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2、このレコードを聴いた人間は、必ず自殺してしまうというのです。

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 カフェ『サントラ』は、東桜山通りにある国宝『吉法寺』の裏にひっそりとあり、午後一時から真夜中まで営業している。ロイド眼鏡の初老の亭主が、世界中の映画音楽を収集して、客の思いつくままのリクエストに応え、レコードをかけてくれる店だ。
 わたしは流行りの映画は詳しくないが、一昔前の作品なら大抵は知っている。だから、わざと意地悪して、誰も観たことがないような、ソヴィエトの空想科学映画や北欧の貴族没落映画を頼んでみたことがある。それでも、亭主は、なんとも楽しそうな表情になって、二階の住居兼倉庫に上がり、きちんと目的のレコードを見つけてきた。常連になって二年、これまで、ありませんと言われた試しがない。
 亭主は、わたしが赤いビロードのカーテンをくぐって薄暗い店内に入ると、混んでいても、空いていても、いつでもきまって、年代物のレジスターに最も近いカウンターの席に案内してくれる。わたしとなら、大抵の客とは出来ないような、かなり通な会話を楽しめるからだ。もちろん、わたしだって、その為に遠くからわざわざ通っている。
「早いですね。きょう、最初のお客さんだ」
 と亭主は言い、黒ビールを冷蔵庫から出した。
 わたしは、頷く。
 店の四隅に配置された巨大なスピーカーから、ゆっくりとしたテンポで、彷徨う感じのピアノ曲が流れていた。半音階主義的で、不安定なメロディだった。
「お客がいない間、これを最初にかけることにしています。儀式みたいに。若く死んでしまった兄から、中学の卒業の祝いに買ってもらいました。今でも、たまに聞きたくなります」
 わたしは、その映画を知っていた。三度、観ていた。
「懐かしいな。【ブラックホールのような女】の愛のテーマだね。このアルバムはスコア版で、公開されて何年も経ってから録音をやり直したものだ。演奏家も別の人間で、スイスのアルバン・アドルノだっけ。その後も、実際に劇中で使われた音楽は、一度も発売されていないんだ」
「さすが、よくご存知だ。ところが、去年、フィンランドから海賊版を手に入れたんですよ。ご覧に入れましょう」
 亭主はそう言い、背後の壁棚にぎっしり詰められたレコードの中から一枚を取り出して、わたしに手渡した。
「これは知らなかった。ぜひ、聴いてみたいな。おや、まだ未開封じゃないか」
 わたしは、黒ビールを一口飲んでから、その新品の紙ジャケットを愛おしく見た。劇場用のポスターと同じ、荒野に生えた一本の枯れた木で、素っ裸の太った男が首を吊っているイラストである。
「結構な値段で手に入れたのですが、妙な噂を聞きましてね。それで、まだ一回も針を落としていないのです。どうも、迷信深いところがあって。自分でも馬鹿馬鹿しいと思うのですが」
 と亭主は笑った。
「妙な噂って?」
 とわたしは聞いた。
 亭主は、少しずれたロイド眼鏡を左手の薬指で直した。
「笑わないでください。このレコードを聴いた人間は、必ず自殺してしまうというのです」
 わたしは、若い頃からこういうことを面白いと思う質である。
「確か、あの映画の監督は自殺だったね。私財を投げうって映画を製作したが、まるで売れなかったからだとか」
「いえいえ。真実は殺されたのです。次に撮るはずだった作品が、世界的な新興宗教のグルを主人公にした物語だったので、信者たちに真冬の海岸に連れていかれたのですよ」
「あぁ、思いだした。あの団体のことだね」
「えぇ、あの団体です。裏で力があるから、警察だって、見て見ぬ振りだった」
「恐ろしいことだ」
「それが現実なんです」
 そこで、赤いビロードのカーテンが開いたので、わたしと亭主が同時に振り向くと、水色のワンピースを着た、若く綺麗な丸顔の女が入ってきた。化粧は濃いが、年齢は二十五になるか、ならないか。
「嫌だ。嫌だ。あたし、もう嫌だ。ご主人、水割りをくださいな」
 女はそう言って、ちょっと離れた席に腰かけた。
「近ごろ、顔を見なかったね」
 と亭主が言った。
「大きな手入れがあってさ、ハノイに避難してたのよ。でも、やっとのこと、めでたく、昨日から営業を再開いたしました。宜しかったら、いつでも、お声をかけてくださいね」
 女は、まだ子供のような笑顔でわたしをチラリと見た。
「ここでは、営業しないでくださいよ」
 水割りを出しつつ、亭主が注意した。
「なぁに、この陰気な曲?死にたくなるじゃない」
 女は、グッと飲みほして、お代わりと言った。それから、同じものを続けて二杯飲むと、聞きもしないのに、わたしを相手に身の上話を始めた。女の酔い方には嫌味がなく、実に可愛らしかったから、レモンを多めに絞ったハイボールを三杯つきあい、勘定も払ってあげようと決めた。
 女は、山涌の女学校を卒業して上京、松岩町の呉服屋に住みこんだけれども、旦那にちょっかいを出されて身ごもり、奥方に暴露て追いだされた。行くあてもなく、元来、そっちのほうが嫌いではなかったから、流れるまま、今の商売を選んだのである。親分に借金して産んだ女の子は、自分だけで育てており、もうじき四歳になるという。
 やがて、亭主が【強制収容所に死す】のテーマ曲をかけてくれたので、もう一杯だけ、いや、何杯か飲んでから、わたしはふらふらと立ち上がった。すると、女も一緒に立った。まだ営業するには早いし、天気も良いのだから、近くの川べりでも散歩しましょうよ、と誘われた。わたしは賛成した。腕時計の針が四本にも見える。どうやら、夕方だと分かった。



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