作家きどりと抽象的な真如

野洲たか

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3、あんたの態度次第では、見逃してやってもいいんだぜ。

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 黄昏に吹く乾いた風が、アルコールで火照った顔に、ちょうどいいくらい冷ややかだった。
 ほんの近くまで、新しい冬がやってきている。
 わたしたちは、カフェを出てから、街灯のつき始めた川沿いの公園の遊歩道をだらだらと行った。
 女から手をつないでいいかと聞かれ、断らなかった。五年前に妻を亡くしてから、女人の肌には触れたことがない。これは事件だなと思った。
 自分の娘でもおかしく無い年ごろだが、女は女である。そんな風に意識すると、少し脈が早くなって、恥ずかしかった。
「旦那、そこの南波橋をくぐったら、馴染みの屋形船がいるのよ。このまま行って、今夜の最初お客になってもらえないかな。あたし、そうして欲しいわ」
 と女は小声で言い、つないだ左手をギュッと握った。
 やっぱり、そういうことか。
 わたしは手を払い、逃げるようにして、先にあった錆びた鉄のベンチにドカッと腰かけた。
 わざと不機嫌な顔をつくり、煙草をくわえ、火を付けて、煙を吐いた。
「ごめんなさい。不粋だったわね。どうか、忘れてちょうだい」
 女は並んで座ると、また手を握ってきた。
 ふたりとも、さっきより体温が下がっていた。
「いいよ、客になっても」
 とわたしは答えた。
 妻は怒るだろうな。

 女は無邪気な笑い声をあげながら、わたしを橋の真下に停めてある屋形船に連れていった。
 船の入口には、女の顔見知りの骸骨のような老人が座っており、部屋代を集めていた。
 案内された薄暗い船室は、三畳ほどの広さで窓がなく、灰色の汚れたマットレスが置いてあるだけだった。
 動物園みたいな臭いがした。
 床が靴底にベトベトして、そこらじゅうに中国の新聞紙が散らばっていた。なぜか、羊の群れの写真の絵葉書が一枚だけ、押しピンで壁に留めてあった。
「着替えてくるから、ちょっとだけ待っててくださいな」
 と女は言い、左頬にキスをしてきた。
 わたしは驚いて、一歩後ずさった。
「着替えるって?」
 とわたしは聞いた。
「このワンピースは借り物だから、汚せないの」
 と女は言った。
 わたしが頷くと、女は部屋から出ていった。
 ひとり残され、何もすることがなく、もう一度、部屋の中を見渡した。
 ここでか。マットレスに座るのも、壁に寄りかかるのも嫌だった。
 突っ立ったまま、どんどん気持ちが沈んでいく。
 わたしは後悔していた。
 金だけ払って帰ろう、そう思ったときである。
 ノックの音がした。
「開いてるよ」
 とわたしが答えると、ドアはバンッと開いた。
 白シャツを着た角刈りの中年男が入ってきた。
 目付きが悪い。
 小柄だが、筋骨隆々だった。
「おい、動くな。警察だ」
 と甲高い声で怒鳴って、黒い革の手帳をかざした。
 わたしは言葉を失い、胃が冷たくなった。
 男は、汚れた床を指さした。
「そこに正座しろ」
 まずいことになった。
 仕方なく、言われた通りにする。
 わたしは、引きつった愛想笑いを浮かべた。
 男は腕を組んで、勝ち誇ったような表情で見下ろしていた。
 すぐに尋問が始まった。
「酔っぱらってるのか?」
 と男は聞いた。
「はい、少しだけ」
 と答えた。
「馬鹿な奴だ。こんなところで逮捕されたら、人生台無しじゃないか。見たところ、あんたは勤め人だろ?」
 そう言って、わたしの頭を拳骨で軽く叩いた。
「無職です」
 と答えた。
「働いていないのに、何故遊ぶ金があるのだ?」
「早期退職したんですよ。それまでは、毎日働いていました」
「家族は?」
「ひとりきりです」
「独身か?」
「妻を病いで亡くしました」
 沈黙があった。
「そうか。寂しいんだな」
 わたしは返事をしなかった。
「身分を証明出来るか?」
 と男が聞いた。
 ズボンのポケットから財布をだして、免許証を差し出した。
「有効期限が切れています。運転しなくなったので」
 男はしばらく免許証を睨んでいたが、
「ここの常連か?」
 と聞いた。
「いいえ、初めてです」
 と答えた。
「嘘は言うなよ」
「嘘じゃありません」
「魔が差したんだな。あんたの態度次第では、見逃してやってもいいんだぜ」
 男はニヤリとした。
「ここへは、もう二度と参りません」
 とわたしは言った。
 心から、そう思っていた。
「よし、財布を見せてみろ」
 と男が言った。
「何故です?」
「渡せばいいんだ」
 男の口調は荒くなった。
 嫌な予感がしたが、その通りにした。
 すると、男は、中から紙幣を抜きとって、
「結構、持ってるじゃないか」
 と言い、自分のポケットにすべて突っ込んでしまうと、財布だけを投げて寄こした。
 そういうことか。
 わたしは、そっと手を伸ばして拾った。
「行っていいぞ」
 と男は言った。
 わたしは、ゆっくりと立ち上がった。
 頭の中で、もうひとりの自分の声が聞こえていた。
 お前に失うものなんかない。
 怖いものなんかないはずだ。
「感謝します」
 と、わたしは男にお辞儀した。
 それから、出来るかぎり気配を消して、部屋を出ていこうとした。
 が、
「待て」
 と呼び止められた。
 わたしは、ビクッとなった。
「何でしょう?」
「その腕時計をよこせ」
 と男が言った。
「それは勘弁してください。妻から贈られたものなんですよ」
 とわたしは答えた。
「勘違いするなよ。俺はお願いしてるわけじゃない」
 と男は言った。
「刑事さん、これを取られるくらいなら、わたしは逮捕されたほうがいいんだ」
 と抵抗した。
「あんたは分かってない。俺は、それが欲しいのさ。そのためなら、手段を選ばないだろうよ」
 男は続けた。
「例えば、買春容疑で逮捕されたあんたのポケットから、覚えのない小さなビニール袋が見つかる。この国で違法な薬物が検出される。それだけで、これからの貴重な五年間を棒に振ることになるんだ。あんたの死んだ女房だって、そんなことは望んではいない。そうだろう?」
 十年以上も愛用している腕時計を外して、男に渡した。
 あんなものを質屋に持っていっても、一銭にもならないだろうに。
「行ってもいいですか?」
「いい」
「ありがとうございました」  
  
 日が暮れていた。
 疲れきって、屋形船を下りた。
 相変わらず、骸骨老人が眠そうに座っていたが、あの女の姿は見かけなかった。
 うまく逃げたならいいけれど。
 その場を遠ざかり、歩きながら、ハーデス錠を二錠も飲みこんだ。
 水は無かったが、待てなかった。
 これ以上、正気を保っている自信がなかったのである。


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