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第八章
社交界の閉幕、のそのころ
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ユーディットはどこへ向かうのか、ホールから出て廊下を進む。
(こんなことならテオへの用事は帰る直前にしとくんだった)
どうしてもテオバルドに確認しなければいけないことがあり、ルシアナの様子も何かおかしかったため一時的に傍を離れたが、極力ルシアナの傍にいたかった。
今日を過ぎれば彼女が社交の場に出ることはなくなり、自分も早々に冬期休暇へと入るため一緒にいる時間はいくらでもあるというのに、一分一秒が惜しい。
先ほどまで腕の中にあった愛おしい人の温もりを思い出すように手の開閉を繰り返していると、前から小さな笑い声が聞こえた。
「貴方もヴォルケンシュタインの血を引いているのだと、それを実感する日が来るとは思わなかったわ」
「……私もです」
ユーディットに意識を戻しそう言えば、彼女は横目でレオンハルトを見て口角を上げた。
すぐに視線を前に戻したユーディットに、レオンハルトは静かに声を掛ける。
「……母上は、何か困ったことなどありましたか?」
主語のない質問ではあったが、ユーディットはレオンハルトの質問の意図を正しく理解したようで、歩く速度を落とし「そうねぇ」と首を傾げる。
「私は受け入れたほうが楽だと思っていたから、特にはなかったかしら。確かに、愛が重いと感じることは多々あったけれど、ディートリヒは私の意思をとても尊重してくれたから不思議と負担はなかったわ。もし何か心配なら、貴方もルシアナさんの意思を何よりも大切になさい」
「わかりました」
自分さえ気を付けていれば大丈夫か、とほっと息を吐き出しながら答えれば、ユーディットは明るい声色で「まぁ、あえて言えば」と続けた。
「一番困ったのは、私と結婚したいからと王太子の座を現陛下にお譲りしたことかしら。公的には婚約も何もしていないし、そもそも私にも一言もなかったのよ? 全部が終わってから、『ヴァステンブルク家に婿入りするから結婚してほしい』と言われて、さすがに言葉が出なかったわ」
両親の馴れ初めは、元ルドルティ王国の者なら知らない者はいないほど有名だった。
当時の父の行動について、賛美する者、批判する者、どちらもいたそうだが、多くの国民はディートリヒの行動を支持したと言われている。
(……今なら父の気持ちがよくわかる)
レオンハルトはディートリヒのことを心から尊敬していたが、自身の立場を放棄して母を選んだことだけは、いまいち理解できずにいた。その気持ちを理解できるときは一生来ないかもしれないと思ったが、ルシアナという最愛を得た今なら痛いほど理解できた。
むしろ、あれほど己の責務を理解し、自身に厳しい人物が、地位も責任も放り投げる決意をしたというのはどれほどの覚悟を持ってのことだろう、と意志の強さに感服さえする。
下手をすれば多くの人から非難され、それまであった名誉も人望もすべて失いかねない行動だ。ヴァステンブルク家に婿入りしたあと、愛しい人も、愛しい人の実家も、そのすべてを守りながら、己の名誉を回復し、崩れた地盤を固め直す必要がある。
幸いにもそんなことにはならなかったが、父ならそれらすべて覚悟の上で事を起こしたのだろう。
(……ん?)
レオンハルトは内心首を傾げると、ユーディットに声を掛ける。
「母上の意思を尊重していたのに、王籍を離れることには一言もなかったのですか?」
矛盾ではないか、と思ったが、ユーディットは明るく笑う。
「それはそうよ。もし言われていたら、無責任なことはやめろと反対したうえで、手遅れになる前に別の人と結婚していたわ。……あの人を想いながらね」
(……すごいな)
父は母に責を負わせない形で母の心まで掬い上げたのか、と思うと、純粋な称賛しか出てこなかった。
父の行動の結果、一番迷惑を被ったのは弟のライムンドだろうが、そもそもライムンドに王としての資質がなければ立場を投げ打つことはなかっただろう。
現在のライムンドが自身の立場を厭っている素振りは欠片もなく、北方を統一して生まれた新しい国の初代国王として存分にその手腕を発揮していることを考えれば、むしろ彼のほうが王に相応しい性質だったのではないか、とさえ思う。
(その資質すら見抜いての行動だとしたら、本当に――)
「貴方の父親はすごい人なのよ」
まるで心の中を見透かしたように言葉を掛けられ、レオンハルトはわずかに目を見張る。
ユーディットは愉快そうな笑みをその口元に浮かべると、とある一室の前で立ち止まり、扉をノックする。
「どうぞ」
馴染みのある低い声が聞こえ、ユーディットと共に中に入ると、ディートリヒが一人酒を飲んでいた。
父が座っているソファの向かい側に使用済みのグラスがあるところを見ると、少し前までは誰かと一緒だったのだろう。
「あら、陛下はもうお帰りに?」
「ああ。王妃殿下に酒は控えるよう言われているらしくてな」
そういえばライムンドは中座していたな、と会場の様子を思い返していると、ディートリヒがターコイズグリーンの瞳をレオンハルトに向けた。
「そっちはレオンハルトしか連れて来なかったのか?」
「ええ。可愛い姪が可愛い娘と一緒に居たいようだったから任せてきたわ。テレーゼは明日領地に帰ることになっているし、そのほうがいいと思って」
ディートリヒの隣に座ったユーディットが「なのにね」と続ける。
「うちの可愛い息子はそれに混ざろうとしたのよ」
「仲睦まじいようで何よりだな」
口元に小さな笑みを浮かべたディートリヒは、前に座るよう視線でレオンハルトを促した。
レオンハルトが素直にそれに従うと、ディートリヒは新しいグラスにウイスキーを注ぎ、それを無言で差し出す。「ありがとうございます」とお礼を口にし一口飲めば、ディートリヒも自らのグラスに口を付けた。
(……ただ酒を酌み交わしたかっただけ、ではないだろう)
わざわざ別室に呼び出すなど、どんな話があるのだろう、とウイスキーを飲みながらディートリヒの話を待っていると、彼はレオンハルトのグラスが空になったタイミングで口を開いた。
「北の果ての修道院から、受け入れ態勢が整ったと連絡があった」
(……!)
レオンハルトは、はっとしたように目を見開く。
それは、レオンハルトがずっと待っていた連絡だった。
(これは、想定より早く休暇に入れそうだ)
胸の中に喜びが広がるのを感じながら、レオンハルトは自身を落ち着かせるようにふっと小さく息を吐き出した。
(こんなことならテオへの用事は帰る直前にしとくんだった)
どうしてもテオバルドに確認しなければいけないことがあり、ルシアナの様子も何かおかしかったため一時的に傍を離れたが、極力ルシアナの傍にいたかった。
今日を過ぎれば彼女が社交の場に出ることはなくなり、自分も早々に冬期休暇へと入るため一緒にいる時間はいくらでもあるというのに、一分一秒が惜しい。
先ほどまで腕の中にあった愛おしい人の温もりを思い出すように手の開閉を繰り返していると、前から小さな笑い声が聞こえた。
「貴方もヴォルケンシュタインの血を引いているのだと、それを実感する日が来るとは思わなかったわ」
「……私もです」
ユーディットに意識を戻しそう言えば、彼女は横目でレオンハルトを見て口角を上げた。
すぐに視線を前に戻したユーディットに、レオンハルトは静かに声を掛ける。
「……母上は、何か困ったことなどありましたか?」
主語のない質問ではあったが、ユーディットはレオンハルトの質問の意図を正しく理解したようで、歩く速度を落とし「そうねぇ」と首を傾げる。
「私は受け入れたほうが楽だと思っていたから、特にはなかったかしら。確かに、愛が重いと感じることは多々あったけれど、ディートリヒは私の意思をとても尊重してくれたから不思議と負担はなかったわ。もし何か心配なら、貴方もルシアナさんの意思を何よりも大切になさい」
「わかりました」
自分さえ気を付けていれば大丈夫か、とほっと息を吐き出しながら答えれば、ユーディットは明るい声色で「まぁ、あえて言えば」と続けた。
「一番困ったのは、私と結婚したいからと王太子の座を現陛下にお譲りしたことかしら。公的には婚約も何もしていないし、そもそも私にも一言もなかったのよ? 全部が終わってから、『ヴァステンブルク家に婿入りするから結婚してほしい』と言われて、さすがに言葉が出なかったわ」
両親の馴れ初めは、元ルドルティ王国の者なら知らない者はいないほど有名だった。
当時の父の行動について、賛美する者、批判する者、どちらもいたそうだが、多くの国民はディートリヒの行動を支持したと言われている。
(……今なら父の気持ちがよくわかる)
レオンハルトはディートリヒのことを心から尊敬していたが、自身の立場を放棄して母を選んだことだけは、いまいち理解できずにいた。その気持ちを理解できるときは一生来ないかもしれないと思ったが、ルシアナという最愛を得た今なら痛いほど理解できた。
むしろ、あれほど己の責務を理解し、自身に厳しい人物が、地位も責任も放り投げる決意をしたというのはどれほどの覚悟を持ってのことだろう、と意志の強さに感服さえする。
下手をすれば多くの人から非難され、それまであった名誉も人望もすべて失いかねない行動だ。ヴァステンブルク家に婿入りしたあと、愛しい人も、愛しい人の実家も、そのすべてを守りながら、己の名誉を回復し、崩れた地盤を固め直す必要がある。
幸いにもそんなことにはならなかったが、父ならそれらすべて覚悟の上で事を起こしたのだろう。
(……ん?)
レオンハルトは内心首を傾げると、ユーディットに声を掛ける。
「母上の意思を尊重していたのに、王籍を離れることには一言もなかったのですか?」
矛盾ではないか、と思ったが、ユーディットは明るく笑う。
「それはそうよ。もし言われていたら、無責任なことはやめろと反対したうえで、手遅れになる前に別の人と結婚していたわ。……あの人を想いながらね」
(……すごいな)
父は母に責を負わせない形で母の心まで掬い上げたのか、と思うと、純粋な称賛しか出てこなかった。
父の行動の結果、一番迷惑を被ったのは弟のライムンドだろうが、そもそもライムンドに王としての資質がなければ立場を投げ打つことはなかっただろう。
現在のライムンドが自身の立場を厭っている素振りは欠片もなく、北方を統一して生まれた新しい国の初代国王として存分にその手腕を発揮していることを考えれば、むしろ彼のほうが王に相応しい性質だったのではないか、とさえ思う。
(その資質すら見抜いての行動だとしたら、本当に――)
「貴方の父親はすごい人なのよ」
まるで心の中を見透かしたように言葉を掛けられ、レオンハルトはわずかに目を見張る。
ユーディットは愉快そうな笑みをその口元に浮かべると、とある一室の前で立ち止まり、扉をノックする。
「どうぞ」
馴染みのある低い声が聞こえ、ユーディットと共に中に入ると、ディートリヒが一人酒を飲んでいた。
父が座っているソファの向かい側に使用済みのグラスがあるところを見ると、少し前までは誰かと一緒だったのだろう。
「あら、陛下はもうお帰りに?」
「ああ。王妃殿下に酒は控えるよう言われているらしくてな」
そういえばライムンドは中座していたな、と会場の様子を思い返していると、ディートリヒがターコイズグリーンの瞳をレオンハルトに向けた。
「そっちはレオンハルトしか連れて来なかったのか?」
「ええ。可愛い姪が可愛い娘と一緒に居たいようだったから任せてきたわ。テレーゼは明日領地に帰ることになっているし、そのほうがいいと思って」
ディートリヒの隣に座ったユーディットが「なのにね」と続ける。
「うちの可愛い息子はそれに混ざろうとしたのよ」
「仲睦まじいようで何よりだな」
口元に小さな笑みを浮かべたディートリヒは、前に座るよう視線でレオンハルトを促した。
レオンハルトが素直にそれに従うと、ディートリヒは新しいグラスにウイスキーを注ぎ、それを無言で差し出す。「ありがとうございます」とお礼を口にし一口飲めば、ディートリヒも自らのグラスに口を付けた。
(……ただ酒を酌み交わしたかっただけ、ではないだろう)
わざわざ別室に呼び出すなど、どんな話があるのだろう、とウイスキーを飲みながらディートリヒの話を待っていると、彼はレオンハルトのグラスが空になったタイミングで口を開いた。
「北の果ての修道院から、受け入れ態勢が整ったと連絡があった」
(……!)
レオンハルトは、はっとしたように目を見開く。
それは、レオンハルトがずっと待っていた連絡だった。
(これは、想定より早く休暇に入れそうだ)
胸の中に喜びが広がるのを感じながら、レオンハルトは自身を落ち着かせるようにふっと小さく息を吐き出した。
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