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前編

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 ミューランはとある猫獣人の村で育ったオメガである。
 彼の暮らす村では15歳を迎えた子どもは10年間、村の外で暮らすしきたりがあった。いや、ミューランの出身の村に限らず、猫獣人の多くは15歳を境に村から一度出されることが多い。猫獣人のみが暮らす村は閉鎖的になりやすい。そのため『村の外の世界を知るため』という理由である程度成長した子どもを一定期間外に触れさせる、というのは表向きの理由。アルファは優れたタネを蒔いてくることを求められ、女性もしくはオメガ性を持って産まれたものは『自身が認めた強い男性もしくはアルファの子を産む』ことが求められる。けれど特別な役目を持たぬベータ男性はは5年間が経過すれば帰ってくることが許される。さっさと帰ってきて村の力になれ、と。けれどアルファ男性は決まった村に出るときに指定された人数を孕ませなければ村に帰ることは一生許されない。村から出たオメガやベータ女性の中には、複数人の子どもを孕むことが出来る猫獣人の特性を買われ、大国の貴族に囲まれる者もいる。もちろんそれも全て織り込み済みで大人達は子どもを外へと送り出す。そのために初経を迎えた子ども達に性知識を叩き込むのだから。こうして猫獣人達は長年栄えてきた。

 ーーけれどそれももう、過去の話。
 今から10年ほど前、とあるオメガが王子様と番になったのだ。名前はレオン。オメガでありながら体格に恵まれた彼は兵士となり、国の第一部隊まで上り詰めたらしい。アルファに囲まれながら職務を全うした。今では5人の子を産み、子育てのため前線を退いているものの、彼を慕う兵士達は大勢いる。けれど彼を慕う者は何も人族だけではない。レオンは猫獣人にも多大な利益を運んだのだ。

 その最たるものが王国との縁。
 彼が王子様と番になったおかげで結ばれた縁だ。
 そしてその縁のおかげで人と猫獣人達とで交流が産まれるようになったのだが、数年前から猫獣人と城勤めの者のお見合いパーティーが開催されることとなった。

 未婚の兵士がオメガや異性と出会う場所を設けたい人族と、優秀な種が欲しい猫獣人との利害が一致したのだ。
 年に一度行われるパーティーに、人族は兵士や文官など城に務める未婚者を、猫獣人側からは女性とオメガを参加者として出席させた。
 人族側・猫獣人側共に参加希望者は多く、倍率は高い。
 だがなるべく多くの者に参加して欲しいという長達の要望により、既婚者の人族とアルファの猫獣人で回していた運営に、ベータの猫獣人を加えることとなった。
 人族の国王たっての希望で、オメガは規定の首輪を着用すること。番契約を行わないこと。また性行為を行う際には必ず避妊具を着用することが義務づけられている。
 目の届かぬ場所で乱交騒ぎにでもなったら困るのだ。
 村長は過去に、アルファの猫獣人と人族が性に乱れた姿を目撃している。性欲の強い猫獣人のみが盛るならいざ知らず、人族までもが理性を手放してしまったのだ。
 それもたった一組の番の行為を目にしただけで。
 あんなことがパーティーでも起きれば、中止にせざるを得なくなってしまう。運営でも構わないから、と手を挙げるオメガもいたが、村長は面倒事になるのを避けてベータの中でも男性に限定した。
 そして手伝いをして選ばれたのが、ミューランの兄達だった。顔のよく似た三つ子の中でミューランだけがオメガだった。親すらも見分けが付かず、ミューラン達は幼い頃から暇つぶしに入れ替わりを行っていた。そう、唯一オメガであったミューランが兄に成り代わっても誰も気づかなかったのだ。猫獣人の間でヒーロー扱いされているレオンのように特殊な香りがするのではない。ミューランのフェロモンは他のオメガと同じ、甘い香りである。ただ非常に弱いものだったのだ。

 それこそ同じ部屋に花が飾られていれば、花の香りと間違われてしまうほどに。
 そのため、ミューランがオメガとして扱われる機会は非常に少なく、彼もまたベータの兄達と同じように育った。

 けれど転機が現れた。
 兄達が運営に立候補した事によって、特別枠でミューランのお見合い参加が認められたのだ。
 毎年、猫獣人枠は優秀なオメガが半数を占め、残りの枠は抽選で決められる。ミューランは憧れこそ持っていたものの、参加出来るなんて夢にも思っていなかったのだ。

「楽しんでこいよ」
 頭を撫でてくれた兄達に目を潤ませながら感謝した。

 パーティーは一週間行われる。
 その間にいい人がいれば、パーティーの後に首輪を外し、番契約を結ぶことが出来る。自分のようなオメガが番を見つけられるとは思ってはいなかったが、憧れの場でオメガとして振る舞えるならば一生の思い出になるだろう。ミューランは心を踊らせて人族の城へと足を踏み入れた。


 ーーそして数時間後。
 なぜかミューランは会場ではなく、城の一室にいた。
 本来であれば立食パーティー形式でいろんな相手との会話を楽しむ時間だが、ミューランは締め切った部屋の中で人族の男と書類整理を行っている。いやらしい雰囲気などない。あるのは張り詰めた空気感だけ。

「っち、あいつ全然帰ってこねえじゃねえか! こんなクソ忙しい時にどこで油売ってやがる」
「こちらまとめ終わりました!」
「じゃあ次はそこの書類のまとめを頼む」
「承知しました!」

 名前も知らぬ男に出会ったのは受付に並ぼうとしていた時だった。
 ミューランの顔を見るや否や、男は他の猫獣人に「こいつ借りるぞ!」と声をかけ、この部屋、第二書類庫に連れ込んだ。首輪をする暇すらなかった。
 そして「日付の新しい物を上に重ねてまとめろ」と声をかけ、鬼気迫る様子で書類にペンを走らせる。部屋には沢山の書類が所狭しと積まれており、男はその真ん中にあるデスクに陣取る。とてもではないが「パーティーに参加したいので」と断ることは出来そうもない。元よりミューランは気が強い性格ではないのだ。そこも男に見破られていたのだろう。どうせならオメガであることも察して欲しかったと心の中でひっそりとため息を吐いた。そしてミューランは残されたデスクの上でテキパキと書類の整理を行うことにした。

 これが終われば解放されると信じて。

 けれど終われば次が渡されるだけ。
 男は独り言を呟きながら、押印の音をダンダンと響かせる
 よく見れば顔はいいが、目の下にはくっきりとクマがこびりつき、夕日のような髪はボサボサだ。彼は猫の手でも借りたい状況なのだろう。だから運営に加わったベータだと勘違いをして、ろくな説明もなく仕事を手伝わせているのだ。初めは恐ろしさがあったものの、それも徐々に和らいでいった。

「この部屋乾燥してっからちゃんと水分取れよ」「糖分頭に回せ」ーーと声をかけて、水分やお菓子を与えてくれるのだ。

 背中を押してくれた兄達には申し訳ないが、ミューランは3つ目の山に取りかかる頃には今日の参加を諦めていた。
 一日目が肝心と言うが、パーティーはまだ6日も残っている、と。

 もらったチョコレートを口に放り込んで、男がミューランのデスクに築いた山を切り崩していく。それが終われば書庫の整理。ご丁寧にもナンバリングがされており、書庫に初めて入ったミューランでも簡単に整理することが出来た。いくつものファイルを腕に乗せ、はしごに乗っては降り、屈んでは立ち上がりを繰り返し、床に築かれた山がなくなる頃にはすっかり日が暮れていた。

「終わんねぇ。お前、明日もここでいいか?」
「え?」
「猫獣人側には俺から伝えとく」
 お疲れさん、と告げる男はミューランの返答など待っていない。彼の中ではミューランが明日も手伝うことが決定事項なのだ。猫獣人側に話をつけておくというくらいだからそこそこの地位があるのだろう。男の指には既婚者の証はなく、猫獣人の番がいるとは考えづらい。あの場所にやってきたのも人手欲しさだったのだろう。
 自分からオメガだと言い出せなかったミューランは、猫獣人の運営の誰かが誤解を解いてくれるだろうと考えた。なにせミューランは受付さえもこなせていないのだから。運営には兄達がいる。ミューランの不在に気づいているはずだ。それに運営の猫獣人はさほど多くはない。借りたと言われても全員揃っていれば異変に気づくはずだ。


 ーーそう、思っていた。

 昨晩に続き、女性とオメガの猫獣人の食事場へと向かう。
 他の村からの参加者も多く、同年代も少ないため、ミューランがパーティーに参加していなかったことに気づくものはいない。
 運営側に事情を話して、今日の朝から参加させて貰えば良いだろう。
 一日のロスがあっても上手く会話を進ませられればいいな~と、初めてのパーティーに想像を膨らませながらバイキングの列に並ぶ。のろのろと進む列で、ミューランがようやくトレイを手に取った時だった。

「お前なんでこんなとこいんだよ。探しただろ」
 肩をがっしりと掴まれ、そのまま後ろへと引かれる。ミューランの居た場所はすぐに埋められ、空のトレイだけを手にした彼が戻ることは許されない。声の主は顔を確認するまでもなく、昨日の男だ。

「あの、なにか?」
 ミューランは渋々顔を挙げ、訝しげな視線を男に向ける。
 けれど男は、はぁっ……とため息を吐くだけ。
「なにか? じゃないだろ。お前が使うのは俺らと同じ食堂の方。誰かに教えて貰わなかったのか? まぁいい。今日は会議室に飯は運んでもらうから、明日から気をつけろよ」
「気をつけろも何も俺……」
 オメガなので、とミューランは言葉を続けようとした。けれどそれを他ならぬ男が阻んだ。

「なんでもいいから早くいくぞ。猫獣人側からはパーティー期間中借りたままでいいって了承は取ってあるんだ。短期とはいえ、継続的に使えると分かればガンガン仕事を進めてくからな!」

 パーティー中借りたままということは、一度もパーティーに出席できぬまま終わるのだろうか。
 それだけは我慢できない!
 ミューランは男の手を振り払った。

「俺はオメガです! 昨日は手伝いましたが、今日からはパーティーに参加しますので!」
「ああ、オメガが一人逃亡したのを聞いたのか。だがいくら働きたくなくてもその言い訳は効かねえ。俺、アルファなんだ。オメガと一日一緒の部屋にいて気づかねぇ訳がない」
「それは俺の香りが弱いからで……」
「ろくにアルファを誘えないオメガがパーティー参加に選ばれる訳がないだろ。ほら、いくぞディーバルド」
 おそらくディーバルドという猫獣人は、他の村から選出されたベータの猫獣人なのだろう。運営側はベータを借りると聞いて彼の名前を挙げたのならば、消えたのはそのディーバルドというベータの方だ。パーティーに来る前、ミューランは村でいくつかの説明を受けていた。その中でパーティーから抜けだして王都へと繰り出し、男の精をむしゃぶり尽くしたオメガが過去にいると聞かされた。おそらく、ディーバルドは王都へと繰り出したのだろう。
 消えたのがミューランだと思われているのならば、兄達は心配していることだろう。弟が逃げ出したことを他の猫獣人から責め立てられているかもしれない。

「俺の名前はミューランです!」
「そうかそうか。仕事を手伝ってくれれば名前なんてどうでもいい」
「俺には良くないです! 運営に兄がいるんです。彼らと会わせてくれれば俺がミューランであることが証明出来ます」
「あ~。後で運営側に確認来るように言っとくわ。とりあえず今日は仕事な」
「絶対ですからね!」
 こうしてミューランは男と共に会議室へと向かった。使用人が運んできてくれたサンドイッチ片手に書類にサインしていく男の補助をする。分類事や期日ごとに書類を分別し、取りに来た文官と思わしき男性達に渡していくのだ。運んできたものは受け取り、それをまた分別していく。
 城の住人達のおかげで、男が『ジャスティン』という名前であることを知った。けれど知ったところで名前を呼ぶ機会などない。昼になれば「ご飯ですよ」と声をかけて食事を食わせ、ポッドにお茶がなくなれば部屋の外でメイドを捕まえて運んできてもらえるように頼むのもミューランの仕事だ。男は「終わんねえええええ」と絶叫しながらも、手を止めることはない。

「ケーキ持ってきてもらいましたが、食べますか?」
「糖分か! 食う!」
 当然のように「あ」と口を開き、手を動かし続ける男にミューランはため息を吐きながらも切ったケーキを男の口へと運ぶ。

 昨日よりもずっと甘えたになっているように見えるが、心を許してくれた証拠だろう。
 ミューランとしては複雑だ。どうせアルファなら番候補として心を開いて欲しかった。けれどすぐに、そもそもは自分の香りが薄いせいだ、と肩を落とす。

「どうした? 悩みか? お前も食え。ついでとはいえ、パーティーに出しているもんと同じだから美味いぞ」
 そのパーティーに参加予定だったんですけど……と愚痴を零しそうになる口に、ミューランはケーキを運んだ。

「おいしいっ!」
「だろ?」
「そっちのショートケーキも食わせろ」
「あれは俺のです!」
「お前、今俺のチョコケーキ食っただろ」
「あ……」
 無意識で手に持っていたフォークを口に運んだが、ミューランの手の中にあったのはジャスティンの口に入れたものと同じ。指摘されたミューランの顔は一気に赤く染まる。
「すっ、すみません」
「男同士なんだから気にすんなって」
「気にしますって! あ、えっとショートケーキは全部あげますから、自分で食べてくださいっ!」
 恥ずかしさで顔を俯けながらショートケーキの乗った皿を差しだす。もちろん未使用のフォークを添えて。
 ジャスティンから距離を取るように遠ざかり、腰を下ろす。たった数m程度離れたところで何も変わらないだろう。そんなことはミューラン自身も分かっている。けれど簡単に恥ずかしさは押さえられないのだ。まだ顔からは熱が引かない。早く来てくれ! と兄達に向けて念を飛ばしつつ、熱い頬を手で押さえる。
 熱を帯びたミューランを見つめながら、ジャスティンはケーキを口に運ぶ。

「甘いな」
 自分のことで精一杯だったミューランは、ジャスティンの呟きに気づくことはなかった。



 ミューランはカップに残った紅茶を飲み干す。すっかり冷めてしまったそれは頭を切り替えるのにはちょうど良い。パチンと頬を叩いて、新たな山へと手を伸ばした。


 どれだけ溜まっているのか、一向に仕事が終わる気配はない。んん~と座りながら大きく背伸びをしたジャスティンは、首をコキコキと鳴らすと部屋の外へと出た。彼が立ち上がるのはミューランを部屋に連れ込んでから3回目だ。1度目は昼前にやってきたメイドにミューランを紹介した時。そして2度目は窓を開ける時。窓を開けたのは昼過ぎだからジャスティンは8時間以上椅子に腰掛けたままということになる。よく腰が痛くならないものだ。慣れているのだろうか。彼の腰の心配をしつつ、同時に自分がオメガだと判明すればこの仕事を他の誰かが手伝ってくれるのだろうか、と仕事のことも心配になってしまう。単純作業のため、誰でも出来るといえば出来る。例のベータの猫獣人が見つかれば、彼がこの役目を担うことも出来る。
 けれど他の猫獣人が彼と仕事をしている姿を想像して、苛立ちを覚える。番でもなければ、オメガ扱いだってしてもらえないくせに。誰もいないのを良いことに、尻尾を左右に振ってパタパタと音を立てる。
 会ってからたった二日。
 相手のフェロモンだって嗅いだことはない。
 けれどミューランの身体はジャスティンの種を欲していた。きっかけはあのケーキ。同じフォークを使っただけ。間接キスだと騒ぐほどミューランは幼くはないはず。けれど思い出せば身体がほてって、腹がうずくのだ。
 昨日は一日中同じ部屋にいてもなんてことなかったのに……。
 ジャスティンがアルファだと聞いたからだろうか。
 猫獣人の村にいても売れ残る未来が見えているから、この機会に植え付けてもらえと脳が指示を出しているのかもしれない。浅ましい。けれどそれがオメガに産まれた猫獣人の本性なのだ。種を繁栄させ、自らの血を後生に残すため、複数人の精をも取り込み子を成す。それが猫獣人というもの。
 それぞれの村の長にキツく言われているため、ルールを破るものはいないだろうが、それでも早く優秀な雄と交わりたいと舌なめずりする猫獣人も多いはずだ。ミューランと同じ立場に他の猫獣人がいたのなら、初日で襲っていたかもしれない。フェロモンをまき散らして、相手が香りに酔ったところでサクッと雄を差し込んで、種を吸い取ればいいだけだ。何も難しいことなんてない。けれどミューランには無理なのだ。自分が発情したところで、相手は香りに酔ってはくれない。それなら酒に酔わせた方がずっといい。
 ーー本当に俺は出来損ないだな……。
 ミューランはろくに種すらもらえない自身に苛立ちを覚えた。

「なんか分かんねぇとこあったのか?」
「い、いえ……」
 いつの間にか帰ってきていたらしいジャスティンは、心配そうにミューランの顔を覗き込んだ。目の前に彼の顔が現れたことにミューランはびっくりして、大きく後ろに飛び退いた。

「さすが猫獣人。レオンさんもそうだが、身体能力と反射神経がいいな」
「ありがとうございます」
「それでどうした?」
「どうもしませんよ」
「そうか? 手が止まってたみたいだから。眠いのか? なら寝るといい。マットレス持ってきた」
「え……」
 ジャスティンは抱えたマットレスを床に落とし、上に毛布と枕を落下させた。元より猫獣人は何もない場所でも丸まって寝ることが出来る。マットレスなど必要はないが、寝心地は良さそうだ。けれど寝心地よりも問題視すべきは彼の発言だ。

「ずっと起きているのも効率が悪いからな。眠くなったら遠慮なく寝ろ。食事は定時に運んでくれるよう頼んである。それ以外、必要なものがあったら外にいるメイドにでも声をかけろ」

 それは実質、この部屋から出すつもりはない宣言だった。今日中に、兄達の救出が来る様子はない。

 一晩、アルファとオメガが同じ部屋で過ごすとなれば間違いでも起こりそうなものだ。それも片方は相手を意識しているオメガなら尚のこと。けれど恥ずかしさでぶわっとフェロモンを溢れ出したミューランのすぐ隣に来ても、ジャスティンが焦る気配はまるでない。

「マットレスの位置は好きに決めて良いが、パーティー期間中の拠点はここにすると伝えてあるから、夜も変わらずに人が出入りすることになる。間違って蹴られない場所にしろ。後は、電気は付けっぱなしになるから毛布を被るなり、アイマスク付けるなり工夫するように」
「了解です……。では、お言葉に甘えて少し寝させて頂きます」
 アイマスクを受け取る際、指先が少し触れた。けれど電流に似た何かが走るのはやはりミューランだけ。何も知らぬジャスティンは涼しい顔のまま。それが虚しくて、涙すら出ない。アイマスクをしたミューランはマットレスの上で枕を抱きかかえるように身体を丸めた。


 目を覚ませば、机の上には大量の書類と、食事が並べてあった。予想通り、ジャスティンは手を付けてくれなかったようだ。自分の魅力のなさを再確認しながら、サンドイッチに口を付けた。ミューランが皿を空にしたのを確認するように、ジャスティンは書類の山を築く。食べ終わったらその山の整理をしろということだろう。妙に多いなぁと眺めていれば、ジャスティンはふわぁと大きなあくびを漏らした。そして空いた手で眠い目を擦りながら、ミューランのフェロモンが染みこんだマットレスへと倒れ込んだ。

「俺は少し寝る。誰か来たら俺の机に乗せてある書類を渡しておいてくれ」
「了解です」

 通常のオメガとアルファなら同じマットレスを使うなど正気の沙汰ではない。だが背後からはすやすやと気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

 発情する気配すらなかった。

 それからミューランは淡々と仕事をこなした。
 迎えが来ることはなく、やってくるのは文官達ばかり。寝こけているジャスティンに目を見開いて驚く者もいたが、仕事の方は特に問題なく行われた。妙に眠りが長い気もしたが、困った事が起きる訳でもない。彼が起きることのないまま昼食と夕食を終えた。あまりに起きないものだから昼食は引き取ってもらい、夕食は夜食へと名称を変えた。

 ジャスティンが起きたのは、ミューランが大量の山の他の書類整理まで終えた時のことだった。

「今何時だ?」
「夜の11時ですね」
「冗談だろ!?」
「そう思うならご自分で時計を確認してください」

 すでに睡魔に襲われ始めていたミューランは、投げやりに時計を見せた。

「俺、半日以上寝てたのか……」
「そうなりますね。あ、こっちの書類は明日の朝取りに来るらしいので目を通してはんこ押しといてください」
「ああ、分かった」
「じゃあ俺は寝ますので、どいてください」
「長い間占領して悪かったな」
「同じくらい寝ますのでお気になさらず」

 本当はジャスティンの匂いがついたマットレスなんて使いたくはない。けれどいつこの部屋での仕事がなくなるか分からない。ミューランは使用人にもう一つ用意してくれと頼むのがはばかられた。
 求めるべきはマットレスではなく、兄達だ。
 迎えを待っていてはいつお見合いパーティーに参加出来るのか分かったものではない。
 明日こそは時間をもらって、兄達の元へ行こう。

 ーーそう思っていた。

 けれど想像以上にジャスティンの睡眠時間は長かった。
 半日以上寝こけるのだ。睡眠時間は仕事の忙しさに比例しているのかもしれないが、いくらなんでも長すぎる。
 それでも少しくらいは席を外してもいいだろう、と立ち上がった時に限って使用人達がやってくる。まるで邪魔されているようだが、彼らに悪意がないことなど短くとも、数日間会話すれば分かることだ。

「団長、普段は全く寝ない方で。何時間も寝ていることは珍しいんですよ」
「逆に僕はずっと寝ている姿しか見たことないんですが」
「それだけミューランさんといると安心するんですね」
「そうですかね……」

 安心する、なんて褒め言葉でも何でもない。
 むしろ『魅力がない』と同時に『襲う度胸もない』と判断されているような気がして、落ち込んでしまう。一緒に仕事をするなら危機感がないに越したことはないのだろうが、ミューランは番探しに来ているのだから。


 結局、仕事だけで1週間を終えてしまった。
 最終日に出来たのは番ではなく、このまま城で働かないかと言ってもらえるほどの信頼だった。
 猫獣人のベータならば喜んで了承する所だが、ミューランはオメガだ。いくら相手を誘うことはないとはいえ、番契約をしていないオメガが野放しのままいていいはずがない。今後、鼻の良いアルファと出会わないとも限らない。将来出会うかも分からないアルファのためにも、ミューランは有り難い申し出に首を振った。

「いえ、俺は帰ります。今までありがとうございました」

 頭を下げれば、珍しく夕方に目を覚ましたジャスティンはボリボリと頭を掻いた。けれどそれ以上引き留めることもなく、今までの礼だと食堂からもってきたお酒を飲ませてくれた。お酒に強くないミューランにはややキツかった。けれどせっかく高いものを出してくれた手前、断ることも出来ずに無理矢理飲み込んだ。
 酒を飲み過ぎたせいか翌朝、身体はやや怠かった。
 心なしか腰が重い気がしたが、ジャスティンが今さら手を出してくれるはずもない。

 いっそ性処理にでも使ってくれと頼める度胸があれば良かったのに……。

 後悔ばかりが募ったが今さら頼めるはずもなく、荷物をまとめたミューランは他の猫獣人達と共に村へと戻った。
 兄達はミューランが運営のベータと結託して姿をくらましていたと勘違いしていたが、責めることはなかった。

「楽しかったか?」
「うん」

 代わりに頭を撫でてくれた。
 村長も家族も、村のオメガ達もミューランにははなから期待していなかったからか、番を見つけられてなかったミューランを責めることはなかった。そしてフリーのオメガであるミューランを求めるアルファもいない。

 王都に行く前と何も変わらないーーはずだった。


「ミューラン、大丈夫か?」
「う、うん……。心配かけてごめん」
「気にすんなよ。ほら、水飲めって」

 兄から水を受け取り、ゆっくりと喉に流し込む。
 王都から帰って8ヶ月が経過した頃から、ミューランは寝たきりの生活を送っていた。食べ物を食べても戻すことが増え、水すらも受け付けない日もある。お腹はズキズキと痛み、こうして兄達に補助してもらえなければ起き上がることすら困難だ。


 まるで妊婦のようだ。
 村の誰かがミューランの様子を見て、そう呟いた。
 妊娠したか? と聞いてこないのは、ミューランが妊娠するはずがないと思っているからだ。ミューラン本人も妊娠したなんて思っちゃいない。自分が妊娠するなんてベータが妊娠するのと同義だと思っているからだ。そのくらいあり得ない。体調が悪くても変わらずやって来る発情期に、吐き気が増していく。

 頭に浮かぶのはジャスティンの顔だ。
 相手を誘えなかったくせに、相手のフェロモンに反応したことだけは身体がしっかりと覚えているのだ。
 彼を思って、軽く指で尻を弄るだけでも達してしまう。
 こんなに盛っているのに、誰もミューランの発情に気づく者はいない。

 いっそこの体調不良が、身体がベータに移り変わる前兆だったらいいのに。

 非常に珍しいことではあるが、ベータ性が途中で変化する前例がない訳ではない。
 過去に発見されているのは全て、ベータがオメガに変わったケースだが、ベータがオメガになるならオメガがベータになってもおかしくはないはずだ。
 特に極端に薄い香りしか発することの出来ないオメガならば。

 身体を丸め、痛みと吐き気が過ぎるのを待った。

 そんなある日のこと。
 兄達の元へとある達しが届いた。
 なんでも前回の運営手伝いが好評だったようで、可能であれば次のお見合いパーティーの手伝いもして欲しいとのこと。村長は上手くやれば城で雇用してもらえるかもしれないと言っていたらしい。両親は兄達の王都行きにはしゃいでいたが、当の本人達はミューランを気にしてか、表情が暗かった。けれど二人はミューランと違って、ベータなのだ。猫獣人の村にいるよりも、王都のように様々な人種が住まう場所に拠点を置いた方が生涯の伴侶も見つけやすい。それに給料だって段違いに良い。
 本来ならば迷う理由がないのだ。
 原因不明で寝込むオメガなど足止めする理由にもならない。

「俺のことは気にせずに行ってきなよ」
「でも……」
「王都に連れていってもらえただけでも俺には良い思い出になったから」
「ミューラン……」

 兄達の背中を押し、ミューランは笑った。

 王都行きも見送って、いつものようにベッドで過ごした。
 食事はろくに喉を通らないくせに腹ばかりが大きくなってくる。

 妊娠なんてしてない、よね?
 猫獣人の妊娠期間は約2年。
 堕胎薬が効く期間はとうに過ぎてしまっているが、そもそも誰が襲うというのだ。
 フェロモンもろくに出せない上に顔立ちだってベータとさほど変わらない。あの場にいた者は皆、ミューランをベータと疑っていなかったはずだ。

 いや、むしろベータなら都合良く抱くのか?
 ミューランは一度寝たらなかなか起きないが、あの空間にはジャスティンがいたはずだ。寝こける相手を襲う不埒者を見逃すようには見えなかった。けれど彼が席を外す機会もあったはずだ。

 そのタイミングを見計らって、尻を使われたのだろうか?
 妊娠してなかったらそれでも構わない。けれど子を孕んでいるとすれば、村長に申し出なければならない。
 親が人族なんて、もめ事を起こしたと疑われそうで言いたくはない。けれどこのままモヤモヤとした思いを胸に抱き続けるのは限界だった。ちょうど兄達もいない。両親も働きに出ている時間を見計らって、医者の元へと向かった。御年78歳を迎えるおじいちゃん先生だ。ミューランが生まれてくるよりも前から村で医師を務めている彼に、妊娠検査をして欲しいと申し出た。ミューランのフェロモンが薄いことももちろん知っているからか一瞬驚いたようだが、すぐに分かったと頷いてくれた。彼もミューランが見合い期間中抜け出したらしいと耳にしていたのだろう。その期間中に誰かと交わった、と勘違いをしているらしい。

「相手は人族か?」
 検査待ちの間、何度聞かれたことか。
 ここで「分からない」と答えても厄介事に巻き込まれたと心配されるだけ。だからミューランは腹を摩りながら「うん」と短く答えた。それからすぐに妊娠が発覚した。腹に子がいると分かれば隠せるはずもなく、医者に連れ添われて村長の家へと尋ねた。

「相手は、城の者ではないのだな?」
 妊娠報告を受けた村長が真っ先に気にしたのはソレだった。猫獣人と人族が結んだルールを破り、自分の村が見合いパーティーから省かれることを恐れてのことだった。オメガだけではない。問題が発覚すれば、運営の手伝いに向かっているベータ達が城で雇用してもらえるかもしれないという話も全て白紙になってしまう。

「多分」
「そうか……。子どもは村で育てる。兄達に余計なことを話すでないぞ」
「はい」

 ミューランとて、兄弟の未来を奪うようなことはしたくない。出産予定日まではまだ1年ほど時間がある。そのうちに城雇用の話はまとまることだろう。それまで大きくなった腹さえ服で隠してやり過ごせば問題はない。両親にすら妊娠を告げることはなく、ベッドへと身体を滑り込ませた。
 しばらくしてから帰ってきた兄達の雇用はすぐに決まった。一旦帰宅し、一週間後に荷物をまとめて旅立つらしい。大好きな兄弟と離ればなれになるのは辛かったが、同時に妊娠がバレないことにホッとしていた。

「そういえばミューラン。ディーバルドってどんなやつなんだ?」
「ディーバルド?」
「去年お前が王都に繰り出すのに協力したベータだよ。前回、パーティーの方じゃなくて城の仕事を手伝っていたらしくて、偉い人がさ、ディーバルドってやつが来るのを待っていて期待していたらしいんだけど、来なかったんだ」

 ああ、そりゃあ来ないだろう。
 実際に仕事を手伝っていたのはミューランだ。
 そしてそのミューランは村で重い腹を抱えている状態だ。来るはずがない。期待していてくれたのに申し訳ないが、そもそもオメガであるミューランが出席出来るはずもないのだ。諦めてもらうしかないだろう。それに、ミューランが行った仕事は別に難しいものではない。他のベータに手伝って貰えば済む話だ。

 そう、自分はいくらでも替えが効く存在なのだ。
 事実を前に、ミューランの喉元に胃酸が一気に湧き上がる。うえっと吐き出し、差し出された水で口をゆすぐ。

「本当に俺らがいなくても大丈夫か?」
「大丈夫……」
 むしろ出産が済むまではいない方が都合がいい。
 今はミューランの腹にいる子どもも産んでしまえば村の子どもになるのだから。

 そうなればミューランの体調も戻り、今までと変わらない生活が手に入る。

 アルファに見向きもされない惨めなオメガに。
 寝込みを襲われたのとどちらがマシかなんてわかりはしないけれど、これでいい。

 行ってらっしゃいと兄達に手を振り、静かになった家でミューランは両親に妊娠していることを告げた。
 両親は驚いていたが、同時に納得しているようだった。
 翌日、村長の計らいで村長宅で暮らすことが決まった。療養と偽って、子を産むまで身を隠すのだ。

 誰がミューランを孕ませたのかと親探しが始まらないように。

 体調が優れた日は村長の家で仕事を手伝い、気分が悪くなったらベッドに戻るの繰り返し。時間はまちまちだが、毎日往診に来てくれる医師によれば安定期に入ったらしい。妊夫の自覚があるのと、ないのとでは全く違うのだろう。食事も身体に負担にならないものを、栄養が大きく偏らない範囲で摂取していく。
 そんな日々を送るミューランの楽しみは月に1回ほど兄達から送られてくる手紙だった。
 使用人として働いていると、たまにディーバルドに間違えられたことがあると書かれていた手紙はミューランの宝物だ。
 たった1週間でもしっかりと記憶に残れたのだ、と。
 ジャスティンについて書かれた手紙もあったが、大抵が機嫌が悪かったり、忙しそうな人として書かれていた。いつだって目の下にクマがあるらしい。ミューランの知っている彼とは少しだけ違う。まるで別人のようで、自分の知っているジャスティンは他の人が見ていた彼と違うのではないかと疑いたくなるほど。

 信頼されていたのか、体よく仕事を押しつけられていただけなのか。

 今となってはジャスティンの気持ちなど分からないが、もう城にあの人の姿がないことだけが酷く悲しかった。
 嘔吐き声を漏らし、洗面器を抱きかかえる。
 手紙の数が増すごとに出産予定日が近づいていた。

「愛してる」
 耳をくすぐる甘い言葉はジャスティンの声で紡がれる。手はミューランの下穿きに伸び、ペニスを軽くしごく。軽く触れられただけでミューランの雄は少しずつ立ち上がり、よだれを垂らす。ぬめりの出たそれを包み込み、満遍なく手の中に広げていく。大事そうに、白濁の混じった汁も合わせて混ぜ込む。眠ったミューランの背中に己の足を滑りこめせて軽く腰を浮かせると、濡れた指で閉じたつぼみを侵略していった。

 ーーそう、これは夢だ。
 この村にジャスティンがいるはずないのだから。
 出産を間近に控えたミューランが見た夢。

 いや、ずっと夢みた光景。
 ジャスティンに犯されたいと、種を付けて欲しいと願った。けれど叶わず、誰の子かも分からぬ子を産み落とそうとしている。
 数十年前だったらいざ知らず、今の村なら生まれた子どもが誰の子でも愛してくれることだろう。バース性なんか関係なく、ミューランだって子どもを愛するつもりだ。
 けれどその子どもがジャスティンの子どもであったなら良かったのに、という思いはいつまでも消えることはないのだろう。
 夢の中でも目を開くことすら許されず、微かな声と水音、そしてジャスティンの指の感覚しか知ること出来ない。それでも少しずつ与えられる刺激に、ミューランは身をよじる。ベータの喘ぎ声など気持ち悪いだろう。そう理解はしていても、我慢出来ずに小さな嬌声が漏れる。耳の中で他の音と混じる声はやはり男のそれで、甘さなんてものはない。夢と分かっていても現実を突きつけられるようで、ミューランの目には涙が浮かんだ。
 それでも相手の気が変わることはない。
 足と指を抜き取られたことに寂しさを覚える時間などろくに与えずに、ミューランの両足を持ち上げ、拡張された穴にペニスをあてがった。ゆっくりと遠慮するように、けれども大胆に根元までずっぽりと押し込む。ふうっと長い息を漏らすと短く息を吸い、擦るように前後に動いた。ミューランがいやらしく竿に食らいついているため、ジャスティンが少し動いただけでも肉壁に擦れて大きな快感がミューランの脳を支配する。軽くピストンを繰り返され、ミューランの尻から愛液がダラダラと漏れる。相手の白濁を漏らすことはない。きゅうっと尻をすぼませて、全て体内に取り込むのだ。

 愛した男の種を未来へと繋ぐため。
 誰かに望まれた証明を残すため。


 夢の中で初めてを迎えるなんて出来損ないのオメガらしい。それでも、初めての記憶が愛する人との行為で良かったと涙がこぼれた。

 じゅぽっと小さな音と共に、ミューランを満たしていたものは外へと抜け出す。

 相手はミューランの尻を拭い、後片付けをしているようだが、何も夢の中でここまでリアルに再現することはないだろう。
 満足感と空しさで満たされた身体はどこかへと旅立とうと意識を遠ざける。夢の時間もこれで終わりということだろう。
 今度目を覚ましたら、きっとそれは現実世界だ。ジャスティンに愛されることのなかった惨めなオメガに戻る。だがそれこそがミューランなのだ。

「………すまねぇ」

 夢が終わるその瞬間、聞こえたのは謝罪の言葉だった。
 都合の良い夢のままで終わらせてはくれなかったらしい。
 けれど出産前に見られて良かったと目を閉じながら、夢の世界で眠りについた。


 目を覚ましたミューランは大量の涙を流した。
 村長や彼の家族、往診に来た医師には心配をかけたが、ミューランの中ではやっと踏ん切りがついた。
 そして数日後、元気な子どもを出産した。
 可愛い女の子だ。バース性はベータ。
 顔はミューランにそっくりの地味顔。髪も目も同じ色。
 数年と経てばミューランの子どもとバレてしまうかもしれない。けれどもう片方の親を予想出来ないだろうことは確かだ。子どもにも気を遣わせてしまったのかもしれない。けれど子どもにはオメガになりきれなかった自分のような生活を遅らせずに済むとミューランは胸をなで下ろした。

 返信がないことを心配した兄達からの手紙に返事を返し、元気でやっていると記した。子どものことはやはり伏せたまま。実家に帰ってきたら即バレるだろうが、幸いにも忙しそうな彼らの里帰りはまだまだ先のようだ。
 ミューランが体調は少しずつ回復に向かっていると記せば、元気になったら王都に来ればいいと誘ってくれた。
 案内するから見に来れば良い、と。
 どうやら二人はパーティー期間中のことをまだ気にしているようだった。

 子を産んで、ミューランはやっと自分がいかに幸せかを知ることが出来た。

 兄達は村を離れても定期的に手紙をくれ、両親は家に帰ってきたミューランを気遣ってくれる。村長はミューランが子と離れるのは寂しかろうと生まれた子どもの世話係に任命してくれた。村の人達も何か気づいている様子だが、何も言わないでくれている。それどころか『快気祝い』と野菜や肉、魚などを分けてくれるのだ。精をつけろ、と微笑まれ、何度涙を零しそうになったことだろうか。

 村には居場所があるのだと胸がじんわりと暖かくなる。

 自ら産んだ子どもの手が頬に伸び、ぺたぺたと触れる。
 アルファに欲されなかったミューランだが、子どもは腕の中に収まっている。ベータ男性だったら腹を痛めて子を産むことは出来ない。この子の存在こそ、ミューランが世界にオメガとして認められた証明でもある。欲されずとも、オメガとして胸を張っていいと言われたような気がした。

 村人達に助けられながら子育てに奮闘し、早数年が経過した。
 ベータ女子だというのに負けん気が強く、アルファに混じって遊ぶ我が子は一体誰に似たのだろうか?

 初めこそ自分と我が子の違いを見つける度に、相手のことを考えていたが、今では彼女の性格なのだと受け止めることが出来るようになった。
 ワンピースを繕ってあげた所で、家の収納からミューラン達の子ども服を引っ張り出して着てしまうのも個性。ミューランの自信作はご近所の女の子へのプレゼントとなった。代わりに、と大量にお古の服を頂いたのだが、それも毎日泥まみれになって帰ってくる。百歩譲ってどろんこはいい。だがせめて毎日ズボンを破いて帰ってくるのは勘弁して欲しい。おかげでミューランは毎朝毎晩洗濯と繕いもので忙しい日々を送っている。季節ごとにご近所さんが分けてくれるお古がなければミューランの家の布が尽きてしまうほど。

 ――けれどそのくらいだ。
 心配をかけるような危険なまねはしないし、他の子ども達との仲良くやっている。お勉強や狩り、畑仕事もしっかりとこなしている良い子である。
 たまに他の家の男性を羨ましそうに眺めることもあるが、父親について尋ねてくることはない。体面上、村の子どもという扱いだからというのもあるのだろうが、彼女も幼いなりに何かに気づいてはいるのだろう。ミューランは申し訳なさを感じつつも、目を逸らし続けた。

 ある日、兄達からいつものように手紙が届いた。
 けれどいつもと違うことが一つ。

「王都、か……」
 王都へ遊びに来ないかとの誘いがあったのだ。
 いい人が見つかったらしく、村に連れて行く前にミューランと顔合わせをしたいとのこと。
 家族の誰かに会わせたいのだろう。そして家族の中で一番身軽なのはミューランだ。子どもがいるから気軽に足を運べないが、彼らは子どもの存在を知らない。二泊三日という計画は、王都を案内する日も含んでくれているようだ。未だにパーティーのことを気にしているのかもしれない。ただ王都観光だけだったら、早々に断りの手紙を書いているところだが、兄達の恋人が絡むとなると話は別だ。両親には話を通し、すぐに村長の家へと向かった。


「村長、話があるのですが」
「なんだ?」
「兄達に会いに王都へと向かってもよろしいでしょうか?」
「宿は決まっているのか?」
「兄達の部屋に泊めてくれるそうです」
「なら安心だ。念のため、首輪をはめておきなさい」
「はい」
「あと……」
「お土産はお茶でいいですよね?」
「ああ」

 今では村長は第二の父のような存在だ。
 子どもも懐いており、用事がなくとも週に何度も足を運んでお茶をする。もう好みも熟知している。差し出された首輪を受け取り「ありがとうございます」と笑った。
 それからすぐに兄達に手紙を出し、日取りが決まった。
 兄達のお相手は城に使える使用人らしい。
 全員同時に顔合わせ、はさすがに無理なので午前と午後に分ける。そして翌日は王都観光に連れて行ってくれる、というスケジュールらしい。宿は初めの話通り、兄達の部屋。城内の使用人が住まう居住区に大きめの部屋を貰っているらしい。当日はそこに借りてきたマットレスを一つ引いて、兄達が交代で寝る予定なのだという。

 半月後――ミューランは子どもを両親に預け、王都行きの馬車へと乗り込んだ。
 王都へ付くと、馬車乗り場まで迎えに来ていた兄が勢いよく頭を下げた。

「ごめん、ミューラン。紹介と観光はなくなった」
「なにかあったの?」
「とりあえず俺らの部屋行こう。ここではちょっと話づらいからさ」
「分かった」


 紹介だけではなく、観光もなくなったとなれば仕事関係なのだろう。
 兄達が務めているのは城で、普通の仕事とは違っていきなり仕事が入ることもあるのだろう。
 王都に来た用事が同時になくなってしまったが、恋人と何かあった様子ではないことにこっそりと胸をなで下ろした。
 けれど兄達の部屋に到着し、訳を聞いてからは気が気ではなくなってしまった。

「ジャスティン様が倒れただって!? それは大丈夫なの!?」

 まさかジャスティンが倒れたなんて。

「働き過ぎと寝不足だって」
「寝不足……」
「もう何年も最低限しか寝てないらしいから。噂によるとディーバルドって奴が来てた時は寝ていたらしいんだ。そいつが持っている花か何かの匂いが落ち着くらしくて、せめてその匂いの元だけでも知れたらってそいつを探しているらしいんだけど、見つからないらしくて……。ミューランは知らないか? 匂いの元」

 花の香り。
 香水や香油を付ける習慣も、香り袋を持ち歩く習慣もないミューランだが、香りには心当たりがある。
 ミューランの発情香だ。
 ほとんどのアルファ達に気づいてもらえないほど微かな、他の香りに混じって消えてしまうようなもの。

 ジャスティンが花の香りと間違えるのも無理のない話だ。
 けれどその香りが本当に花の香りだったら良かったのに……と唇を噛んだ。
 ミューランはすでに城の手伝いを断った身だ。
 それにジャスティンを筆頭とする城の人達は揃って、あのときに仕事を手伝ったのはディーバルドだと思っている。
 万が一、顔見知りの使用人に出会えた所で発情香なのだと言い出すことが出来るはずもなかった。


「……ごめん」
「そっか」

 ジャスティンの体調不良を見て見ぬふりするのは辛いが、ミューランには名乗り出る勇気などないのだ。
 深く頭を下げれば「変なことを聞いて悪かったな」と頭に伸びた手がゆっくりと左右に動いた。

 ミューランの発言が嘘だと知らない兄を見送り、ドアを閉めた。
 紹介も観光もないのだからもう王都に残る理由などないのだが、今日はもう経由村に出る馬車はない。数日に一本しか出ないその馬車が出るのは明後日。兄たちもそれを知っているからこそ、ミューランを宿泊場所であるこの部屋へと招待したのだ。

 好きに過ごしていいとのことだったので、備え付けの冷蔵庫を探って飲み物を取り出す。

 ミューランの好物であるフルーツジュースは今日のために買っておいてくれたのだろう。
 ありがたく頂戴することに決め、喉を潤した。

 部屋の日当たりの良い場所を見つけて、本を開く。
 村から持ってきた、ミューランのお気に入りの本だ。

 騎士が王子様を助ける物語。
 村の女の子達はお姫様が出てこない上に、地味な王子様なんて! とすぐに放り投げていたが、ミューランの目には地味で特別な才能がある訳でもない、平凡なベータの王子様が羨ましく思えた。

 心の底から信頼出来る相手が身近にいるなんて、と。
 自分にもいつか、騎士様のような人物が現れるのではないかと憧れて。

 けれどこの本に出会った数ヶ月後には、自分はオメガとしての魅力がないのだと気づかされることとなったのだが。それでもミューランがこの本を気に入っていることには変わりなかったし、手放すつもりもなかった。旅先に持ってくるくらい気に入っている。


「時間もあるし、本屋さん覗いてこようかな?」
 予定がなくなったとはいえ、ミューランには村長達へのお土産を買うという重要な使命がある。
 そこに新品の本を買うことが追加した所でさほど負担は変わらない。
 ただちょっと、ミューランのお財布が軽くなるくらいだ。

 兄達が帰ってきたら、王都の地図を書いてもらおう。
 おすすめのお店も聞いて、明日は王都散策もとい買い出しに費やすことにしよう。

 本を閉じ、暖かい日差しに触れながらふわぁっとあくびをする。
 明け方に宿を出発してから数時間も馬車で揺られ続けたのだ。疲れが出たのだろう。
 仕事をしている兄たちには申し訳ないが、一眠りさせてもらうことにする。
 ミューランは部屋の端に畳んで置いてあるブランケットを確保し、ソファの上で丸くなった。


「ディーバルド」
 眠りの世界でたゆたうミューランに、別人を呼ぶ声が響く。

 ディーバルドーーここにはいない人物の名前だ。
 ジャスティンに欲される男の名前。

 ジャスティンの姿を思い出したせいか、声も彼のものに聞こえてきてしまう。
 いくら眠っているのが城とはいえ、彼とミューランでは住む世界がまるで違う。それに彼は今、過労で倒れているはずだ。わざわざ部屋を抜け出してミューランが眠る部屋に足を運ぶなんてあり得ない。だからこれはミューランが夢の中で作り上げたジャスティンの声。幻聴のようなもの。

 夢でくらい良い思いをさせてくれてもいいのに……。
 こんな夢、早く終わってしまえと念じながら、ミューランは暗闇の中で胸元をぎゅっと押さえる。

「ディーバルド」
 けれどミューランの意思とは反対に、ジャスティンの声は他の男の名前を呼び続ける。
 声だけでは飽き足らず、腕の辺りには誰かの熱を感じる。愛おしいものを触るように優しく撫でるのだ。そして耳元で「愛している」と甘い言葉を囁く。まるでいつかの夜に見た夢のよう。あの日は名前を呼ばれることはなかったが、良い思い出さえも勘違いだったのではないかと黒ずんでいく。けれど拒むことが出来ない。勘違いだと理解していても、夢でくらい成り代わってもバチは当たらないのではないかと悪魔が囁く。
 妙にリアルな体温に、夢ではないのではないか? という考えが過らない訳ではない。
 もしも声だけが夢で作り上げられたもので、実際寝ているミューランを襲っている別の人物がいるのかもしれない。けれどミューランにはもう守るべき貞操なんて存在しないのだ。それにミューランの首にはしっかりと首輪が装着されている。絶対に越えてはいけない一戦だけは越されることはない。万が一孕まされたところで、娘に新たな兄弟が増えるだけ。あの子なら弟でも妹でも喜んでくれることだろう。村長にもう一度苦労をかけてしまうことだけが心苦しいが、夢か現かの境のこの場所では、心配するには早すぎるだろう。

 目を閉じたまま、声の主に身を預ける。
 力が抜けたことが伝わったのか、彼の手はミューランの頬を撫で、舌を口内へと滑り込ませる。
 ぺちゃぺちゃと水音をならしながら、何かを味わうように口内を舐め尽くす。息をするのもやっとなくらい堪能した後で、その人はミューランの首筋に口を寄せーー頭突きをした。

「いたっ!」
 突然の痛みに声を上げ、目を開く。完全に眠りが冷めてしまった。

 折角また抱いてもらえる夢を見れたと思ったのに、なんとタイミングが悪い。
 何かが落ちてきたのだろうか? と視線を降ろせば、何か見てはいけないものがそこにはあった。
 いや、視線なんてずらさずとも気づいていたのだ。


 誰かが上に覆い被さっていることくらい、重さで気づく。
 けれどまさかその人物がジャスティンだなんて想像もしていなかった。

 なぜこんな場所にいるのかは定かではないが、ジャスティンはミューランの首に顔を埋めるようにして寝息を立てていた。声をかけながら揺さぶった所で全く起きやしない。あのときと同じ爆睡だ。


 オメガの香りを辿ってやってきたのだろうか?
 そんな考えが頭を過った。

 けれどこの通りジャスティンは爆睡。髪を梳くように撫でた所で身動き一つしない。香りに誘われたアルファがこんなリラックス状態で眠りにつくことなんて考えづらい。そもそも兄の話によれば、ジャスティンはこの香りをオメガの発情香だとは思っておらず、花の香りと思い込んでいるようだった。ミューランの香りなんて同じ部屋にいれば嗅ぎ取れるほどのもので、歩いてきた道に残っているとは思えない。よほどこの香りが気に入ったのか、ジャスティンの鼻がいいのか。

 どちらにしても、数年ぶりの再会を果たした所でやはりオメガとして求められていないのだけは確かだ。

「やっぱり俺には魅力なんてないよなぁ」
 小さく呟いたミューランはジャスティンの身体を持ち上げて、ソファから降りた。
 ミューランがいなくなった所で毛布には微かに匂いがついている。恥ずかしさを覚えながらもその毛布を上にかけ、財布を手に部屋を後にする。
 あんな夢を見てしまっては一緒の部屋に残ることは出来なかった。

 兄達にはジャスティンが寝ていることと、王都に出かける旨を記した手紙を残した。
 なぜジャスティンが自分の部屋で寝ているのか、と混乱するだろうことは想像にたやすいが、本当の理由はミューランも知らないのだ。香りを辿ってきたなど、想像にすぎない事を書けば彼の名誉にも関わる。また兄達が帰ってくるよりも先にジャスティンが起き、その手紙を見られることも想定しておかねばならなかった。『ミューラン』のことなんて知らないだろう彼が見て、変だと思われることを書いてしまえば兄達の仕事に差し支える。だから兄達には悪いが最低限のことだけ。

 後から言い訳に出来るよう、土産物ではなく病人でも食べられそうなものを探す。
 猫獣人の病人食といえば、ミルクで煮込んでほぼ原型を失った米が一般的だが、人族はどうなのだろう?

 ミルク粥なんて食べられないと言われやしないだろうか。
 そもそも料理人以外が作った料理など食える訳がないと突き返されるかもしれない。
 ある程度の信頼を勝ち取っていたのももう数年も前のことで、期間も非常に短かった。あの頃を基準に考えていれば、後で後悔するだろう。
 看病することを前提に考えることを止め、捜索物を兄達のキッチンに残しておいても大丈夫そうなものにシフトする。

 ジューススタンドで購入したフルーツジュースで喉を潤して、市場をぐるぐると回る。広い敷地を巡ってミューランが購入したのはバケットにフルーツ、牛乳と少しの野菜とお肉。三人分よりも少し多めに見積もって購入したためかなりの量となったが、持てないほどではない。こんな時ばかりは他のオメガのように華奢な身体ではなかったことを都合よく神様に感謝する。城を出る前に門番からもらったネックレス式タグを返却し、部屋へと向かう。
 時間をかけたつもりだったが、まだ兄達は帰ってきていない。
 仕事が長引いているのだろうか。
 何時までか聞けば良かったな、と時計を眺めるが答えが浮かび上がることはない。
 目線をソファに移すと、ジャスティンはまだ寝ている。少し寝返りを打ち、毛布を胸元に巻き込んでいるが、相変わらず起きる気配はない。

 本当に過労と睡眠不足で倒れたのか? と聞きたくなるほどの見慣れた寝姿だが、目元にはくっきりとしたクマが居座っていた。

 手紙をぐしゃりと潰して、自分のバックの中へと仕舞う。
 荷物を片して、キッチンに向かって早速夕飯作りを開始する。

 とはいえ、そんなに手の凝ったものを作るつもりはない。
 ミューランが作ろうとしているのはクリームシチューだ。
 肉を炒めた後で切った野菜を投入し、小麦粉・コンソメ・水と牛乳を注ぐ。
 後は時々かき混ぜながらとろみがつくまで煮込むだけのお手軽かつ兄達の好物である。
 これなら余った所で明日の朝にも回せるし、マカロニと一緒に焼けばグラタンっぽいものが完成する。1食分どころか最大3食分まかなえる素晴らしき食べ物なのだ。

 火にかけながらサラダも作り、ドレッシングも自作する。

「それにしても調味料系が結構揃っているな」
 初めはマヨネーズでも作ろうかと思っていたのだが、充実した調味料棚を目にしたミューランはさっぱり系ドレッシングに変えたのだ。
 料理は人並み程度にする兄達だが、そこまで凝り性ではない。あの二人だけでここまで揃うということはない。多分、恋人さん達が度々来てはお料理を作ってくれるのだろう。もし食事に困っているようだったら、作り置き出来そうなものをいくつか作ろうと考えていたのだが、無用な心配だったらしい。

 兄達をよろしくお願いします、とちゃんと挨拶しなければ!
 今回は会えなかったが、また機会があったら王都へと足を運ぼうと心に決める。

 ちょうど火を止めた頃、ドアが開く音がする。

「ただいま~」
 兄達が帰ってきたのだ。
 想像よりも少し遅い帰りだが、グッドタイミングだ。

「おかえりなさい。ご飯出来てるよ」
「マジか! 本当はどこか連れて行く予定だったのに、こんな時間になっちゃってごめんな」
「仕事だもん。仕方ないよ。あ、ソファ付近は避けてね?」
「? 荷物でもあるのか?」
「ううん。人が寝てる」
「は?」

 兄達は状況が理解出来ていないようで、ソファを見下ろして固まってしまっている。
 けれどミューランは「起こさないであげてね」とだけ声をかけて、キッチンへと戻る。皿にシチューをよそい、サラダと一緒に机に並べる。椅子が4つ用意されているので、とりあえずは三人分だけ並べて、残りの一人分はキッチンに避けたまま。

「さぁ温かいうちにどうぞ」
「ちょっと待て、ミューラン。さすがにこれを無視は出来ない! なんでジャスティン様がこの部屋に……」
「わかんない」
「へ?」
「気づいたらいたの。体調悪いみたいだからそのまま寝かせてる」
「……そ、そうか」

 気まずそうに首元にチラチラと視線を向ける兄達だが、別にやましい行為はしていない。
 兄達だってミューランにオメガとしての魅力がないことは分かっているだろうに、この状況が異常だからこそいろいろ勘ぐってしまうのだろう。ここで焦って否定するのも変な意味に取られそうで、ミューランは平然と言葉を続ける。

「一応その人の分のご飯も作ったから起きたら食べさせてあげていい?」
「あ、ああ」
「まぁいつ起きるかは分からないし、俺らは先に食べちゃおう」

 そうは言ったものの家族以外の、それも重役の人間が近くで寝ているとなればなかなか会話が弾むはずもなく、どこか緊張した様子で久々に顔を合わせた兄弟の食事とはほど遠いものになってしまった。

 そこから寝床はどうするべきか? と頭を悩ませ、二人はそれぞれ恋人の部屋に一晩泊めて貰うことになった。ミューランとしてはジャスティンを自室か救護室に運び込みたかったのだが兄達が全力で拒否した。だからといっていくら揺らしてもやはり起きる様子もない。兄達はミューランをどこか他の宿に泊めようと提案したが、王都の宿が夕食時を過ぎて空いているはずがない。それでもやはりオメガとアルファを一緒の部屋にいさせる訳には……と頭を抱えた兄達を半ばミューランが追い出す形となった。なにせ二人とも明日も朝早いのだという。このまま深い眠りから覚める様子もない男に気を遣って寝坊させる訳にはいかないのだ。

「夜でも警備関係者が交代で動いているから、何かあったら大声で叫ぶんだぞ?」
「分かった」
「明日の朝には様子を見に来るから」
「え、いいよ。早いんでしょう?」
「それくらいさせてくれ。本当はここに残していくのも嫌なんだから……」
「兄さん……」
「気をつけてな」
「うん」

 どうせ起きた所で襲われることがないのを十分理解しているミューランにとって、兄達の心配は不要だ。それを説明するには、数年前のお見合いパーティーに遡らなければならないので、後々説明することにして背中を押した。

「おやすみなさい」
「おやすみ、ミューラン」

 パタンとドアを閉じ、机の上に手紙を残す。
『キッチンにシチューがあるので、お腹がすいているならどうぞ』ーーとだけ。

 一応、近くにペンも残しておいた。
 何か用があればメモに残していくことだろう。
 何も痕跡を残さずに消えてくれるのならそれでいい。
 あの様子では兄達も率先して関わることはしないだろう。

 そもそもジャスティンが朝までに目を覚ますという確証すらないが、寝ていたらミューランが残ったシチューを温めて食すだけだ。
 昼寝を邪魔されたミューランはふわぁと大きなあくびを吐いて、兄のベッドへと潜った。

 先に起きたのはミューランだった。
 すでに半日以上が経過しているが、一体何時間寝るつもりなのだろう。
 ベッドならまだしも、ソファでそんなに寝ては起きてから身体がギシギシと痛むことだろう。
 だからといって移動させてやるつもりも、移動させるだけの力もないミューランは眠り顔を眺めてからキッチンへと向かう。

 朝食は昨日の残りのクリームシチューとバケット。サラダの代わりにフルーツを剥いて皿にのせる。
 クリームシチューは後で温めなおすとして、フルーツは後で切るのも面倒なので二人分盛り付けた。長く時間が経過したものを彼に出すつもりはないので、しおれてしまったらそれもミューランの腹の中に入ることだろう。

 お昼は考えなくても済みそうだ。
 音を最小限に抑えながら一人で席につく。
 するとソファからはごそごそと身を動かすような音が聞こえてくる。

 起きたのだろうか?
 持ち上げていたスプーンをシチューの皿へと沈め、キッチンでジャスティンの食事をよそってミューランの前の席に置いた。

 ソファまで行って、もぞもぞと動き声を漏らす塊に一言声をかける。

「朝ご飯出来ているので、食べるならどうぞ」

 好いた相手に対してなんとも簡素な言葉だが、好きなだけ寝かせた上で食事を用意しただけでも良い方だろう。
「……食べる」
 毛布から這い出たジャスティンはふああああと大口を開けてあくびをする。
 まだ完全に眠りから覚めていないのか、返事をした割に目はどこかうつろだ。それでもしっかりと席につき、スプーンを使ってシチューを口に運ぶ。ぼやっとした彼の前に、お茶を注いだコップを滑らせれば無言で喉を潤わせる。空になったコップに新たなお茶を注ぎ、ミューランは椅子に腰掛ける。特にこれといった会話がないまま食事を進め、綺麗に完食したジャスティンはまだ夢の中のよう。

 腹も満たし、水分補給も済ませ、また寝るつもりだろうか?
 また半日も寝られては兄達を困らせてしまう。
 ミューランは心を鬼にして、しまりのない顔をしたジャスティンの前から空いた皿を回収して声をかける。

「寝るなら自分の部屋で寝てくださいね」
「目を閉じたら、ディーバルドはまた姿を消すのだろう? 夢の中とはいえ、せっかく会えたのに」

 どうやらこの状況を夢だと思っているらしい。
 どこから夢のつもりだったのかまでは他人のミューランには分からないが、夢だとでも思っていなければ勝手に他人の部屋に入り込むことはなかったのだろう。その上、ソファで寝ている者に覆い被さるなんて強姦と思われてもおかしくはない。寝ぼけて襲いました、なんてシャレにもならない。寝ていたのがミューランだったから、求められることはないと理解している相手だったから、騒ぎにならなかっただけのことだ。
 帰る途中でまた誰かの部屋に入り込まないかという不安もあるが、途中で誰かの目にとまって回収されることを願うほかない。所詮、ミューランは彼の記憶の中にいない人物で、赤の他人以外の何者でもないのだから。


「さぁ出口はあちらですよ」

 ドアを指さし、退出を促す。
 けれどジャスティンはドアに視線を投げ、悲しい表情を浮かべるが一向に腰を持ち上げようとはしない。

「今度はいつ、会える」

 夢の中での話だろうか?
 今度を問うなんて、まるで何度も夢に登場を果たしているようだ。
 ミューランの夢に出てきてくれたのはたった一度だけだったのに。いや、昨日の夢を入れれば二回か。どちらにせよ普通の登場をしてくれなかった。暗闇の中、声だけがジャスティンだと思わせてくれただけだ。だから意地悪な言葉を吐き出す。

「あなた次第ですね」
 実際、ジャスティンの夢に登場する・しないにミューランの意思は関わっていない。相手に思われれば夢に登場するなんて話を聞いたこともあるが、そんなもの、恋愛に思考を支配された誰かが作り出した迷信に違いない。まともに信じる方が馬鹿馬鹿しい。

「また倒れるまで働き通せば会えるのか?」

 どこか縋るような視線を向ける彼から目を背けて「毎晩少しずつでも寝ればいつかは会えますよ」とだけ告げる。倒れた所で見れるか見れないかは正直運次第だろう。それよりも少しずつでも仮眠を取れば、その分確率のサイコロを振る回数が増えることになる。それに伴い、わずかではあるが登場確率も上昇していく。
 ミューランでも分かるようなことをジャスティンが気づかないはずはない。まだ頭がちゃんと働いていないのだろう。キッチンへと足を進め、スポンジに洗剤を付ける。出て行く様子のないジャスティンに背を向けて洗い物を開始すると、彼はぽつりと呟いた。

「今日のディーバルドは優しいんだな」
「そうですか?」

 今日の、とは比較対象はいつだろうか?
 現実世界で厳しくしたつもりはないが、夢の中でのことまでは関与していない。知らない間に冷たく接していても自分のせいではない。ミューランは適当に受け流しながら洗い物を続行する。

「ああ。強姦魔と罵られなかったのは初めてだ」

『強姦魔』とはなんとも物騒なワードだ。
 しかも『罵られなかったのが初めて』ということはつまり、言い換えれば夢に登場する度にそのワードを彼に浴びせていたことになる。夢の中とはいえ、複数回に渡って不名誉な呼び方をされるとはよほど何かあるに違いない。

 例えばーー。

「誰かに無理を強いたのですか?」
 否定してくれ、というミューランの願いは届かなかった。

「そうか、今日は知らない設定なのか……」
 はっきりとした肯定も否定もしない。
 代わりにやっと聞こえるくらいのボリュームで、肯定と取れる言葉を呟いた。

 知らない設定も何も、現実のミューランは何も知らない。知りたくもなかった。
 泡を流し、近くに置かれたタオルで手を拭きながらドアへと歩く。空に抵抗するように勢いよくドアを開き、そして椅子に腰掛けたままの彼を睨み付ける。

「出てってください」

 他の誰かを抱いたことに怒るなんて、まるで嫉妬しているみたいだ。
 恋情を向けられたこともなければ抱かれたこともない。完全なミューランの片思い。
 けれどこれは嫉妬ではない。怒りだ。この数分で、思い出の彼が穢されてしまったような気がして、本人だろうと許すことは出来なかった。

「そうか。今日は罵ってさえくれないのか……」

 ぼそりと呟いてようやく腰を上げた彼が外へと出た途端、わざとらしくバンっと大きな音を立ててドアを閉める。まだ早い時刻で、周りの住人に迷惑になるだろうなんて考えもしなかった。ミューランはキッチンへと戻ると洗い物を続行し、テーブルを丁寧に拭いた。そして毛布を袋に突っ込んで外へと飛び出した。目指す先のクリーニング屋がどこにあるかも知らないで、怒りで頭がいっぱいのミューランは大股で城下町を闊歩する。

 本当は捨てたいくらいなのだ。
 けれど兄達の持ち物を勝手に捨てる訳にもいかない。
 ならば帰ってくるまで待てという話になるのだが、そこまで待っていることは出来なかった。一秒でも早くジャスティンの痕跡を消してしまいたかった。
 歩きながら帰ったらソファも掃除しなければと計画を立てる。

 彼のせいで王都滞在計画が随分と変わってしまった。
 今日だけではなく、数年前も同じ。
 ベータに間違えられなければ番が出来たなんて夢を見てはいないが、計画が180度変わってしまったのは事実だ。

 やっと見つけたクリーニング屋に毛布を預けた帰りの道で、王都とは縁がないのかもしれないと肩を落とす。

「掃除して毛布を引き取って、お土産買ってご飯作って、明日の朝一番に王都を出よう」

 パチパチと今日の予定のピースを組み立てながら、空を見上げる。
 本当はもう一度王都の空の下にやってくる予定だったのだが、兄達の恋人に会いに来ることはなさそうだ。
 相手には申し訳ないが、ミューランにはもうこの地を踏む勇気がない。猫獣人だけが住まう田舎の小さな村で、幼い頃から顔なじみの人達とだけ交流して一生を終える。王都に足を踏み入れることなんてないと思っていたあの日まで歩き続けていたレールの上に戻って。いや、完全に戻ることなんて出来るはずもない。なにせミューランには娘がいるのだから。

 彼女だけは神様が与えてくれた贈りものとして大事に育てるつもりだ。
 絶対に、穢されてなるものか。

 出てくる時のやりとりはすっぽりと記憶から抜けているため、粗相をしてしまってはいないかとドキドキしながら門番にタグを渡す。けれど何か声をかけられることはなく、ぺこりと頭を下げられるだけ。ミューランも彼に倣って少し深めに頭を下げて門を後にした。

 ーーそれだけで済めばどんなに良かったことだろう。

 ソファを掃除している最中にコンコンコンとドアを叩かれた。
 兄達ならノックなしに入ってくるはずだ。
 そして彼らの恋人ならば、今の時間帯ミューランしかいないことを知っているはず。ある程度話は聞いているのだろうが、よほどの理由でもない限り初対面の相手に、部屋主の不在中に会いに来ることはないだろう。

 ジャスティンの突然の訪問はよほどの理由に入るのだろうか?
 思えばミューランは兄達が顔を出すよりも先に部屋を後にしている。
 手紙も残さずに忽然と姿を消した弟を心配して、様子を見に行って欲しいと頼まれたのかもしれない。

 コンコンコンと二度目のノックで手に持ったお掃除セットを置いた。
 はあいと返事をして、トトトと駆け寄りドアを開ける。

 けれどドアの先で待っていたのは兄達の恋人でも、ましてや兄達自身でもない。

「夢じゃなかったんだな」
「ジャスティン様……」

 今朝方、部屋から追い出したジャスティンその人だった。
 一度部屋へと戻ったためか、それとも時間が空いたからなのか、意識ははっきりとしており違う服を身にまとっている。

「なぜ夢だなんて嘘を吐いた」
「夢の方が良かったのでしょう? 昨日と今朝の出来事は他言致しませんのでご安心ください」
 それに、ミューランは一言もあの状況が『夢』だなんて口にしたつもりはない。ジャスティンが勝手に勘違いをしたのだ。苛立ちを込めた声を早く紡いでさっさと話を終わらせる。

「それではお帰りください」
「そう簡単に見逃す訳がないだろう!」
「お帰りください」
「……せっかくもう一度会えたんだ。ディーバルド、帰れなんて言わないでくれ」

 ミューランの肩に手を置いて、懇願するように頭を下げるジャスティン。
 それでも呼び名には相変わらず変化はない。ミューランはジャスティンの手を肩から外し、ぽいっと放った。

「私の名前はディーバルドではございません。どなたとお間違いになられているのではないでしょうか?」
「そんなはずがねぇ! 俺が見間違えるはずが!」
「世の中には顔のよく似た人物が三人はいると言います」
「確かに城の使用人にも似た顔の者はいるが……」
「なら私がディーバルドとは言い切れないでしょう?」
「いや、この香りは確かにディーバルドの所有物と同じ香りだ!」
「たまたま同じ香りのする物を所有しているのでしょう」
「…………っ」
「兄達に尋ねれば私の名前がディーバルドではないことくらいすぐに証明出来ます。どうしてもと言うのでしたら通達なしで村の者に確認していただいても構いませんが?」

 ジャスティンがミューランの名前さえ覚えていれば何かが変わるのだろう。
 けれど数年前のあの日『ミューラン』だと訂正したのに、ろくに取り合ってくれなかった彼は本当の名前すらも覚えてはいないだろう。

「問題にするつもりはありませんので、お帰り願います」
「ようやく、再会出来たと思ったのに。やはりあのとき引き留めておけば……」

 固めた拳で太ももを打ち付けるジャスティン。
 だが時が巻き戻ることはない。
 万が一戻れたとしたら、その時はミューランは部屋を抜け出して兄達を呼びに行くことだろう。

 番でもないオメガとアルファが数日間、二人きりで過ごすなんて異常だった。

 ドアを閉じれば、今度こそジャスティンとの関係は完全に閉ざされる。
 けれどこれでいいのだ。兄達に口止めをして、村に戻れば日常が戻ってくる。

 王都なんて無縁の生活が。

 さようならと心の中で呟いて、ドアを閉めようとした時だった。


「ミューラン」
「え?」
「ミューラン……なのか?」
「なぜその名前を」
「あのときにいなくなったオメガの名前で、お前が自分こそがそうだと主張していた名前だ。……だがそうだとしたらお前は!」

 自分がしでかしたことを思い出したのか、ジャスティンは目を見開きながらぷるぷると身を震わせた。
 ミューランを引き抜いた当人だからこそ、罪の重さを理解しているのだろう。
 首輪を指さしながら「パーティーに参加予定だったオメガです」と数年越しの真実を告げた。

「俺は、なんてことを……」
「抜け出したと勘違いされていたことに変わりはありませんが、それで我が村が咎められることはありませんでしたし、今もパーティーへの参加が続いています。何か問題が起きた訳ではありませんし、今後もお咎めがないのならばそれでいいです」
「良くないだろう! 俺は、お前が王都に残る最後の夜、寝ているお前を犯したんだから」
「は?」
「欲望を抑えきれず、酒に酔って熟睡しているお前の尻を犯した。バース性が何であろうと強姦に違いはない。だがオメガならもっと話は複雑だろ……」

 ああ、そうか。
 ジャスティンこそ、ミューランを抱いた人物の正体だったのか。
 寝ている所を犯したというのなら、出産直前に見た夢は完全に想像が生み出した欲望の塊という訳ではないらしい。
 強姦は許される行為ではない。けれどあのときのミューランは犯されることを願っていた。
 全く知らない相手に犯されたというのでないのならば、むしろ娘の父親が知れてすっきりしたくらいだ。

「別に何もありませんよ」
 不安で震えるジャスティンに、ミューランは軽く笑って嘘を伝える。
 もしもジャスティンが『猫獣人はどんな相手でもほぼ確実に妊娠する』という情報を持っていたのならば、言いかえされたことだろう。けれどそんなことを知らない彼は「そうか」と胸をなで下ろすのだ。けれど彼は安心したのを悟られたくないのか、慌てて「それでも俺がお前にしたことが消える訳じゃねぇだろ……」と苦しげな声を紡ぐ。

 おそらく夢の中でミューランに散々『強姦魔』と言われ続けたジャスティンは、ずっと許されたかったのだろう。許されたいという願望こそが、数年間ミューランの夢を見させていた。そしてそれこそが彼を睡眠不足へと追い込んだ。けれど当人であるミューランが気にしてはいないのだ。強姦をするずるい相手と知っても、相手が自分ならば仕方ないと思えてしまったから。全て水に流すことにした。

「だから気にしないでください」
「だがっ」
「子どもがいるんです」
「っ」
「もう過ぎたことよりも、俺にとっては今ある家庭が大事なんです。だから、どうかなかったことにしてください」

 そう言い切ってしまえば引き下がるしかないことを、謝罪すら伝えることが出来ないだろうことを理解していて、ミューランは言葉を紡ぐ。
 鋭い刃のようで、けれども重く鈍い痛みを残す鈍器のような言葉を。

「……っ、わかった」
 ジャスティンは唇に歯を立てて、引き下がっていった。
 けれど後ろで耳を立てていた二人はジャスティンのようにすんなりと引き下がってはくれなかった。ジャスティンの姿が見えなくなるとすぐにミューラン目がけて飛んでくる。

「子どもがいるってどういうことだよ。お前、そんなこと手紙では一切言ってなかったじゃないか!」
「……ごめん。兄さん」
「なんで……。俺たちはそんなに信用ならないのかよ!」
「いくつなんだ?」
 娘の年を素直に告げれば、兄達は頭を抱えた。

「俺たちが王都に来たすぐ後じゃないか」
「詳しいことは部屋の中で話すよ」
「全部話してくれるんだろうな」
「うん。ちゃんと話すよ」

 本当は二人が帰ってくるまで、娘と会うまで話すつもりはなかったが、知られてしまっては打ち明けるしかないだろう。二人は大事な家族で、ミューランが幼い頃からずっと守ってきてくれた人達なのだから。
 ドアを閉め、飲み物を用意して席に着く。

 ーーそして全てを包み隠さず打ち明けた。
 お見合いパーティーの初日、受付を済ませるよりも先に、ベータと勘違いしたジャスティンに仕事を手伝うように言われたこと。それからずっとミューランは『ディーバルド』というベータと間違われたまま、ジャスティンの元で仕事を手伝っていたこと。

「じゃあ逃げたのはミューランじゃなくて」
「ディーバルドっていうベータの方。顔を合わせていないけれど、いなくなったのは俺ってことになっていたからちょうどよく合流したんじゃないかな?」
「なんで言わなかったんだよ!」
「言ったら問題になるだろ……。折角兄さん達が城勤め出来るっていう時に伝える訳にはいかなかった……。それに番にはなっていないし、誰に抱かれたのかもさっき知ったんだ」

 誰の子か分からない子を孕んだとなれば、二人が気にしないはずがない。
 それにミューランだって父親の正体がジャスティンだとつい先ほど知ったばかりなのだ。言えるはずがない。

「でも、ミューランはジャスティン様が好きなんだろう? 俺らに気を使って今を逃せば今度いつチャンスが来るかは分からない。なら今からでも追って!」
「オメガが抜け出したのに問題になっていないことが奇跡なんだ。こんなことが、事実が公になれば見合いパーティーへの参加もなくなる。村の人達にはよくしてもらっているのに、迷惑はかけたくないんだ」
「ミューラン……」
「あのまま村にいても誰かと番になることもなければ、子を授かることすら出来なかっただろう。だから、いいんだ」

 だからこれでいい、と。
 ミューランは自分に言い聞かせるように繰り返した。

 何か言いたげな兄達の視線を無視して、部屋を出た。
 クリーニング屋さんで毛布を受け取り、お土産ものを買いあさった。

 そしてミューランは翌朝の馬車で王都を去った。
 これでいい。
 これで全てが丸く収まる、と何度も頭の中で繰り返して。

 けれど途中の宿で一人になると途端に涙が溢れた。

 オメガだからこそ、子を授かれた。
 けれどベータだったら、この先も彼と一緒にいられたのかな? なんて香りがなければ求められることすらない癖に馬鹿みたいなもしもを思い浮かべて、声もあげずに涙をボロボロと零す。

 出来損ないの嘘つきオメガを慰めてくれる人は誰もいない。
 おとぎ話のように、平凡な男の元に都合よく現れてくれる騎士様なんていないのだ。
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