう、ならよかった」

 穂乃香も鯛の刺身に箸を伸ばした。新鮮な刺身のはずなのに、味が何も感じられない。

 その後、二人は黙々と食事を終え、今日のことは口外しないと再度約束し店を後にした。
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