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「あ、あー! エリッ、ク……! そこ、ぃ、虐めちゃ、ぁ……!」
「違うだろ。リックって、そう呼べと教えたじゃないか」
嫌々と首を振ってベソをかくユージーンの胸から、エリックが顔を上げる。ユージーンの胸の先はエリックに散々舐めしゃぶられたせいでポッテリと腫れ上がり、更にはピンと立ったそこは唾液でテラテラと光っていた。
「や……やぁ……!」
「嫌だって? こんなに悦んでおいて? ジーン、もっと素直になれよ」
言いながらエリックはからかうように指の先で軽くユージーンのペニスを弾く。もうすっかり勃ち上がってダラダラとカウパーを零すそこは、確かにユージーンの興奮を如実に物語っている。涙でボヤけるユージーンの視線の先で、エリックはウッソリと微笑みまた薄っぺらい胸を虐める作業に戻った。
エリックはユージーンに自分をリックと呼ばせたがり、ユージーンの事をジーンと呼びたがる。まるで、恋人同士がそうするかのように。対してユージーンはエリックをリックと愛称で呼ぶのは好きじゃない。エリックにジーンと呼ばれるのもだ。理由は単純。リックと呼べばエリックは興奮してただでさえ以前よりネチッこくなったセックスが更に時間をかけたものになるし、ジーンと呼んでくるエリックの声はとても甘やかで彼の気持ちを自分に都合よく勘違いしてしまいそうになるからだ。
エリックのものだという家に連れてこられてから、ユージーンはエリックが仕事で居ない時間以外は殆どずっとエリックに弄ばれていた。エリックに毎日のように執拗く求められ、ユージーンはもう疲労困憊である。なんせエリックは以前のようなユージーン第一のセックスを止めて自分の気が済むまでユージーンを苛むのだから無理もない。毎日体を開発され続け精も根も尽き果て全身敏感になったユージーンは、奴隷としてやるべき家事も仕事も何もできないどころか翌朝動くことすらままならない。それでもエリックは言っていた通り文句の一つも零さず、毎日朝早く起きてベッドの住人になっているユージーンでも食べられるような食事を用意したり、汚したシーツの洗濯をしてから仕事に行く程だった。
ユージーンは分かっている。これは罰なんだと。ユージーンは自分が主人だという立場を利用して、エリックの意志を無視して彼を使い勝手のいい性具扱いした。本当はエリックへの気持ちがあってこその行為だけど、彼はその事を知らない。ならば、エリックにとってあれは拷問にも近い行為だったろう。好きでもない相手を命令されて無理矢理抱くのだから、それを苦痛に感じるのは無理もない。エリックはその復讐として、今度はユージーンを自分に都合のいい性処理相手にしているのだ。苦しいまでの執拗い手管や快感の嵐も、それで全部説明が着いてしまう。
ユージーンにとって度し難いのは、こんな事になってまでエリックへの思いが薄れない事と、それどころか以前と変わらず彼に求められる事を喜んでしまっている自分がいる事だ。しかし、自分の事はどうでもいいが、こんな復讐でエリックの貴重な時間を浪費していいわけがない。今やエリックは国の英雄だ。そんな彼が犯罪奴隷のユージーンとの性行為に耽溺しているなんて、不祥事に他ならない。頭ではそう思って実際セックスの最中も嫌がる言葉や素振りを見せれども、自分の心までは偽れず……。そうしてまたユージーンは夜になるとエリックに抱かれ、何度も果てて精と涙を零すのだった。
「ジーン。悪いが来週から一週間、出張に行かなくてはならない。食事は缶詰を置いておくから、中身を出して温めて食べるといい。服は一週間くらいなら着回さなくてもいいくらい買ってあるから、大丈夫だよな? 汚れたまま放置するのが気になるなら、捨てておいてくれ。丁度背も伸びてきて変え時だし、新しいのを買おう」
ある日の事だ。いつものように向かい合って食事を摂っていたユージーンに、エリックがそんな事を言ったのは。ユージーンは驚いた。これまでエリックが外に出るのと言ったら仕方なく仕事に出る時だけで、買い物やその他の所用だってその時に済ませてしまってできる限り長い時間家に居られるようにしていたからだ。それが、いきなり一週間も家を留守にするとは。ユージーンが驚くのも無理からぬ事だった。思わず不安そうな顔をしたユージーンに、エリックはいつかのように優しく微笑みかける。
「悪いな。俺も本当はずっとお前の傍に居たいんだが、そろそろお前も今の生活に慣れた頃だろうしと言われて無理矢理出張を入れられちまった。こればっかりは逆らえない。一人で不安だとは思うが、留守番できるか?」
「……別に、僕だってもう大人なんだから平気だよ」
「だが、この家にも警備魔法を厳重にかけているとはいえ、一人は心細いだろう?」
『寂しい』とでも言って欲しげなエリックの態度に、ユージーンはムッと唇を尖らせた。確かにユージーンはエリックの長い不在を寂しくは感じていたが、だからといって何になる。ただの奴隷でしかないユージーンが泣こうが喚こうがエリックは出張に行くしかないし実際行くだろう。その事が分かり切っていたからこそ、ユージーンは何も言えず黙って食事を口に運んだ。
「……急いで早く帰ってくるから、そう拗ねるなよ。土産も沢山買ってくるからさ」
「拗ねてないし、急がなくていい」
机の向こう側からエリックが手を伸ばし、ユージーンの頭をソッと撫でる。その手に縋りたくなってしまうのをグッと堪え、ユージーンは黙々と食事を続けるのだった。
そして翌日。暫く会えない分を補うかのように前夜に沢山愛されたユージーンが寝ている間に、エリックは家を出て行ってしまっていた。昼頃になってからようやく久しぶりに自分だけで自然と目を覚ましたユージーンは、シーツの冷たさにエリックの不在を感じてブルリと身体を震わせ体を縮こまらせる。暫くそうしていたがここで震えていてもどうにもならないと思い立ち、ユージーンはとうとう立ち上がってキッチンへと足を向けた。
キッチンでは忙しいにも関わらずエリックが用意してくれた美味しそうな食事がタップリと待っていたが、これを食べ切ってしまったら暫くエリックの手料理にありつけないと思うとあまり食が進まない。美味しいはずの食事をモソモソと味気なく食べながら、ユージーンはこれからどう過ごそうかと考えた。
エリックが出張に行ってしまったのはもう仕方がない。どうせならエリックのせいで疲れ果てた体を休める事に集中しよう。そう考えたユージーンは自堕落に過ごしたが、若い体は直ぐ回復するし単調な日々を楽しめる程ユージーンは老成してもいない。三日目にしてユージーンは休んでばかりの毎日に飽きてしまった。
家には暇を潰せるような遊び道具は存在しない。というか、最低限生活するのに困らない程度の家具や道具しか置いていなかった。これではまるでヤリ部屋だ。いや、実際エリックにとっては仕事をして帰ってセックスして少し寝てまた仕事をしに行くだけのヤリ部屋なのかもしれない。そんな事を考えついてしまうと無性に虚しくなって益々居ても立っても居られなくなり、ユージーンは立ち上がって家中を周りやるべき事を探し始めた。
昔住んでいた別邸と比べると全体的にこじんまりとした作りの家の中を歩き回るユージーンの目が、洗濯物籠に止まる。籠の中にはここ数日の汚れ物が溜まっていた。これから日を重ねるにつれ、汚れ物はもっと増えるだろう。出張で疲れて帰ってきたエリックが、それを処理するのだ。洗濯だけでなく、家の掃除や、中身を食べた缶詰の処理も、全部……。
ユージーンはエリックの奴隷だ。それなのにエリックに養われ家事をさせ世話を焼かれ、これではどちらが主人が分かったもんじゃない。このままエリック一人に負担が集中する現状は、あまり喜ばしくないだろう。そんな思いがユージーンの頭に去来する。気がつくと、ユージーンの手は洗濯物籠に伸びていた。
家を出てから五日後。宣言通りエリックは予定より早く家に帰ってきた。片手に旅行鞄を、片手にユージーンへの土産を山程抱えて苦労して玄関扉を開けたエリックは、驚きで目を見開いた。暫くの不在で空気が淀み床はくすんである程度汚れていることを覚悟していた我が家が、ピカピカに磨き上げられ輝いていたからだ。エリックが目を瞬いていると家の奥からパタパタと軽い足音が近づいてくる。やがて廊下の曲がり角からヒョッコリとエプロン姿のユージーンが姿を現した。
「ジーン、その格好……」
「帰ってきたね。あり物でつくったから大したのじゃないけど、ご飯できてるよ」
ユージーンの言葉にエリックは二度驚く。ユージーンが料理? いや、この様子を見るにきっと掃除だってしたのだろう。恐らく洗濯や他の家事も……。ユージーンは生粋の箱入り息子だ。一族に囲われていた時から今まで、離れていた時を除いて身の回りの事は全部エリックがやっていたし、収監されていた時もある程度の事以外は自分でやる機会などなかった筈である。そのユージーンが、料理だって? エリックが驚くのも無理からぬ事だろう。
驚いて固まっているエリックの手から荷物を取り上げ、ユージーンはまたパタパタと家の中に戻っていく。その後ろをエリックはフラフラと半ば放心状態でついて行った。その先でエリックを待っていたのは、ホカホカと湯気の立つシチューの入った鍋だ。常備してある根菜や缶詰などでユージーンにできる料理がこれしかなかったのである。それでも、エリックを感動させるには十分だった。
ユージーンがシチューを皿によそってエリックの前に置く。差し出されたスプーンを手に取って、習慣で手早く食前の祈りを捧げてからエリックはシチューを口に運んだ。美味しい。エリックの反応を息を詰めて見守っていたユージーンだったが、エリックの表情がパアッと綻んだのを見て笑顔を零す。ここ最近見せなくなっていた、自然で無邪気な笑顔だ。それを見たエリックは、三度驚くのだった。
食事を済ませ皿を洗うのだというユージーンにキッチンを追い出されたエリックは、家の中を見て回る。案の定ありとあらゆる所が片付けられ、溜まっている筈の家事なども全て済まされていた。帰って直ぐユージーンに暖かい食事を作ってそれから溜まった家事をしようと覚悟をしていてその為に買い物も済ませていのに、なんという事だろう。衝撃を受けたエリックがキッチンに戻ると、丁度ユージーンが皿を洗い終わって手を拭いているところだった。
「ジーン、今日はどうしたんだ? お前は別にこんな風に無理して家事なんてしなくていいんだ。俺はその為にお前を引き取った訳じゃ」
「別に、無理なんかしてない。僕がやりたいからやったんだ。……勿論、エリックが嫌なら止めるけど」
そう言って上目遣いに至近距離で見上げてくるユージーンに、エリックは首をブンブンと横に振る。まさか。嫌なわけない。エリックはユージーンのこの気遣いがとても嬉しかった。エリックはユージーンの世話は嫌いではない。自ら進んでやっている事だったし、そもそもユージーンに何かを負担させようという発想がエリックにはなかった。それでもやはり生きている人間なので、仕事に家事に忙しくすれば疲れもする。出張でくたびれた今日なんかは特にだ。そんな疲れたエリックを慮ってかユージーンが磨き上げた家で食事を作って待っていてくれた。嬉しくないはずがないし、嫌な筈もない。そう言いたかったけど、様々な感情が胸に詰まって言葉にならなかった。
その後もエリックはお湯がなみなみ張られたバスタブに感激し、用意されたお日様の匂いのする寝巻きに驚き、フカフカ真っ白の皺一つなくベッドメイクされたシーツに目を見開き、大忙しだ。その晩エリックは出張の疲れも相まって、ユージーンの心遣いに感動で胸を震わせながらストンと眠りについた。久しぶりの性交渉なしの夜だ。それでも、エリックの心はとても満たされていた。ユージーンはエリックの腕に抱き込まれながら、その様子を具《つぶさ》に観察し穏やかな寝息を感じてからようやく安心して目を閉じる。二人は遥か遠い昔の穏やかな記憶を懐かしく朧気な夢に見つつ眠った。
そんな夜を過ごした次の朝から、二人の毎日に少しずつ変化が訪れる。珍しく抱き潰されずに済んだユージーンはエリックと共に夜明け前に起き出して遠慮する主人を言いくるめ一緒に家事をし始めた。とは言っても洗濯も掃除も昨日の内にユージーンが全て済ませてしまっていたので、やれる事と言えば朝食作りくらいだったが。それでも久々に落ち着いて摂れた食事にエリックは大変満足し、余裕のできた時間でユージーンとゆっくり過ごしてから出勤して行った。
この朝や疲れて帰ってきたところを温かい食事と清潔な家で出迎えられた経験をエリックは大層気に入ったらしい。時折ではあるものの毎日だったセックスを減らして、ユージーンと穏やかに交流する時間を持つようになった。話をしながらゆっくり食事を摂って二人で片付けたり、腕の中で微睡むユージーンの背中を優しく撫でながら読書を嗜んだり。ただ、相変わらず抱く時は一々ネチッこいのでユージーンへの復讐が終わった訳ではないらしい。飽くまでもエリックが性的ではないユージーンとの触れ合いを楽しむようになっただけだ。
理由がどうであれセックスをセーブしてもらえればユージーンは昼間も動けるようになって途端に暇になる。なので、そんな時ユージーンはエリックが帰ってからやろうとしていた家事を先回りして片付ける事で時間を潰した。これは全部が全部エリックを思っての行動ではない。ただユージーンがこうするとエリックが助かるよと言って嬉しそうに笑い、そんな日はセックスもいささか控え目になるので、その笑顔が見たいのとセックスを押えて貰えて体力が温存できるからと自分に言い訳し、ユージーンは家事に勤しんだ。
結果、ユージーンとエリックの性生活は最初と比べて些か落ち着いたものとなった。とは言ってもユージーンからしてみれば、未だ激しい執着を見せてくるエリックが復讐を諦めたとも思えなかったのだが。きっと復讐相手である奴隷の世話を甲斐甲斐しくする状況の異常さにようやく気が付いて、奴隷自身や主人である自分の身の回りの事をやらせるくらいいいだろうとエリックは考えるようになったに違いない。ユージーンはそう考える事にした。
エリックは慣れないだろうからと温室育ちのユージーンに家事をさせるのを嫌がったが、エリックを喜ばせたいユージーンはそこの制止を聞こうとしない。エリックがしていたのを思い出し文字通り見様見真似の家事だったが、生来器用なユージーンは割合なんでも上手くこなした。エリックも最初こそ渋ってはいたものの仕事に疲れて帰ると掃除の行き届いた玄関でユージーンが、ご飯できてるよとはにかんでくる魅力には抗えないようだ。ユージーンが家事をするのを無理矢理止めようとはしない。
そして、変化が現れたのは二人のセックスもだ。極限までユージーンから搾り取り虐める事に愉悦を感じているとしか思えない手管を繰り返していたエリックだったが、最近ではそれもなりを潜めている。泣きが入るまでユージーンを愛撫するのは相変わらずだったが、その手付きは今までよりどこか甘い。ある程度落ち着いたセックスで互いに高め合いながら、二人は交わりを楽しんでいる。少し余裕ができて最中に可愛い鳴き声を上げるようになったユージーンに、エリックの機嫌も上々だ。
こんなおかしな状況だったけれど、ユージーンはそれなりに幸せだった。確かに、エリックに恨まれていて快楽責めで復讐されるのは悲しい。体力が着いていかず毎度のように失神してしまうのも辛かった。それでも、普段の生活はある程度昔のような穏やかさを取り戻し、エリックの主人として振る舞っていた時よりも彼の奴隷として尽くす今の方が互いに支えあえているようでユージーンとしては満足行くものになっている。
だからだろうか? エリックを苦しめたユージーンが分不相応にもこの期に及んで幸せなんてものを求め、実感したから、あんな事になってしまったのかもしれない。変化は、些細な事から始まって行った。
「俺、五日後に出張な。今回は三日で帰って来れそう」
眠りに落ちる前の一時。この日は性交渉は行わずエリックを抱き寄せたユージーンに腕枕をして、その絹糸のように細く滑らかな髪の毛を手櫛で梳いていた。その手の心地良さに微睡んでいたユージーンは、またかと思ってチラリとエリックの顔を見上げる。初めての留守番を成功させて以来、エリックが出張だと言って一日以上家を空ける事が度々起こるようになった。それに伴いセックスの頻度も減っている。その傾向は徐々に顕著になっていった。
「また出張が入った。長めで十日間の予定だ」
「急で悪いが明日は帰れなさそうだから、俺の分の食事は作らなくていい」
「悪い、一旦荷物を取りに帰っただけなんだ。また直ぐ出ないと。帰りは三日後くらいになると思う」
少しずつ少しずつ、エリックの帰りが遅くなり、家にいる時間が減って、家から彼の痕跡が消えていく。ユージーンがどれ程一生懸命になって掃除をして、美味しい食事を作り、ベッドを整えても、エリックは以前のようには家に戻らない。そして、決定的な事が起こった。
「おかえり、エリック」
「……ジーン、まだ起きてたのか」
愛称で呼ばれるのも今では現実の二人の心の距離と噛み合っていないようで、ユージーンには苦しくて堪らない。目を合わせようともしてくれないエリックに悲しさを覚えつつもそんな事はおくびにも出さず、ユージーンは精一杯明るく振る舞う。
「お仕事お疲れ様。食事はもう済んでる? まだなら用意を」
「悪い、疲れてるんだ。今日はもう休む」
ユージーンの言葉を遮り、エリックはその横を擦り抜けて家の奥へと進んだ。荷物を受け取ろうとエリックが傍に寄ったが、その体はエリックの手で遠くに押しやられる。それは確かな拒絶だった。ユージーンの方を見ようともしないエリックは、驚いて目を見開いたユージーンに気がつかない。
ユージーンは呆然と遠ざかる背中を見ていた。エリックに押しのけられた事もそうだが、何より驚いたのはエリックに押しやられた時に気がついた彼が纏っていた香りだ。それは甘くて絡みつくような、明らかに女物の香水の香り。どう考えてもエリックのものではない。
分かっていた筈だった。エリックは別に愛情があってユージーンを抱いているのではない。エリックがユージーンを抱いているのは、かつてユージーンがエリックを都合のいい性具扱いしたのと同じ事をし返して復讐する為。そこに憎しみはあれど好意的な気持ちは微塵もない。そう、ユージーンは分かっていた筈なのに。
何度も繰り返しエリックに抱かれている内に、ユージーンはとても愚かな錯覚をしていた。まるで、自分がエリックに愛されているかのようなとんでもない錯覚を。それも無理からぬ事だ。エリックは総合的に見て執拗くはあったが、ユージーンが愛情の幻影を感じてしまう程丁寧に彼を抱いたし、何度も何度も飽きもせず求めてきたのだから。元々好きな相手にそこまでされて、何も期待しないでいられる程ユージーンは大人にはなっていなかったのだ。
けれど、エリックは最近めっきりユージーンを求めなくなった。以前は連日連夜抱き潰されていたのに、ここの所もう十日以上抱かれていないし、それどころか今月に入って一緒のベットで眠ったのだって三日あるかないかだ。その上ここに来てエリックから香ってきた女物の香水の香り。ユージーンの頭に浮かんだこの情報が表す事実はただ一つ。エリックがユージーンへの復讐に飽きて、とうとう外で他の人間を抱いてきたという事だけだ。最近帰りが遅かったのも、その誰かとの逢瀬をしていたからに違いない。ユージーンはそう理解してしまった。
ユージーンの視界が絶望で真っ暗になっていく。いつかはこんな日が来ると、は分かっているつもりだった。自分はエリックの恋人ではない。ただの奴隷だ。そう、ユージーンは理解しているつもりだった。しかし、現実はどうだ。事前に分かりきっていて心の準備だってできていた筈の事に、ユージーンは酷くショックを受けている。結局、どれだけ時間をかけようとも弱いユージーンはエリックへの愛を捨てる事も諦める事もできなかったのだ。
ユージーンは思った。このままエリックの足が遠のき、いつか見捨てられるのに任せるなんて耐えられない。ここで有りもしないエリックからの慕情を信じて一人朽ち果てていくなんて、この世で一番の苦痛だ。エリックを見送る度彼が誰に逢いに行くのかを気にして、家でエリックの帰りを待つ度今日も帰ってきてくれるか不安になり、彼の居ない時間を重ねてその中で不安を育てていく。頭に浮かんだその光景に、ユージーンはゾッと背筋を震わせた。
だから、ユージーンは一つ決心をしたのだ。捨てられるのが恐ろしいのなら、捨てられる前に捨ててしまおうと。エリックから何かを受け取るのはもう諦める。これ以上二人が一緒に居ても、互いにとって為にならない。ユージーンはエリックに気持ちを残していて苦しみが生まれるだけだし、ユージーンが居てはエリックが新たな相手と正しい道を歩む邪魔になるからだ。そんな言い訳を並べ立て、ユージーンは自分から全てを終わらせる事に決めた。
ユージーンが密かに決意を固めてから数日後。エリックが久し振りにユージーンを抱いた。甘く狂おしい程に責め立てられたユージーンは思うがままに乱れ、そんな彼に煽られたのかエリックもかなり興奮して久々の情事を思う存分楽しんだ。久し振り情を交わしたその翌日も、エリックは出張の予定が入っていた。前から決まっていた事だ。エリックは朝になるとベッドの上のユージーンの頭を少し撫でてから、一度も振り返らず部屋を出ていった。エリックが家を出ていく音を聞いてから、狸寝入りをしていたユージーンはパチリと目を開ける。
ベッドの上で体を起こしたユージーンは、先ずは一つハァと溜息を零した。もう準備は全部できてる。エリックは奴隷のユージーンに枷一つ付けていない。敷地の出入口である門の鍵も内側から開けられる。体のコンディションはあまり良くないが、悲しい事に長い時間で慣れたのかエリックに抱かれた後の対処法はある程度身についていた。後はもう、この家を立ち去るだけだ。ゆっくりとベッドを降り、身支度を済ませた。
身に付ける服一式と数日分の食料だけ拝借して玄関に向かう。本当はエリックを思い出すようなものは何も持っていきたくないのだけれど、これくらいの準備がないと直ぐに行き倒れてしまうので許して欲しい。別に行く宛てもないしこれからの展望もないが、ユージーンはせめてエリックの目につかない場所で行き倒れるくらいの配慮はしたいと思っていた。状況から考えて追いかけてきはしないだろうが、勝手に逃げ出し挙句目につく所で倒れられては優しいエリックの事だ。うっかり助けてしまうかもしれないと思ったのである。
一刻も早く、できるだけ遠くに、エリックの目につかない場所に。逃げて逃げて逃げ続けて、その先に何が待っていようと構わないし、結果死んでしまったってそれで本望だ。そんな事を考えてしまう程、今のユージーンには全てがどうでもいいとしか思えなかった。今も昔もユージーンの全てはエリックだ。エリックに愛して貰えないのなら、何もかもどうでもよかった。
深く考えて悲しみに足が止まってしまう前に、と少ない荷物を手にユージーンはドアノブに手を伸ばす。その時。
ガチャリ
「あれ? ジーン、どうしたんだ、こんな所に突っ立って。庭に出るつもりだったのか? 昨晩もしたばっかりなんだから、ゆっくり休んで体は労らねぇと」
「エリック……」
ドアノブに手をかけようとしたその一瞬前に、ガチャリと扉が開かれた。扉を開けたのはつい今しがた家を出た筈のエリックだ。予想していなかった展開に驚いて固まるユージーンの、手に持った荷物をエリックが見咎め怪訝そうな顔をする。
「おい、ジーン。なんだその荷物」
「え? えっと、これはその……あっ!」
慌てて後ろ手に隠そうとした荷物を、伸びてきたエリックの手が毟り取った。突然の事過ぎてろくな抵抗もできない。申し訳程度に中途半端な力を込めたせいで荷物を入れていた袋の口が開き、中から持ち出そうとした食料がいくつが零れ落ちる。
「……ジーン、もう一度聞く。これはなんの荷物だ?」
「……」
「黙っていられちゃ分かんねぇんだよ。答えろ。……答えろって!」
エリックはユージーンの肩を掴み強く揺さぶった。しかし、そんな事されてもユージーンは返す言葉を持たない。どんな言い訳をしようとも、ユージーンはエリックの元から逃げ出そうとした。今はそれだけが真実の全てだ。黙りこくったまま目を合わせようともしないユージーンをどう思ったのだろう。エリックはチッと鋭く舌打ちをし、ユージーンの手を取り直して歩き出した。ユージーンを引き摺るようにして、ズンズンと家の奥をめざし進んでいく。
ユージーンが混乱で目を白黒させている間にエリックは寝室へと辿り着き、ベッドの上へとユージーンを乱暴に放り出した。柔らかいマットレスだろうが叩きつけられればそれなりに痛い。衝撃で息を詰まらせるユージーンの上にエリックが間髪入れずにのしかかってきて、ユージーンの身につけたシャツに手をかける。
「っ! い、嫌だ!」
「黙れ。抵抗するな」
エリックが何をしようとしているのか察したユージーンは、慌てて手足を振り回し暴れて逃れようとしたが、体格でも膂力でもこちらが劣る相手ではちょっとやそっとの抵抗で敵う訳がない。エリックは無茶苦茶に振り回されるユージーンの両手を難なく捉えて片手で頭上に纏め上げ、油断なく腰の上に乗り上げ完璧に動きを封じてから、空いている片手でユージーンの纏っている服の前身頃を難なく引き裂いた。驚いたユージーンが反射でエリックの顔を見上げるが、そこに浮かぶ恐ろしいまでの怒気に竦み上がって何もできない。ユージーンのその怯えた様子にすらエリックは腹を立てた様子で、忌々しげに目を眇めるとユージーンの体を乱暴に貪り始めた。
「違うだろ。リックって、そう呼べと教えたじゃないか」
嫌々と首を振ってベソをかくユージーンの胸から、エリックが顔を上げる。ユージーンの胸の先はエリックに散々舐めしゃぶられたせいでポッテリと腫れ上がり、更にはピンと立ったそこは唾液でテラテラと光っていた。
「や……やぁ……!」
「嫌だって? こんなに悦んでおいて? ジーン、もっと素直になれよ」
言いながらエリックはからかうように指の先で軽くユージーンのペニスを弾く。もうすっかり勃ち上がってダラダラとカウパーを零すそこは、確かにユージーンの興奮を如実に物語っている。涙でボヤけるユージーンの視線の先で、エリックはウッソリと微笑みまた薄っぺらい胸を虐める作業に戻った。
エリックはユージーンに自分をリックと呼ばせたがり、ユージーンの事をジーンと呼びたがる。まるで、恋人同士がそうするかのように。対してユージーンはエリックをリックと愛称で呼ぶのは好きじゃない。エリックにジーンと呼ばれるのもだ。理由は単純。リックと呼べばエリックは興奮してただでさえ以前よりネチッこくなったセックスが更に時間をかけたものになるし、ジーンと呼んでくるエリックの声はとても甘やかで彼の気持ちを自分に都合よく勘違いしてしまいそうになるからだ。
エリックのものだという家に連れてこられてから、ユージーンはエリックが仕事で居ない時間以外は殆どずっとエリックに弄ばれていた。エリックに毎日のように執拗く求められ、ユージーンはもう疲労困憊である。なんせエリックは以前のようなユージーン第一のセックスを止めて自分の気が済むまでユージーンを苛むのだから無理もない。毎日体を開発され続け精も根も尽き果て全身敏感になったユージーンは、奴隷としてやるべき家事も仕事も何もできないどころか翌朝動くことすらままならない。それでもエリックは言っていた通り文句の一つも零さず、毎日朝早く起きてベッドの住人になっているユージーンでも食べられるような食事を用意したり、汚したシーツの洗濯をしてから仕事に行く程だった。
ユージーンは分かっている。これは罰なんだと。ユージーンは自分が主人だという立場を利用して、エリックの意志を無視して彼を使い勝手のいい性具扱いした。本当はエリックへの気持ちがあってこその行為だけど、彼はその事を知らない。ならば、エリックにとってあれは拷問にも近い行為だったろう。好きでもない相手を命令されて無理矢理抱くのだから、それを苦痛に感じるのは無理もない。エリックはその復讐として、今度はユージーンを自分に都合のいい性処理相手にしているのだ。苦しいまでの執拗い手管や快感の嵐も、それで全部説明が着いてしまう。
ユージーンにとって度し難いのは、こんな事になってまでエリックへの思いが薄れない事と、それどころか以前と変わらず彼に求められる事を喜んでしまっている自分がいる事だ。しかし、自分の事はどうでもいいが、こんな復讐でエリックの貴重な時間を浪費していいわけがない。今やエリックは国の英雄だ。そんな彼が犯罪奴隷のユージーンとの性行為に耽溺しているなんて、不祥事に他ならない。頭ではそう思って実際セックスの最中も嫌がる言葉や素振りを見せれども、自分の心までは偽れず……。そうしてまたユージーンは夜になるとエリックに抱かれ、何度も果てて精と涙を零すのだった。
「ジーン。悪いが来週から一週間、出張に行かなくてはならない。食事は缶詰を置いておくから、中身を出して温めて食べるといい。服は一週間くらいなら着回さなくてもいいくらい買ってあるから、大丈夫だよな? 汚れたまま放置するのが気になるなら、捨てておいてくれ。丁度背も伸びてきて変え時だし、新しいのを買おう」
ある日の事だ。いつものように向かい合って食事を摂っていたユージーンに、エリックがそんな事を言ったのは。ユージーンは驚いた。これまでエリックが外に出るのと言ったら仕方なく仕事に出る時だけで、買い物やその他の所用だってその時に済ませてしまってできる限り長い時間家に居られるようにしていたからだ。それが、いきなり一週間も家を留守にするとは。ユージーンが驚くのも無理からぬ事だった。思わず不安そうな顔をしたユージーンに、エリックはいつかのように優しく微笑みかける。
「悪いな。俺も本当はずっとお前の傍に居たいんだが、そろそろお前も今の生活に慣れた頃だろうしと言われて無理矢理出張を入れられちまった。こればっかりは逆らえない。一人で不安だとは思うが、留守番できるか?」
「……別に、僕だってもう大人なんだから平気だよ」
「だが、この家にも警備魔法を厳重にかけているとはいえ、一人は心細いだろう?」
『寂しい』とでも言って欲しげなエリックの態度に、ユージーンはムッと唇を尖らせた。確かにユージーンはエリックの長い不在を寂しくは感じていたが、だからといって何になる。ただの奴隷でしかないユージーンが泣こうが喚こうがエリックは出張に行くしかないし実際行くだろう。その事が分かり切っていたからこそ、ユージーンは何も言えず黙って食事を口に運んだ。
「……急いで早く帰ってくるから、そう拗ねるなよ。土産も沢山買ってくるからさ」
「拗ねてないし、急がなくていい」
机の向こう側からエリックが手を伸ばし、ユージーンの頭をソッと撫でる。その手に縋りたくなってしまうのをグッと堪え、ユージーンは黙々と食事を続けるのだった。
そして翌日。暫く会えない分を補うかのように前夜に沢山愛されたユージーンが寝ている間に、エリックは家を出て行ってしまっていた。昼頃になってからようやく久しぶりに自分だけで自然と目を覚ましたユージーンは、シーツの冷たさにエリックの不在を感じてブルリと身体を震わせ体を縮こまらせる。暫くそうしていたがここで震えていてもどうにもならないと思い立ち、ユージーンはとうとう立ち上がってキッチンへと足を向けた。
キッチンでは忙しいにも関わらずエリックが用意してくれた美味しそうな食事がタップリと待っていたが、これを食べ切ってしまったら暫くエリックの手料理にありつけないと思うとあまり食が進まない。美味しいはずの食事をモソモソと味気なく食べながら、ユージーンはこれからどう過ごそうかと考えた。
エリックが出張に行ってしまったのはもう仕方がない。どうせならエリックのせいで疲れ果てた体を休める事に集中しよう。そう考えたユージーンは自堕落に過ごしたが、若い体は直ぐ回復するし単調な日々を楽しめる程ユージーンは老成してもいない。三日目にしてユージーンは休んでばかりの毎日に飽きてしまった。
家には暇を潰せるような遊び道具は存在しない。というか、最低限生活するのに困らない程度の家具や道具しか置いていなかった。これではまるでヤリ部屋だ。いや、実際エリックにとっては仕事をして帰ってセックスして少し寝てまた仕事をしに行くだけのヤリ部屋なのかもしれない。そんな事を考えついてしまうと無性に虚しくなって益々居ても立っても居られなくなり、ユージーンは立ち上がって家中を周りやるべき事を探し始めた。
昔住んでいた別邸と比べると全体的にこじんまりとした作りの家の中を歩き回るユージーンの目が、洗濯物籠に止まる。籠の中にはここ数日の汚れ物が溜まっていた。これから日を重ねるにつれ、汚れ物はもっと増えるだろう。出張で疲れて帰ってきたエリックが、それを処理するのだ。洗濯だけでなく、家の掃除や、中身を食べた缶詰の処理も、全部……。
ユージーンはエリックの奴隷だ。それなのにエリックに養われ家事をさせ世話を焼かれ、これではどちらが主人が分かったもんじゃない。このままエリック一人に負担が集中する現状は、あまり喜ばしくないだろう。そんな思いがユージーンの頭に去来する。気がつくと、ユージーンの手は洗濯物籠に伸びていた。
家を出てから五日後。宣言通りエリックは予定より早く家に帰ってきた。片手に旅行鞄を、片手にユージーンへの土産を山程抱えて苦労して玄関扉を開けたエリックは、驚きで目を見開いた。暫くの不在で空気が淀み床はくすんである程度汚れていることを覚悟していた我が家が、ピカピカに磨き上げられ輝いていたからだ。エリックが目を瞬いていると家の奥からパタパタと軽い足音が近づいてくる。やがて廊下の曲がり角からヒョッコリとエプロン姿のユージーンが姿を現した。
「ジーン、その格好……」
「帰ってきたね。あり物でつくったから大したのじゃないけど、ご飯できてるよ」
ユージーンの言葉にエリックは二度驚く。ユージーンが料理? いや、この様子を見るにきっと掃除だってしたのだろう。恐らく洗濯や他の家事も……。ユージーンは生粋の箱入り息子だ。一族に囲われていた時から今まで、離れていた時を除いて身の回りの事は全部エリックがやっていたし、収監されていた時もある程度の事以外は自分でやる機会などなかった筈である。そのユージーンが、料理だって? エリックが驚くのも無理からぬ事だろう。
驚いて固まっているエリックの手から荷物を取り上げ、ユージーンはまたパタパタと家の中に戻っていく。その後ろをエリックはフラフラと半ば放心状態でついて行った。その先でエリックを待っていたのは、ホカホカと湯気の立つシチューの入った鍋だ。常備してある根菜や缶詰などでユージーンにできる料理がこれしかなかったのである。それでも、エリックを感動させるには十分だった。
ユージーンがシチューを皿によそってエリックの前に置く。差し出されたスプーンを手に取って、習慣で手早く食前の祈りを捧げてからエリックはシチューを口に運んだ。美味しい。エリックの反応を息を詰めて見守っていたユージーンだったが、エリックの表情がパアッと綻んだのを見て笑顔を零す。ここ最近見せなくなっていた、自然で無邪気な笑顔だ。それを見たエリックは、三度驚くのだった。
食事を済ませ皿を洗うのだというユージーンにキッチンを追い出されたエリックは、家の中を見て回る。案の定ありとあらゆる所が片付けられ、溜まっている筈の家事なども全て済まされていた。帰って直ぐユージーンに暖かい食事を作ってそれから溜まった家事をしようと覚悟をしていてその為に買い物も済ませていのに、なんという事だろう。衝撃を受けたエリックがキッチンに戻ると、丁度ユージーンが皿を洗い終わって手を拭いているところだった。
「ジーン、今日はどうしたんだ? お前は別にこんな風に無理して家事なんてしなくていいんだ。俺はその為にお前を引き取った訳じゃ」
「別に、無理なんかしてない。僕がやりたいからやったんだ。……勿論、エリックが嫌なら止めるけど」
そう言って上目遣いに至近距離で見上げてくるユージーンに、エリックは首をブンブンと横に振る。まさか。嫌なわけない。エリックはユージーンのこの気遣いがとても嬉しかった。エリックはユージーンの世話は嫌いではない。自ら進んでやっている事だったし、そもそもユージーンに何かを負担させようという発想がエリックにはなかった。それでもやはり生きている人間なので、仕事に家事に忙しくすれば疲れもする。出張でくたびれた今日なんかは特にだ。そんな疲れたエリックを慮ってかユージーンが磨き上げた家で食事を作って待っていてくれた。嬉しくないはずがないし、嫌な筈もない。そう言いたかったけど、様々な感情が胸に詰まって言葉にならなかった。
その後もエリックはお湯がなみなみ張られたバスタブに感激し、用意されたお日様の匂いのする寝巻きに驚き、フカフカ真っ白の皺一つなくベッドメイクされたシーツに目を見開き、大忙しだ。その晩エリックは出張の疲れも相まって、ユージーンの心遣いに感動で胸を震わせながらストンと眠りについた。久しぶりの性交渉なしの夜だ。それでも、エリックの心はとても満たされていた。ユージーンはエリックの腕に抱き込まれながら、その様子を具《つぶさ》に観察し穏やかな寝息を感じてからようやく安心して目を閉じる。二人は遥か遠い昔の穏やかな記憶を懐かしく朧気な夢に見つつ眠った。
そんな夜を過ごした次の朝から、二人の毎日に少しずつ変化が訪れる。珍しく抱き潰されずに済んだユージーンはエリックと共に夜明け前に起き出して遠慮する主人を言いくるめ一緒に家事をし始めた。とは言っても洗濯も掃除も昨日の内にユージーンが全て済ませてしまっていたので、やれる事と言えば朝食作りくらいだったが。それでも久々に落ち着いて摂れた食事にエリックは大変満足し、余裕のできた時間でユージーンとゆっくり過ごしてから出勤して行った。
この朝や疲れて帰ってきたところを温かい食事と清潔な家で出迎えられた経験をエリックは大層気に入ったらしい。時折ではあるものの毎日だったセックスを減らして、ユージーンと穏やかに交流する時間を持つようになった。話をしながらゆっくり食事を摂って二人で片付けたり、腕の中で微睡むユージーンの背中を優しく撫でながら読書を嗜んだり。ただ、相変わらず抱く時は一々ネチッこいのでユージーンへの復讐が終わった訳ではないらしい。飽くまでもエリックが性的ではないユージーンとの触れ合いを楽しむようになっただけだ。
理由がどうであれセックスをセーブしてもらえればユージーンは昼間も動けるようになって途端に暇になる。なので、そんな時ユージーンはエリックが帰ってからやろうとしていた家事を先回りして片付ける事で時間を潰した。これは全部が全部エリックを思っての行動ではない。ただユージーンがこうするとエリックが助かるよと言って嬉しそうに笑い、そんな日はセックスもいささか控え目になるので、その笑顔が見たいのとセックスを押えて貰えて体力が温存できるからと自分に言い訳し、ユージーンは家事に勤しんだ。
結果、ユージーンとエリックの性生活は最初と比べて些か落ち着いたものとなった。とは言ってもユージーンからしてみれば、未だ激しい執着を見せてくるエリックが復讐を諦めたとも思えなかったのだが。きっと復讐相手である奴隷の世話を甲斐甲斐しくする状況の異常さにようやく気が付いて、奴隷自身や主人である自分の身の回りの事をやらせるくらいいいだろうとエリックは考えるようになったに違いない。ユージーンはそう考える事にした。
エリックは慣れないだろうからと温室育ちのユージーンに家事をさせるのを嫌がったが、エリックを喜ばせたいユージーンはそこの制止を聞こうとしない。エリックがしていたのを思い出し文字通り見様見真似の家事だったが、生来器用なユージーンは割合なんでも上手くこなした。エリックも最初こそ渋ってはいたものの仕事に疲れて帰ると掃除の行き届いた玄関でユージーンが、ご飯できてるよとはにかんでくる魅力には抗えないようだ。ユージーンが家事をするのを無理矢理止めようとはしない。
そして、変化が現れたのは二人のセックスもだ。極限までユージーンから搾り取り虐める事に愉悦を感じているとしか思えない手管を繰り返していたエリックだったが、最近ではそれもなりを潜めている。泣きが入るまでユージーンを愛撫するのは相変わらずだったが、その手付きは今までよりどこか甘い。ある程度落ち着いたセックスで互いに高め合いながら、二人は交わりを楽しんでいる。少し余裕ができて最中に可愛い鳴き声を上げるようになったユージーンに、エリックの機嫌も上々だ。
こんなおかしな状況だったけれど、ユージーンはそれなりに幸せだった。確かに、エリックに恨まれていて快楽責めで復讐されるのは悲しい。体力が着いていかず毎度のように失神してしまうのも辛かった。それでも、普段の生活はある程度昔のような穏やかさを取り戻し、エリックの主人として振る舞っていた時よりも彼の奴隷として尽くす今の方が互いに支えあえているようでユージーンとしては満足行くものになっている。
だからだろうか? エリックを苦しめたユージーンが分不相応にもこの期に及んで幸せなんてものを求め、実感したから、あんな事になってしまったのかもしれない。変化は、些細な事から始まって行った。
「俺、五日後に出張な。今回は三日で帰って来れそう」
眠りに落ちる前の一時。この日は性交渉は行わずエリックを抱き寄せたユージーンに腕枕をして、その絹糸のように細く滑らかな髪の毛を手櫛で梳いていた。その手の心地良さに微睡んでいたユージーンは、またかと思ってチラリとエリックの顔を見上げる。初めての留守番を成功させて以来、エリックが出張だと言って一日以上家を空ける事が度々起こるようになった。それに伴いセックスの頻度も減っている。その傾向は徐々に顕著になっていった。
「また出張が入った。長めで十日間の予定だ」
「急で悪いが明日は帰れなさそうだから、俺の分の食事は作らなくていい」
「悪い、一旦荷物を取りに帰っただけなんだ。また直ぐ出ないと。帰りは三日後くらいになると思う」
少しずつ少しずつ、エリックの帰りが遅くなり、家にいる時間が減って、家から彼の痕跡が消えていく。ユージーンがどれ程一生懸命になって掃除をして、美味しい食事を作り、ベッドを整えても、エリックは以前のようには家に戻らない。そして、決定的な事が起こった。
「おかえり、エリック」
「……ジーン、まだ起きてたのか」
愛称で呼ばれるのも今では現実の二人の心の距離と噛み合っていないようで、ユージーンには苦しくて堪らない。目を合わせようともしてくれないエリックに悲しさを覚えつつもそんな事はおくびにも出さず、ユージーンは精一杯明るく振る舞う。
「お仕事お疲れ様。食事はもう済んでる? まだなら用意を」
「悪い、疲れてるんだ。今日はもう休む」
ユージーンの言葉を遮り、エリックはその横を擦り抜けて家の奥へと進んだ。荷物を受け取ろうとエリックが傍に寄ったが、その体はエリックの手で遠くに押しやられる。それは確かな拒絶だった。ユージーンの方を見ようともしないエリックは、驚いて目を見開いたユージーンに気がつかない。
ユージーンは呆然と遠ざかる背中を見ていた。エリックに押しのけられた事もそうだが、何より驚いたのはエリックに押しやられた時に気がついた彼が纏っていた香りだ。それは甘くて絡みつくような、明らかに女物の香水の香り。どう考えてもエリックのものではない。
分かっていた筈だった。エリックは別に愛情があってユージーンを抱いているのではない。エリックがユージーンを抱いているのは、かつてユージーンがエリックを都合のいい性具扱いしたのと同じ事をし返して復讐する為。そこに憎しみはあれど好意的な気持ちは微塵もない。そう、ユージーンは分かっていた筈なのに。
何度も繰り返しエリックに抱かれている内に、ユージーンはとても愚かな錯覚をしていた。まるで、自分がエリックに愛されているかのようなとんでもない錯覚を。それも無理からぬ事だ。エリックは総合的に見て執拗くはあったが、ユージーンが愛情の幻影を感じてしまう程丁寧に彼を抱いたし、何度も何度も飽きもせず求めてきたのだから。元々好きな相手にそこまでされて、何も期待しないでいられる程ユージーンは大人にはなっていなかったのだ。
けれど、エリックは最近めっきりユージーンを求めなくなった。以前は連日連夜抱き潰されていたのに、ここの所もう十日以上抱かれていないし、それどころか今月に入って一緒のベットで眠ったのだって三日あるかないかだ。その上ここに来てエリックから香ってきた女物の香水の香り。ユージーンの頭に浮かんだこの情報が表す事実はただ一つ。エリックがユージーンへの復讐に飽きて、とうとう外で他の人間を抱いてきたという事だけだ。最近帰りが遅かったのも、その誰かとの逢瀬をしていたからに違いない。ユージーンはそう理解してしまった。
ユージーンの視界が絶望で真っ暗になっていく。いつかはこんな日が来ると、は分かっているつもりだった。自分はエリックの恋人ではない。ただの奴隷だ。そう、ユージーンは理解しているつもりだった。しかし、現実はどうだ。事前に分かりきっていて心の準備だってできていた筈の事に、ユージーンは酷くショックを受けている。結局、どれだけ時間をかけようとも弱いユージーンはエリックへの愛を捨てる事も諦める事もできなかったのだ。
ユージーンは思った。このままエリックの足が遠のき、いつか見捨てられるのに任せるなんて耐えられない。ここで有りもしないエリックからの慕情を信じて一人朽ち果てていくなんて、この世で一番の苦痛だ。エリックを見送る度彼が誰に逢いに行くのかを気にして、家でエリックの帰りを待つ度今日も帰ってきてくれるか不安になり、彼の居ない時間を重ねてその中で不安を育てていく。頭に浮かんだその光景に、ユージーンはゾッと背筋を震わせた。
だから、ユージーンは一つ決心をしたのだ。捨てられるのが恐ろしいのなら、捨てられる前に捨ててしまおうと。エリックから何かを受け取るのはもう諦める。これ以上二人が一緒に居ても、互いにとって為にならない。ユージーンはエリックに気持ちを残していて苦しみが生まれるだけだし、ユージーンが居てはエリックが新たな相手と正しい道を歩む邪魔になるからだ。そんな言い訳を並べ立て、ユージーンは自分から全てを終わらせる事に決めた。
ユージーンが密かに決意を固めてから数日後。エリックが久し振りにユージーンを抱いた。甘く狂おしい程に責め立てられたユージーンは思うがままに乱れ、そんな彼に煽られたのかエリックもかなり興奮して久々の情事を思う存分楽しんだ。久し振り情を交わしたその翌日も、エリックは出張の予定が入っていた。前から決まっていた事だ。エリックは朝になるとベッドの上のユージーンの頭を少し撫でてから、一度も振り返らず部屋を出ていった。エリックが家を出ていく音を聞いてから、狸寝入りをしていたユージーンはパチリと目を開ける。
ベッドの上で体を起こしたユージーンは、先ずは一つハァと溜息を零した。もう準備は全部できてる。エリックは奴隷のユージーンに枷一つ付けていない。敷地の出入口である門の鍵も内側から開けられる。体のコンディションはあまり良くないが、悲しい事に長い時間で慣れたのかエリックに抱かれた後の対処法はある程度身についていた。後はもう、この家を立ち去るだけだ。ゆっくりとベッドを降り、身支度を済ませた。
身に付ける服一式と数日分の食料だけ拝借して玄関に向かう。本当はエリックを思い出すようなものは何も持っていきたくないのだけれど、これくらいの準備がないと直ぐに行き倒れてしまうので許して欲しい。別に行く宛てもないしこれからの展望もないが、ユージーンはせめてエリックの目につかない場所で行き倒れるくらいの配慮はしたいと思っていた。状況から考えて追いかけてきはしないだろうが、勝手に逃げ出し挙句目につく所で倒れられては優しいエリックの事だ。うっかり助けてしまうかもしれないと思ったのである。
一刻も早く、できるだけ遠くに、エリックの目につかない場所に。逃げて逃げて逃げ続けて、その先に何が待っていようと構わないし、結果死んでしまったってそれで本望だ。そんな事を考えてしまう程、今のユージーンには全てがどうでもいいとしか思えなかった。今も昔もユージーンの全てはエリックだ。エリックに愛して貰えないのなら、何もかもどうでもよかった。
深く考えて悲しみに足が止まってしまう前に、と少ない荷物を手にユージーンはドアノブに手を伸ばす。その時。
ガチャリ
「あれ? ジーン、どうしたんだ、こんな所に突っ立って。庭に出るつもりだったのか? 昨晩もしたばっかりなんだから、ゆっくり休んで体は労らねぇと」
「エリック……」
ドアノブに手をかけようとしたその一瞬前に、ガチャリと扉が開かれた。扉を開けたのはつい今しがた家を出た筈のエリックだ。予想していなかった展開に驚いて固まるユージーンの、手に持った荷物をエリックが見咎め怪訝そうな顔をする。
「おい、ジーン。なんだその荷物」
「え? えっと、これはその……あっ!」
慌てて後ろ手に隠そうとした荷物を、伸びてきたエリックの手が毟り取った。突然の事過ぎてろくな抵抗もできない。申し訳程度に中途半端な力を込めたせいで荷物を入れていた袋の口が開き、中から持ち出そうとした食料がいくつが零れ落ちる。
「……ジーン、もう一度聞く。これはなんの荷物だ?」
「……」
「黙っていられちゃ分かんねぇんだよ。答えろ。……答えろって!」
エリックはユージーンの肩を掴み強く揺さぶった。しかし、そんな事されてもユージーンは返す言葉を持たない。どんな言い訳をしようとも、ユージーンはエリックの元から逃げ出そうとした。今はそれだけが真実の全てだ。黙りこくったまま目を合わせようともしないユージーンをどう思ったのだろう。エリックはチッと鋭く舌打ちをし、ユージーンの手を取り直して歩き出した。ユージーンを引き摺るようにして、ズンズンと家の奥をめざし進んでいく。
ユージーンが混乱で目を白黒させている間にエリックは寝室へと辿り着き、ベッドの上へとユージーンを乱暴に放り出した。柔らかいマットレスだろうが叩きつけられればそれなりに痛い。衝撃で息を詰まらせるユージーンの上にエリックが間髪入れずにのしかかってきて、ユージーンの身につけたシャツに手をかける。
「っ! い、嫌だ!」
「黙れ。抵抗するな」
エリックが何をしようとしているのか察したユージーンは、慌てて手足を振り回し暴れて逃れようとしたが、体格でも膂力でもこちらが劣る相手ではちょっとやそっとの抵抗で敵う訳がない。エリックは無茶苦茶に振り回されるユージーンの両手を難なく捉えて片手で頭上に纏め上げ、油断なく腰の上に乗り上げ完璧に動きを封じてから、空いている片手でユージーンの纏っている服の前身頃を難なく引き裂いた。驚いたユージーンが反射でエリックの顔を見上げるが、そこに浮かぶ恐ろしいまでの怒気に竦み上がって何もできない。ユージーンのその怯えた様子にすらエリックは腹を立てた様子で、忌々しげに目を眇めるとユージーンの体を乱暴に貪り始めた。
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