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第九章 アールクヴィスト領は平和

第210話 新しい命

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「あああ……ああ……」

 アールクヴィスト領に帰還し、予定より一、二週間ほど早くクラーラが産気づいて出産準備に入っていると報告を受け、その日の夜更け。

 赤ん坊は夜明けまでには生まれるだろうと言われ、ノエインはそのときを待っていた。上級貴族家の当主らしくどっしりと構え……とはいかず、屋敷の居間で情けない声を出しながらそわそわそわそわと落ち着かず歩き回っている。

 出産の場は基本的に男子禁制であり、たとえ領主であろうと分娩室となっている部屋には入れない。それでも気になってすぐ近くの廊下まで歩いていっては、クラーラの苦しそうな声が聞こえて一人動揺しながら居間に戻ってくるという不毛な行為をくり返していた。

「の、ノエイン様っ! だ、大丈夫ですよ!」

「そうですよ! ……………………ですよ!」

「ああ……うん……ありがとう二人とも」

 領主夫人の出産という一大イベントの最中では、住み込みの従士たちも落ち着いていられない。深夜にも関わらずノエインとともに起きているクリスティとダミアンが励ましてくれるが、その言葉は拙く、頼りない。

「大丈夫ですだよ、おらは馬の出産を何度も手伝ってきたけど、母親っていうのはこの世で一番生命力が強い生き物ですだ。クラーラ様には優秀な産婆や医者がついてるんだから心配ないです」

「そうだね……そうだよね」

 同じく住み込みの従士であるヘンリクから幾分か説得力のある慰めの言葉をかけられて、ノエインはようやく少し落ち着いた。

 クラーラの出産に際して、屋敷にはアールクヴィスト領で最も助産経験の豊富な年配の領民女性が呼ばれ、さらに婦人会長である従士マイも手伝いに来ている。キンバリーやメアリー以下使用人たちもサポートに回っている。

 加えて、何かあったときのためにベテラン医師のセルファースと、助手としてリリスも待機している。おまけに、ノエインはこの日のために一瓶で平民の年収が飛ぶような高価な魔法薬も用意していた。

 さらに、ノエインはミレオン聖教の聖職者に――すなわちハセル司祭とその妻に屋敷の一室を貸して神への祈りを捧げてもらっていた。ノエインのように信心深くない貴族でも、重要な場面ではこうして神に頼ることは多い。

 これだけ万全の準備を整えて、悲しい事態が起こる可能性はごく小さい。赤ん坊についてはどうしても本人の生命力に頼る部分もあるが、少なくとも母体のクラーラが死ぬような確率は万が一以下だ。

 立場と金を用いてできる準備は全てした。だから大丈夫だ。そう自分に言い聞かせ、ノエインはようやく居間のソファに腰を落ち着けた。

「は~い、お茶が入りましたよ~。飲むと落ち着きますよ~」

 そこへ、ロゼッタが盆に人数分のお茶を乗せて居間に入ってきた。住み込みではないが使用人である彼女は、屋敷の一大事に家で寝ているわけにはいかないと出勤してくれている。

「……俺もマイの最初の出産のときは大概緊張したもんだ。気持ちは分かる」

「どうしたって、男はそわそわしちまうもんでさあ」

 テーブルを挟んでノエインの向かい側のソファに座っているのはユーリだ。さらに、その隣にはペンスもいる。二人の妻はそれぞれ仕事として屋敷に来ているが、彼らは重臣としての厚意でここに来て、ノエインの動揺に付き合っていた。

「そっかあ……二人でもやっぱり緊張したんだね」

「そりゃあな。妻と子が心配で仕方ないのに、男には何もやれることがないんだからな」

「子どもが産まれるなんて、ある意味で人生最大の出来事ですからね……俺は戦争の初陣より気を張ってましたよ」

 父親としては先輩である二人が話し相手を務めてくれることは、ノエインにとっても心強い。

 両親ともに領主家屋敷に参上していることから、ユーリとペンスの子どもたちも連れて来られている。

 まだ一歳そこらのユーリの娘ヨハナとペンスの息子ニコライは居間の隅のソファですやすやと眠りについているが、今年五歳になるユーリの長男ヤコフはまだ元気が余っているのか、起きて居間の中をもの珍しそうに見回っていた。

 と、そのヤコフがノエインのもとにとてとてと歩いて来て、ノエインを見上げる。

「ノエインさま、ふあんなのですか?」

「……そうだね、僕は今とても不安だよ」

 ノエインが微苦笑して答えると、ヤコフは小さな両手でノエインの手を握る。

「だいじょうぶです。ぼくが生まれたときは、”なんざん”だったとちちうえが言ってましたけど、ぼくはげんきにそだちました。だから、クラーラさまも、赤ちゃんもきっとだいじょうぶです」

「……ありがとうヤコフ、君はいい子だ」

 ノエインは微笑んでヤコフの頭を撫でる。彼とは何度も会って話したことがあるが、本当に聡明な子だと思う。この年で他の人間を気遣えるとは。

「ユーリ、素晴らしい嫡男を育て上げたね。僕の子どもの代の従士長は彼で決まりだ」

「まだ育ててる最中だぞ。それにこんなときの私情で役職を決めるんじゃない。ヤコフが本気にしちまう」

 ユーリが苦笑しながら答える。従士家は基本的に世襲だが、従士長職まで同じ家の人間が引き継ぐとは限らない。本人の能力や、役職が空くタイミングに左右される。

・・・・・

 その後も、ユーリたちから父親としてのアドバイスをもらったり、ロゼッタからお茶のお代わりをもらったりしつつ、ノエインは我が子が産まれるのを待つ。

 ちなみに、この場にマチルダはいない。彼女はノエインの代わりにクラーラに付き添い、励ましている。人生最大級にハラハラしているときに愛する女性が二人とも傍にいないのはノエインとしては非常に心細いが、さすがに今はクラーラが優先だ。

 ノエインはできるだけ平常心でいようと努めるが、それでもやはり気になってときどき分娩室の近くまでいき、そのせいでまた動揺しては居間で落ち着こうとするのをくり返す。

 従士たちはそんなノエインに付き合ってくれる。さすがにヤコフは途中でユーリが寝かせたが。

 ふと、どれくらい経っただろうかと思ってノエインが壁にかけられた時計の魔道具を見ると、時刻はもう午前二時だ。

 普段であればノエインも寝ている時間であるし、今日は領外から帰ったばかりの日。さすがに疲れを感じる。従士たちにも明日の仕事があるのだから休んでもらった方がいいだろうかと考えていると――

『……ャァ……ォャァ』

 偶々、居間が静まっていたタイミングだったので聞こえた。屋敷の奥から、分娩室の方から、確かに響いた。

 産声だ。

「っ!!」

 勢いよく立ち上がるノエイン。ユーリたちも産声が聞こえたようで、ハッとした表情になる。

「う、産まれた……!」

「みたいだな。ほら、早く行ってやれ」

「うん!」

 ユーリに促されて、ノエインはクラーラのいる分娩室に走る。

 居間を出て廊下を駆ける。すると、分娩室の方から走ってきたマチルダと鉢合った。おそらくノエインを呼びに来てくれたのか。

「マチルダ! さっき、赤ん坊の声が……!」

 期待と不安がごちゃ混ぜになった泣きそうな表情でノエインが言うと、マチルダは微笑んで答える。

「無事に産まれました。男の子です。お子様もクラーラ様もお元気です……おめでとうございます、ノエイン様」

「~~っ!!」

 それを聞いたノエインは感極まり、トントンと無意味に足踏みし、目を潤ませてマチルダの手を取る。

「やった、やったっ! ありがとうっ、ありがとうマチルダっ! ……それで、もう赤ん坊とクラーラには会えるっ?」

「ええ、そろそろ落ち着いたでしょうから……行きましょう」

 マチルダに手を引かれて、ノエインは分娩室へと続く廊下を歩く。自分の心臓がひどく高鳴っているのが分かった。

・・・・・

「どうぞ、旦那様」

「……うん」

 キンバリーに扉を開けられ、ノエインは分娩室に足を踏み入れる。

 お産の片づけでマイや助産役の領民女性、使用人たちが慌ただしく動く中で、ノエインは部屋の中央を見る。

 そこにはベッドの上で身を起こしたクラーラと、清潔な布にくるまれて彼女の腕に抱かれた小さな赤ん坊がいた。

「クラーラ……!」

 二人の傍に駆け寄り、クラーラと視線を合わせるように床に膝をつく。

「あなた……見て、私たちの……私たちの子どもです」

 汗だくでひどく疲れた様子のクラーラは、しかし表情は笑顔で抱いている赤ん坊に視線を移す。

「うん、うん……ありがとうクラーラ。よく頑張ったね、ありがとう」

 ノエインも目に涙を溜めながら我が子を見る。

 これが新しい命か。

 産まれたばかりの赤ん坊というのは、なんて繊細で、なんて神秘的なのだろう。

 これは生命の奇跡だ。自分は今、奇跡を目にしている。

 おまけに目の前の奇跡の結晶は、自分の血を継いでいるのだ。これほど嬉しい、これほど高揚することがこの世にあるなんて。

 そんな思いに満たされながら、ノエインは我が子を見つめ、その頬をそっと、わずかに指先が触れるかどうかという程度に撫でる。それに反応してか、赤ん坊が顔を動かす。

「……クラーラ」

「……はい、あなた」

 顔を上げてノエインが言うと、クラーラもノエインを見つめ返した。

「君は僕の子を産んでくれた。言葉にならないくらい嬉しい。本当に感謝してる……君とこの子のことは、僕が絶対に、一生守り続ける。約束する」

「……はい。ありがとうございます、あなた」

 ノエインの言葉を聞いたクラーラは、慈愛に満ちた笑顔を浮かべて涙を流した。

・・・・・

 出産で体力を消耗したクラーラと赤ん坊と触れ合うのは数分に留め、ノエインは部屋を出た。

 ノエインも明日は領主として仕事をしなければならない。居間に集まっていた従士たちに深夜まで付き合ってくれた礼を言って解散させ、自分はマチルダと寝室に入る。

 マチルダと二人きり、静かな環境になると、あらためて自分は父親になったのだという実感が湧いてくる。自分は妻と部下と領民だけでなく、自らの血を分けた子どもの命を、未来を、幸福を守る身になったのだと。

 それは何にも代えがたい喜びであり、同時に途方もない重責でもあった。

「……マチルダ。これからも僕の傍にいて、僕を支えてくれるね?」

 ベッドに寝転がったノエインは、灯りの魔道具を消そうとしていたマチルダを振り返って尋ねる。

「もちろんです、ノエイン様。私の愛と忠誠は永遠に揺らぐことはありません。何があっても私はあなたのお傍に」

 迷いなく答えたマチルダが、自分に向けてくれる微笑みを見て、ノエインは大きな安心感を覚えながら目を閉じた。
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