【完結】蒼海の王は朝の陽射しに恋焦がれ~冷徹な王の慈愛に溺れて~

奈波実璃

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第三章

エンリコ王子①

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 それからこの一月の間、カルロスと顔を合わせられる日など週に一度あればよい方だった。
 朝早く起きて夜遅くに戻ってくるカルロス。
 モルガーナの起きている時間に彼が部屋にいることなど珍しいくらいだ。
 侍女曰く、彼女が寝静まった後に時折様子を伺いに来ていたらしいけれど。
 それを聞いて、一度夜の深い時間まで起きていたこともあった。
 結局、その日に限ってカルロスは帰ってくることすら叶わなかったのだった。
 異国の文化の中で生活する大変さを日々実感している中で、もっと過重な労働をしている人が間近にいると、自分ももっと努力できるのではないかと思えるようになる。
(だけど、体は大丈夫なのかしら……)
 いつものようにモルガーナは、バルコニーに出て海を眺めていた。
 しかしいつしか故郷を懐かしむ彼女の心の内に、カルロスを気にかける心の隙間が生まれ始めていたのだった。
 普段はそうやって一日を終えることになるであろう彼女の耳に、その日は扉をノックする音が聞こえた。
 扉を開けたのは、複数人の侍女達。
「モルガーナ様、ネレウス国より荷物が届きました」
「荷物?」
 そういえば、とモルガーナは考えを巡らせた。
 嫁入り道具としてネレウスから色々なものを持たされていたけれど、海難事故で全てダメになってしまっていたのだ。
 どこかで改めて調達して届けると聞いた気がするけれど、モルガーナはそのことをすっかり忘れてしまっていた。
「只今その船が港に停泊しておりますが、室内へお運びいたします」
「ありがと……まって、カルロス様から許可をいただかなくては……」
「大丈夫ですよ、カルロス様もちゃんとご存知ですから」
 侍女の間を縫って顔を出したのは、セシリオだった。
「本当?」
「はい。むしろ取り寄せてほしいとネレウスに交渉して、費用を用立てて、船を出したのがカルロス様ですから」
「カルロス様が?」
 モルガーナは目を真ん丸くした。
 彼女はもう一度、ネレウスから届けられた品々を見渡す。
 ドレスがたっぷり入ったタンスに、化粧道具。
 あれよあれよと言う間に、セシリオの指示でそれらは運び込まれていった。
 そうして用が済んだ使用人達が部屋から出ていき、モルガーナはいつものように一人になった。
 モルガーナはタンスを開けて、その中の一着を取り出した。
 薄桃色は、特にモルガーナの好きな色。
 彼女が手に取ったドレスは、まさにそんな色に染め上げられていた。
 そのドレスを、モルガーナは姿見の前に立って、自分の体にあてがってみる。
 鏡を覗き込みながら、彼女は自分の夫となった人物に想いを馳せた。
 最後に彼と顔を合わせたのは、いつだっただろうか。
 自分の寝室にも満足に帰れない程、忙しなく働く国王。
 その合間を縫って、これらを用意したのだろうということは、彼女にも想像できる。
 そんなカルロスに、モルガーナは戸惑いを覚えたのだった。
 鏡の中のモルガーナは、まるでネレウスに戻ってきたかのよう。
 ドレスを着て、見慣れた調度品に囲まれて……今まさに、彼女の心はネレウスまで飛び立とうとしている。
 ……そこまで考えてモルガーナは、あてがっていたドレスを体から離した。
 パニエを重ねてコルセットで締め付けて、ようやと着れるドレス。
 今にして思えば、こういったドレスはあまり好きではなかったのかも知れない。
 窮屈で重たくて苦しくて、動きづらい。
 それに気がつけたのは、ルースの国に来たからだろう。
 モルガーナは自分の体を見下ろして、ルースの国の装束を眺めた。
 薄くて肌はあまり隠れなくて、最初こそ抵抗はあった。
 けれど軽くて体を締め付けない構造のお陰で、伸び伸びできるように思う。
 吸う空気も、軽やかなものだった。
 けれどモルガーナはそれが、寂しくも思っていた。
 このまま自分は、ネレウスのことを徐々に忘れていってしまうのではないか……。
 そんな寂しさに、モルガーナは胸が痛んだ。
 そんなことを考えていたモルガーナは、ふと、運ばれた荷物の中に見覚えのある細長い小箱を見つけた。
「これって……もしかして……」
 おずおずと手に取って、慣れた手つきで金具を外して蓋を揚げる。
 箱の中で銀色に鈍く光っていたのは、フルートだった。
 細部の傷までよく覚えている。
 愛用のフルートだ。
(そういえば、ネレウスに置いていったのだったわね……)
 どうせこちらで演奏することは叶わないだろうと、荷物に詰め込まなかったものだ。
 お陰で船の座礁に巻き込まれず、今彼女の手の中にある。
 たったそれだけのことなのに、とモルガーナ自身も分かっている。
 分かってはいるけれど、胸の内から自ずと芽生える喜びに、彼女の頬はルースに来て以来、初めて緩められることとなった。
 モルガーナはフルートの吹き口に唇を寄せた。
 そして自然と動き出すモルガーナの指。
 部屋に、透き通る音色が高らかに響く。
 まるで彼女の周囲の景色が、軽やかに色づいていくかのよう。
 ──この曲は、ネレウスで最後に覚えた曲だったわ。
 奏でながら彼女は考えていた。
 かつて沢山練習して、大切な人に是非聞いてほしいと願った曲。
 それは結局、叶わなかった願いとなってしまった。
 無心で音楽を奏でる彼女の脳裏に、次第にネレウスの海が広がりはじめた。
 青い海にたなびく白い帆船には、祖国の紋章がかかげられている。
 その船が港に停泊すると、真っ先に降りてくる見慣れた軍服の──。
 モルガーナが音楽を奏でながら祖国に、そしてかつての婚約者に想いを馳せようとしたその時、部屋の扉が開く音がした。
 ノックもなかったことに、モルガーナは違和感を覚えながらフルートを机に置き振り返った。
「これはこれは……この部屋も随分様変わりしたではないですか。なるほど、彼の国は無闇矢鱈飾り立てることを好む国なのですね」
 部屋に入ってきたのは、見知らぬ男だった。
 男はモルガーナのことなど意に介していないように、部屋の中を見渡している。
 モルガーナはそんな男を、不安と警戒の色を瞳に浮かべて見つめていた。
 男が一歩部屋を進むたび、一歩後退る。
「あな、たは……?」
 不安の中で、モルガーナはようやくそれだけを呟けた。
 部屋には自分とこの男だけしかいない。
 そして逃げる場所も、この部屋にはない。
 何か下手なことをされては、どうしようもできない。
 そういえば、部屋の側にいるはずの衛兵はどうしたのだろう?
 何故この人を通してしまったのだろう?
 モルガーナは頭の中で、色々なことに考えを巡らせた。
 身につけた装飾品を見るに、高貴な身分であることは間違いない。
 ほんの少し見つめただけでも分かる、優美な立ち振舞いもからも分かる。
 そして彼の輪郭を囲う長い銀色の髪。
 それらはモルガーナにある人物を彷彿させた。
 けれど彼女に視線を向けた時に見せた柔和な笑みは、その人物の面影からは程遠い印象を受けた。
 モルガーナがそんなことを考えていると、男は恭しく頭を下げた。
「お初にお目にかかります。私、ルース国の王弟・エンリコと申します。……はじめまして、ネレウス国の第一皇女モルガーナ殿」
「カルロス様の弟君……」
「えぇ、その通りでございます。兄は何やら思惑があるらしく、自身の肉親ですら妃と相対することを許していないようですね。今もこのようにして、内密にお会いすることしかできず……このような非礼、どうかお許しください。」
「……」
 モルガーナはそう述べるエンリコに、奇妙な嫌悪感を覚えた。
 爽やかなはずなのに、どこか心臓に絡みつくようなしつこさを覚える声音。
 物腰柔らかなはずなのに、高圧的に感じる態度。
「……エンリコ様、ご足労いただきありがとうございます。何か私にご用がおありですか?」
 そんな疑念を抱きながら、モルガーナは訊ねた。
「用……えぇ、ありはしたのですが、もう済みました」
 ふと、エンリコの視線が真っ直ぐにモルガーナを見据えだした。
 そして彼女の眼前にまで迫る、エンリコ。
 その距離は息のかかるほどにまで迫っていた。
「ただ見物したかっただけですよ。あの兄がどうしてもと言って他国から娶った姫が、どんな人物か見物したいと思っていたのですが……いや、どうにもそんな価値はなさそうだ」
(えっ……?)
 一瞬、モルガーナは頭の中が真っ白になるような感覚を覚えた。
 その冷めた言葉と共に向けられた視線には、好意など一切ないということにモルガーナは気がついたからだ。
 彼女には、それがまるで刃のように思えた。
 自分の隅々までをえぐらんとする、鋭い視線。
 最初こそ、柔和な態度や言葉に隠されて見えなかったそれが、言葉を交わす内に姿を覗かせ始めたのだった。
 モルガーナはさらに、一歩後退りした。
 もう背中は壁に付いている。
 けれどどうしても、それから逃げなければと本能が告げているのだった。
 敵意と、嫌悪と、憎悪が混ざった瞳。
 ──何故この方は、私をそんな目で見るのだろうか……?
 謂れのない感情を向けられていることが、更に彼女の恐怖心を掻き立てる。
 背中に一筋、汗が流れる。
 その感触が、妙にはっきりとしていた。 
 
「主の留守中にずけずけと……どういった腹積もりか?」
 そんな二人の間を流れる緊張の糸を切ったのは、凛とした声だった。
 モルガーナはエンリコの肩越しにその声の主の姿を認めた。
「……! カルロス様……」
 モルガーナはそこにいた人物の名前を驚き混じりに呟いた。
 彼は部屋の入り口に凭れるようにして立っていた。
 エンリコもそちらに振り返る。
「兄上……」
 そう呟いたエンリコの声は、モルガーナにも無論聞こえた。
 彼女はその声に、自身に向けられていた視線と同じような、黒い感情の流れを感じた。
 対峙する王とその弟。
 二人の間に流れる殺伐とした空気は、モルガーナにも伝わってきた。
 王族故に様々なしがらみがあるのだろうということを差し引いても、二人には尋常ではない禍根があるということは見てとれた。
 並ぶ二人の美しい白銀の髪と紫水晶の瞳。
 僅かな膠着の後、動いたのはカルロスだった。
「我が妻は何やら怯えているようだが……まさか良からぬことをしようとしたか?」
 カルロスはエンリコの側まで寄ると、彼の前で身を縮こませるモルガーナの腕を掴んだ。
 緊張に固まっていたモルガーナは、突然のことに危うく転びそうになってしまった。
 転びそうになって、咄嗟に目の前のものに掴まった。
(あ……)
 気がつくとモルガーナは、カルロスの体にすがるように立っていた。
 彼の体温が、直に自分に伝わってくる。
 どぎまぎするモルガーナなどよそに、カルロスはさらに彼女を自分の方へ抱き寄せた。
 不思議なことに、彼女はそんなカルロスに安心感を覚えていた。
 モルガーナは恐る恐る、カルロスを見上げた。
 怒気を静かに湛えた相貌が、そこにはあった。
 その迫力は、寝所に勝手に入られたから……だけでは済まない何かが見て取れる。
 ──彼はこんな風に怒るのね……。
 こんな状況なのにも関わらず、モルガーナはそんなことが気になっていた。
 それを遮ったのは、エンリコの飄々とした声。
「まさか。私はただ義姉に挨拶をしに来ただけですよ。兄上がいけないのです。婚礼の儀も来賓すらなく手短に済ませ、私を含む親戚諸氏にすら挨拶もなし。こんなこと前代未聞でしょう」
「前代未聞……か」
 ふとカルロスはモルガーナの肩を、彼女が自分の背に回るように押した。
 まるでエンリコから彼女を守るかのように。
 事実、緊迫した空気とそれを生むエンリコから、彼女を守ろうとしているのだろうか。
 モルガーナはその背にすがるようにして、彼の背中に隠れた。
「仕方あるまい。花嫁を乗せた船が転覆したのだ。警戒くらいするであろう」
「警戒? あれは事故でしょう。一体何から警戒しているというのです?」
 エンリコの高貴な顔が、嘲笑で僅かに歪められる。
 カルロスもまた、それを受けて挑発的に口角を上げた。
「あぁ、事故だったとも。浅瀬の岩礁に船が乗り上げた事故だ。……防げたはずの、な」
 その思わせ振りなカルロスの言葉には、モルガーナも気がついた。
「あの海域は知識のない者が進航すれば、岩礁を避けきれず船が座礁してしまう。そこへ至る前に、東部の砦のある島まで迂回するべきだと伝達したはずなのだが……どうやら先方まで伝わっていなかったらしい。急ぎ俺が駆けつけた時には、既にネレウスの船は沈没しかけていた」
 それを聞いたエンリコは、大袈裟に目を見開いた。
「これはまた、兄上にしては不注意ですね。いやしかし、姫が無事で何よりでした。それにしても、あれらを再びあの島へ呼ぼうなどとは……国王の酔狂にはほとほと肝を冷やされる」
 そんなエンリコの様子を、カルロスは変わらず冷徹に見つめていた。
 モルガーナはしかし、そんなカルロスの横顔が僅かに強張ったことに気がついた。
 やはり、怒りの感情だ。
 けれど彼が弟に抱く思いを知るよしもないモルガーナには、その真意までは読み取ることなどできない。
 だから彼女は変わらず、カルロスを不安げに見上げる他になく。
 そんな緊張を解いたのは、エンリコだった。
「ま、いいでしょう。私の用は済みましたゆえ、お暇させていただきます。兄上もせいぜい、運航させる船に大穴が空かないようお気をつけください」
 エンリコはそう言い残して、部屋を後にした。
 部屋の中の緊張感は、彼の足音が消えるまで続いた。 
「……」
 モルガーナは緊張の糸が途切れ、詰まっていた息を吐き出す。
 その最中、自分はカルロスにすがるようにして立っていることを思い出した。
「あっ……申し訳ございません」
 慌てて彼の腕から手を離して、頭を下げた。
 もしかすると、怒らせてしまったかもしれない……そんな不安が頭を過る。
「エンリコに何を言われたか?」
「え……」
 その声音は穏やかなものだった。
「いいえ、これといったお話は……ただの雑談でした」
 二人の関係など、モルガーナの知るよしもない。
 けれどただならぬものではないということには、今の僅かなやり取りを見ただけでも分かる。
 下手なことを言って、それを刺激させたくはなかった。
「そうか」
 カルロスもそれ以上追及することはなかった。
「あ、あの……これら調度品、カルロス様がご用意されたと訊きました。ありがとうございます」
 ふとモルガーナは、様変わりした部屋のことを思い出した。
 自分を気遣ってのことだろうか。
 他に思惑があるのだろうか。
 どちらにしても、嬉しいことには変わらない。
「笛の音が聞こえてきた」
「笛……ですか? それなら私が奏でていたものでしょうか?」
 カルロスの視線が、机の上に置かれた楽器に向かう。
 ふと、その目が細められたのをモルガーナは見た。
「良いものだった」
「……!」
 素直な言葉だった。
 あまりに素直すぎて、冷酷な印象を持っていた人物の言葉であるとすぐに理解することができなかった。
 ──この人はこんな風に笑うのね。
 と、ぼんやり思った。
 そんなカルロスは一通り部屋を見回した後、その視線はベッドに向けられた。
「夫婦用に誂えたが、随分無沙汰になってしまったな」
 モルガーナの目に写るカルロスの姿が、疲れているように見えるのは気のせいだろうか。
 久々と言っていいほど見舞うことができなかったから、そう見えるだけなのだろうか。
 彼女が考えた、その時だった。
「……これではベッドがもったいないではないか」
 モルガーナが気づいた時には、その上に体を横たえさせられていた。
 カルロスの両掌が、モルガーナの肩をベッドに縫い付ける。
「……!」
 自分を見下ろすカルロスの瞳に、モルガーナは覚えがあった。
 船の中で自分を弄んだ時の、熱を含んだ瞳。
 自分を我が者にしようと企む瞳。
 その時のことを思い出して、彼女は体を強張らせた。
 固く目を閉じて、あの日と同じような事が起きるのを覚悟した。
 けれどその覚悟が揺らがせるのは……。
「モルガーナ」
 自分を呼ぶ声だった。
 その声を聞いたモルガーナの瞼の裏には、さっき自分の笛の音を褒めてくれた時の微笑みが浮かぶ。
「まだ恐ろしいか? 男の体は」
 カルロスはそう言って、モルガーナの髪を撫でた。
 カルロスの全てが、彼女の緊張を解いていく。
 そうだ、もう恐れる必要はないのだ。
 いいや、恐ろしいはずがないのだ。
(この方は、私の夫なのだから……)
 そうして思い出す、自分を貫いた稲妻のような快楽。
 それを思い出したモルガーナの体は、にわかに熱を帯びだしていた。
 モルガーナは自分の髪を撫でる手に、全てを委ねるつもりで全身の力を抜いた。
 それはカルロスにも伝わったようで、彼はそんなモルガーナの様子に満足そうに鼻を鳴らした。
 カルロスは彼女の薄桃色の唇に、自分のものを重ねた。
 自分の唇を優しく包む、カルロスの唇。
 軽い口づけが、次第に彼女の唇から離れ、首筋へと下りてくる。
「……っ」
 彼の唇が白い肌に軽く触れ、撫でるように行き来される。
 そのこそばゆい感覚がひどくもどかしくて、呼吸が乱されていく。
 それと呼応するように、カルロスの吐息も熱を帯びていく。
 そして口づけは、次第により深いものになっていく。
 カルロスは唇で食むように、彼女の細い首筋に触れていく。
 その唇が、少しずつ降りていく。
 そうしてその唇が、モルガーナの着たドレスの襟にたどり着く。
 カルロスはその襟に手をかけて大きく開かせる。
 紐で止めただけのドレスは、簡単に彼女の素肌を晒させる。
 途端、モルガーナは反射的にその肌を隠そうと身を捩った。
 けれどカルロスが覆い被さっていたために、それはできなかった。
 まるで捕らわれているかのような錯覚を、モルガーナは覚えた。
 カルロスはそんな彼女の心境を知ってか知らずか、カルロスは彼女の両腕をベッドに押さえつける。
 一層逃げ場のなくなったモルガーナの体を、カルロスの唇は蹂躙していく。
 唇は鎖骨を通り、その下の柔らかな膨らみの輪郭を辿っていく。
「あ……」
 ふと、モルガーナは自身の膨らみの間にチクリとした痛みを感じた。
 カルロスが唇をそこから離すと、痣か虫刺されのような鮮やかな赤い印が見て取れた。
 モルガーナにはそれが、カルロスからの所有の印に見えた。
 そしてその所有の印に、初めて感じるような高揚感を覚えるのだった。
「いい表情をするようになったな」
 そう言ったカルロスは、彼女の両腕の戒めを解いた。
 そしてその手のひらで、膨らみを包みこむ。
「あっ……そこ、はぁ……」
 カルロスの指先が、モルガーナの柔肌に何度も食い込む。
 まるでその感触を楽しむかのように。
 そしてそれと同時に、掌で胸の果実を刺激される。
 カルロスからの愛撫で、その果実は次第に固さを増していく。
「ん……っう、はうぅ……」
 モルガーナはただ身を捩らすばかり。
 掌から与えられる刺激は、鈍いものだった。
 そればかりではこそばゆいばかりだ。
 もっと刺激が欲しい………。
 自然とそう思い始めたモルガーナの身が、仰け反っていく。
「どうした? 何か物欲しそうにしているが……」
 モルガーナを弄ぶ当の本人は、そんな彼女の様子が面白いとばかりにそれを続けるのだった。
「モルガーナ、して欲しいことがあるなら申してみよ」
「して、ほしいこと……?」
 彼女の脳内にぼんやりと浮かんだのは、船の上で行われた情交。
 初めて男性に触れられて、わけの分からぬままに悦びを感じさせられた行為。
 あの時のように、自分の体を貪ってほしい……。
 淫らな願望が、彼女の体を駆け巡るのだった。
「っ……そこっ、胸を、んっ、触れてほしいです……前の時のようにっ、お口で……」
 言ってから、モルガーナは羞恥で顔を更に赤くした。
 こんなねだり方、いくら何でもはした無さすぎるのではないか……。
 けれどカルロスは、むしろそんなモルガーナの様子に満足した様子だった。
 カルロスはモルガーナの胸元に顔を寄せる。
 そして。
「ひゃあぅっ、あっ、そこぉ……もっ、あぅ……」
 カルロスはモルガーナの希望通り、彼女の胸の突起に吸い付いた。
 唇で挟みこみ、舌をその隙間から覗かせていたぶる。
 もう片方もまた、カルロスの逞しい指が絡みついていく。
 待ちに待った快楽に、モルガーナの頭の中は瞬く間のうちに火花が明滅しだす。
 否が応にも勃ちあがっていくその場所は、荒波に揉まれる小舟のよう。
 ただ翻弄されるばかり。
 モルガーナは無意識のうちに、腰を捩っていた。
 二点から与えられる快楽が、すっかり彼女を支配していた。
 そんな彼女の様子を、カルロスが見逃すはずもなく。
「せっかく望み通りにしてやったというのに、もしやまだ足らぬと……?」
「ち、ちが……」
 どんな否定の言葉を述べても無意味。
 彼女の潤む瞳と切なく浮かぶ吐息、そして透き通る肌が赤く火照る様が全てを物語っていた。
 そんな彼女の様子を、カルロスは可笑しそうに見上げる。
 そうして彼は、モルガーナの下腹部を僅かに覆っていたドレスの裾を取り払った。
 モルガーナを彼の視線から守るものは、すっかりなくなってしまった。
 新たに露にされた下腹部を、モルガーナは腿を擦り合わせてカルロスの視線から守ろうとする。
 けれどカルロスは、そんなモルガーナの両腿を強引に開かせた。
「あぅ……い、嫌ぁ……」
 本来人目に晒すべきではない場所を、晒す恐怖。
 それは夫であっても変わりはない。
 見下ろせば、自身の秘部を見つめるカルロスの姿が。
 せめて意識しないように、モルガーナは固く目を閉じた。
 そんな彼女の様子などお構い無しに、カルロスの指先がモルガーナの男を受け入れる場所の縁をいとおしげにつつく。
「ぅん……! そっ、こは……」
 僅に触れられただけのはずなのに、モルガーナの全身はぴくぴくと弾む。
 ──ついこの間まで、怖いと思っていたはずなのに。
 モルガーナはもう、カルロスを拒絶できないでいた。
 彼からもたらされる甘い誘惑、その先を期待している自分自身が、そこにはいたのだ。
 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、カルロスの指先がいよいよその入り口に進み出す。
「いっ……あ、いやあ!」
 久々に異物を受け入れたモルガーナのそこは、彼の指一つでも充分に悲鳴を上げる程だった。
「モルガーナ、力を抜け。幾ばくかは楽になる」
 そうは言われても、彼女の体は痛みへの拒否反応は自然と出てしまう。
「モルガーナ」
 促されるように、もう一度呼ばれる。
 それでも彼女の反応は変わることはなかった。
 そんな彼女に見かねたのか、カルロスは指を引き抜くと、モルガーナの額に頬をよせた。
 モルガーナの絹織物のような髪に、カルロスの指先が滑っていく。
 まるで幼子をあやすような手つきだった。
 モルガーナは何故彼がそんなことをしてくれるのか、理解できなかった。
しかしその手つきに、安らぎを覚えるのも事実だった。
「いい子だ、そのままゆっくり呼吸をしろ」
 自分を落ち着かせようとするカルロスの声が耳元を掠める。
 大きな掌が、優しい声がもたらす、かすかな安らぎ。
 熱で火照り、乱れた体が少しだけ和らいだような気がした。
 カルロスはそんな彼女の髪を引き続き撫で、時折額や目元に軽い口づけを落とす。
 その最中、もう片方の指を再び彼女の秘密の場所に伸ばすのだった。
「あっ……」
 再び来訪したカルロスに、モルガーナのその場所が軽く跳ねる。
 けれど先程までの窮屈さは、いくらかなくなっていた。
 カルロスもそれを認めたのか、指先でモルガーナの深い泉の中をかき乱していく。
 その場所はカルロスの愛撫で、すっかりモルガーナの密で溢れかえっていた。
「あ、あぁっ……カルロス、さまぁ……」
 カルロスはゆっくり、自分の指を出し入れしていく。
 自身の漏らした愛液で溺れきっているそこは、モルガーナの羞恥心もなどお構いなしにされるがままだ。
 しかしカルロスの指は、次第に更に奥まった場所を目指し始めるのだった。
「先程よりは和らいだか……」
 再び泉が涌き出る場所を探るカルロス。
 縁を二、三度行き来した後、一思いにその中に沈みこんだ。
 今度は二本。
 しかし抵抗も少なく、すっかり奥底まで潜り込むことができてしまった。
「すっかり準備ができているようだな、モルガーナよ。あぁ、心地よい感触ではないか」
「だっめぇ……。やら、っもぉ、はぅう」
 カルロスの指が、彼女の中でばらばらに動き出す。
 二本の指で翻弄されるモルガーナ。
 最早カルロスの言葉を聞くことも叶わないほどに、かき乱されていく。
 そんなモルガーナの様子を更に弄ぼうと、更にカルロスの指は思い思いに動かされる。
 奥深くから浅瀬まで引き上げられた指。
 かと思うとそれは彼女を貫くように再び奥深くまで潜水する。
 そうしてその場で、まるで中を広げようと大きくうねりを上げるのだった。
「もっ、ぁぅう……あ、っあ、そこはぁ……」
 異物を挿入する時の違和感は、すっかり消失していた。
 その代わりに襲われる、圧倒的な快感。
 しとどに濡れた下腹部に、モルガーナは溶けてしまいそうであった。
「さて、そろそろ頃合いか……」
 カルロスの体が、モルガーナから退けられた。
 逞しい指が引き抜かれた泉は、その寂しさ故にきゅんきゅんと閉まる。
 それを埋めようと、新たなものがあてがわれた。
 モルガーナの熱く濡れた瞳には、大きく開かれた自分の腿と、そこに自分の腰を滑りこませたカルロスの姿が映っていた。
 モルガーナにあてがわれた、カルロスの砲身。
 波打ち際で戯れるかのごとく、彼女の泉の縁をなぞっている。
 当のモルガーナは、今となってはそれを待ちわびている程だ。
 そんな彼女の期待は。ついに叶えられることとなった。
「ああっ……! も、いやぁ……んんっ」
 圧倒的質量が彼女を襲った。
 しかしいくらか馴らされていた、モルガーナの泉はそんな彼を抵抗なく迎えていくのだった。
 波打つ媚肉を掻き分けて、彼女を自分の色で染めまいとカルロスは突き進む。
「気分はどうだ? 心地よさそうに見えるが」
 そう言ったカルロスの声が、僅かに熱い吐息をが交わり出したことをモルガーナは感じとることができた。
 モルガーナはそれに、無性に悦びを感じていた。
 自分の体を殿方が欲して、貪っている。
 最初こそその欲望に嫌悪感を持っていたものの、自分の体に体を熱くさせるカルロスを見るうち、そんな悦びを覚え出していたのだった。
 ──こんなはしたないことを思うなんて。
 何度思ったことだろう。
 けれどカルロスが、そんなモルガーナの思考を遮る。
「事の最中に考え事か? そんなに余裕があるならば……」
 カルロスは刺し貫いていたものを、彼女の中で軽く上下に動かした。
「はうぅっ! ……っうあぁ、だめです、そんな、ぁっ」
 突如激しく降りかかってきた快楽。
 カルロスのものが、モルガーナ一番良い部分刺激したのだった。
 そんな彼女の身悶う姿は、より一層カルロスを掻き立てた。
「そんなによかったか……ならばこちらと同時に触れば……」
 カルロスがおもむろに、モルガーナの体に覆い被さった。
 そうして彼女のすっかり張った頂に、再び唇を寄せるのだった。
「……!」
 再び吸い付かれて、モルガーナの頭の中はいよいよ真っ白になっていく。
 唇と指が刺激する二点と、カルロスが侵入し犯し続ける一点。
 同時に与えられるそれらが、モルガーナを狂わす。
「ひゃああん! あっあぁっ……! もっ、そこぉ……!」
「ぐっ……!」
 いよいよ彼女の悦楽が頂点に達した。
 大きく背を仰け反らせ、カルロスを咥えたものはが切なさで震える。
 それと同時、その中に何かが注ぎ込まれる感覚があった。
(これが……カルロス様の……)
 気づいて彼女は、頭の芯が冷えるような感覚を覚えた。
 淫らに男を求めた自分自身の恥体を思い出して。
 そして改めて自分の純潔が散らされたことに対して。
 後戻りできるなんて、一度も考えてはいなかった。
 けれど改めてその事実を突き付けられたような思いを、彼女はしたのだった。
 カルロスが自分の中から引き抜かれる感覚の後、モルガーナの額に口づけが落とされた。
 事後の浮遊感と、冷めた熱の感覚がない混ぜとなって彼女を襲う。
 けれど彼からの口づけは、そんなモルガーナの心をむしろ癒していた。
「気分はどうだ?」
 優しく尋ねられて、モルガーナは堪えることが出来なかった。
 今自分が縋れるのは、目の前にいる夫。
 自分の純潔を捧げた相手。
 彼女の白い腕が、カルロスの肩に回される。
 そんな彼を求めるように。
 彼もそれに呼応するように、彼女の肩口に顔を埋めるように抱き締めた。
 その温もりに、幾ばくかの安寧を覚えたモルガーナは、ゆっくりと微睡みに落ちていった。
 
 彼女が次に目を覚ましたのは、その日の夕刻だった。
 隣には既に、カルロスの姿はなかった。
 モルガーナは侍女を呼んで、カルロスの所在を尋ねた。
 ……情交の後に人に出会うことが、こんなにも気まずいものなのかと顔を朱に染めながら。
「カルロス様は只今、議会に出席しておいででございます」
「議会……」
 またお仕事に向かわれてしまった。
 再びモルガーナは、彼の体調を気にかけずにはいられない。
 モルガーナは侍女に、何か温かいものを持って来るように命じた。
 何を考えるにしても、今の自分には難しい。
 一旦落ち着いて、考えを巡らそうとした。
 しかし今の彼女が思い浮かべられることといえば、カルロスの攻めと、淫らに悶える自分の様ばかり。
 侍女が持って来た茶の味すらも今の彼女には分からなかった。
 
 同時刻。
 ルースの城の大講堂に、多くの人間が集まっていた。
 貴族の長に、王族縁の者達。
 誰も彼もが、皆ルース国の重鎮である。
 彼らは半円状に並べられた机に座り、各々隣の人間と雑談を交わしている。
 その正面に置かれた議長席は、まだ空だった。
 それだというのに、既に場の空気は張りつめている。
 ──そしてその空気がより一層重くなったのは、議長席に座る人物が現れたせいだった。
 その席に座ったのは、カルロスだった。
 ルース国の議会の長、それすなわち国の長なのである。
 彼が席につく様子を、忌々しげに見つめる人物がいた。
 エンリコだった。
 彼はカルロスが席に座り、議会が開幕する。
「本日の議題は……東部から王都に避難してきた民への保障の件だな」
「国王、その前に一つよろしいでしょうか」
 エンリコは立ち上がって、カルロスに進言した。
 イレギュラーな出来事に、カルロスは興味深げに彼を見下ろした。
「なんだ、発言を許可する」
 そんなカルロスの余裕綽々といった態度がエンリコの神経を逆撫でする。
 けれど彼はそれを堪えて毅然と言った。
「ネレウス国との条約の件です」
 大講堂の空気が、いよいよもって最高潮に張りつめた。
「条約? その件はだいぶ前に蹴りがついているはずだが。まだ話すことがあったか?」<
「ありますとも。ネレウス国の所業、国王もご存知のはず。どこまでもつけあがる彼の国に、我々が少しでも異を唱えようとすると……あの所業です」
 エンリコの言葉に、徐々に熱が籠り始めた。
 彼の脳裏に過った出来事は、この場にいたほぼ全ての人間も同じように思い浮かべることができる。
 カルロスとてそれは例外ではない。
「国王陛下! 今一度お考え直しください! 彼の国は我が国をどこまでも下に見ています! どこまでも我々から搾取する気です! ならば断交、それに限るでしょう」
「ネレウスはルースから最も近い場所にある国だ。大陸の文化や物品はほぼ全てあの国を通して入ってくる。ルースの発展には不可欠な国だ」
「ネレウスと交易をしなくなったとしても、国民が最低限生活するだけの貯蓄や資源もあるでしょう! 国の発展と国民の誇りと命、どちらが重いかなんて明白です!」
 必死のエンリコの訴えにも、しかしカルロスの意思は変わらない様子だった。 
「条約締結は議会でも承認を得られたもの。その決定を今さら覆すこともできまい」 
「その議会が、国民が! ……ネレウスへの怨嗟を募らせているから進言しているのです」
 カルロスはエンリコの言葉に釣られるように、大講堂を見渡した。
 その視線の半数は、好意的ではないということに気づかない程、カルロスは愚かではない。
 そしてその理由が分からない程、愚かでもない。
 エンリコは憎悪の混ざったような声で絞り出した。
「……兄上は本当に、あの小娘一人の存在が現状打破の切り札になるとお思いか」
「その言葉は」
 僅かの間の後、カルロスはおもむろに議長席から立ち上がった。
 そうしてエンリコの側にまで歩み寄る。
「王妃への……いや、我が妻に対する侮辱とみてよいか?」
 エンリコの鼻先まで迫るカルロス。
 冷たい声音が、視線が、エンリコの胸を突き刺す。
 エンリコはまるで、今にも噛み千切られてしまうのではないかという錯覚すら覚える程だった。
 彼はふらつくようにして、一歩後退る。
 冷や汗が自分の背中を流れる感触が、嫌にハッキリと分かった。
「次はないと思え」
 そう言ってカルロスが議長席に戻るまでは、ほんの僅かの間だった。
 しかしその間は、その時のエンリコにとっては異常に長かった。
 カルロスがそんなエンリコのおののきに気づいたかどうか、彼には分からない。
 けれど常日頃からカルロスに対する鬱憤を溜め込んでいるエンリコは、たったの一言と一瞬の視線に気圧されたことに言外できぬ程の苛立ちを覚えているのだった。
 議長席に戻ったカルロス。
 けれどその座につくよりも先に、彼は再び大講堂を見つめた。
 そんか彼は、大講堂中に響くように声を張り上げた。
「皆の衷心は私の元にも、しかと届いている。だからこそ今は、目先のことから一つずつ解決していく他にない。国内に生じた問題を解決し、対外の問題に取りかかる足掛かりにしようではないか」
 実際彼の政をよく思わない人物の胸に、その言葉が届いたか、調べる術もない。
 けれど少なくとも、自分に敵意すら持っている人間の前でも、臆さず怯まずそう言い切った彼の姿はまさに『王』にふさわしいものだった。
 エンリコはただ、それを忌々しげに見ていた。 
 そんな自分の兄の存在が、忌々しかった。
 
 その後議会は恙無く終わった。
 エンリコはカルロスが大講堂から出ていくのを一旦は見送った。
 そしてカルロスの姿が見えなくなると、他の出席者に続いて大講堂を後にする。
 そして議会の出席者が銘々に帰路につく波に紛れるように、エンリコも大講堂を後にした。 
 彼はいつしかその波から逸れるように、城の脇道を進んだ。
 エンリコは城の中を進んだ。
 脇道、裏道、隠し通路。
 王族の者なら誰もが教えられる、道の数々。
 避難用にと誂えられたものだ。
 しかし王族にしか教えられない道を進むエンリコは、むしろコソ泥にでもなったような気分でいた。
 けれどこれは自身の使命を成就するための道程であると、エンリコは自分に言い聞かせながら歩くのだった。
 それを辿っていく内に、彼は岩場が剥き出しのままにされている場所に辿り着いた。
 断崖絶壁の真上に立つ、ルース国の城。
 その真下の、海に面した崖には城内に物資を運搬するための船を乗り入れさせるためのドックである。
 穿たれた洞穴に帆船が進入できるほどの深さの水路を引き、城へ続く荷運びの昇降機が掘られたそこは、モルガーナが輿入れの際に初めて降り立った場所である。
 大がかりな工事を施された洞穴であったけれど、実用性重視のその作りであったため、装飾はおろか梁も岩壁も剥き出しのまま。
 せいぜい朝も夜も闇に沈むこの洞穴を照らすランプと、労働者が休息に使うための簡素な机が並んでいるくらいだ。
 そんな場所に、エンリコはやって来た。
 彼のような身分の者には到底似つかわしくないその場所を、彼は歩いた。
 ふと、巨石の向こうで何かが蠢いた。
 掘削作業の折りに、重たすぎて運び出すことが叶わなかったのであろうか、水路脇の通路の一部を潰すように置かれた巨石である。
 視界の隅でそれを認識したエンリコは、それとなくその岩に背を預けるように凭れた。
「……国王を止めることは叶わなかった」
 囁くようなエンリコの声は、洞穴の暗闇の中へ消えていく。
 そして岩影にいたもの……それは全身に黒の装束を纏って、闇に紛れた人物だった。
「計画に変更はない。……明日の夜、実行する」
 エンリコはそう言うと、黒づくめの人物を振り返ることなくまた元来た道へと戻っていった。
 それからしばらくして、帆船が一艘その洞穴の中に進入してきた。
 そして船から下ろされた物資が、船員の手によって次々に昇降機に運び込まれていく。
 その最中、黒づくめの男が船へと乗り込んだ。
 船員の目を盗み、ほとんど均されていない洞穴の道を、男は足音一つ立てずにするりと船体を上っていった。
 無人の船を駈け、船倉の陰に身を潜める男。
 それからまたしばらくして、物資の運び込みが終わると船にロープがかけられ始めた。
 そして船員達がそのロープを引き、船を再び海原へと放つのだった。
 船に乗り込んだ不審な人物の存在は、終に気づかれることはなかった。 
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