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期待と不安

2 おあずけ

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 ハリーはアーロンの囁きで目覚めた。
......いまなんじ!?」
 声が出てない。
「いつもと同じだよ」
 答えたのはアーロン。
───なんで、いるの?
 いつもなら、ハリーよりずっと早く起きて、整った身支度でハリーにおはようのキスをするのに、今朝のアーロンは昨夜ベッドに入った時のままだ。
「辛くない、ハリー?」
 アーロンは囁くように云って、ハリーの顔をじっくり見つめる。診察してるようなものだろうが、ヘーゼルの瞳が淋しそうに見える。
「また蜂蜜ティーを出して貰おう」
 そう云うと薄いめの唇が迫ってきて、ハリーの瞼にキスをした。
 カーテンの隙間から入る光が、間接照明のように室内を柔らかく浮かび上がらせている。
...ここは...?」
 待っていてもアクションがないので、ハリーは目を開けた。目を細めて笑ってるだけのアーロンに、おずおずと自分の唇を指差す。アーロンは爽やかに笑って、チュッとハリーの唇を吸った。
───もう終わり?
 声が出ないので、ヘーゼルの瞳を見つめて訴えるハリー。
「ダメだよ、ハリー。今日は忙しいだろ?」
 アーロンはそう云うが、その目は決して拒絶してない。ハリーはにじり寄って飛びつくようにキスをした。アーロンの首に腕を絡め、ホールドする。糊の効いたシーツが、ふたりの体と擦れる音をたてる。それからふたりの熱い息遣いと、交わす水音。
「......」
 入ってくるアーロンの舌に、ハリーも積極的に舌を絡める。胸を押し付け、足を絡め、勢い余ってアーロンを仰向けにする。
「朝なんだけど、ハリー?」
 アーロンは片眉を上げて、ハリーを見上げる。ハリーは頬を膨らませて不満をあらわにした。
「元気だな、ハリー」
 上体を起こして馬乗りのハリーは、見上げて笑うアーロンの胸に手を滑らせ、しかし自制する。欲情というよりは、ゆるくじゃれ合いたかっただけだ。
「....おきる.」
 と云いながら、ハリーはアーロンの上から動かない。アーロンは笑ってスッと上体を起こし、ハリーを抱きしめた。素肌が気持ちいい。
「愛してるよ、ハリー」
 アーロンの顎の下に収められる。きっとまた、ハリーの匂いをスンスンしてるに違いない。
───ああ、そうか。
 もしかしたらアーロンの方が、イチャコラしたいのかも。
───仕事、休もうか?
 と目で問いかけると、
「もうタイムリミットだよ、ハリー」
 逆に促された。



 朝食を済ませてハリーが執務室に入ると、
「おはようございます、ハリー摂政殿下」
 政治秘書のヴァイグルと、ほぼ雑用係の秘書ニコルが、揃って挨拶した。
「おはよう」
 ハリーも挨拶を返し、執務デスクに着いた。スケジュールを確認し、二人に指示を出す。
 ヴァイグルが自分のデスクに戻ると、ニコルが少し憚るように、チラッと彼を見やった。そしてハリーに、
「仕事、休まなくていいの?」
 淡いブラウンの前髪を揺らす。
 確かに、昨夜ののお陰で体のアチコチが痛かったり眠かったりするけど、そんなに疲れた顔してるかな?
 ピンときていないハリーに、ニコルはしびれを切らし、
「アーロン先生の事!」
「ああ。...それ、な」
 ハリーは肩をすくめて上体を椅子に預けた。
「『ああ』て、それだけ?」
「いや、私も彼には確認したが、今日は陛下にも謁見しなくてはならないと云うし───」
「ハリー!」
 ニコルは腰に手をあてて、上司の摂政を睨んでいる。───てゆーか、仕事中は敬称を付けて呼んで欲しいんだけど。
「7年も真面目に摂政やってると、あのハリーでも人が変わるのね」
「仕方ないだろ。陛下に謁見するのをドタキャンさせる訳にいかない」
 両手を広げるハリーに、ニコルは尚もご立腹で、
「アーロン先生は遠慮してるに決まってるじゃない、ハリーにも、カミル───陛下にも。仕事は遅れたって怒られたって、取り返しはつくわ。でもアーロン先生との間に溝が出来れば、簡単には埋まらないのよ!」
 ニコルの剣幕に圧されて、ハリーはしどろもどろに、
「わ、分かった」
 と答えると、ニコルは鼻息荒く自分のデスクに戻った。それをハリーは呆然と見送っていたが、我に返ると携帯を取って隣の部屋に移動した。
───アーロンあいつは確実に味方を増やしてる。
 そう思いながら電話をした。
『どうされました?』
 カミルの所に行ってる筈だから、アーロンは電話に出ないと思っていた。ハリーは戸惑う。
「今どこだ?」
『陛下の使いで、今車の中です』
 ちょっと、ホッとするハリー。
「用事が済んだら、帰っておいで」
『...どぅ...どうかされましたか?』
 アーロンは明らかに動揺している。ハリーの携帯は国が会話の内容までチェックしているから、慌てて敬語で云った。ハリーはおかしくなって、クスッと笑う。
「今、ニコルに怒られたところだ。お前の事をもっと考えろ、お前がこんな時に仕事させるな、てさ」
『それは今朝、大丈夫、て云っ───いました』
 そうなんですよね。しかしまあ、ニコルのあの様子では、ハリーの云い訳など一蹴していただろう。
「だから、用事が済んでからでいい。無理に急がなくていいぞ」
『おそれいります』
 アーロンらしい笑い方でクスッと笑って答えた。





 アーロンは国王カミルに謁見する前に、ベルトホールド伯爵の所に寄る予定だった。
 しかし、二人の居城に着く前に、行き先を軍の病院に変更された。
───軍の病院、ていったら四男に何かあったのか?
 車を走らせながらも、嫌な予感しかないアーロン。
 ヴィンツェンツは、フリートウッド公爵家の四男だ。以前、暴行を受けて虫の息だったところを病院に運ばれた。怪我は治ったが、解離性健忘で記憶が殆どない。入院したままだった。
 アーロンはハリーから、用事が済んだら帰って来いと云われたが、すんなり帰れるかどうか、病院に着くまでは安心出来なかった。
「ヴェルナー...?」
 病院に着くと、ヴィンツェンツの病室の前には以前の先輩、ヴェルナー=ゲーゲンバウアーがいた。相変わらず眠そうな目だ。当たり前だが。
「あからさまに嫌な顔をするな」
 アーロンのげんなりした顔を見て、たれ眉をしかめるヴェルナー。
「お前がいる、て事は、何かあったんだろ」
 アーロンは頭を振りながら、肩を大きく落とす。ヴェルナーは軽く肩をすくめて、両腕を大きく広げた。二人でハグをする。
「婚約おめでとう」
「ありがとう。───」
 アーロンは情けない顔で、「このまま平和に過ごしたいんだけどな」
 ヴェルナーは苦笑いでアーロンを病室へ促した。
「まあ、入れ」
 「クレスツェンツは元気か?」などと、ヴェルナーの娘の話をしながら、ヴィンツェンツの病室に入った。そこでアーロンはあ然とする。
「どういう事だ?」
 室内には誰もいなかった。それどころか、空き病室になっている。
「実は昨夜、襲撃に入られた」
「この部屋にか!?」
 疑問はいくつもある。警護が四六時中付いていた筈だし、あの事件から数年が経っている。今更襲う理由が分からない。入院が退屈でフラフラ出歩いたりして、病状は病院関係者の間では誰もが知っていた。
「まさか、記憶が戻ったのか?」
「いや、そういう訳でもないらしい。理由は分からない」
 あんなに豪華にしていた室内は、病室らしく味気なくがらんとしていた。ソファセットもなく、飾られていた絵も花も、花瓶すらない。
「俺がこの病室で彼を見た時、フリートウッド公爵家の四男て記憶は戻ってたのか?」
 ヴェルナーは当時の記憶を辿って訊いた。アーロンは否定する。
「いや、十五歳のそういう弟がいる、て記憶以外は、医師やカウンセラーの云った事を鵜呑みにした記憶だ。例えば妻や家族がいる、と云えば信じただろう。今回の事と関係あるのか?」
 アーロンの疑問にヴェルナーは首を振った。
「いや、あの時のイメージしかないからな、俺は。随分流暢に話してたから、本当は記憶があったのかと思って」
「あのプロフィールも、何日も繰り返し云われて覚えたんだ。公爵家が高級貴族なのは理解出来てた。自分が実は公爵家の人間だと知ればふんぞり返るだろ、お前だって」
「俺もか?」
「違うか?」
「...どうだろう?」
 ヴェルナー的には、もしかして記憶がしっかりしていたのであれば、その事実が外部に漏れて刺客に襲われたのではないか、と思ったらしい。
「それくらい、どうごまかしても医師には分かる。記憶があるなら起訴して収監された方が無事でいられるだろう」
「そうでもないが、記憶があれば刺客を送る側も収監されてたかもな」
 ヴェルナーは残念そうに云って、シーツのないベッドに座って後ろに手をついた。
「で、今はどこに?」
 襲われた、とは聞いたが、死んだ、とは聞いていない。どこかにはいる筈だ。しかしヴェルナーは人差し指を立てて、
「俺も知らないんだ。この病院かそうでないか。生死すらな」
 驚いたアーロンは、ヴェルナーを凝視した。───それなら一体、自分は何故病院に来なければならなかったのか?
「方針を変えたんだろ。関係者全員が口を閉ざすんじゃなくて、本当に知らなければ漏れようもない」
 ヴェルナー自身、病院に来た時点では今いる病室を受付で案内された。しかしその通りに来てみれば、病室はもぬけの殻だったという。
「軍で情報を聞いて、お前と一緒に確認しろ、て指示だったのに、どう報告すればいいんだよ」
 愚痴るヴェルナー。「確認しろ」という指示では、指示者が生死を分かった上で云ったかどうかも不明だ。
 カミルの元にも、不確かな情報が届いていたのだろう。関わっていたアーロンに確認と報告をさせる方が、話は早い。それに、詳しい話を他の場所ですれば、どこかにカメラや盗聴器があるかも知れないが、この病室は取り払ってしまった。情報の漏れる可能性は低い。
 もっともそれは、アーロンかヴェルナーのどちらか一人でも、スパイではない、という前提の元での話だが。
「俺、てまだまだ信用されてないんだな」
「腐るなヴェルナー。お前はまだマシだぞ」
 アーロンの口調に疑問を投げるヴェルナー。
「お前、誰の指示でここに来たんだ、アーロン?」
「恐れ多くて云えるか」
 こう云えば誰だって分かる。
「マジか!?」
 ヴェルナーは驚いてベッドから立ち上がった。アーロンの報告を聞いて、何と仰るやら。それとももう、この方針自体をご存知かも知れない。
「帰ろう、ヴェルナー。───」
 アーロンは友人を促す。「今日は早く帰りたいんだ」
「そういえば、いろいろあったんだろ?」
 ヴェルナーはアーロンと肩を組んで、慰めるようにポンポンと軽く叩く。いろんな部署に顔を出すヴェルナーは今や、軍の中でもかなりの情報通だ。
「あったよ、いろいろ」
 アーロンはゆっくりと頭を振った。
「葬儀はいつにするんだ?」
 子爵夫人の葬儀だ。
「子爵が保釈されたら済ませる」
「そうか」
 アーロンは、数カ月も前の話に感じた。
 別れ際、またハグをする。
「お前の家族によろしく」
「お前の婚約者殿にもよろしく伝えてくれ」
「どうせしょっちゅう来てるんだろ?」
 ヴェルナーは何も答えず、背中で手を振った。
───ハリーのところに来てるのは聞くのに、ちっとも会わないな。
 多少訝しく思いながらも、詮索はしないアーロン。ヴェルナーは自分の仕事をしているだけだ。
 アーロンは車に乗り込み、ヴァルターに連絡する。
「今から病院を出ます」
『そうですか。では、報告が済んだら私の執務室に来て下さい』
 電話を切ると、シートベルトをする。病院の花壇には春の花が咲いていた。まだ風は冷たいのに、アーロンの目に映る季節は着実に春を迎えていた。



 カミルの部屋に向かったアーロン。
 ドアの前に立ってノックをしようとした瞬間、ドアが開いた。
「......っ!」
 ドアを開けた人物と二人、声なく驚く。
「失礼しました」
「なんだ、お前か」
 アーロンが一歩下がると、見下すような視線を向けられた。───ゴットヘルフ=フリートウッドだった。相変わらず、アーロンの全身を値踏みするように見る。そして、
「結婚か」
 ひとりごちて鼻を鳴らした。さすがに目の前の男が何者か、分かってはいるようだ。
「陛下に謁見か?」
 アーロンと目が合うと、改めて訊かれた。アーロンは余計な事は云わず、しかし愛想も素っ気もなく答える。
「はい」
「上手く成り上がったものだ」
 特に吐き捨てるでもなく、そう呟いてゴットヘルフはアーロンの前から立ち去った。
───あーゆー性格なんだろうな。
 アーロンは横目で見送りながらそう思った。さしずめ、彼がハリーを邪魔者扱いしていたフリートウッド家の兄達のトップか。
───ああ、そうか。
 アーロンにも情景が見えてきた。
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