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第八話 一

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 どんよりしている灰色の空から降ったり降らなかったりする細雨が急に強くなったのは、べたつく昼過ぎのことだった。
 神輿が湿気るのは面倒だ。屋敷の幅広い廊下でそう考えていた帝位五位は、ここ連日色を変えない灰空を見上げていた。

「五位」

 雨が屋敷を叩く音色の最中、右耳に呼ぶ声が届いた。一夜から、帝位二位、と通じる。
 神輿が声の方へ向く。

「……湿気た顔をしているな、二位」

 瞼の朱色がぴくりと動く。無表情の二位は赤黒い筒を手にしていた。筒の材質が竹であることを五位が見定めたとき、二位はそれを差し出す。

「五位、例の、だ」
「ああ、流行りか。受け取っておこう。時間はかかるぞ。だが、充分集まった。そろそろ結果は出せるだろう」
「急ぎは、せん。宮殿は隔離措置を、決定。すでに兵は出発、した。帝都までは広がらん、な」

 赤黒い筒が一夜の尾によって神輿の背後に居る四夜まで運ばれる。しかし、二位の文末あたりで一度切る独特な喋り方は、相変わらず気が抜ける。要件を簡潔にまとめてくれるため話はわかりやすいが、会話の緩急がやけにまどろむ。そして、まだ立ち去らない、ということは、用がまだあるということだ。四夜から、三日、と通じてきたとき、二位が薄い唇を動かし始めた。

「ときに五位。百位はどう、だ?」

 珍しく、問いがぼやけている。

「どう、とは?」

 問いで返せば二位は腕を組む。長話を予感した。

「どう思って、いる?」
「……よく働いてくれている。感謝している。それは、そなたもそうであろう」
「違う。仕事では、ない。どう感じて、いる?」
「どういう意味だ?」
「女と、して」

 屋根を叩く雨音の密度が増す。知らぬ間に自分も腕を組んでいた。「俺は」、とだけ絞り出せたあとに続く言葉はどこを探しても出てこない。

「まだ、勇気が無い、と?」

 カビが生えたような胸がざわつく。とうの昔に過ぎ去った梅雨のようなじめったさが、神輿の中に充満している。口の中が糸をねっとり引きそうなくらいべたつくせいで気が散る。

「そういうわけでは、いや、俺は」
「いつになればそこを、出る?」

 直視させられた現実は、枯れた自分の両足だった。関節が動くだけでなにも支えられない体の一部を、撫でるようにさすってみる。足の細さだけなら、あの骨と皮だけのように細い女帝と勝負になりそうだった。

 ――最近は肥えたから、負けるかもしれんな。

「俺は出ない。いや、出られん。そんな資格は持ち合わせていない」

 背中と腰の形を覚えた椅子に全体重を預ければ、蝕まれていることを自覚できる。

「出ようともせぬのに」

 一息で言い切られれば腹でなにかどんよりしたものが蠢く。それを言葉で表すのであれば、苛立ちだ。

「えらく煽ってくるな。どうした? もしやそなた、気になっているのか」
「ああ」

 迷いない即答は、まるでもう心に決めたような力強さがあった。それだけで腹の内は静かになる。その代わり、胃が肺を引っ張るような息苦しさを感じた。

「……そうか、なら」
「追放、しろ」

 言葉と言葉が繋がらず、「は?」と声が抜けた。金色の瞳からの突いてくるような視線で、ようやく追放の意味を思い出す。脈絡のない会話に思考が麻痺した。

「このまま、駒とするなら、追放、しろ」
「なぜ」
「狙いは百位。言い出したこと、忘れた、か?」

 言い訳も言い返しもできず、顎だけがぐらぐら空ぶる。

「危険、だ。もう、な。某も、世話に、なった」
「だ、だが本人が」
「五位。責務を果たす、だろう?」
「それは、そう、だ。わかっている。ああ、わかっている」

 二位の顔を直視できず担ぎ棒に逃げる。十六夜が担ぐ棒上に、子供のような満面の笑みを見かけた。

 これまでは間に合った。これからはどうか。これからも、助けを求める声に応えられるのか。

「五位」

 思考の渦から呼び起こしてくれた二位は、すでに背を向けていた。じめったい廊下に半月が現れる。

「なぜ、女帝に?」

 思い起こしたのは、担ぎ棒に腰かけて夕陽に照らされている姿だったが、さて、いつの日のことだったか。

「詳しくは知らん。ただ、給付金目当てとだけ。故郷の、祖父母のためと」
「両親は?」
「六歳のとき、祖母に引き取られたと。六歳なら、八年前」
「八年」

 年だけを復唱した二位は、廊下の高すぎる天井を見上げたようだった。

「どうした?」
「なんでも、ない」

 ふらり、二位は歩む。

 二位を見失うまで神輿は動かなかった。動くものが無くなったとき、時が止まったように感じたが、途切れない雨音が時間を流していた。

 最近、天気が憂鬱だ。
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