上 下
50 / 99
二、潮風に吹かれて

2,聖王女リシュナ・ティリア(2)

しおりを挟む
 冷たさに首筋が強張る。
 彼女にとっては、儀式が終わってしまえば、ここはただの水場だった。
 少女が顔中を濡らしたままとぼとぼと屋内へ戻ると、戸口にふくよかな女が立っていた。
 秋色の縮れ毛を後ろへひっつめている彼女は、リシュナと妹セレスの乳母だった。

「モモ」

「リシュナ様。お仕度もしないままお祈りだなんて――」

「顔を洗って着替えるのだから、先にご挨拶したって変わらないわ」

 乳母は痩せっぽちのリシュナを抱くようにして、少女の頭や手についた水分をタオルで丁寧にふき取った。

「室内履きもお履きにならないで」

 リシュナにしてみれば、ごしごしと小言を擦りつけられているようでもあった。
 だが、乳母がこうするのも、少女が笑って誤魔化すのもいつものことだった。

「だって、このほうが草花のスィエルを感じられるんですもの。朝日に、風に、空に、草に、花に、露に。もちろん、海や大地に。この世のすべてにスィエルがあるのよ。歌声に耳を澄ましてごらんなさいな。あなたも裸足で歩けば感じられるのに」

 年の離れた二人がくちびるを尖らせあう傍を、真っ白なお仕着せの女中たちが膝を折りながら通り過ぎてゆく。
 微笑みがさざめき押し寄せ、引いていった。

「スィエル教の誉れ高いヴァニアスの神子様としては、素晴らしいお言葉です。けれども、お姫様としては、いけません。おみ足が傷んでしまいます。お兄様がご覧になられたら悲しまれますよ」

「いらっしゃらないグレイ兄様を引き合いにして」

 リシュナは、いつまでも、と強調したかったのをぐっとこらえた。
 いけないわ、リシュナ、駄々をこねては。
 大人の入り口――十二歳はとっくに過ぎたのよ。

「わたくしの気持ちも考えてちょうだい」

 モモは少し目元に皺を寄せたが、すぐにタオルを畳みなおした。

「殿下こそ、今日一番にご挨拶したかったのに、お部屋に行ってみたらベッドがもぬけの殻だった、乳母の悲しい気持ちを想像なさってください」

 リシュナは小さく悲鳴を上げると、詫びながら乳母に抱き着いた。
しおりを挟む

処理中です...