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第78話 盤面に並ぶもの
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国際ジュニア団体戦、大会9日目
予選リーグ最終日を迎えたこの日、聖と奏芽、姫子の三人はイタリアとオーストラリアの対戦を現地観戦していた。既にチームの勝敗は決しており、イタリアがオーストラリアに対しダブルス3連勝、シングルス1勝を挙げ、残る最後の女子シングルスも大詰めを迎えている。日本と対戦した際に、不幸にもアクシデントでリタイアしたティッキーが、オーストラリアの期待の新星である選手を圧倒し、今まさにとどめを刺そうとしていた。
「Game set and match Italy. 6-2,6-1」
ティッキーが強烈な一撃を決めてマッチポイントを奪うと、歓声がスタジアムを埋めつくす。ジュニアの試合であるというのに、大会中はどこの試合も多くの観客が詰めかけ、プロの試合さながらの盛り上がりを見せている。テニス自体の人気もさることながら、やはりギャンブルとして楽しむ者が多くいるのがその要因だろうと、奏芽は分析していた。
<マジで怪我の影響は無さそうだなァ。心配して損したぜ>
ティッキーの圧倒的なまでのプレーを見たアドが、心にも無いことをいう。とはいえ、実際に対戦したミヤビが試合のあと、かなりティッキーの具合を気にかけていた為、それが杞憂だったと知れたのは間違いない。心配して損をしたとは思わない聖だが、なんとなく心の荷が下りてほっとしたような気分だった。
「っつーかさ、オレ等はイタリアに勝ったけど、連戦だったせいもあってこのオーストラリアに負けてっからなぁ。なんだかんだ、Dリーグは獲得勝利数でイタリアが1位抜け確定だろこれで。で、オレ等が2位抜けって、ぶっちゃけ釈然としねぇわ」
炭酸水を飲みながら奏芽がいう。日本チームは結局、イタリアとスペインに勝利し、オーストラリアに敗北して2勝1敗。イタリアも日本と同じ2勝1敗だが、奏芽がいうように試合での獲得勝利数が大きく上回り1位通過となった。
「いいじゃん、決勝トーナメントでもしイタリアと対戦になったら、そこでリベンジすればさっ! 一度勝ってる相手とまた対戦する可能性があるんだから、ラッキーだと思わない? ね、セイくん?」
「あぁ、そうだね」
姫子にしては、珍しく強気な発言をするなと思いながら同意する聖。
「あ~、ハラ減った。混む前にメシ食いに行こうぜ」
「奏芽、サンドイッチとかエナジーバーとか食べてたのに」
「足んねぇよ、観るのも体力使うだろ。つか姫子はもっと肉つけろよ」
「女子にそういうこと言わないで」
「聖も腹減ってるだろ? デカリョウが勧めてたアメリカサイズの肉食おうぜ」
「セイくん?」
コートを見ていた聖が、呼ばれてハっとする。
「え、うん、お腹空いてるし、行こうか」
「どうかしたか?」
「いや、なんでもない、行こう」
誤魔化すようにいって、スタジアムを出る3人。去り際、聖はもう一度コートに視線を向ける。勝ったイタリアチームのメンバーが、はしゃぐようにしてティッキーの勝利を称え合っていた。
(距離あるし、気のせいかな。蓮司とやったあの人、こっちを見てたような)
★
「スズさん、結局あの水着買ったんですか?」
「買った。なんならシャツの下に着て部屋まで行ってチラ見せした」
「マジ!? で、で!? そんときのひじリンの反応は!?」
「『あ、あの! この後ちょっと奏芽たちとヤクソクガ!』って」
「なんなんだよマジでアイツ! それでも男か!」
「逆にすごいわ~。あたしが男ならスズさんの誘惑に勝つ自信ないし」
「あの子の一途っぷりは筋金入りだよ。ハルナちゃん愛され過ぎ」
「スズさんは実際、ひじリンにマジなんですか? それとも遊び?」
「どうかな~? イタリアの時は割と本気で惚れそうだったけど……」
聖たちがイタリアとオーストラリアの試合を観戦している丁度同じ頃、オープンテラスのカフェにミヤビ、スズナ、そして桐澤姉妹の4人の姿があった。散々スイーツを食べ散らかしたあと、スズナと桐澤姉妹は本人がいないのを良いことに、聖の話で盛り上がっている。だが、ミヤビの前に置かれたパンケーキだけはほとんど手がつかずに残っていた。
「ちょっとミヤびん、そんな気になるなら観に行けば良かったじゃん」
会話に参加せず、ストローを咥えて黙っているミヤビに、スズナが声をかける。イタリア戦以降、ミヤビはずっとティッキーのことを気にかけていた。せめて一度ぐらい挨拶に行こうと思ったのだが、話を通す為に監督である金俣に話したところ「余計な事はするな」とイタリアとの接触を禁じられてしまったのだ。
「んまぁ、イタリアがきな臭いっぽいのは事実だからね。デカ・マサも、試合中にもしかしたら相手が妨害受けたんじゃないかって言ってたし。実際あんたも、そのとき会場の外で妙なのと話してるんでしょ? あの後、あたしもちょっと調べたけど、イタリアに関わると洒落にならないみたいな話し結構でてきたよ~? ウチの監督はあたしもちょっと好きじゃないけどさ、選手の安全考えたら、あながち理不尽ってワケでもないんじゃない?」
スズナの言うことが正しいのは、ミヤビも承知している。昔と違い、今は国内でも最先端のトレーニングを受けられるため、アメリカやヨーロッパといったテニス先進国へわざわざ留学しなくても良くなった。だがその反面、日本のジュニア選手は海外選手の実情に疎くなったともいえる。そんなミヤビたちにとって、イタリアで起こった八百長事件は幼い頃に起こった過去のことだが、現実には未だに尾を引いている触れ難い事柄のようだ。プロ選手の心構えを学ぶ研修で、国外の事情について知識として知ってはいたが、まさか本当にその一端に触れることになるとは思わなかった。
「つか、イタリアは昨日だか一昨日にスペインに勝ったんでしょ」
桐澤姉妹の姉である雪菜が口を挟む。それに対し、妹の雪乃が答えるが、声が同じなので目を瞑って聞くと独り言か、もしくは一人二役のように聞こえる。
「ウチらの時と違って、スペインはダブルスで3タテ食らって、その後のシングルスは男女両方棄権したらしいよ」
「はー? それ許されるわけ?」
「チームの勝敗が決まったら、実質エキシビみたいなもんだしね。下手に疲れ残したり、それこそ消化試合で選手に怪我でもされたら困るから、戦略的判断ってやつじゃない?」
「なにが情熱の国だよ、めっちゃドライじゃん」
「ていうか、そもそもスペインはこの大会に本気じゃないんでしょ」
スペインは昔からテニス大国ゆえ、プロ、ジュニア共に非常に選手層が厚い。そしてここ十数年は、ジュニア時代の実績をあまり重要視しない傾向がある。どのスポーツにも言えることだが、若年層で活躍した選手が必ずしもプロで大成するとは限らない。スポーツのプロを目指す子供たちを積極的に支援する一方、あくまでプロ選手になるのは選択肢の一つであると割り切り、本当にその子供がプロの世界で活躍できるかどうかを慎重に吟味する。それがスペイン全体のスポーツに対するスタンスだった。その為、ジュニアの世界大会に出場する選出基準は、実力よりも本人の意志を尊重しているという。
「ま、お陰でスペインに勝てたんだけど」
「うちらは負けましたけどねー」
わはは、と笑う桐澤姉妹。この二人は、場を和ますためにピエロ役になるのを厭わない。年下に気を遣わせてしまってるなぁとミヤビは思うのだが、残念ながら気が晴れるには至らず、曖昧な愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「てゆかさ、もしかしたらどっかその辺でバッタリ会うこともあるかもよ? ご飯とか買い物とか、あとは練習コートとか? お互い勝ち残ったことだし、機会はあるでしょ。それこそ、決勝トーナメントでまた顔合わせるかもよ。心配しなさんな」
スズナが真面目な顔でいうので、ミヤビもさすがに気持ちを切り替えようと、手が止まっていたクリームのたっぷり乗ったパンケーキを頬張る。日本とは異なるやけに甘いそれを飲み込むと、珈琲で口を整えた。
「そうですね。すいません、なんか気を遣わせちゃって」
「そんなことは良いんだよ別に。それよりさぁ」
「そうだ、それよりも!」
「こっちは聞きたいんだ」
3人が急に真剣な眼差しでミヤビを見つめてくる。戸惑うミヤビだが、この3人がこういう顔をするときは大抵ロクなものではない。
「あんた、レンレンとはどこまで行ったの?」
やっぱりそれか、と、ミヤビは胸中で苦笑いを浮かべた。
★
日本チームがイタリアに勝利した翌日
薄暗い部屋のなかは、物々しい雰囲気に満ちていた。ブラックスーツに身を包んだ幾人かの男が、隠そうともせず拳銃や自動小銃を抱えて壁沿いに控えている。部屋の中央には車椅子に乗った男と、その背後に2mは越えそうな大男。その対面には、古めかしくも瀟洒な机に、両肘を立て口元を隠すように手を組んで座っているグレースーツの男。そしてその男の斜め後ろには、煉瓦色のスーツをまとった側近らしき男が忠犬の様に立っている。
「日本は我々アメリカの大切なパートナー。参加している選手達にはこの大会で重要な役割がある。リアル・ブルームのマネキン女は、確かにそう言ったんだな?」
グレースーツの男が、確かめるように尋ねる。
「えぇ、そうです。やつは確かに、間違いなくそう言いました」
イタリアの選手の目を焼き、また自らも両目を焼かれた男が、命乞いでもするかのようにいう。目隠しのように包帯が巻かれ、車椅子に座ったその姿は、法廷の真ん中で証言台に立つ証人のよう。だがここは、裁判所などではない。どちらかといえば、発言を一つ間違えようものなら、即座に床が開いてそのまま地獄へと真っ逆さまとなる処刑場だ。世界最大規模を誇るロシアンマフィア。母国の世界的国力が衰えて尚、彼らの獰猛さと凶悪な威光に翳りは無い。男が連れてこられたのは、そんなロシアンマフィアが掌握している複数の下部組織のうちのひとつだった。裏社会に於いても要地であるマイアミを拠点にしているだけあって、そんじょそこらのチンピラが集まるような、生ぬるい場所ではなかった。
「ところで、下っ端野郎、目の具合はどうだ。医者の見立ては?」
急に自分のことを尋ねられ、シェスチョルカは困惑する。当然のことながら、自分の立場を考えれば嘘は許されない。だが、正直に答えてもし使い物にならないと判断されたら? 自分は所詮、在米ロシア人のチンピラに過ぎない。医者がいうには、この傷は癒えるにしても最低三か月以上はかかるし、後遺症で大きく視力が低下すると言っていた。三か月以上もの間、自分は組織の役に立てそうもない。ただでさえ、イタリア人に捕縛されるという失態を犯しているのだ。どう言葉を弄すれば命が助かるか、男は知恵を絞るが、発言が遅れればそれもまた致命傷になる。
「申し訳ありません、仲介者。医者がいうには最低三か月、視力は戻らないと」
一瞬のうちに目まぐるしく思考を巡らせた結果、シェスチョルカはただただ正直に答えた。何のことはない、今この場でこうなっている時点で、もう自分に選択肢は無いのだ。下手に誤魔化せば、余計に自分の首を絞める可能性が高まるだけ。何をどう答えようと、失態を覆す手段を提案できない。期待するだけ無駄だが、せめて正直に喋って、相手の情けに賭けるより他なかった。
ブリガディアが席を立ち、自分に近寄るのを気配で感じるシェスチョルカ。今すぐ逃げ出したいが、車椅子を制しているのは後ろに立っている大男だ。この場から逃げる方法など無い。ゆっくり近づく男から、右腕を持ち上げるような気配と衣擦れの音が微かに聞こえる。あぁ、撃たれる。シェスチョルカはぼんやりと思った。
「そうか、失明は免れたんだな。良かったじゃないか」
額に冷たい死の感触を覚えるかと思ったら、意外なことにそうではなかった。シェスチョルカの顎に、ブリガディアの太い指先が触れる。女を口説くかのように、少し顔を上向けさせられる。
「オマエはよくやった。いい仕事をしたぞ。目は気の毒だったが心配するな。ちゃあんと我々と懇意にしている医者に診せてやる。お前のような有能な男に三か月も休まれるのはちと痛いが、なあに、これも投資だ。治ったらまた、役に立ってくれるよな?」
思いがけぬ言葉に、気が動転しそうになるシェスチョルカ。生き延びた? それとも油断させておいて次の瞬間殺される? 希望と絶望が頭のなかでゴチャゴチャに駆け巡り、気付けばブリガディアの手を握って嗚咽を漏らしながら、感謝と謝罪の言葉を繰り返していた。
「仲介者、本当にあれを処分されないのですか?」
上司が咥えた煙草に恭しく火をともしながら、煉瓦色のスーツに身を包んだ側近の男が尋ねる。ゆっくりと煙を吸い込んだブリガディアは、肺を満たした紫煙を幸せそうに吐き出し口元を歪ませる。嗤笑を浮かべ、テーブルに置いてあるチェスの駒に手を伸ばし、盤の上にひとつ置く。コツン、と、小気味よい音が鳴る。
「共通の敵がいれば、人類は結束する。そんなものは映画のなかだけだ」
ゆっくりと駒を並べながら、ブリガディアは独り言をつぶやく。
「我々を欧州のスポーツマーケットから追い出した時、確かにいくつかの国は結託した。だがそれは、そう見えるだけ。たまたまそれぞれの利益を追求した結果、我々を敵とするのが最も効率が良いと思ったからこそ、とりあえず寄せ集まったに過ぎない。連中は真の意味では結束などしていない。現に、イタリアを見せしめの様になぶり続けても、奴等は助けようとしないだろう? その気になれば助けられるのに、だ。八百長事件も随分と杜撰なやり口だったが、結局あれが上手くいったのも、当時イタリアの選手が多く活躍していたからだ。ライバル選手を少しでも減らそうという、消極的な協力のお陰、というわけさ」
コツン、コツンと小気味よい音を立て、駒が並べられていく。
「イタリアのガキ共は確かに目障りだが、今はひとまず放っておいても良いだろう。問題は、我々の怨敵であるアメリカだ。アンクルサムの豚共は、この世界的なスポーツバブルに乗じて、大がかりな悪巧みを考えている。日本と協力関係になりたいのはGAKSO絡みとみて間違いない。国に縛られないとはいえ、プロフェッサー新星は日本人だからな。正体不明の『ジェノ・アーキア』なる何かが、恐らく関係しているのだろう」
盤上に駒が並ぶ。だがそれは、ゲームの開始位置ではない。
「世界で起こっているスポーツバブルによってできた巨大なマーケットは、今のところ誰のものでもない。種目によって、あるいは管理団体によって、あるいは選手の良し悪しによって流動的に掴みどころのないものとなっているからだ。各国が自国の選手を活躍させようと、あれやこれやと裏工作をするものだから、混乱に拍車がかかっている。愉快なほどにな。特にテニスは、男子選手をATP、女子選手をWTA、ジュニア選手をITFがそれぞれの思惑でまとめようとしている。さらに競技の特性上、大会が年中世界各地で開催されるお陰で、他のメジャースポーツ以上に賭け事として人気が高い」
駒がランダムに並んだチェス盤に、ブリガディアは古い金貨を数枚載せる。
「それぞれの国や団体が賭けているのは、金か、名誉か、或いは未来か。今にまた、大きな波が訪れるぞ。そして戦争に代わる、一見すると公平なようで、もっとタチの悪い争いが起こるだろう。人の流れも金の流れもゴッチャになって、世界経済はまるごと大混乱に陥るだろうさ。だが、その方がずっと健全じゃないか。生き残りを賭けて戦うんだからな。軍事力を使った威力外交よりも、スポーツを隠れ蓑にした生存競争なら、少なくとも人死はずっと減る。ただ、大義が立てば人は容易に倫理を踏み越え、自ら作った縛りを放棄するからな。人死の方がマシ、なんてこともあるかもしれんなぁ」
嘲るように小さく笑うブリガディア。
「アメリカは既に、その準備をしている、ということですか」
話の意図を測りかねた側近の男は、理解を確かめるように尋ねる。
「そうだ。連中はいつだって抜かりない。自分たちだけが有利にことを運べるようにしたがるのが、あいつらのやり口だ。そしてその骨子が恐らく『ジェノ・アーキア』なんだろう。なんなのかは知らんがね。大方、どんなドーピングにも引っ掛からない類の不正行為じゃないか? GAKSO絡みであると考えれば、何かしらの科学技術か、もしくは脳手術とかだろう。なんにせよ、ロクなもんじゃないのは確かだ。しかしまぁ、そこに関わっているあのマネキン女は、少々思い上がっているようだな?」
ブリガディアは懐から銃を抜くと、そこから弾丸を取り出してチェス盤に置く。続いて何かの錠剤が入った小瓶を並べ、指に嵌めていた銀細工の指輪をキングの駒に王冠のようにかぶせた。チェスの駒、金貨、小瓶、そして指輪がチェス盤に並ぶ。考え事をするとき、こうして手遊びをするのがこの男の癖だった。
「そうか。アンクルサムに揺さぶりをかける良い手がある。確か、マイアミで世話をしてやってる下っ端野郎どものなかには、イタ公のガキが数人いただろう。そいつらに――」
盤上の駒のうち、ポーンを指でつまんで、ブリガディアは言う。
「大会出場中の日本人を一人、攫わせろ」
吐き出された紫煙が、チェス盤の上を舐めるように揺蕩った。
続く
予選リーグ最終日を迎えたこの日、聖と奏芽、姫子の三人はイタリアとオーストラリアの対戦を現地観戦していた。既にチームの勝敗は決しており、イタリアがオーストラリアに対しダブルス3連勝、シングルス1勝を挙げ、残る最後の女子シングルスも大詰めを迎えている。日本と対戦した際に、不幸にもアクシデントでリタイアしたティッキーが、オーストラリアの期待の新星である選手を圧倒し、今まさにとどめを刺そうとしていた。
「Game set and match Italy. 6-2,6-1」
ティッキーが強烈な一撃を決めてマッチポイントを奪うと、歓声がスタジアムを埋めつくす。ジュニアの試合であるというのに、大会中はどこの試合も多くの観客が詰めかけ、プロの試合さながらの盛り上がりを見せている。テニス自体の人気もさることながら、やはりギャンブルとして楽しむ者が多くいるのがその要因だろうと、奏芽は分析していた。
<マジで怪我の影響は無さそうだなァ。心配して損したぜ>
ティッキーの圧倒的なまでのプレーを見たアドが、心にも無いことをいう。とはいえ、実際に対戦したミヤビが試合のあと、かなりティッキーの具合を気にかけていた為、それが杞憂だったと知れたのは間違いない。心配して損をしたとは思わない聖だが、なんとなく心の荷が下りてほっとしたような気分だった。
「っつーかさ、オレ等はイタリアに勝ったけど、連戦だったせいもあってこのオーストラリアに負けてっからなぁ。なんだかんだ、Dリーグは獲得勝利数でイタリアが1位抜け確定だろこれで。で、オレ等が2位抜けって、ぶっちゃけ釈然としねぇわ」
炭酸水を飲みながら奏芽がいう。日本チームは結局、イタリアとスペインに勝利し、オーストラリアに敗北して2勝1敗。イタリアも日本と同じ2勝1敗だが、奏芽がいうように試合での獲得勝利数が大きく上回り1位通過となった。
「いいじゃん、決勝トーナメントでもしイタリアと対戦になったら、そこでリベンジすればさっ! 一度勝ってる相手とまた対戦する可能性があるんだから、ラッキーだと思わない? ね、セイくん?」
「あぁ、そうだね」
姫子にしては、珍しく強気な発言をするなと思いながら同意する聖。
「あ~、ハラ減った。混む前にメシ食いに行こうぜ」
「奏芽、サンドイッチとかエナジーバーとか食べてたのに」
「足んねぇよ、観るのも体力使うだろ。つか姫子はもっと肉つけろよ」
「女子にそういうこと言わないで」
「聖も腹減ってるだろ? デカリョウが勧めてたアメリカサイズの肉食おうぜ」
「セイくん?」
コートを見ていた聖が、呼ばれてハっとする。
「え、うん、お腹空いてるし、行こうか」
「どうかしたか?」
「いや、なんでもない、行こう」
誤魔化すようにいって、スタジアムを出る3人。去り際、聖はもう一度コートに視線を向ける。勝ったイタリアチームのメンバーが、はしゃぐようにしてティッキーの勝利を称え合っていた。
(距離あるし、気のせいかな。蓮司とやったあの人、こっちを見てたような)
★
「スズさん、結局あの水着買ったんですか?」
「買った。なんならシャツの下に着て部屋まで行ってチラ見せした」
「マジ!? で、で!? そんときのひじリンの反応は!?」
「『あ、あの! この後ちょっと奏芽たちとヤクソクガ!』って」
「なんなんだよマジでアイツ! それでも男か!」
「逆にすごいわ~。あたしが男ならスズさんの誘惑に勝つ自信ないし」
「あの子の一途っぷりは筋金入りだよ。ハルナちゃん愛され過ぎ」
「スズさんは実際、ひじリンにマジなんですか? それとも遊び?」
「どうかな~? イタリアの時は割と本気で惚れそうだったけど……」
聖たちがイタリアとオーストラリアの試合を観戦している丁度同じ頃、オープンテラスのカフェにミヤビ、スズナ、そして桐澤姉妹の4人の姿があった。散々スイーツを食べ散らかしたあと、スズナと桐澤姉妹は本人がいないのを良いことに、聖の話で盛り上がっている。だが、ミヤビの前に置かれたパンケーキだけはほとんど手がつかずに残っていた。
「ちょっとミヤびん、そんな気になるなら観に行けば良かったじゃん」
会話に参加せず、ストローを咥えて黙っているミヤビに、スズナが声をかける。イタリア戦以降、ミヤビはずっとティッキーのことを気にかけていた。せめて一度ぐらい挨拶に行こうと思ったのだが、話を通す為に監督である金俣に話したところ「余計な事はするな」とイタリアとの接触を禁じられてしまったのだ。
「んまぁ、イタリアがきな臭いっぽいのは事実だからね。デカ・マサも、試合中にもしかしたら相手が妨害受けたんじゃないかって言ってたし。実際あんたも、そのとき会場の外で妙なのと話してるんでしょ? あの後、あたしもちょっと調べたけど、イタリアに関わると洒落にならないみたいな話し結構でてきたよ~? ウチの監督はあたしもちょっと好きじゃないけどさ、選手の安全考えたら、あながち理不尽ってワケでもないんじゃない?」
スズナの言うことが正しいのは、ミヤビも承知している。昔と違い、今は国内でも最先端のトレーニングを受けられるため、アメリカやヨーロッパといったテニス先進国へわざわざ留学しなくても良くなった。だがその反面、日本のジュニア選手は海外選手の実情に疎くなったともいえる。そんなミヤビたちにとって、イタリアで起こった八百長事件は幼い頃に起こった過去のことだが、現実には未だに尾を引いている触れ難い事柄のようだ。プロ選手の心構えを学ぶ研修で、国外の事情について知識として知ってはいたが、まさか本当にその一端に触れることになるとは思わなかった。
「つか、イタリアは昨日だか一昨日にスペインに勝ったんでしょ」
桐澤姉妹の姉である雪菜が口を挟む。それに対し、妹の雪乃が答えるが、声が同じなので目を瞑って聞くと独り言か、もしくは一人二役のように聞こえる。
「ウチらの時と違って、スペインはダブルスで3タテ食らって、その後のシングルスは男女両方棄権したらしいよ」
「はー? それ許されるわけ?」
「チームの勝敗が決まったら、実質エキシビみたいなもんだしね。下手に疲れ残したり、それこそ消化試合で選手に怪我でもされたら困るから、戦略的判断ってやつじゃない?」
「なにが情熱の国だよ、めっちゃドライじゃん」
「ていうか、そもそもスペインはこの大会に本気じゃないんでしょ」
スペインは昔からテニス大国ゆえ、プロ、ジュニア共に非常に選手層が厚い。そしてここ十数年は、ジュニア時代の実績をあまり重要視しない傾向がある。どのスポーツにも言えることだが、若年層で活躍した選手が必ずしもプロで大成するとは限らない。スポーツのプロを目指す子供たちを積極的に支援する一方、あくまでプロ選手になるのは選択肢の一つであると割り切り、本当にその子供がプロの世界で活躍できるかどうかを慎重に吟味する。それがスペイン全体のスポーツに対するスタンスだった。その為、ジュニアの世界大会に出場する選出基準は、実力よりも本人の意志を尊重しているという。
「ま、お陰でスペインに勝てたんだけど」
「うちらは負けましたけどねー」
わはは、と笑う桐澤姉妹。この二人は、場を和ますためにピエロ役になるのを厭わない。年下に気を遣わせてしまってるなぁとミヤビは思うのだが、残念ながら気が晴れるには至らず、曖昧な愛想笑いを浮かべるのが精一杯だった。
「てゆかさ、もしかしたらどっかその辺でバッタリ会うこともあるかもよ? ご飯とか買い物とか、あとは練習コートとか? お互い勝ち残ったことだし、機会はあるでしょ。それこそ、決勝トーナメントでまた顔合わせるかもよ。心配しなさんな」
スズナが真面目な顔でいうので、ミヤビもさすがに気持ちを切り替えようと、手が止まっていたクリームのたっぷり乗ったパンケーキを頬張る。日本とは異なるやけに甘いそれを飲み込むと、珈琲で口を整えた。
「そうですね。すいません、なんか気を遣わせちゃって」
「そんなことは良いんだよ別に。それよりさぁ」
「そうだ、それよりも!」
「こっちは聞きたいんだ」
3人が急に真剣な眼差しでミヤビを見つめてくる。戸惑うミヤビだが、この3人がこういう顔をするときは大抵ロクなものではない。
「あんた、レンレンとはどこまで行ったの?」
やっぱりそれか、と、ミヤビは胸中で苦笑いを浮かべた。
★
日本チームがイタリアに勝利した翌日
薄暗い部屋のなかは、物々しい雰囲気に満ちていた。ブラックスーツに身を包んだ幾人かの男が、隠そうともせず拳銃や自動小銃を抱えて壁沿いに控えている。部屋の中央には車椅子に乗った男と、その背後に2mは越えそうな大男。その対面には、古めかしくも瀟洒な机に、両肘を立て口元を隠すように手を組んで座っているグレースーツの男。そしてその男の斜め後ろには、煉瓦色のスーツをまとった側近らしき男が忠犬の様に立っている。
「日本は我々アメリカの大切なパートナー。参加している選手達にはこの大会で重要な役割がある。リアル・ブルームのマネキン女は、確かにそう言ったんだな?」
グレースーツの男が、確かめるように尋ねる。
「えぇ、そうです。やつは確かに、間違いなくそう言いました」
イタリアの選手の目を焼き、また自らも両目を焼かれた男が、命乞いでもするかのようにいう。目隠しのように包帯が巻かれ、車椅子に座ったその姿は、法廷の真ん中で証言台に立つ証人のよう。だがここは、裁判所などではない。どちらかといえば、発言を一つ間違えようものなら、即座に床が開いてそのまま地獄へと真っ逆さまとなる処刑場だ。世界最大規模を誇るロシアンマフィア。母国の世界的国力が衰えて尚、彼らの獰猛さと凶悪な威光に翳りは無い。男が連れてこられたのは、そんなロシアンマフィアが掌握している複数の下部組織のうちのひとつだった。裏社会に於いても要地であるマイアミを拠点にしているだけあって、そんじょそこらのチンピラが集まるような、生ぬるい場所ではなかった。
「ところで、下っ端野郎、目の具合はどうだ。医者の見立ては?」
急に自分のことを尋ねられ、シェスチョルカは困惑する。当然のことながら、自分の立場を考えれば嘘は許されない。だが、正直に答えてもし使い物にならないと判断されたら? 自分は所詮、在米ロシア人のチンピラに過ぎない。医者がいうには、この傷は癒えるにしても最低三か月以上はかかるし、後遺症で大きく視力が低下すると言っていた。三か月以上もの間、自分は組織の役に立てそうもない。ただでさえ、イタリア人に捕縛されるという失態を犯しているのだ。どう言葉を弄すれば命が助かるか、男は知恵を絞るが、発言が遅れればそれもまた致命傷になる。
「申し訳ありません、仲介者。医者がいうには最低三か月、視力は戻らないと」
一瞬のうちに目まぐるしく思考を巡らせた結果、シェスチョルカはただただ正直に答えた。何のことはない、今この場でこうなっている時点で、もう自分に選択肢は無いのだ。下手に誤魔化せば、余計に自分の首を絞める可能性が高まるだけ。何をどう答えようと、失態を覆す手段を提案できない。期待するだけ無駄だが、せめて正直に喋って、相手の情けに賭けるより他なかった。
ブリガディアが席を立ち、自分に近寄るのを気配で感じるシェスチョルカ。今すぐ逃げ出したいが、車椅子を制しているのは後ろに立っている大男だ。この場から逃げる方法など無い。ゆっくり近づく男から、右腕を持ち上げるような気配と衣擦れの音が微かに聞こえる。あぁ、撃たれる。シェスチョルカはぼんやりと思った。
「そうか、失明は免れたんだな。良かったじゃないか」
額に冷たい死の感触を覚えるかと思ったら、意外なことにそうではなかった。シェスチョルカの顎に、ブリガディアの太い指先が触れる。女を口説くかのように、少し顔を上向けさせられる。
「オマエはよくやった。いい仕事をしたぞ。目は気の毒だったが心配するな。ちゃあんと我々と懇意にしている医者に診せてやる。お前のような有能な男に三か月も休まれるのはちと痛いが、なあに、これも投資だ。治ったらまた、役に立ってくれるよな?」
思いがけぬ言葉に、気が動転しそうになるシェスチョルカ。生き延びた? それとも油断させておいて次の瞬間殺される? 希望と絶望が頭のなかでゴチャゴチャに駆け巡り、気付けばブリガディアの手を握って嗚咽を漏らしながら、感謝と謝罪の言葉を繰り返していた。
「仲介者、本当にあれを処分されないのですか?」
上司が咥えた煙草に恭しく火をともしながら、煉瓦色のスーツに身を包んだ側近の男が尋ねる。ゆっくりと煙を吸い込んだブリガディアは、肺を満たした紫煙を幸せそうに吐き出し口元を歪ませる。嗤笑を浮かべ、テーブルに置いてあるチェスの駒に手を伸ばし、盤の上にひとつ置く。コツン、と、小気味よい音が鳴る。
「共通の敵がいれば、人類は結束する。そんなものは映画のなかだけだ」
ゆっくりと駒を並べながら、ブリガディアは独り言をつぶやく。
「我々を欧州のスポーツマーケットから追い出した時、確かにいくつかの国は結託した。だがそれは、そう見えるだけ。たまたまそれぞれの利益を追求した結果、我々を敵とするのが最も効率が良いと思ったからこそ、とりあえず寄せ集まったに過ぎない。連中は真の意味では結束などしていない。現に、イタリアを見せしめの様になぶり続けても、奴等は助けようとしないだろう? その気になれば助けられるのに、だ。八百長事件も随分と杜撰なやり口だったが、結局あれが上手くいったのも、当時イタリアの選手が多く活躍していたからだ。ライバル選手を少しでも減らそうという、消極的な協力のお陰、というわけさ」
コツン、コツンと小気味よい音を立て、駒が並べられていく。
「イタリアのガキ共は確かに目障りだが、今はひとまず放っておいても良いだろう。問題は、我々の怨敵であるアメリカだ。アンクルサムの豚共は、この世界的なスポーツバブルに乗じて、大がかりな悪巧みを考えている。日本と協力関係になりたいのはGAKSO絡みとみて間違いない。国に縛られないとはいえ、プロフェッサー新星は日本人だからな。正体不明の『ジェノ・アーキア』なる何かが、恐らく関係しているのだろう」
盤上に駒が並ぶ。だがそれは、ゲームの開始位置ではない。
「世界で起こっているスポーツバブルによってできた巨大なマーケットは、今のところ誰のものでもない。種目によって、あるいは管理団体によって、あるいは選手の良し悪しによって流動的に掴みどころのないものとなっているからだ。各国が自国の選手を活躍させようと、あれやこれやと裏工作をするものだから、混乱に拍車がかかっている。愉快なほどにな。特にテニスは、男子選手をATP、女子選手をWTA、ジュニア選手をITFがそれぞれの思惑でまとめようとしている。さらに競技の特性上、大会が年中世界各地で開催されるお陰で、他のメジャースポーツ以上に賭け事として人気が高い」
駒がランダムに並んだチェス盤に、ブリガディアは古い金貨を数枚載せる。
「それぞれの国や団体が賭けているのは、金か、名誉か、或いは未来か。今にまた、大きな波が訪れるぞ。そして戦争に代わる、一見すると公平なようで、もっとタチの悪い争いが起こるだろう。人の流れも金の流れもゴッチャになって、世界経済はまるごと大混乱に陥るだろうさ。だが、その方がずっと健全じゃないか。生き残りを賭けて戦うんだからな。軍事力を使った威力外交よりも、スポーツを隠れ蓑にした生存競争なら、少なくとも人死はずっと減る。ただ、大義が立てば人は容易に倫理を踏み越え、自ら作った縛りを放棄するからな。人死の方がマシ、なんてこともあるかもしれんなぁ」
嘲るように小さく笑うブリガディア。
「アメリカは既に、その準備をしている、ということですか」
話の意図を測りかねた側近の男は、理解を確かめるように尋ねる。
「そうだ。連中はいつだって抜かりない。自分たちだけが有利にことを運べるようにしたがるのが、あいつらのやり口だ。そしてその骨子が恐らく『ジェノ・アーキア』なんだろう。なんなのかは知らんがね。大方、どんなドーピングにも引っ掛からない類の不正行為じゃないか? GAKSO絡みであると考えれば、何かしらの科学技術か、もしくは脳手術とかだろう。なんにせよ、ロクなもんじゃないのは確かだ。しかしまぁ、そこに関わっているあのマネキン女は、少々思い上がっているようだな?」
ブリガディアは懐から銃を抜くと、そこから弾丸を取り出してチェス盤に置く。続いて何かの錠剤が入った小瓶を並べ、指に嵌めていた銀細工の指輪をキングの駒に王冠のようにかぶせた。チェスの駒、金貨、小瓶、そして指輪がチェス盤に並ぶ。考え事をするとき、こうして手遊びをするのがこの男の癖だった。
「そうか。アンクルサムに揺さぶりをかける良い手がある。確か、マイアミで世話をしてやってる下っ端野郎どものなかには、イタ公のガキが数人いただろう。そいつらに――」
盤上の駒のうち、ポーンを指でつまんで、ブリガディアは言う。
「大会出場中の日本人を一人、攫わせろ」
吐き出された紫煙が、チェス盤の上を舐めるように揺蕩った。
続く
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