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しおりを挟むその夜サラは食堂にはやって来なかった。ハルヒコはわざとらしく天音の目の前で氷のうをあてがっていたが、天音はそんなものにまったく目もくれず食事を終えるまでサラの心配をしていた。今朝は元気そうであっただけに、大吾郎の落胆もひとしおだった。
食堂から出ると210号室に立ち寄ってみたが、秋山に「完全に寝てる。」と言われたので、また明朝に来るとだけ伝えておいた。部屋に戻るとハルヒコは右目を冷やし続けていたが、天音は無視してベッドに転がり、「あーあ、しんどー」とひとりごとのようにつぶやいた。
「男と人生に疲れきったバツイチ子持ちって感じだな」
「君のせいだけどね」
「俺はてめえの女にそんな悲愴を背負わせたりしない」
「……サラちゃんどーにかなんないかな」
「ありゃあ進級は無理だ。卒業できたってあんな弱々メンタルじゃ社会で生きていけん。とっとと病院にブチ込んでこい」
「カンタンに言うねえ」
「お前らが複雑にしているだけだ」
「……ねえ、マッサージして」
「ああ?」
「背中と腰とふくらはぎ」
「昨日の今日でどういう心変わりだ?」
「服越しならヘーキ。素手で皮膚とか触んなければ。ほら早く。僕もー疲れたんだ」
「殴った相手に今度は疲れたからマッサージをしろだと?お前の性格ムチャクチャだぞ」
「君よりマシだよ。いいからさっさとして」
「ぬう……」
すっかりぬるくなった氷のうを置き、「下じゃ狭いから上に来い」と言うと、天音は素直に従った。
「ホントにやってくれるの?」
「その代わり怒らずに聞いてもらいたいことがひとつある」
「約束はしないけど聞くよ」
「うつぶせになれ」
「はーい。わはは、やったー」
「俺は東洋医学を基礎から叩き込まれてるんだ。指圧などは店を開けるほどの腕前を持っている。指だけで潮を吹かせてやるから覚悟しとけ」
「はあー、そりゃあ楽しみです」
軽く受け流してうつぶせになると、ハルヒコが天音の尻の上に馬乗りになった。
「……え、乗るの?」
「こんな狭いんじゃ仕方なかろう」
「そっか……」
背中にそっと両手を置くと、手のひらで腰から肩甲骨にかけ、背骨を軸として左右に円を描くようにさすりあげた。
「ああ、気持ちいいそれ……」
あたたかくて大きな手のひらが、ゆっくりと、しかし程よい力強さで背中を押しながらすべっていく。
「男なのに鍛えようと思わんのか?貧相な背中だな」
「じゃー明日からサンドバッグ使わせて」
「俺がボクシングをイチから教えてやる」
「僕が強くなったら、そんな青アザ程度じゃ済まなくなるぞ」
「格闘を習ってる奴が暴力を振るったら1発でお縄だ。だから俺はどんな理不尽を被ろうとも、非力な一般人に対してお前のように考えなしに手をあげたりせんのだ」
背骨の両脇を、上から少しずつ親指で刺激される。ぞくぞくと鳥肌が立つような気持ちよさだった。
「ねえ、マッサージって行ったことないからわかんないけど、君ホントにすごく上手いね」
「ふん、やっぱり身体は正直だな。プロなんだから当然だ」
「高校なんか出なくてもこれで食べてけるよ」
「それは暗にさっさと中退しろと言っているのか?」
「違うよ、遅かれ早かれ退学にさせられても、このワザさえあれば食いっぱぐれないねって言ってるの」
「おんなじことだろ」
「寝ちゃいそう……」
「寝る前に俺の話を聞け」
「ああそうだ。なに?」
「ユーレイのことだ」
「ユーレイって……サラ?」
「やっこさんがメシを食いに来なかった原因に心当たりがある」
「どういうこと?何かあったの?」
天音が問うと、馬乗りになっていたハルヒコがとつぜん天音にガバリと覆いかぶさり、右腕で右肩をホールドしながら左手でアゴをガッとつかんだ。重さもあいまって完全に身動きが取れなかった。
「ひっ……な、なに?」
昨夜の恐怖の再来かと身をすくめる。だが身体は動かせない。
「俺は人体の秘孔を知っているんだ」
「へ?」
「そこを突けば3日は再起不能になる。動けないからションベンも垂れ流しだ。試しに突かれたいか?」
「やだやだやだ!絶対やめて!」
「この状態ではお前が不利だとわかっているな?」
「……」
「これから話すことを、怒らずに聞くと誓え。約束を破ればお前が寝ている間に秘孔を連打する」
「……怒らない」
「絶対だぞ?」
「絶対怒らない」
「……初めに聞くが、ユーレイはお前と同じチェリーくんか?」
「は?知らない」
「恋人がいたことは?」
「さあ……でも高校に入るまで親の監視が厳しかったらしいから、そういうのは作れなかったんじゃない?」
「……俺はな、今朝アイツがクソ生意気に突っかかってきたから、制裁を喰らわせたのだ」
「制裁だって?なにしたの?」
アゴを固定されたまま、天音の表情が険しくなる。
「おっと、またガラパゴス化しているぞ。落ち着け、お前のように暴力は振るっていない」
「何をしたのか言え」
不利な体勢にありながらも、天音の放つ威圧感に圧倒される。だからハルヒコは組み敷く腕に力を込めた。
「……奴に恋人がいたことないのなら、初キッス泥棒だ」
「……は?」
「正確には、初ディープキッス泥棒だな。くちびるを奪ったあと、即座に思いきり舌をねじこんでやった」
「はああ?!」
「すると奴はくちびるを話してから、呆然と突っ立って俺をものすごい顔で睨みつけたのち、その場で朝食をリバースしたんだ。恐らく胃に入っていたもの全部」
天音が力なく首を振り、眉間にしわを寄せて大きく息を吐いた。
「白石のババアがゲロを片付けていたが、変質者を見るようなすさまじい目で俺を見ていた」
「自覚がないのが不思議だけど、君は立派な変質者だぞ。ていうか……」
「手を離した瞬間殴りかかるとかナシだぞ。もしもアザが増えたら今度こそ警察に通報してやる」
「……何かもう、くだらなすぎてそんな気も起きない。とりあえず離して」
ハルヒコが身構えながらそっと手を離し、恐るおそる上体を起こす。「あー……」とかすれた声でうめきながら天音も起き上がり、しばらく両手をついたままじっとしていた。
「おい……」
「……マッサージ、ありがと」
「お?……おう」
「大吾郎の耳に入ったら怒りそうだから、それ他の人に言うなよ」
「うむ」
「君はいずれ確実に性犯罪で逮捕されるな。しかも無自覚で。素質がありすぎる」
「それほどでも」
「明日謝りにいってくれ。サラは顔も見たくないだろうけど、ほっとくのがいちばん良くない」
「謝るだと?あいつが先に俺に突っかかってきたんだぞ?」
「なんて?」
「それは……その、俺のことを弱者呼ばわりしたんだ。みじめとか、かわいそうだとも抜かしやがった」
「それの何が間違ってる?」
「なんだと?」
「何にも間違っちゃいない。君は弱くてみじめでかわいそうだよ。でもそんなこと面と向かって指摘するのも無駄だから、みんな言わないであげてるだけだ」
「貴様……」
「ねえ、ハルヒコ」
「なっ……」
天音に至近距離で見つめられ、なおかつはじめて下の名前を呼び捨てされ、ついたじろぐ。すると彼が静かに切り出した。
「……君はサラの言うとおりの人間だけど、君だけじゃなくだいたいの人もそんなもんだ」
「……」
「世の中なんて弱くてみじめでかわいそうな奴ばかりだ。もちろん僕もね。君は人といっしょが嫌かもしれないけど、逆に考えるんだ。マイナスの面は世界中のどんな人ともおんなじ。だから君が特別気にすることじゃない。そのかわり君の独特なところは、世界中の誰とも違う。……足るを知ることさ。多くを望んじゃならない。本当に居るか分からないけど、君のメキシコの師匠もきっと同じことを言うはずだ」
「じつに日本人らしい、根暗でひねくれた考えだ」
「ひとつ教えといてやるけど、たぶんサラは君と仲良くなろうとしたんだ。でもあのとおり壊滅的に人付き合いが下手くそでね、言いたいこともお構いなしに口から出しちゃう。でも、それも君とおんなじ。だからこそ自分に近い、なにか似たものを感じてたはずだよ」
「仲良くしようとだと?絶対にありえん。明らかに挑発してきたし、俺を終始蔑みの目で見つめていた」
「いつもあんな目だろ。あの子は不器用で取り繕った表情もいっさいできないんだ。おまけに感情も出にくい。だいたい君、氷のう持ってたけどちゃんと保健室に行けたのか?君が自分で行ったの?」
「ユーレイが白石にチクって、脅迫されて保健室まで拉致されたんだ。そのままじゃドロドロに溶けて死ぬぞと大ボラを吹きやがった」
「そら見ろ。サラはサラなりに君のこと心配してくれたんだ」
「殴った張本人が暴力を隠ぺいしてやがるからなあ」
「はっ、迷惑の比率を考えろ。それよりちゃんと謝れよ。僕も行ってやるから」
「謝らんと仲直りできんのか?恋人同士でもあるまいし実に面倒だ」
「サラが学校やめたら君が責任とれよ」
「は~~あ?なんだそりゃ、くっだらねえ」
ハルヒコは心底かったるそうな顔で、あくびをしながらばたりと布団に倒れ込んだ。
「……このまま一緒に寝るか?」
「何でだよ。降りる。おやすみ」
「ひとつ教えといてやろう」
「ん?」
「お前は呼吸が浅すぎる。そのせいで短い。だから脳に充分な酸素が行き届かず疲れとイライラがつのる一方で、それにより血管が収縮し背中や腰も固まっていくのだ。明日から意識して呼吸を深くしろ」
「……え、急にそんなまともなこと?」
「俺は人体のエキスパートだ」
「ちょっとだけ信じるよ」
「寝ろ。電気は豆球だ」
「……はいはい」
その日はめずらしく言い争いにならず、ふたりの部屋は久しぶりに静かで平和な夜を迎えた。
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