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第三章
エンリコ王子②
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次の日。
モルガーナは自室で一人、日光を乱反射させて静かに輝く海を見下ろしていた。
「…………」
そうしてどのくらいの時間が過ぎたか。
かつて故郷を思って行っていたその行為であったけれど、今は違う意味合いも含まれていた。
もちろん、望郷の思いは未だ潰えてはいない。
しかし自身に内在する寂しさよりも、気がかりなことが出来てしまったのだ。
待てど暮らせど、今日もカルロスがこの部屋に戻ってはこない。
昨日の今日、しかもこんな日中からそんなことを考えるのは、些かせっかちであることは彼女も十分承知している。
いつものこと言えばいつものこと。
しかしその『いつものこと』にモルガーナは強烈な不安感を覚え始めたのだ。
……やはり、彼の働きは尋常じゃないものだろう。
同じ王である自分の父との思い出を辿れば、その異様さが余計に際立つ。
例えどれだけ忙しくとも、モルガーナの父とは月の大半は食事を共にする程度には余暇を作っていた。
けれどカルロスはどうか。
食事を摂るところはおろか、モルガーナは未だに彼の寝顔すら見たことがない。
それに加え、先頃のカルロスとエンリコのやり取り。
ただの仲違いしているだけの兄弟という雰囲気ではないように思えた。
もっと深い禍根が、彼らにはあるように見えたのだ。
そんな様を見てしまえば、何があったか気になってしまうのも道理だろう。
──彼を訪ねてみようか。
もしももっと以前にそんなことを思いついていたら、『自分なんかが訪ねたら、却って邪魔にしかならないであろう』と思い立ってやめていただろう。
けれど。
モルガーナは部屋から出た。
彼女が自発的に部屋から出たのはこれが初めてだった。
そのことに彼女自身が気づいたわけではないけれど、そんなモルガーナの足取りに迷いはなかった。
そんなモルガーナが足を止めたのは、そうやって廊下を歩いている時だった。
(あれは……)
廊下の窓口からはルース国の街並み、そして城の庭が見えた。
モルガーナがこの街並みを見たのは、確か婚礼の儀以来だった。
──いつも海の方ばかり眺めていたからね。
それに思い至ったのは、そんな城下の景色を眺めている時であった。
街は相変わらず、人通りが少ない。
(ルースは狭い島国だから、これくらいが普通なのかしら?)
などと、モルガーナは考えていた。
しかし今回モルガーナの気を引いたのは、街並みではなく城の庭の方だった。
城の庭に似つかわしくないような、幼い子供が二人、駆け回っていたのだった。
兄弟だろうか。
身長差の見受けられる、よく似た顔立ちの子供達。
城にそんな幼い子供がいたとは聞いていない。
何より彼らの着る服は、恐らく平民のものである。
普通なら警備のものに追い出されているはずだ。
だからこそ、モルガーナはそんな子供達に興味を持ったのだった。
「こんにちは」
庭へ下ったモルガーナは、木陰で座り一休みしているその子供たちに声をかけた。
途端、子供たちは不審そうにモルガーナを見上げた。
「こ、怖がらなくていいの。私も、その……一緒に遊びたいなって……」
「…………」
モルガーナは自分を不安げに見上げる無垢な瞳に、どうしていいか分からなくなってしまった。
彼女は生まれてこの方、大人にばかり囲まれて育ってきた。
子供とどのように接していいか分からないのも、道理かもしれない。
「え~と……貴方達、どこから来たの? なんてお名前?」
モルガーナが続けても、彼らの態度は変わらず。
モルガーナは、自分か声をかければかけるほど子供たちとの距離ができるのではないかと、思うほどだ。
どうしようか、と途方に暮れるばかりとなってしまった。
そんな彼女の後ろから、庭の芝生を蹴る音が聞こえていた。
子供たちの瞳がぱぁっと明るくなっていく。
それにつられて、モルガーナは後ろを振り返る。
「お前が部屋の外に出るなど、珍しいこともあるのだな」
「あ……」
そこにいたのは、カルロスだった。
子供たちとカルロスを交互に見比べた。
子供たちはカルロスを、カルロスは子供たちのことを何と思うだろうか。
しかしモルガーナのそんな心配など杞憂だった。
「ここの居心地はどうか?」
そう言ってカルロスは、二人の子供の前に膝をついた。
彼の目線が、子供たちの高さと同じになる。
モルガーナもそんな彼に倣って、慌てて膝をついた。
そのお陰か、それとも……カルロスが姿を現したお陰か……子供たちの表情が少し和らいだように、モルガーナは思えた。
「この者は私の妻だ。案ずることはない」
カルロスがそう言うと、明るくなった瞳がモルガーナへと向かう。
「お、脅かしてしまってごめんなさい。そうね、挨拶もしていなかったわ。私が……カルロス様の妻です」
モルガーナは子供の手を順繰りに取って、改めて名を名乗った。
「何か不足しているものはないか? あるのなら、すぐにでも用意させよう」
そう言ったのはカルロスだった。
子供たちは少し思案したあとに答えた。
「ご本……ご本がほしい……」
「そうか。では使用人に図書館へ行くといい。話は通しておこう」
それを聞いた子供達の目が一層輝く。
「図書館は城の二階にある。行くといい。城の者達には言付けておこう」
それを聞いた二人は力強く頷く。
そうして、まるで競争するかのようにどこかへと走り去っていった。
モルガーナは城の庭で、カルロスと二人きりとなった。
そんなモルガーナは、ぼんやりカルロスを見上げている。
「何をそんな、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている?」
カルロスに指摘されて、モルガーナは慌てて取り繕おうとした。
「そ、れは……」
カルロスが子供と親しく会話する様が、不釣り合いに思えたモルガーナ。
けれどそんなことを口に出せるはずがなく。
「お前は子供が苦手か?」
けれどカルロスは、モルガーナとは正反対のことをあっさり口にした。
「苦手……ではないのですが……どのように接していいのか、分からないのです。それに私、すっかり名前を名乗るのも失念してしまって……」
考えてみれば、ルースの民はほとんど自分の顔を知らないはずだ。
カルロスが成婚したというお触れくらいは市井にもあまねく広がっていただろうけれど、自分の姿は知らないはずである。
皆が皆、自分のことを知っていたネレウスでの生活に慣れてしまっていたのだろう。
それが恥ずかしかったこと、そしてあの子供達を怖がらせてしまった心配で、彼女の心はいっぱいになった。
モルガーナは話題が変わったことに安堵しつつ答えた。
「そうか」
「……あの子供たちは、どなたなのです? 見たところ貴族や王族の縁者ではないようですが」
今度はモルガーナに訊ねられたカルロスが、黙ってしまう番だった。
「お前には、関係のない話だ」
そう言ったカルロスが、何かをモルガーナから隠そうとしていることに気づかない程、彼女は鈍感ではなかった。
けれど。
「そう、ですか」
モルガーナにそれ以上詮索する気は起きなかった。
隠し事をするということは、つまりはするだけの理由があるのだ。
果たして自分に、その理由に打ち勝つだけの何かがあるだろうか。
もしかすると彼が中々部屋に戻ってこない理由が、そこにあるのかもしれない。
けれど、それでも……。
最後の一歩を、モルガーナは踏み出し損ねてしまったのだ。
けれどせめて、彼の身を案じているということだけは伝えておかねばとも彼女は思った。
「カルロス様、お食事はちゃんと摂られておいでですか? それから、睡眠も」
モルガーナにそう訊ねられたのが意外だったのか、カルロスの眉が少しばかり動いた。
「中々お戻りになられないので……お体が心配で……」
「それでお前はわざわざ、部屋を出て私を探しに来たのか?」
もしかして、彼の逆鱗に触れるようなことだったか……。
今さら後悔しても遅いと分かっていても、モルガーナはそんなことを考えてしまう。
しかしそれは、杞憂であった。
「……ははっ」
カルロスが笑い声を上げた。
それは苦笑いに近いものだったけれど、彼は確かに、笑っている。
「まさか、俺がそのように心配されるとは……」
モルガーナはそんな彼の表情が不思議で堪らなかった。
すぐ側にいるはずなのに、現実ではないような、そんな感覚だった。
それはカルロスのそんな表情を見たのは初めてだったからか、あるいは──思慕の念が沸いてきたからか。
モルガーナは自身のそんな内心の変化に、戸惑いすらも覚えている。
そんな彼女の内心に気づいたのか、カルロスは彼女に向き直った。
「いやなに。自分の身を案じる暇がなかったからな。俺にも、他の誰かにも」
「……笑い事ではございません」
モルガーナはそんなカルロスに、むしろ腹を立てていた。
「いくら民草のためとはいえ、もしもカルロス様に大事があれば……それこそ……」
腹立ちまぎれに言うモルガーナの言葉は、カルロスに遮られた。
彼はモルガーナの頭を、その大きな掌で撫でた。
まるで幼い子供に対してやるような、そんな手つきで。
それに驚いていたモルガーナは、口をつぐんでしまったのだ。
「正妻の心配事を、些事とおざなりにするわけにも行くまい。そうだな……ならば今晩は食事を共にしてやろう。……それで幾らかは気が晴れるか?」
「…………」
正直なことを言えば、自身の不満の解消も、カルロスの体のことも、たった一日、いやたったの一晩で解消されるものとは、モルガーナも考えていない。
しかしながら、今彼のできる譲歩はこれくらいなのだろう。
今まで一日たりとも休むことの叶わなかった、彼の。
「それでは、今晩は楽しみにしております」
それでも、モルガーナは内心嬉しかった。
たった一晩でも、彼が休めることが。
そして、彼と共に過ごせる時間ができたことが。
そんな複雑な感情のまま、モルガーナは一人また城の廊下を歩いていた。
臣下に呼ばれ執務に戻ったカルロスと別れて。
そんな彼女の耳に、何か楽しそうな高い声が聞こえてきた。
子供の声だ。
もしやと思い、そちらの方へ足を運ぶ。
彼女が辿り着いたのは、城の図書館だった。
中を覗けばモルガーナの思っていた通り、先ほどの子供達がいた。
子供達もそんな彼女にすぐに気がついて、すぐにお喋りをやめた。
「さっきはごめんなさい。私、カルロス様の……妻となった、モルガーナと言います。お気に入りのご本は、見つかったかしら?」
そんな子供達の側に、モルガーナは意を決して歩み寄った。
今度は彼らに目線を合わせるようにしゃがみこんで話を始める。
そうすると二人は少しはにかみながら、モルガーナに手に持っていた本の表紙を見せた。
子供向けの挿し絵が可愛らしい本だった。
「よかったわね……どんなお話かしら?」
「……読む?」
一人がそう言ってモルガーナの袖を引っ張り、図書館に誂えられている机の方へと連れて行こうとする。
モルガーナは笑顔でそれに応えた。
「……そうして竜のいなくなった国は、再び平和を取り戻しましたとさ」
モルガーナは最後の行を読み終えて、本を閉じる。
両脇に座る二人の子供達。
一人は目を輝かせ、その物語を聞き入っている。
もう一人は……モルガーナに凭れて寝息を立てていた。
傾き始めた日が窓の外から差し込んで、そんな三人を照らす。
「疲れちゃったんだ、多分」
最後まで物語を聞いていた方の子供が、そう言って髪を撫でる。
「これじゃあ、キャンプに戻れないや」
「キャンプ? 貴方達はお出掛けをしているの?」
それは無邪気な質問であった。
彼らともっと親しくなりたい、もっと彼らのことを知りたい……そんな、純粋な気持ちてしたものだった。
「ううん、違うよ。住んでたところにね、悪い人が来ちゃったの」
それ故に、その幼い口から語られたことをすぐに理解することができなかった。
「悪い人……って……」
「うん。悪い人が来てね、お家の側の海を荒らしていったの。それで、またその人達が来たら今度は僕達が怪我をさせられるだろうからって、お城に泊まらせてもらってるの」
ようやく、何故彼らがルースの城の庭で遊んでいたのか、モルガーナは合点がいった。
モルガーナは目の前の子供が、淡々と語る様に冷や水を浴びせられたような心持ちを覚えるのだった。
もっと沢山、彼から色々なことを聞きたかった。
──悪い人とは何者なの?
──何故、貴方達の住む場所から逐うようなことをしたの?
──この国で、一体何が起こっているの?
けれどその幼い両肩は、これらの質問に答えられるだろうか。
聞いている内に、悲しいことを思い出させてしまわないだろうか。
そもそもこのくらいの歳の子供が、事の詳細を知っているだろうか。
モルガーナは口をつぐんでしまった。
そんな彼女を、不思議そうに見上げる子供。
けれど彼はすぐに笑顔になって、彼女を案じるのだった。
「でもね、カルロス様が代わりの家を用意してくれたから……。みんなそこをキャンプって呼んでるんだけど、大丈夫だよ」
そうやって笑う幼い子供の顔に、傾き始めた日が射している。
モルガーナはその子供の頭を、そっと撫でた。
今の彼女に出来ることと言えば、それくらいだ。
それが堪らなく悔しかった。
しかしその悔やみは、彼女に新たな決意を生んでいた。
彼らのことを、この国のことをもっと知らなければならない、と。
日が暮れた。
モルガーナは大広間の机についていた。
反対側には、カルロスの席がある。
まだ彼はここへ来ていない。
酷い緊張感を覚えながら食べる食事の味が、分かるだろうか。
彼女はそれが心配だった。
決して、カルロスの存在そのものに緊張しているわけではない。
彼女の脳裏には、エンリコとの確執、そして昼に出会った子供達のことがあった。
兄王を敵視すらしている様子の王弟。
住んでいた場所が壊されてしまったと語る子供。
思い返せば、自分はこの国のことをやはり何も知らない。
心を鎮めようと、モルガーナは控えていた使用人に水を注ぐように頼む。
(……? あれは……?)
考えを巡らす彼女の視界の端が、何かを捕らえた。
窓の外に広がる、濃紺の海に浮かぶ一艘の船。
船は城が立つ崖下に穿たれた、洞穴へと入っていこうとしている。
(あの船は……)
モルガーナは自分に与えられた部屋で、ルースに嫁いでからずっとこの海を見下ろしていた。
そんな彼女が、初めて見る船だった。
とても小さくて、せいぜい人が数人乗れる程度の大きさの小舟。
一体何を運んでいるのだろうか。
いや、そもそも荷を運べることができるのだろうか。
そんなことを疑問に思える程に、小さな舟であった。
そもそもこんな時間に、船が入渠するのも初めて見た。
──この胸騒ぎは、気のせいで済ませてもいいものなのだろうか。
モルガーナの翡翠の瞳が、星の浮かばぬ空を映す、がらんどうの海を見つめていた。
カルロスは一人、執務机の側に誂えられたソファーに背中を預けて微睡みの中に沈んでいた。
そんな彼が目を覚ましたのは、夕日が沈み窓の外が宵闇に沈む頃合いだった。
「カルロス様、お食事の準備ができております」
彼は扉をノックする音で目が覚めたようだった。
仮眠をとるつもりが、少し眠り過ぎたよう。
カルロスは簡単に返事をすると、扉の方へ向かった。
さっきモルガーナとした約束は、勿論忘れていない。
まだ残っている仕事が些か心残りではあるが、それを振り払うように扉へと向かった。
「あの、今カルロス様はこの部屋にいらっしゃるかしら?」
モルガーナの声が扉の向こうから聞こえたのは、彼がノブに手をかけた時だった。
その手が、はたと止まる。
何故彼女がこんなところにいるのだろう。
決して、ここに来るなと禁じたわけではない。
しかし一度も執務室の扉を叩いたことのない彼女がここに来たことには、カルロスも僅かに驚きを覚えたのだ。
「ごめんなさい、少し気になることがあって……。大広間でカルロス様を待っていたのだけれど、窓の外に見たことない舟が走っていて……気にする程のことではないと思うのだけれど、少し不安になって尋ねて来たの」
彼はそのまましばらく、扉の向こうのやり取りを聞き続けた。
扉を開くタイミングを逸してしまったために。
──けれどそのおかげで、彼は気がつくことができたのだ。
──ドアノブに僅かにかかった影に。
見開かれるカルロスの瞳。
しかしそれと同時、彼は腰の短剣に手をかけた。
振り向き様に一閃、その手から刃の軌跡が放たれる。
背後にいたのは果たして、黒い衣を纏った男だった。
カルロスは、男が彼の刃に戦いているうちに扉を開け放った。
「あの、今カルロス様はこの部屋にいらっしゃるの?」
モルガーナはカルロスの部屋の前にいた給仕に、そう訊ねた。
自分の胸騒ぎなど、さして問題にする程のことではないのは分かっている。
けれどそれを分かっていても、彼女はカルロスを尋ねずにはいられなかった。
「ごめんなさい、少し気になることがあって……」
それでいくらか気が紛れるなら、彼も許してくれるだろう。
どうせ後で落ち合うなら、多少前後しても構わないだろう、と。
給仕はモルガーナの姿に、大層驚いたようだった。
(そんなに、驚くようなことだったかしら……?)
モルガーナは申し訳なさを覚えながらも、少しばかり訝しんでいた。
その時、扉の向こうから大きな物音が聞こえてきた。
何か大きな物が倒れる音だった。
モルガーナがその音に反応するよりも前に、扉が開いた。
「……! カルロス様……!?」
短剣を抜いたカルロスが、モルガーナの体を廊下の端に押し退けた。
モルガーナを庇うようにして立つカルロス。
彼女は彼の肩口越しに、カルロスの視線の先を覗いた。
カルロスに続いて執務室を踊り出た黒衣の男と、扉をノックしていた給仕。
黒衣の男は、そして給仕も、短剣を抜いていた。
ただならぬその様子を、モルガーナは固まって伺うしかできなかった。
「モルガーナ、走れ!」
けれど彼女は、カルロスの切羽詰まった声に弾かれて走り出した。
彼の声が、モルガーナを現実に引き戻したのだ。
走り出したモルガーナの背中から、剣撃を交わす音が聞こえてくる。
走りながらモルガーナは考えた。
どこへ向かって走るべきか。
(どこか……どこかに衛兵は……)
こんな日に限って、衛兵がまるで見当たらなかった。
焦るモルガーナの足が縺れ、前のめりになって転びそうになった。
「きゃっ……」
けれどその身体を受け止める腕があった。
恐る恐る、モルガーナは自分を受け止めた人物を見上げた。
「あ、貴方は……」
彼女を抱き止めたのは、エンリコだった。
得意ではない相手であったけれどしかし、モルガーナはすぐに頭を働かせて、彼にカルロスの窮状を訴えに出た。
「エンリコ様……! カルロス様が……!」
彼は無表情に、そんなモルガーナを見下ろしているのだった。
宵に沈み始めた空。
それを映すルースの城の廊下に、閃光が走る。
カルロスは賊の攻撃を、自分の刃でいなす。
倒すことではなく、自分が生き延びることのみを考えて。
騒ぎを聞いた警備の者が来るまでこの場を耐えることができれば、形勢逆転もかなうはず。
「……して、離してください!」
しかしカルロスのその考えは、背後から聞こえてきた声にかき消された。
振り返ろうとしたカルロスに、また刃が伸びる。
それを防ごうとしたせいで、その姿を見ることはできながった。
「もういい。どちらにしろ、不意打ちでなければお前達に兄上は仕留められない。いくら警備の数を減らしているとはいえ、流石にこれ以上は気づかれてしまう」
けれど別の声が、カルロスへのそれ以上の攻撃をやめさせたのだった。
カルロスはようやく、その声の主と対面がかなった。
声の主は、エンリコだった。
彼は冷酷な色の瞳でカルロスを見つめている。
その腕に、モルガーナを捕らえながら。
エンリコの腕から逃れようともがいているモルガーナに、彼は刃を突きつけた。
モルガーナはその切っ先に、身を硬くする他になく。
「貴様が首謀者か」
カルロスの目が、一瞬大きく見開かれた。
しかし冷静なものだった。
「もう少し驚かれるかと思ったのですが……。もしや、私が首謀者だともうお気付きになられていましたか?」
「呆気なく刺客の侵入を許してやれるような警備など命じた覚えはない。だが、内部から誘致されてしまえば話は別だ。その内の自分と対立する思想を持った人物のいずれかだとは、簡単に見当がつく。……だがまさか、肉親に裏切られるとは思っていなかったが」
「……そこまで分かっておいでなら、私の考えていることも分かりますね」
エンリコはモルガーナの首筋に、刃を押し当てる。
「兄上、私に王座を譲ることをこの場で承諾してください。そうでなければ、貴方が……この娘と共に我が白刃の露に落ちることとなります」
モルガーナはカルロスを怯えた目で見つめていた。
刺客の刃に囲まれるカルロスは、苦々しげにエンリコを睨んでいる。
「お前の思想は危険すぎる。いたずらに戦の機運を高めて戦火に国をくべては、国は荒廃する」
「けれどこのままではいずれ、彼の国に全てを奪われていくだけです」
「そうならないように、モルガーナをこの地に呼んだのだ」
カルロスの言葉に、モルガーナははっとした。
この骨肉の争いに、どうして自分が関わっているのだろう?
刃を突きつけられているモルガーナは、更に混乱することとなった。
「言ったはずです。小娘一人で何が変わる、と」
カルロスから、にわかに怒気が溢れていく。
それはモルガーナにも伝わるほどの、強い怒りの感情だった。
「次はないと言ったはずだ」
「ではどうなさると? どのようにして、私を罰すると? この状況で!」
エンリコはいっそう、手に持ったナイフを強く握りしめた。
モルガーナは恐怖にかられて、そのナイフを見下ろした。
ナイフは微かに──震えていた。
その刃は恐ろしいはずなのに、自分を捕らえる腕が痛いはずなのに──モルガーナはその時、彼に対して憐憫を覚えたのだった。
そしてそれが、この状況を打破する切り札になることにも、彼女は気づいた。
「これは……貴方に対する恨みです。この二人も、もしも貴方が後手に回ってさえいなければ、故郷の村で静かに暮らしていたというのに……兄上、どうかその恨みを御身に刻み……。……!?」
エンリコの言葉を遮ったのは、モルガーナだった。
モルガーナはエンリコの腕を自分から引き離そうと掴んだ。
「何を……!」
無論、彼女がエンリコを振り払えるはずなどない。
けれどそれだけで充分だった。
エンリコがモルガーナに引っ張られてバランスを崩す様、そして僅かな動揺をカルロスは見逃さなかった。
カルロスはモルガーナに突き立てられていた刃を握る手を掴んで、捻りあげた。
「……っ!」
ついにエンリコは床に倒れこみ、カルロスに制圧されることとなった。
回りを取り囲んでいた男達は、一瞬の出来事に反応が出来なかった。
「お前達、刃を構えろ! 王を討て! この者が王である限り、お前達の無念は晴らせぬぞ! この者が王である限り、ルースは……彼の国に──!」
「もうお止めくださいエンリコ様!」
再びエンリコを遮ったのは、やはりモルガーナだった。
「もう、お止めください……! 貴方も、本当はこんなことを望んでいないはずです!」
彼女のエンリコを見下ろす目に、恐怖も不安もなかった。
あるのはただ、慈悲深い色だった。
モルガーナは自分を捕らえた腕から伝わる、震えを思い出す。
自分に向けられていた刃には躊躇を感じていた。
だからこの行い彼の本位ではないことに、彼女は気づけたのだ。
モルガーナはそうしなければならなかったエンリコの心中を、今は案じるばかりだった。
「貴方に……何が分かる……! この者達の無念が、悲しみが……! 故郷を追われた者達の悲しみが……!」
エンリコの呻き声が、城内に響く。
モルガーナはカルロスに斬りかかろうとした、二人の男の方を振り返る。
改めて見てみれば、この二人からは訓練された者特有の、覇気が見られない。
つい最近まで市井の人として生きていた、極普通の人間のようだった。
エンリコの、そして彼らの内心を考えずにはいられない。
やがて騒ぎを聞きつけた衛兵が、臣下が、侍従たちが、モルガーナとカルロスの元へと足早に駆けつける。
モルガーナは侍女達に、囲まれその安否を確かめられた。
その最中、彼女はカルロスを振り返る。
彼は臣下や衛兵と何か話をしている。
物々しい雰囲気に、自分が割り込む余地はないように思えた。
それでも彼女は、一歩踏み出した。
「カ、カルロス様!」
皆の視線が、一斉に彼女に向く。
その視線に憶さないのは、彼女が生まれもって高貴な場所に身を置いているからか。
「私に、この国のことを教えていただけませんか……!? この国が何を抱えているか、私も……知りたいんです!」
その場にいた者の視線が、自然とカルロスに向かって行く。
カルロスはしばし黙って、モルガーナの視線を受け止めた。
その視線の熱量は、カルロスにも充分に伝わった。
「明朝、船を出す。その船にお前も乗れ。……その時にこの国のことを教えてやる。今日はそれに備えて、休むがいい」
カルロスはそう言って、踵を返して歩き出した。
臣下に囲まれたその背中を、モルガーナは見つめ続けていた。
その背が追う、ルースの闇を探ろうとするが如く。
彼女は侍女に声をかけられるまで、そうしていた。
モルガーナは自室で一人、日光を乱反射させて静かに輝く海を見下ろしていた。
「…………」
そうしてどのくらいの時間が過ぎたか。
かつて故郷を思って行っていたその行為であったけれど、今は違う意味合いも含まれていた。
もちろん、望郷の思いは未だ潰えてはいない。
しかし自身に内在する寂しさよりも、気がかりなことが出来てしまったのだ。
待てど暮らせど、今日もカルロスがこの部屋に戻ってはこない。
昨日の今日、しかもこんな日中からそんなことを考えるのは、些かせっかちであることは彼女も十分承知している。
いつものこと言えばいつものこと。
しかしその『いつものこと』にモルガーナは強烈な不安感を覚え始めたのだ。
……やはり、彼の働きは尋常じゃないものだろう。
同じ王である自分の父との思い出を辿れば、その異様さが余計に際立つ。
例えどれだけ忙しくとも、モルガーナの父とは月の大半は食事を共にする程度には余暇を作っていた。
けれどカルロスはどうか。
食事を摂るところはおろか、モルガーナは未だに彼の寝顔すら見たことがない。
それに加え、先頃のカルロスとエンリコのやり取り。
ただの仲違いしているだけの兄弟という雰囲気ではないように思えた。
もっと深い禍根が、彼らにはあるように見えたのだ。
そんな様を見てしまえば、何があったか気になってしまうのも道理だろう。
──彼を訪ねてみようか。
もしももっと以前にそんなことを思いついていたら、『自分なんかが訪ねたら、却って邪魔にしかならないであろう』と思い立ってやめていただろう。
けれど。
モルガーナは部屋から出た。
彼女が自発的に部屋から出たのはこれが初めてだった。
そのことに彼女自身が気づいたわけではないけれど、そんなモルガーナの足取りに迷いはなかった。
そんなモルガーナが足を止めたのは、そうやって廊下を歩いている時だった。
(あれは……)
廊下の窓口からはルース国の街並み、そして城の庭が見えた。
モルガーナがこの街並みを見たのは、確か婚礼の儀以来だった。
──いつも海の方ばかり眺めていたからね。
それに思い至ったのは、そんな城下の景色を眺めている時であった。
街は相変わらず、人通りが少ない。
(ルースは狭い島国だから、これくらいが普通なのかしら?)
などと、モルガーナは考えていた。
しかし今回モルガーナの気を引いたのは、街並みではなく城の庭の方だった。
城の庭に似つかわしくないような、幼い子供が二人、駆け回っていたのだった。
兄弟だろうか。
身長差の見受けられる、よく似た顔立ちの子供達。
城にそんな幼い子供がいたとは聞いていない。
何より彼らの着る服は、恐らく平民のものである。
普通なら警備のものに追い出されているはずだ。
だからこそ、モルガーナはそんな子供達に興味を持ったのだった。
「こんにちは」
庭へ下ったモルガーナは、木陰で座り一休みしているその子供たちに声をかけた。
途端、子供たちは不審そうにモルガーナを見上げた。
「こ、怖がらなくていいの。私も、その……一緒に遊びたいなって……」
「…………」
モルガーナは自分を不安げに見上げる無垢な瞳に、どうしていいか分からなくなってしまった。
彼女は生まれてこの方、大人にばかり囲まれて育ってきた。
子供とどのように接していいか分からないのも、道理かもしれない。
「え~と……貴方達、どこから来たの? なんてお名前?」
モルガーナが続けても、彼らの態度は変わらず。
モルガーナは、自分か声をかければかけるほど子供たちとの距離ができるのではないかと、思うほどだ。
どうしようか、と途方に暮れるばかりとなってしまった。
そんな彼女の後ろから、庭の芝生を蹴る音が聞こえていた。
子供たちの瞳がぱぁっと明るくなっていく。
それにつられて、モルガーナは後ろを振り返る。
「お前が部屋の外に出るなど、珍しいこともあるのだな」
「あ……」
そこにいたのは、カルロスだった。
子供たちとカルロスを交互に見比べた。
子供たちはカルロスを、カルロスは子供たちのことを何と思うだろうか。
しかしモルガーナのそんな心配など杞憂だった。
「ここの居心地はどうか?」
そう言ってカルロスは、二人の子供の前に膝をついた。
彼の目線が、子供たちの高さと同じになる。
モルガーナもそんな彼に倣って、慌てて膝をついた。
そのお陰か、それとも……カルロスが姿を現したお陰か……子供たちの表情が少し和らいだように、モルガーナは思えた。
「この者は私の妻だ。案ずることはない」
カルロスがそう言うと、明るくなった瞳がモルガーナへと向かう。
「お、脅かしてしまってごめんなさい。そうね、挨拶もしていなかったわ。私が……カルロス様の妻です」
モルガーナは子供の手を順繰りに取って、改めて名を名乗った。
「何か不足しているものはないか? あるのなら、すぐにでも用意させよう」
そう言ったのはカルロスだった。
子供たちは少し思案したあとに答えた。
「ご本……ご本がほしい……」
「そうか。では使用人に図書館へ行くといい。話は通しておこう」
それを聞いた子供達の目が一層輝く。
「図書館は城の二階にある。行くといい。城の者達には言付けておこう」
それを聞いた二人は力強く頷く。
そうして、まるで競争するかのようにどこかへと走り去っていった。
モルガーナは城の庭で、カルロスと二人きりとなった。
そんなモルガーナは、ぼんやりカルロスを見上げている。
「何をそんな、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしている?」
カルロスに指摘されて、モルガーナは慌てて取り繕おうとした。
「そ、れは……」
カルロスが子供と親しく会話する様が、不釣り合いに思えたモルガーナ。
けれどそんなことを口に出せるはずがなく。
「お前は子供が苦手か?」
けれどカルロスは、モルガーナとは正反対のことをあっさり口にした。
「苦手……ではないのですが……どのように接していいのか、分からないのです。それに私、すっかり名前を名乗るのも失念してしまって……」
考えてみれば、ルースの民はほとんど自分の顔を知らないはずだ。
カルロスが成婚したというお触れくらいは市井にもあまねく広がっていただろうけれど、自分の姿は知らないはずである。
皆が皆、自分のことを知っていたネレウスでの生活に慣れてしまっていたのだろう。
それが恥ずかしかったこと、そしてあの子供達を怖がらせてしまった心配で、彼女の心はいっぱいになった。
モルガーナは話題が変わったことに安堵しつつ答えた。
「そうか」
「……あの子供たちは、どなたなのです? 見たところ貴族や王族の縁者ではないようですが」
今度はモルガーナに訊ねられたカルロスが、黙ってしまう番だった。
「お前には、関係のない話だ」
そう言ったカルロスが、何かをモルガーナから隠そうとしていることに気づかない程、彼女は鈍感ではなかった。
けれど。
「そう、ですか」
モルガーナにそれ以上詮索する気は起きなかった。
隠し事をするということは、つまりはするだけの理由があるのだ。
果たして自分に、その理由に打ち勝つだけの何かがあるだろうか。
もしかすると彼が中々部屋に戻ってこない理由が、そこにあるのかもしれない。
けれど、それでも……。
最後の一歩を、モルガーナは踏み出し損ねてしまったのだ。
けれどせめて、彼の身を案じているということだけは伝えておかねばとも彼女は思った。
「カルロス様、お食事はちゃんと摂られておいでですか? それから、睡眠も」
モルガーナにそう訊ねられたのが意外だったのか、カルロスの眉が少しばかり動いた。
「中々お戻りになられないので……お体が心配で……」
「それでお前はわざわざ、部屋を出て私を探しに来たのか?」
もしかして、彼の逆鱗に触れるようなことだったか……。
今さら後悔しても遅いと分かっていても、モルガーナはそんなことを考えてしまう。
しかしそれは、杞憂であった。
「……ははっ」
カルロスが笑い声を上げた。
それは苦笑いに近いものだったけれど、彼は確かに、笑っている。
「まさか、俺がそのように心配されるとは……」
モルガーナはそんな彼の表情が不思議で堪らなかった。
すぐ側にいるはずなのに、現実ではないような、そんな感覚だった。
それはカルロスのそんな表情を見たのは初めてだったからか、あるいは──思慕の念が沸いてきたからか。
モルガーナは自身のそんな内心の変化に、戸惑いすらも覚えている。
そんな彼女の内心に気づいたのか、カルロスは彼女に向き直った。
「いやなに。自分の身を案じる暇がなかったからな。俺にも、他の誰かにも」
「……笑い事ではございません」
モルガーナはそんなカルロスに、むしろ腹を立てていた。
「いくら民草のためとはいえ、もしもカルロス様に大事があれば……それこそ……」
腹立ちまぎれに言うモルガーナの言葉は、カルロスに遮られた。
彼はモルガーナの頭を、その大きな掌で撫でた。
まるで幼い子供に対してやるような、そんな手つきで。
それに驚いていたモルガーナは、口をつぐんでしまったのだ。
「正妻の心配事を、些事とおざなりにするわけにも行くまい。そうだな……ならば今晩は食事を共にしてやろう。……それで幾らかは気が晴れるか?」
「…………」
正直なことを言えば、自身の不満の解消も、カルロスの体のことも、たった一日、いやたったの一晩で解消されるものとは、モルガーナも考えていない。
しかしながら、今彼のできる譲歩はこれくらいなのだろう。
今まで一日たりとも休むことの叶わなかった、彼の。
「それでは、今晩は楽しみにしております」
それでも、モルガーナは内心嬉しかった。
たった一晩でも、彼が休めることが。
そして、彼と共に過ごせる時間ができたことが。
そんな複雑な感情のまま、モルガーナは一人また城の廊下を歩いていた。
臣下に呼ばれ執務に戻ったカルロスと別れて。
そんな彼女の耳に、何か楽しそうな高い声が聞こえてきた。
子供の声だ。
もしやと思い、そちらの方へ足を運ぶ。
彼女が辿り着いたのは、城の図書館だった。
中を覗けばモルガーナの思っていた通り、先ほどの子供達がいた。
子供達もそんな彼女にすぐに気がついて、すぐにお喋りをやめた。
「さっきはごめんなさい。私、カルロス様の……妻となった、モルガーナと言います。お気に入りのご本は、見つかったかしら?」
そんな子供達の側に、モルガーナは意を決して歩み寄った。
今度は彼らに目線を合わせるようにしゃがみこんで話を始める。
そうすると二人は少しはにかみながら、モルガーナに手に持っていた本の表紙を見せた。
子供向けの挿し絵が可愛らしい本だった。
「よかったわね……どんなお話かしら?」
「……読む?」
一人がそう言ってモルガーナの袖を引っ張り、図書館に誂えられている机の方へと連れて行こうとする。
モルガーナは笑顔でそれに応えた。
「……そうして竜のいなくなった国は、再び平和を取り戻しましたとさ」
モルガーナは最後の行を読み終えて、本を閉じる。
両脇に座る二人の子供達。
一人は目を輝かせ、その物語を聞き入っている。
もう一人は……モルガーナに凭れて寝息を立てていた。
傾き始めた日が窓の外から差し込んで、そんな三人を照らす。
「疲れちゃったんだ、多分」
最後まで物語を聞いていた方の子供が、そう言って髪を撫でる。
「これじゃあ、キャンプに戻れないや」
「キャンプ? 貴方達はお出掛けをしているの?」
それは無邪気な質問であった。
彼らともっと親しくなりたい、もっと彼らのことを知りたい……そんな、純粋な気持ちてしたものだった。
「ううん、違うよ。住んでたところにね、悪い人が来ちゃったの」
それ故に、その幼い口から語られたことをすぐに理解することができなかった。
「悪い人……って……」
「うん。悪い人が来てね、お家の側の海を荒らしていったの。それで、またその人達が来たら今度は僕達が怪我をさせられるだろうからって、お城に泊まらせてもらってるの」
ようやく、何故彼らがルースの城の庭で遊んでいたのか、モルガーナは合点がいった。
モルガーナは目の前の子供が、淡々と語る様に冷や水を浴びせられたような心持ちを覚えるのだった。
もっと沢山、彼から色々なことを聞きたかった。
──悪い人とは何者なの?
──何故、貴方達の住む場所から逐うようなことをしたの?
──この国で、一体何が起こっているの?
けれどその幼い両肩は、これらの質問に答えられるだろうか。
聞いている内に、悲しいことを思い出させてしまわないだろうか。
そもそもこのくらいの歳の子供が、事の詳細を知っているだろうか。
モルガーナは口をつぐんでしまった。
そんな彼女を、不思議そうに見上げる子供。
けれど彼はすぐに笑顔になって、彼女を案じるのだった。
「でもね、カルロス様が代わりの家を用意してくれたから……。みんなそこをキャンプって呼んでるんだけど、大丈夫だよ」
そうやって笑う幼い子供の顔に、傾き始めた日が射している。
モルガーナはその子供の頭を、そっと撫でた。
今の彼女に出来ることと言えば、それくらいだ。
それが堪らなく悔しかった。
しかしその悔やみは、彼女に新たな決意を生んでいた。
彼らのことを、この国のことをもっと知らなければならない、と。
日が暮れた。
モルガーナは大広間の机についていた。
反対側には、カルロスの席がある。
まだ彼はここへ来ていない。
酷い緊張感を覚えながら食べる食事の味が、分かるだろうか。
彼女はそれが心配だった。
決して、カルロスの存在そのものに緊張しているわけではない。
彼女の脳裏には、エンリコとの確執、そして昼に出会った子供達のことがあった。
兄王を敵視すらしている様子の王弟。
住んでいた場所が壊されてしまったと語る子供。
思い返せば、自分はこの国のことをやはり何も知らない。
心を鎮めようと、モルガーナは控えていた使用人に水を注ぐように頼む。
(……? あれは……?)
考えを巡らす彼女の視界の端が、何かを捕らえた。
窓の外に広がる、濃紺の海に浮かぶ一艘の船。
船は城が立つ崖下に穿たれた、洞穴へと入っていこうとしている。
(あの船は……)
モルガーナは自分に与えられた部屋で、ルースに嫁いでからずっとこの海を見下ろしていた。
そんな彼女が、初めて見る船だった。
とても小さくて、せいぜい人が数人乗れる程度の大きさの小舟。
一体何を運んでいるのだろうか。
いや、そもそも荷を運べることができるのだろうか。
そんなことを疑問に思える程に、小さな舟であった。
そもそもこんな時間に、船が入渠するのも初めて見た。
──この胸騒ぎは、気のせいで済ませてもいいものなのだろうか。
モルガーナの翡翠の瞳が、星の浮かばぬ空を映す、がらんどうの海を見つめていた。
カルロスは一人、執務机の側に誂えられたソファーに背中を預けて微睡みの中に沈んでいた。
そんな彼が目を覚ましたのは、夕日が沈み窓の外が宵闇に沈む頃合いだった。
「カルロス様、お食事の準備ができております」
彼は扉をノックする音で目が覚めたようだった。
仮眠をとるつもりが、少し眠り過ぎたよう。
カルロスは簡単に返事をすると、扉の方へ向かった。
さっきモルガーナとした約束は、勿論忘れていない。
まだ残っている仕事が些か心残りではあるが、それを振り払うように扉へと向かった。
「あの、今カルロス様はこの部屋にいらっしゃるかしら?」
モルガーナの声が扉の向こうから聞こえたのは、彼がノブに手をかけた時だった。
その手が、はたと止まる。
何故彼女がこんなところにいるのだろう。
決して、ここに来るなと禁じたわけではない。
しかし一度も執務室の扉を叩いたことのない彼女がここに来たことには、カルロスも僅かに驚きを覚えたのだ。
「ごめんなさい、少し気になることがあって……。大広間でカルロス様を待っていたのだけれど、窓の外に見たことない舟が走っていて……気にする程のことではないと思うのだけれど、少し不安になって尋ねて来たの」
彼はそのまましばらく、扉の向こうのやり取りを聞き続けた。
扉を開くタイミングを逸してしまったために。
──けれどそのおかげで、彼は気がつくことができたのだ。
──ドアノブに僅かにかかった影に。
見開かれるカルロスの瞳。
しかしそれと同時、彼は腰の短剣に手をかけた。
振り向き様に一閃、その手から刃の軌跡が放たれる。
背後にいたのは果たして、黒い衣を纏った男だった。
カルロスは、男が彼の刃に戦いているうちに扉を開け放った。
「あの、今カルロス様はこの部屋にいらっしゃるの?」
モルガーナはカルロスの部屋の前にいた給仕に、そう訊ねた。
自分の胸騒ぎなど、さして問題にする程のことではないのは分かっている。
けれどそれを分かっていても、彼女はカルロスを尋ねずにはいられなかった。
「ごめんなさい、少し気になることがあって……」
それでいくらか気が紛れるなら、彼も許してくれるだろう。
どうせ後で落ち合うなら、多少前後しても構わないだろう、と。
給仕はモルガーナの姿に、大層驚いたようだった。
(そんなに、驚くようなことだったかしら……?)
モルガーナは申し訳なさを覚えながらも、少しばかり訝しんでいた。
その時、扉の向こうから大きな物音が聞こえてきた。
何か大きな物が倒れる音だった。
モルガーナがその音に反応するよりも前に、扉が開いた。
「……! カルロス様……!?」
短剣を抜いたカルロスが、モルガーナの体を廊下の端に押し退けた。
モルガーナを庇うようにして立つカルロス。
彼女は彼の肩口越しに、カルロスの視線の先を覗いた。
カルロスに続いて執務室を踊り出た黒衣の男と、扉をノックしていた給仕。
黒衣の男は、そして給仕も、短剣を抜いていた。
ただならぬその様子を、モルガーナは固まって伺うしかできなかった。
「モルガーナ、走れ!」
けれど彼女は、カルロスの切羽詰まった声に弾かれて走り出した。
彼の声が、モルガーナを現実に引き戻したのだ。
走り出したモルガーナの背中から、剣撃を交わす音が聞こえてくる。
走りながらモルガーナは考えた。
どこへ向かって走るべきか。
(どこか……どこかに衛兵は……)
こんな日に限って、衛兵がまるで見当たらなかった。
焦るモルガーナの足が縺れ、前のめりになって転びそうになった。
「きゃっ……」
けれどその身体を受け止める腕があった。
恐る恐る、モルガーナは自分を受け止めた人物を見上げた。
「あ、貴方は……」
彼女を抱き止めたのは、エンリコだった。
得意ではない相手であったけれどしかし、モルガーナはすぐに頭を働かせて、彼にカルロスの窮状を訴えに出た。
「エンリコ様……! カルロス様が……!」
彼は無表情に、そんなモルガーナを見下ろしているのだった。
宵に沈み始めた空。
それを映すルースの城の廊下に、閃光が走る。
カルロスは賊の攻撃を、自分の刃でいなす。
倒すことではなく、自分が生き延びることのみを考えて。
騒ぎを聞いた警備の者が来るまでこの場を耐えることができれば、形勢逆転もかなうはず。
「……して、離してください!」
しかしカルロスのその考えは、背後から聞こえてきた声にかき消された。
振り返ろうとしたカルロスに、また刃が伸びる。
それを防ごうとしたせいで、その姿を見ることはできながった。
「もういい。どちらにしろ、不意打ちでなければお前達に兄上は仕留められない。いくら警備の数を減らしているとはいえ、流石にこれ以上は気づかれてしまう」
けれど別の声が、カルロスへのそれ以上の攻撃をやめさせたのだった。
カルロスはようやく、その声の主と対面がかなった。
声の主は、エンリコだった。
彼は冷酷な色の瞳でカルロスを見つめている。
その腕に、モルガーナを捕らえながら。
エンリコの腕から逃れようともがいているモルガーナに、彼は刃を突きつけた。
モルガーナはその切っ先に、身を硬くする他になく。
「貴様が首謀者か」
カルロスの目が、一瞬大きく見開かれた。
しかし冷静なものだった。
「もう少し驚かれるかと思ったのですが……。もしや、私が首謀者だともうお気付きになられていましたか?」
「呆気なく刺客の侵入を許してやれるような警備など命じた覚えはない。だが、内部から誘致されてしまえば話は別だ。その内の自分と対立する思想を持った人物のいずれかだとは、簡単に見当がつく。……だがまさか、肉親に裏切られるとは思っていなかったが」
「……そこまで分かっておいでなら、私の考えていることも分かりますね」
エンリコはモルガーナの首筋に、刃を押し当てる。
「兄上、私に王座を譲ることをこの場で承諾してください。そうでなければ、貴方が……この娘と共に我が白刃の露に落ちることとなります」
モルガーナはカルロスを怯えた目で見つめていた。
刺客の刃に囲まれるカルロスは、苦々しげにエンリコを睨んでいる。
「お前の思想は危険すぎる。いたずらに戦の機運を高めて戦火に国をくべては、国は荒廃する」
「けれどこのままではいずれ、彼の国に全てを奪われていくだけです」
「そうならないように、モルガーナをこの地に呼んだのだ」
カルロスの言葉に、モルガーナははっとした。
この骨肉の争いに、どうして自分が関わっているのだろう?
刃を突きつけられているモルガーナは、更に混乱することとなった。
「言ったはずです。小娘一人で何が変わる、と」
カルロスから、にわかに怒気が溢れていく。
それはモルガーナにも伝わるほどの、強い怒りの感情だった。
「次はないと言ったはずだ」
「ではどうなさると? どのようにして、私を罰すると? この状況で!」
エンリコはいっそう、手に持ったナイフを強く握りしめた。
モルガーナは恐怖にかられて、そのナイフを見下ろした。
ナイフは微かに──震えていた。
その刃は恐ろしいはずなのに、自分を捕らえる腕が痛いはずなのに──モルガーナはその時、彼に対して憐憫を覚えたのだった。
そしてそれが、この状況を打破する切り札になることにも、彼女は気づいた。
「これは……貴方に対する恨みです。この二人も、もしも貴方が後手に回ってさえいなければ、故郷の村で静かに暮らしていたというのに……兄上、どうかその恨みを御身に刻み……。……!?」
エンリコの言葉を遮ったのは、モルガーナだった。
モルガーナはエンリコの腕を自分から引き離そうと掴んだ。
「何を……!」
無論、彼女がエンリコを振り払えるはずなどない。
けれどそれだけで充分だった。
エンリコがモルガーナに引っ張られてバランスを崩す様、そして僅かな動揺をカルロスは見逃さなかった。
カルロスはモルガーナに突き立てられていた刃を握る手を掴んで、捻りあげた。
「……っ!」
ついにエンリコは床に倒れこみ、カルロスに制圧されることとなった。
回りを取り囲んでいた男達は、一瞬の出来事に反応が出来なかった。
「お前達、刃を構えろ! 王を討て! この者が王である限り、お前達の無念は晴らせぬぞ! この者が王である限り、ルースは……彼の国に──!」
「もうお止めくださいエンリコ様!」
再びエンリコを遮ったのは、やはりモルガーナだった。
「もう、お止めください……! 貴方も、本当はこんなことを望んでいないはずです!」
彼女のエンリコを見下ろす目に、恐怖も不安もなかった。
あるのはただ、慈悲深い色だった。
モルガーナは自分を捕らえた腕から伝わる、震えを思い出す。
自分に向けられていた刃には躊躇を感じていた。
だからこの行い彼の本位ではないことに、彼女は気づけたのだ。
モルガーナはそうしなければならなかったエンリコの心中を、今は案じるばかりだった。
「貴方に……何が分かる……! この者達の無念が、悲しみが……! 故郷を追われた者達の悲しみが……!」
エンリコの呻き声が、城内に響く。
モルガーナはカルロスに斬りかかろうとした、二人の男の方を振り返る。
改めて見てみれば、この二人からは訓練された者特有の、覇気が見られない。
つい最近まで市井の人として生きていた、極普通の人間のようだった。
エンリコの、そして彼らの内心を考えずにはいられない。
やがて騒ぎを聞きつけた衛兵が、臣下が、侍従たちが、モルガーナとカルロスの元へと足早に駆けつける。
モルガーナは侍女達に、囲まれその安否を確かめられた。
その最中、彼女はカルロスを振り返る。
彼は臣下や衛兵と何か話をしている。
物々しい雰囲気に、自分が割り込む余地はないように思えた。
それでも彼女は、一歩踏み出した。
「カ、カルロス様!」
皆の視線が、一斉に彼女に向く。
その視線に憶さないのは、彼女が生まれもって高貴な場所に身を置いているからか。
「私に、この国のことを教えていただけませんか……!? この国が何を抱えているか、私も……知りたいんです!」
その場にいた者の視線が、自然とカルロスに向かって行く。
カルロスはしばし黙って、モルガーナの視線を受け止めた。
その視線の熱量は、カルロスにも充分に伝わった。
「明朝、船を出す。その船にお前も乗れ。……その時にこの国のことを教えてやる。今日はそれに備えて、休むがいい」
カルロスはそう言って、踵を返して歩き出した。
臣下に囲まれたその背中を、モルガーナは見つめ続けていた。
その背が追う、ルースの闇を探ろうとするが如く。
彼女は侍女に声をかけられるまで、そうしていた。
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