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ⅱ
しおりを挟むそれから年ごろを待たずして、十になった小乃は東京へ渡っていった。他の子らは、子供を産みやすい時期を見計らって見合いをさせられ嫁いでいくが、この利かん坊は丁稚なので、読み書きと計算を覚えさせられたらすぐに島から出されていった。
佐野は初めて、島の子との別れを少し空虚に感じた。
いつも去っていく船を見て無心をつらぬいてはいたが、小乃は純粋に退屈な佐野の遊び相手であったから、友達が引っ越してしまうようなほんのりとした寂しさが残った。皆が佐野様と崇める中で、あの少年はいつもぶっきらぼうに「おい佐野、出てこい」と呼び、もらった菓子をよく分けてくれたり、一緒に釣りをしたりして遊んだ。
佐野もわざと意地の悪いことをしてみせるのが好きで、島の子らが度胸試しで登る島いちばんの高木で待ち構え、「ここにおるぞクソガキ、俺と遊んでほしけりゃ登ってこい」と笑い、木登りだけは苦手な小乃を冷やかしたりした。負けん気の強い小乃のことだから、きっと必死になって登ってくるだろう。そして登りきったところでヒョイと飛び降りて、「先に釣ってるぞ」と言って海まで歩いていくつもりだ。
それをたくらんでニヤニヤと待っていたら、「遊んでほしくなどないわ。お前の祠に今すぐ火をつけてやるから、そこでおとなしく立ちのぼる煙でも眺めておれ」といって火打ち石を見せつけ、フイと背中を向けて歩き出した。そして慌てて降りてきた佐野を見て、「お前はキツネのくせに浅はかな男だ」と言ってケラケラと笑うのだ。こういう有様ばかりで、幼い小乃になかなか勝てなかった。キツネが人間の子どもにひょうひょうといなされ、顔を真っ赤にさせられる。情けないことこの上ないが、しかし退屈をもてあます佐野にはそれなりに楽しいひとときであった。
「なあ佐野」
「ん?」
いつもの、ひとけのない海辺で釣り糸を垂らしながら、小乃がおもむろに聞いた。
「僕はもうすぐこの島を出るけど、他の子らはどうなるの?」
他の子らとは、同じわざわいを持って生まれた少年たちである。
「……この島の西端にある小屋に行き、嫁ぐ者としてひととおりのことが出来るように学ぶのだ。茶華道や和歌、俳句、割烹、それから道徳や行儀作法、世間の情勢などの最低限の教養など、いろいろとな。そして年ごろになったら見合いをし、それぞれの亭主のもとへ嫁に行く」
しかし中にはわざわいを持った子供だけを、赤ん坊のうちから小屋によこす家もある。小乃も生まれてすぐに預けられたので、家族の顔を知らずに育ってきた。島外から娶った普通の女の母と、わざわいを持たずに普通の男として生まれた父のあいだでも、父方の血統によって突如としてそのような子が生まれることがあり、それは細々と、しかし脈々と続いている。
「いま親元にいるみんなも、学校に入ったら家族と離ればなれになるのかい?」
「まあな。けどなにも今生の別れではない。学校にいるあいだも、結婚をしてからも、時間があれば会いに行けるさ」
「そう。でもやっぱり今までのようには暮らせないんだね。祟りがなけりゃ、みんな平穏にこの島に暮らせたのにな」
「………すまん。俺にどうにかできたらいいが、手を出すことはできないのだ」
「佐野のせいじゃないからいいよ。お前の仕業だったら海に突き落としてたけど」
「すまん……」
「…………」
責めるつもりはなかったのだが、どうやら気に病んでいたらしく、二人のあいだに重々しい空気が漂った。うつむく佐野の横顔をちらりと見やる。彼はときどき隠しもせずこういう顔をすることがある。小乃は、その頬にそっと手を触れた。
「いいって。どこの家も、どうせいつかはみんな結婚して出てかなくちゃならないんだ。僕らはそれが人より早いだけさ。祟りなどなくとも、丁稚ならなおさら、貧しい家の子なら赤ん坊のころから売られるとも聞いたことがある」
小乃の冷ややかな手の感触。
「父上も母上もいなくとも、友達とそれなりに楽しく暮らせたから、それだけでいいのさ。でもいつか、この"しきたり"が無くなるといいな。僕らはキツネの祟りなど怖かないが、祟られてない人たちのほうがそれを恐れすぎた果てに、ずいぶんバカなことをしているように見える」
「小乃……」
いまこの頬を一瞬だけなでてくれた彼の小さな手をそっと取り、きゅっと握りしめた。しかし、それしかできなかった。
「佐野、お前も結局、僕らと同じように孤独だな。でも僕はお前の姿が見えてよかった。それで、一緒にいられてよかった」
船は遠く西へ西へと旅立って行き、とうとう島いちばんの高木からもその姿を確認できなくなった。しあわせになってくれよ、とはじめて口に出してつぶやいた。
キツネの祟りと、それを恐れた島民たちのしきたりに翻弄される子どもたち。悪いのは誰であろう、と考えるが、あの日自分はたしかに小乃に謝った。心から悪いと感じていたからだ。
陰花の人間とあらば、着く先々の土地のキツネにも優先的に目をかけられる。しかし何が起ころうとも、事前に人間の領域に力を使って、その身を守ってやることはご法度だ。キツネは生身の人間は守れない。その魂や、まとわりつく悪霊や、反対にとり憑くことでしか関われない。
もっと時代が変われば、魂を越えた愛を持ち寄ることができるようになるだろうか。人間は傲慢で浅ましく、そのくせ脆弱だ。でもすべての人間を嫌っているわけではない。ぴたりと寄り添って共存することは不可能だが、心の中で愛を分かち合える日は、いつかやって来るだろうか。
佐野は船を見送ったまま、木の上で夜を明かした。どれほど長く生きても、やはり未来のことなど見透すことはできない。だから人々もその不安に圧され、安寧を祈りにくるのだ。その人間の気持ちが、無数にこの身に突き刺さってきたことを、今ようやく痛みとして実感していた。
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