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第七話 八

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 ヒノキの香りは全身の筋肉を緩めさせる。前髪を掻き分けられた感触に百位は目を覚ました。

「あれ……」
「起きたか」

 ぼやけていた輪郭がはっきりすると、五位がすぐそばに居た。手を伸ばせば届くほど近い。上下左右を見渡せば、神輿の内壁にもたれていることがわかった。

「災難だったな。だが、なかなかに目立つ知らせだった。光だけの知らせ。いやはや、その度胸、どこから湧いてくる」

 五位が鼻で笑う。神輿の外に顔を出せば、硫黄のような臭いが鼻につき、白煙がもやもやと漂っていた。たくさんの衛兵が慌ただしく走り回っている。神輿は屋敷の正門前で下ろされていて、担ぎ手のあやかしが居ない。鬼のあやかしが火薬樽をどこかに運んでいく。馬車には気を失った女帝や下女らが横たわっていた。

 今日一日の記憶が混ざり合いながら瞼の裏に映る。

「……あっ、わたし、そっか、え、みんな、九位様は!?」
「危なかったが、解毒は間に合った」
「し、四位様と十五位様は!?」
「慌てるな。みな、無事だ」
「よ、よかった」
「そなたも、鼻、大丈夫か? 折れてはいないようだが、真っ赤だ」
「え」

 自分の鼻に触れてみれば、乾いてぱりぱりになった血が指先に付く。左の穴には詰め物がされていて、奥底がじんじん鈍く唸る。匂いはわかるし、大事はなさそうだが――。
 まぬけな顔を思い描いたとき、急に顔が熱くなった。

「み、みないでよ」

 両手で顔を隠す。五位は、フフッとにやける。

「もうしっかり目に焼きつけた。いまさら隠しても無駄だ。なに、恥じることはない。その鼻は、死力を尽くした証。俺はそれを笑わん」
「いま笑ってるじゃない!」
「そなたの反応に笑っただけで、鼻は笑っていない」
「もう馬鹿っ!」

 五位はにやにやしながら頬肘をつく。そのとき、青い着物の袖口が赤黒く汚れていることを見つけた。ぱっと見、血を流している怪我人は自分だけ。百位は、顔を隠すことをやめ、神輿にもたれると、五位に上目で目線を向けた。

「また、助けてくれたのね」

 五位は「いや」と首を横に振る。

「今宵、みなを助けたのは百位、そなただ。俺は後片付けをしただけだ。結界の破壊は二位が、危険物の処理は三位が、悪人を裁いたのは四位が、あやかしを始末したのは十六夜が、すべて、そなたがいなければ成せなかったことだ。頑張ったな、ほんとうに」

 とくんと鳴った胸が温かくなる。まだ興奮しているような心臓を落ちつけたい。どうしたら良いだろうか。ふと目に留まった五位の大きな手が気になった。ちょっとだけ、にじり寄ってみた。五位はなにも言わずにじっと見つめてくる。ちらちらと様子を窺いながらもっと寄る。手を伸ばしてみても五位は反応しない。だから、そのまま手を――。

「百位さん」
「にゃあっ!」

 唐突な呼びかけに口から内臓が飛び出たかと思った。

 振り返れば神輿の中を覗き込む四位と目が合う。四位は、失敗したかな、と言いそうな苦笑いで頬を掻いていた。

「……すみません、えっと、お邪魔ですか?」
「べ! 別に! な、なんか用!?」
「えっと、お礼、ありがとうございました。いろいろと、助けられて」

 四位は腰を折って頭を下げた。かつらは被っていない。草色の着物はあちこちが擦り切れ、赤黒く滲んでいる。なにがあったのかは知らないが、死力を尽くしたことだけは悟れる。

「わたしもあんたも、できることをした。だから、そんな、わたしなんかに頭を下げる必要なんてないのに」
「いえ、きっかけをくれたのは、百位さんですから」

 頭を上げた四位は、顔全体をにこりと福に緩めた。それだけで、胸がまた一段と温かくさせられる。

「あ、それとですね、かつら、切れてしまいまして。それでですね、また新しいものを貰いたいのですが――」
「その必要はないのじゃ」

 さらりと流れる銀色が若葉色の隣に立つ。肩が触れそうなほど近づかれた四位が驚いたように身を引いた。反応が逆だ、と思ったが、絡む若苗色の瞳と灰褐色の瞳に心配は無さそうだ。

 女帝十五位は、帝位四位の隣で佇む。すぐ、隣で。

「もう、女装なぞせんでよいのじゃ。したければしてくれて構わんが」

 その声に、四位は頬と下瞼を上げた。十五位は、ちょっとだけ唇を尖らせてぷいっと顔を背ける。
 微笑ましくて、こっちまで口角が緩む。

「もう、訓練は必要ないわね」

 十五位のじとりとした灰褐色の瞳は、きらりと輝いている。

「世話になったのじゃ」
「わたしはお膳立てしただけよ。頑張ったのはあんた。それと四位様。二人で乗り越えたんだから。あ、これで貸しはナシよ」

 ぬふっと吹き出した十五位は、肩をいくつか揺らす。

「むしろ、わっちがそちに貸しを作ってしまったのじゃ。百位。なにかあれば申せ。わっちができることであれば、協力する」

 四位も左手を上げた。

「僕も、お手伝いしますから。遠慮なく」

 二人の手の手がいまにも触れそうだ。なんとなくだが、お互いに遠慮しあっているように感じる。繋ぐのはまだまだ先の話になる。

 でも、それはきっとすぐになるだろう。

 そんな根拠の無い確信に、百位はにかっと白い歯を見せた。



 四位の手当てに十五位は付き添うようで、二人は神輿から離れて行った。自分もそろそろここから離れないと衛兵らの邪魔になりそうだ。一つ、大きく伸びをして体の凝りを引き伸ばしてやる。神輿の天井に向かって両腕を突き上げた。そして、伸びきった腕を下ろそうとしたとき、

 右手と左手が肩のところで捕まった。

 大きい手に絡まった。それは背後から伸びてきた手で、磨かれた木材のようにすべすべしていて、心の臓を昂らせた体が、動けなくなってしまった。

「さきほど、握ろうとしなかったか?」

 濃藍の髪を潜った熱がうなじをくすぐって背骨を這い、首から一気に火照り始める。

「え、な、えっと、わかん、ない」

 ふっと耳裏にふいてきたそよ風に背筋がぞくぞくさせられる。バクバクと跳ねる胸の内が囁くのは、このまま、手を後ろに強く引っ張ってほしいという願望で――。

「火薬臭いな」
「――――――――っ!」

 暴れるように手を振り払った百位は神輿から飛び出し、真っ赤な顔で振り返った。

「触んな変態っ!」

 澄まし顔の五位は片方の口角だけを上げていた。

「触ろうとしたのはそなたではないか」
「あっ、あれよっ! ごみが付いてたの!」
「そうか。すまんな」

 もはや神輿を視界に入れるだけでも顔面が茹で上がりそうになって、百位は腕を組みながら全身を背けた。

 爆発しそうだった胸は、砕け散った馬車や真っ黒に焦げた地面と塀を眺めていれば、平静を取り戻してくれる。硫黄のような臭いがぷんぷんしている。ヒノキの香りが恋しくなった。

「百位」
「……なに?」
「そこで倒れている八夜を連れて来てくれ」

 五位が指差したのは両断されて倒れている屋敷の門だ。そこに横たわっている白くてふにゃってそうな生き物は胴体をパンパンに膨らませていて、一夜と十六夜が胸ビレでちょんちょんと胴を突いていた。
 そんな八夜を抱きかかえれば、十六夜が胸ビレを真っ赤に染めて刀の歯を剥き出しに威嚇し始めた。怒るな、とぶるぶるの頭を撫でてやれば十六夜は胸ビレをピンク色にしてくれた。

「はい、なんでこんな膨らんでるのよ」

 豆腐のようで餅のような肌触りで赤子くらいの重さの八夜を神輿の中に置く。

「八夜は毒が好物でな。毒だけを吸い取ってくれる。ただ、少しばかり毒を受けたものが多かったようだ。消化するまで動けんな」
「毒……ね」

 九位が言っていた。食事会の毒、と。毒の正体はあの毒蛇――だったと考えたとき、疑念が口から漏れる。

「毒蛇の毒をわざわざ食事に仕込んだの……?」
「理にはかなっていないな。蛇に噛ませた方が確実だろう。ときに百位」

 呼ばれたから顔を上げた。夕陽の瞳が刃のように鋭い。

「そなた、虐げは解決したな」
「……うん」
「一つ聞くが、食事を抜いたのも、あの三人か?」
「え?」
「さり気なく誤魔化されていないか? あのときの食事会、どうにも引っかかる。大きな出来事が続き、視野が狭まっているような気がしてならない。一度、振り出しに戻り、再度検討を行いたい。そこで百位。虐げについて、調べ直してほしい。無論、食事を抜いたのが九十三位の下女らであったのなら、それでよい。だが、もし、関係ないのであれば――」

 神輿が担がれ険しい表情が遠くなる。

「まだ、姿を隠す敵がいる。俺たちが退けた奴らは、まだ、ただの手先なのかもしれん」

 神輿は白煙漂う暗闇の中に溶けるように去ってしまった。
 まだ、もっと凶悪な敵が居るかもしれない。
 予感に振り返った百位の前には走り回る衛兵らが数十人居る。

 全員に監視されているような感触に肝が冷え続け、硫黄の臭いが鼻腔に焼きついた。
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