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三、知恵と勇気の王国

1,アルバトロスの警鐘(1)

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 国王の部屋で、秘書ミラーはそわそわしていた。
 短く切りそろえた髪の端を無意識に引っ張っては気づき、また引っ張りを繰り返すほどに。
 日付は〈処女の月ヴィアジン〉十一日を迎え、短い夏休みを終えた騎士団長が戻ってくる予定だった。
 だが、一向に到着の気配がない。
 窓の向こうでは秋晴れの景色がくっきりと浮かび、まるで窓枠で区切られた連作の絵画のように見えた。

「遅いね、お父さん」

 隣で小さくあくびをする相棒も、彼女の苛立ちを助長する。
 騎士ラインの仕草を見て、偽グレイ――シアも真似した。
 黒い髪は一本も揺れない。
 整髪料でしっかりと後ろに撫でつけているところまで、完璧に少年王グラジルアスだった。
 寸分たがわぬ変身の魔法を使う少女シアは、元来の性格からか〈傀儡の少年王マリオネット〉と同じ雰囲気をまとっていた。
 言葉少なく、おっとりと柔らかな物腰には親しみやすささえ感じる。
 非戦闘状態のラインと一緒に置いておくと、まるで本当の兄弟のようにゆったりとした時間が彼らの周りに流れるのだった。
 ミラーは感心した。
 閣下が選ぶ子どもは、みんなこうなのかしら。
 首を傾げていた少女の耳に、ざわめきが飛び込んできた。
 ミラーはほっとした。

「これは何の音ですか、ミラー?」

 偽グレイのシアがこてんと首を傾げる。
 声音はグレイのハイバリトンそのものだったが、カスミソウが揺れるような可憐さがあった。

「民衆の怒号です」

 反芻しても理解できないようで、シアは反対に首を傾げなおした。
 ラインが彼女の肩に手を置く。

「あのね。これは、お父さんが来たっていうサインなんだ」

「ライン殿、その言い方は語弊があります。あのね、シア……」

 秘書の娘は少し考えてから再び口を開いた。

「国民は、リンデン卿によって、若様が独裁者であると刷り込まれてしまったの。彼らは、今、世の中で起きている悪いことのすべてが若様のせいだと思い込んでいるから、ああやって集まって、意見を言っているのよ」

 民衆の抗議できる場がそれしかないことは、伏せた。
 グレイの母アナシフィアの崩御からすぐに王政復古があり、庶民院は解散。
 貴族院についても数名がリンデン伯爵により選ばれただけだ。
 君臨すれども統治せずの精神が失われて、五年が経とうとしていた。
 ミラーはぐっと奥歯を噛みしめた。
 私たちみんなのお母さまみたいな方は、もういらっしゃらないんだわ。
 彼女は、壁に飾られた王族の肖像画を見上げた。
 もの悲しさに、心に隙間風が吹くようだった。

「王様は、悪い事をする人なのですか?」

 偽グレイの眉が悲し気に下がると、ラインがむきになった。
 ほんの少し口元が下がる些細な変化だったが、ミラーにはそうだとわかった。

「若はいい事をしたい人だよ。悪い事は大嫌いで、あと、スコーンと、僕と、ミラーが好き」

 好き、という言葉に、ミラーはドキドキした。
 まごつきながら盗み見たラインの横顔の上で、少年の薄い唇が嬉しそうに持ち上がる。
 シアはグレイの顔でにっこりした。

「私もスコーンが好き。ラインも、ミラーも、好き。王様と一緒です」
「僕もだよ」

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 ヴァニアスの守護神として誉れ高いシュタヒェル騎士団団長セルゲイ・アルバトロスが国王の部屋を訪れたのは、それから時計の長針がぐるりと一回転してからだった。
 気を揉んでいると扉を叩く音が聞こえた。
 偽グレイが緊張に肩を怒らせて小さく返事をすると、衛兵によって扉が開かれ、全身を黒光りさせた男が入ってきた。
 セルゲイだ。
 ヴァニアスの薔薇ダブル・ローズの文様が金色に輝く黒鉄くろがねの半甲冑は、彼のトレードマークだった。今日は珍しく兜も身に着けている。

「陛下、ご機嫌いかがかな。ラインとミラーも、ご苦労」

 ミラーとラインが上司を最敬礼で迎えたところに、メイドたちがそそくさとワゴンを押して入ってきた。
 彼女たちも騎士団長の到着を今か今かと待ちわびていた仲間だったようだ。
 手際よくテーブルに並べられた茶器とお菓子は、甘い香りを室内にもたらした。どれも出来たてという証拠だ。
 メイドたちが仕事を終え出ていくと、扉が重々しく閉じられた。
 セルゲイは思い切りよく兜を脱ぎ脇に抱えると、偽グレイに向かって満面の笑みを浮かべた。

「シア。偉かったな。お父さんに可愛い顔を見せておくれ」

 偽グレイはきょときょととラインとミラーに目で助けを求める。
 二人の側近が軽くうなずくと、目の前でグレイの姿が滲みだして、彼の座っていたところに小さな少女がちょこんと座っていた。
 彼女が魔法めいたエメラルドの瞳をふわりと緩めたのに、ミラーは気づいた。
 そういえば、変身しているときに瞳の色だけは唯一変わらない――シアそのものだわ。
 セルゲイは彼女の目の前に椅子を引いてどっかと座った。

「さて、儂のことは気にするな。遠慮せず」

 彼は装備を付けているとき、肘当てのせいで可動域が制限されることから、飲食を控えるのが常だった。

「わーい」

 ラインが誰よりも早く椅子に腰を下ろす。
 手を伸ばしたのは、スコーンだった。
 一度触れてから、思い出したようにフィンガーボウルで手を洗って、同じスコーンを手にした。
 それは彼の主君が日頃口酸っぱく指導していたことだった。

「では、私も遠慮しません」

 ミラーも席に着くと、人数分の紅茶をカップに注いだ。
 セルゲイの手前には、二通の手紙を叩きつけた。
 そうするつもりはなかったが、思いのほか机がよく乾いたいい音で鳴った。

「閣下。聞かせてくださいますね。なぜ私たちになにも言わずに事を進めたのですか。教えてくれなかったのですか。シアを用意してまで、なぜ若様をお一人で行かせてしまったのですか。若様は魔物の横行も〈神隠し〉も、何もご存じないのですよ。今、誰とどこにいらっしゃるのですか!」

「ミラー」

 ラインがまくし立てていた少女に向かってスコーンを突き出した。
 ミラーは彼の沈着な瞳に、熱くなりすぎたのを自覚した。
 恥じながらそれを受け取り、歯で軽く削った。
 バターの濃密な香りがミラーの心をほんの少しなだめてくれる。
 セルゲイはちらりと自分の筆跡を見下ろした。

「『いとに鞭打たんとして、獅子の子を落としにけり』。利口なお前のこと、すぐ理解に及んだろう」

 静かながらも朗々とした響きのあるバスバリトンは、少し掠れている。

「だからといって――!」

「お前たちに知らせたら、一緒に行くと言って引かなかった。違うか? それに、国王たる者、自らの足で国を見なければ、よくは治められぬ。魔物がいるとはいえ、渡り合えなくてどうする。儂やラインでグレイに剣技や武術を仕込んだのは、この日のため」

「確かに、体術なら若は僕より上手だよ、ミラー」

 ミラーはセルゲイの鳶色の瞳とラインの銀鼠ぎんねず色の瞳とを順番に睨みつけた。
 びくりとしたシアには、あとで微笑まねばなるまい。
 そう心に書き留めながら、もう一度セルゲイに視線を移す。

「困ったな……。そんなに儂のことが好きか……」

 先に視線をそらしたのはセルゲイだった。

「誤魔化さないで、閣下のプランを開示してください。若様がたどられるルートを」

 老騎士は諦めたように口の左端をグイと引く。

「ルートは簡単。ここ王都ファロイスから港町スキュラを経てロフケシア王国の首都ヴィーサウデンへ行き、内部改革の顧問としてエイノ――エイノユハニ・ヘンリク・クルーセルを引き抜いたらば戻ってくる。帰りは聖都ピュハルタ経由、ベルイエン離宮で姫様方との再会のデザート付きじゃい。今ごろ、レイフの教え子と一緒に船に揺られちょる。空と風に恵まれていれば、今日あたりヴィーサウデンに着いとるじゃろ」
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