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二、潮風に吹かれて
2,聖王女リシュナ・ティリア(3)
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兄の名を聞くと、リシュナはいつも別れたときのことを思い出す。
第六二代ヴァニアス国王グラジルアス――祖父譲りの漆黒の髪に、祖母譲りのコーンフラワーブルーの瞳を持ち、父からは聡明さを、母からは人徳を受け継いだ、スノーブラッド王朝そのもののような少年。
それが、リシュナの兄だった。
残された家族にして、若き家長を思うと、少女の気持ちはきゅうっと縮んで押しつぶされそうになった。
彼と引き離された原因は、五年前に起きた〈リッコ事件〉――両親の崩御だったから。
五年の歳月を経て、八歳だったリシュナ・ティリアは十三歳に、三歳だった末妹のセレス・フィナは八歳に成長した。
見える世界も、靴も、ドレスも、大きく広がっていったけれど、リシュナの記憶の兄は、十三歳の少年のまま姿が変わらない。
あの悲痛な事件さえなければ、三人の兄妹は一緒に暮らせていて、グラジルアスはまだ王子でいられたのかもしれない。
少女はよく、そんな夢を見ることがあった。
だが実際に眠りの中で見るものは違った。
叔父が馬車に細工をした、あの日のことばかりだ。
棺を乗せた黒塗りの馬車が花びらを散らしてゆく、忌まわしい真実の風景だ。
市民の嘆きが白い献花となって積み重なり、撒かれ、風に舞う。
集まった人々の昏く重たい悲しみを目の当たりにして、リシュナは父と母が二度と戻らぬことを悟った。
そのあとは。
そのあとは。
少女は夢の中で扉をいくつも押し開く。
その先にはいつも、がらんどうとした食堂があって、苦い顔をした兄と、初めての食堂に浮足立つ妹がいた。
食堂には使用人を除けば、リシュナを含めて三人しかいなかった。
女王アナシフィアには兄弟がいなかったため、リシュナ達兄妹が王家の忘れ形見となってしまった。
成人していない長男を国王に据えるため、摂政には叔父のリンデン伯爵が挙手した。
誰の反対もなかった。
そしてスノーブラッド王朝の家長となったグラジルアスに何の相談もなく、姫君たちの離宮への移住が決定していた。
でも。
リシュナは、どうしても伝えねばならぬと思っていた。
この日を逃せば、兄妹はほとんど会えなくなるだろうと、うっすら確信めいた予感があったのだ。
こうした香りにも似た直感は〈ヴァニアスの神子〉としての自覚以前からずっとある。
どうすれば言葉で伝えられるか、少女は考えた。
考えあぐねた結果、ナプキンを落とすことにした。
口を拭っていたナプキンを、さも自然に落とし、恥ずかしげな視線を兄に投げた。
第一王女のすぐ傍に控えていた女中が、すぐさま拾おうと脚を前へ出すも、彼女はそれよりも先に口を開いた。
「兄様、とっていただけませんか?」
第六二代ヴァニアス国王グラジルアス――祖父譲りの漆黒の髪に、祖母譲りのコーンフラワーブルーの瞳を持ち、父からは聡明さを、母からは人徳を受け継いだ、スノーブラッド王朝そのもののような少年。
それが、リシュナの兄だった。
残された家族にして、若き家長を思うと、少女の気持ちはきゅうっと縮んで押しつぶされそうになった。
彼と引き離された原因は、五年前に起きた〈リッコ事件〉――両親の崩御だったから。
五年の歳月を経て、八歳だったリシュナ・ティリアは十三歳に、三歳だった末妹のセレス・フィナは八歳に成長した。
見える世界も、靴も、ドレスも、大きく広がっていったけれど、リシュナの記憶の兄は、十三歳の少年のまま姿が変わらない。
あの悲痛な事件さえなければ、三人の兄妹は一緒に暮らせていて、グラジルアスはまだ王子でいられたのかもしれない。
少女はよく、そんな夢を見ることがあった。
だが実際に眠りの中で見るものは違った。
叔父が馬車に細工をした、あの日のことばかりだ。
棺を乗せた黒塗りの馬車が花びらを散らしてゆく、忌まわしい真実の風景だ。
市民の嘆きが白い献花となって積み重なり、撒かれ、風に舞う。
集まった人々の昏く重たい悲しみを目の当たりにして、リシュナは父と母が二度と戻らぬことを悟った。
そのあとは。
そのあとは。
少女は夢の中で扉をいくつも押し開く。
その先にはいつも、がらんどうとした食堂があって、苦い顔をした兄と、初めての食堂に浮足立つ妹がいた。
食堂には使用人を除けば、リシュナを含めて三人しかいなかった。
女王アナシフィアには兄弟がいなかったため、リシュナ達兄妹が王家の忘れ形見となってしまった。
成人していない長男を国王に据えるため、摂政には叔父のリンデン伯爵が挙手した。
誰の反対もなかった。
そしてスノーブラッド王朝の家長となったグラジルアスに何の相談もなく、姫君たちの離宮への移住が決定していた。
でも。
リシュナは、どうしても伝えねばならぬと思っていた。
この日を逃せば、兄妹はほとんど会えなくなるだろうと、うっすら確信めいた予感があったのだ。
こうした香りにも似た直感は〈ヴァニアスの神子〉としての自覚以前からずっとある。
どうすれば言葉で伝えられるか、少女は考えた。
考えあぐねた結果、ナプキンを落とすことにした。
口を拭っていたナプキンを、さも自然に落とし、恥ずかしげな視線を兄に投げた。
第一王女のすぐ傍に控えていた女中が、すぐさま拾おうと脚を前へ出すも、彼女はそれよりも先に口を開いた。
「兄様、とっていただけませんか?」
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