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期待と不安

3 秘密を守る

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 アーロンにも情景が見えてきた。
 貴族への国庫負担がなくなった頃からハリーの命を狙っていたと思われる、フリートウッド家兄弟。
 ハリーは、長男のフォルカーは除外していた。
 次男のエッケハルトは行方不明だったから除外。
 四男のヴィンツェンツには大した能力はない。
 残るのは三男のゴットヘルフという事になる。
 そこでカミルかヴァルター、あるいは二人とも、三男に目を付けてはいたが、なかなかしっぽを掴めない。
 ヴァルターが云っていた。───イェルンの件の黒幕は、別で調べている件の重要参考人なんだ、と。
 このタイミングでヴィンツェンツが襲われた。いや、本当に襲われたのかどうかは分からない。もしかしたらゴットヘルフに襲われる前に、姿を隠されたのかも知れない、とアーロンは考える。先手を打っておいて、ゴットヘルフを呼びつける。カミルは優位に話が出来るだろう。
 背筋に冷たいものを感じながら、アーロンはカミルの部屋のドアをノックした。
「今朝、指示を頂いた件で、報告に参りました、陛下」
「ああ。その件なら、もういい」
 でしょうね。───予想通り過ぎて、次のアクションを図りかねるアーロン。ドアの前に立ち尽くす。
 カミルは執務デスクの電話を取って、アーロンには『待て』のジェスチャーをする。
「ああ、僕だ。例の件、早速進めてくれ」
 とだけ云って、電話を置いた。
 秘書らしき人物がカミルに近付き、書類を見せながら指示を受けているようだ。
 こうして見ると、ワイシャツにスラックスのカミルはもう大人だ。まあ、この年に成人を迎えるのだから、既にそれに相応しい体格にはなっている。しかし病気になって未だに病院に通っている日々で、発病前よりかなり痩せている。
───机に手をついてんじゃん。辛いんじゃないのか。
 後ろ姿なので、カミルの表情までは分からない。
 すると、カミルはデスクを廻って執務椅子に座り、書類におそらくサインをする。秘書の男性は書類の一枚一枚に指を指す。
───やっぱり顔色悪いな。
 それでも手を抜かず、書類をさっと読んでからサインをしているようだ。
 やがてサインも終わり、男性は書類をまとめて出て行った。入れ替わりに見覚えのある秘書が、カミルの前に書類を置く。
 アーロンは思わず止めようとして、一歩踏み込んだ。カミルと目が合う。
「待たせたな、アーロン」
 秘書が、応接セットをアーロンに示した。いつの間に入って来たのか、メイドがワゴンで待機していた。
「失礼します」
 とアーロンは断ってから、カミルの側に寄り添い、椅子から立ち上がるのに手を貸す。ソファの定位置に座らせ、脈を取る。大きく息を吐くカミル。
「お疲れのご様子ですね、陛下」
「アーロンの前だとつい気を抜いてしまうな」
 執務室は二人きりになっていた。
 カミルは人間的にも大人になった。以前なら、こんな云い方ではなく、思った事は思った通りに口にしていた。
「休憩も職務だと思って頂けると、医者としても安心できます」
 緊急に休ませるべきでもないが、やはりカミルの呼吸は早い。
「薬を飲みますか?」
「いや。少し休めば落ち着く。紅茶を淹れてくれ、アーロン」
 カミルはソファに背中と頭を預け、瞼を閉じる。アーロンはメイドが置いて行ったワゴンからティーセットを取り出して、ヴァルター仕込みの作法で紅茶を淹れる。
「僕の主治医は二言目には休めと云うんだ。同じ医者でも、アーロンは口うるさくはないな」
 本来なら、体を国王に向けて答えるべきところを、アーロンは手を止めずに、
「仕事は、その人の生き甲斐になることもあります。無理に働いて後悔する人はあまり見かけませんね」
 と云った。カミルはハリーとは違い、気を抜ける時は抜く。手も足も、国王のオーラまで投げ出している。だからアーロンも、目の前の人物を異次元の人としては扱わない。
 しかし淹れた紅茶は、
「どうぞ」
 美しい所作で丁寧にソーサーを置く。
 カミルはまるで聞こえなかったような間の後、ノロノロと上体を起こしてソーサーに手を伸ばした。
「この部屋に入る時───」
 カミルは一口含んでから云った。「三番目に会っただろ?」
「はい」
 仕組まれてた!?───先程のゴットヘルフとの邂逅は偶然ではなく、カミルの計算の上だったのか。
「アーロンなら薄々気付いてると思うけど、摂政に関わる一連の事は全て、彼が絡んでいた」
 カミルはあっさりと明かす。そこらへんはまあ、ちょっと考えれば解かる。
「しかし、証拠はない」
 そこですよね。
 カミルの性格的に、この執務室はシンプルデザインで統一されている。機能的で無駄がなく、カラーリングも少ない。一つだけ、壁に掛けられた絵はイブラントと同じ画家の細密画だ。しかもモノクロ。
「ここまで手を煩わせる相手ならいっその事、味方に付けようかと思ったんだ」
「『毒を以って毒を制す』でしょうか?」
 イェルンの件が人身売買の類なら、その犯罪は大掛かりなものだろう。ヴァルターの云う通りゴットヘルフが黒幕なら、犯罪組織を一網打尽に出来るかも知れない。
「そう上手くいくかは分からない。今云った通り、彼が絡んでいる証拠はないからな」
「だから、四番目...」
 アーロンは呟くように云った。途中で止めたのは、カミルに軽く睨まれたから。
───ヴェルナーが云った通りだ。
 本当に知らない事にすればいい。それはつまり、知っていてはならない。そしてそれであれば、話題にも上らない筈。
 それは、じわじわと広がるインクのシミのように、アーロンを戦慄させた。
 ヴィンツェンツ=フリートウッドは、文字通り抹殺されたのだ。今やその存在すら失われた。
 ヴィンツェンツが姿を消したと知って、困るのは誰か? それは一連の件の黒幕、ゴットヘルフだ。
 姿を消した理由が、記憶を取り戻したからであった場合、全てを話す代わりに匿ってもらう、という契約なら納得がいく。死体がない以上、死んだとは判断できない。
 そのカードを使えば、ゴットヘルフの頭を押さえる事は出来るだろう。しかしそれには、本当にヴィンツェンツには消えてもらわなければならない。
 だからヴィンツェンツは存在を消されたのだ。
 アーロンは内心恐々としながら、カミルの執務室を出た。



 アーロンはその足で同じ城の中にある、ヴァルターの執務室に向かった。
 余談だが、カミルもヴァルターもまだ、イブラントには戻っていない。ハリーが王宮に戻ったといっても、荷物がまだ運びきれていないからだ。
 アーロンが伯爵の執務室を訪ねると、すぐに行くから、と広い応接室を案内された。そしてそこには既に、イェルン=リヒターとその両親がいた。
「先生!」
「アーロン...!」
 イェルンは立ち上がりこそすれ、アーロンに近付く事はできない。代わりにではないが、母親がアーロンとハグをする。そして、
「エッケハルトさん...」
 複雑な表情で、イェルンの父親は立ち尽くしている。アーロンは自分から近付いて、
───拒まれたらその時だ!
 思い切ってハグをした。
「すまない、アーロン。君がイェルンを助けてくれたのに、私は...」
 エッケハルトもハグに答え、そのまま縋るように喋りだした。そして声を詰まらせる。アーロンは肩を叩いてなだめた。
 イェルンも母親も、少し安心した。
 二人が和解しないと、エッケハルトが参ってしまいそうで、心配していた。立ち止まっていたのは、父親の方だったから。
 アーロンとイェルンは、距離を取って手をかざし合うに留めた。
 間もなくヴァルターが来て、いろんな教育形態をパンフレットで紹介してくれた。女性の教師しかいない学校や、心に傷を持つ子供の為の学校など。
「無理にそのパンフレットから選ぶ必要はありません。また、急がなくて構いません。ゆっくり考えるとよろしいでしょう。取り敢えず住まいを別にしようとお考えなら、先に住む所を決めてからでもいいと思います」
 ヴァルターは大まかな案内で済ませた。イェルンは母親と並んでソファに座り、熱心にパンフレットを見ていた。ヴァルターはその向かい側に座っている。アーロンはヴァルター側、エッケハルトは母親側に立って見ていた。
「ありがとうございます。よく見て検討します」
 とイェルンはヴァルターをまっすぐに見て云った。ヴァルターは頷き、
「どのような形態を選んでも、合わなければ変更もできます。ただ、傷つけられたせいで、せっかくあるチャンスを諦めないで下さい。ちかしい人はみんな、あなたの味方ですよ」
 イェルンはグリーンの瞳を潤ませ、
「...はい」
 とだけ云った。
 帰り際、母親といちばん後ろを歩きながら、イェルンはアーロンを呼び止めた。
「もし、あの時僕を助けてくれた人みたいに強くなれれば、夜も怖くなくなりますか?」
「身体を鍛えたり、護身術を身につけたりするのは、悪くはないと思うよ。忘れられないとか、夢に見たりするのは、今度同じ場面に遭遇した時どう対処すべきか、考える為に必要なんだと私は思うんだ。精神科の先生と相談してみて。護身術だと、独りではマスター出来ないからね」
 アーロンの言葉に、イェルンは困ったようなはにかんだような表情だった。
 なれるものならすぐにでも強くなりたい。強くなって、怖いものなどなくなれば家族も元に戻るし、夜にも人にも怯えずに過ごすことが出来るのに。
 イェルンは、辛い現実を何とか克服したかった。逃げるのでもなく、立ち止まったまま動けずにただ隠れるのでもなく。
───誰にも、助けて貰えない。アーロン先生にも...。
 送迎の車に乗り込む直前、イェルンはアーロンに呼び止められた。
「君はひとりじゃないよ。周りをよく見て。みんな君の事を想ってる」
 イェルンが顔を上げると、母親と、父親、それぞれと目が合った。
「愛してるわ、イェルン」
「僕も...」
 二人がハグをすると、母親の後ろから父親も抱きしめた。イェルンと父親は母親越しに、久々にスキンシップを取る事ができた。



 リヒター親子を見送って、アーロンはヴァルターの執務室に戻った。
「ご苦労さまです」
 伯爵は先に、執務室に戻っていた。彼は常に忙しい。
───この人、ちゃんと休暇を取ってるのかな。
 アーロンが疑う程、ヴァルターはいつも執務デスクに貼り付いている。
「イェルン=リヒターは、あなたに会えて満足したようですね、アーロン先生」
「満足?」
 アーロンは眉をしかめる。
「車に乗った時の表情は良かったと、執事は云っていましたよ」
「彼には家族がついていますからね。希望はあります。私に対する満足などではありませんよ」
 アーロンは人差し指を振って、有能な青年の言葉を否定した。
 伯爵はデスクの上で忙しく手を動かしながら、
「この後、よろしければ昼食を一緒にいかがですか、先生?」
「構いませんが、こちらで、ですか?」
 アーロンは、ヴァルターを外に連れ出そうと思った。しかし彼は肩をすくめ、
「私はあまり、外食は好みません。人が多くて。それにこの近所のレストランというと、往復に一時間程かかってしまいます」
「移動中に、仕事とは関係のない時間を過ごして欲しいんてすけどね」
 アーロンは大仰に頭を振って見せた。伯爵は笑って、
「食事は少人数で静かに過ごすのが、私の好みなんです。休憩に時間をかけると、終わるのがその分遅くなりますし、ここなら心置きなく会話もできますから」
 まあ確かに、ベルトホールド伯爵ともなると、常に会話には気を付けておかなければならない。森の城で食事する方が安全だろう。
「まさか、ブラウンバッグミーティングじゃないでしょうね」
 食事をしながらカジュアル会議。U国のような合理性を好む国の会社で行われるミーティングだ。
「そうしたいと思う時もありますが、あんなにカジュアルなミーティングはそう何回もありませんよ」
 二人は会話をしながら移動して、用意されたダイニングの席についた。
 ゆっくりとしたジャズが流れるのに気付いた。
───伯爵とジャズなんて、珍しい組み合わせだな。
 前菜が運ばれ、その後のスープには、季節の野菜。
「シュパーゲル(ホワイトアスパラガス)だ!」
 ちょっと感激する二人に、給仕が控えめに、
「今朝、市場に出ていたものですから」
「もう、そんな時季なんですね」
 アーロンは思い立って、スマホを手に取る。伯爵に断って写真を撮った。
「今送るんですか?」
「すみません。すぐに済ませます」
「まあ、どなた宛かは敢えて尋ねませんが」
 と云いながらも、ヴァルターは後で写真を貰う約束をした。そして給仕に、
「陛下もお召し上がりに?」
「もちろんです」
 この後、メイン、デザート、と軽めに済ませた。
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