悪女は愛する人を手放さない。

りつ

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40、聖女のように

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 それからマティルダはなんとか逃げ出そうといろいろ策を練って脱出を試みたが、すべて無駄に終わった。使用人を懐柔しようと思っても、申し訳なさそうに謝るばかりで、全員オズワルドの手の内であった。

 仕方がないので諦めて、ぼんやりと一日寝室にこもって過ごす。オズワルドは仕事が終わると毎晩寝室へ訪れて、身体を繋げることはせず、ただ抱きしめて朝まで過ごすことが続いていた。

 以前まではただ身体だけの関係であった。それが今は本当の夫婦のような真似事をしているのでマティルダは非常に居心地が悪かった。

(いっそ抱いてくれればいいのに)

 そうすれば面倒なことを考えなくて済むのに。気持ちよくなって、あとは疲れて眠るだけでいいのに。

 別れを切り出された夜、夫婦のように過ごしたいと頼んだ自分の言葉を覚えているからだろうか。それともこんな状況になってもシェイラを見捨てられず、気遣ってからか……。

(お義姉様はどう思っているのかしら……)

 窓から見える本館は不気味なほどいつもと変わらない。外を見ているとメイドが慌てたような顔をするので、もしかするとオズワルドは自分が帰ってきたことをシェイラに伝えていないのかもしれない……

 マティルダはそういったことも含めてオズワルドと話をしようとしたが、彼の態度が今までと違って危うさを――問い詰めてしまえば、もう二度と自分は以前のような生活に戻れない気がしたので、大人しく彼の望む従順な妻を演じていた。

「――寒くないですか」

 日中も羽織るものが必要になり、夜はさらに気温がぐっと下がる季節。オズワルドが気遣うように問いかけてきた。

「毛布を増やしますか」
「いいえ、大丈夫ですわ」

 オズワルドの体温は高く、後ろからすっぽり抱きしめられているので、十分温かった。

 ならよかったと、彼はマティルダをさらに抱きしめてくる。いやらしさは感じられず、マティルダが少しでも寒さを感じぬよう温める仕草であった。

 彼女はそんな彼の態度に少し勇気づけられたような、普段は聞けないことでも聞いてみたいような誘惑に駆られて、お腹に回された手の甲をそっと撫でながら口を開いた。

「ねぇ、オズワルドさま。本当はまだ、離婚なんてしていないんでしょう?」
「……それは余所の夫婦のことですか」
「誤魔化さないで、教えてください」

 怒らないから、と優しい口調で促せば、撫でていた手を上からぎゅっと握りしめられ、震える声で白状された。

「ええ、していませんよ」
「そう」
「幻滅したでしょう。あなたを追い出したくせに」
「どうかしら……もともと、王家の命令で結婚したのだから、そう簡単にできるものとは思っていませんでしたわ」

 オズワルドは黙り込んだ。たぶん彼は、離婚したいということも王家に言っていない。何も変わらない。ただずるずると中途半端な状況を続けているだけ。

 彼も自分がいかに愚かなことをしているか、よく自覚しているはずだ。その証拠に――

「マティルダ?」

 突然くるりと振り返った彼女に、オズワルドは動揺する。マティルダが気にせず頬に触れれば、怯えにも似た表情で見つめてくる。

(ひどい顔)

 せっかく整った顔立ちをしているのに、目の下には隈を作って、肌艶もよろしくなく、全体的に覇気がなかった。精神的なものもあるだろうが、自分を監視している間ろくに寝ていないのも原因だ。

 そう思った彼女はむくりと起き上がる。どこかへ逃げると思ったのか、すぐにオズワルドが背中と腰に腕を回し捕まえた。まるで溺れている水の中から手を伸ばしてしがみつく格好。行かないでくれと訴える、泣きそうな表情。

 自分で選んだ結果のくせに、追いつめられて、迷子になった子どものように途方に暮れている男。

(ほんとうに……)

「あなたって困った人ね」

 マティルダはオズワルドの頬を両手で優しく挟むと、可愛いものを見つめるような眼差しで微笑んでいた。そして初夜の時と同じように、けれどあの時とは違って自分を見上げる彼にちゅっと場違いな音を響かせて口づけした。

 呆然とする彼をそのまま胸に押し付けるようにして、そのまま強く抱きしめてやった。

 一緒に沈んでいくように寝台に横になって、子どもを寝かしつけるように頭や背中を撫でていい子いい子すれば、呆気にとられていたオズワルドもさすがに羞恥心が湧いたようだ。もがいて離れようとする。だから今度はマティルダが逃がさないようぎゅっとしがみつき、脚で動きを封じた。

「わたしと一緒に眠りたいのならば、じっとして」
「だ、だが……」
「だめ」

 離れようとしたぶんだけさらに胸を押し付ける。何度かそういったやり取りを繰り返せば、やがて諦めたようにオズワルドは大人しくなった。ちらりと下を見れば、どこか不貞腐れた顔をしていて、それが本当に子どもみたいで、マティルダはふふっと笑った。

「なにが、おかしいんですか」
「いいえ。なんだか可愛らしくて」
「……」

 ぎゅっとまた身体を密着させれば、オズワルドは開き直ったように胸に顔を埋めてきた。

「きみは、おかしい……」
「見た目と違って?」
「そう……いつもこちらの想像を上回ることをして……知る度に、わからなくなって、でも、目が離せなくて……心がかき乱されて、おかしくなる……」

 優しく髪を撫でてやりながら、マティルダはオズワルドの吐露される感情に耳を傾ける。彼はわからないと言った。シェイラのことも。自分がどうしたいのかも。そしてこんなに優柔不断で弱い自分を曝け出すことに耐え難い屈辱を感じ、打ちのめされていた。

「人には誰にも見せられない、脆い部分がありますわ……醜悪で、隠さなければとても生きていけない内面が……」

 だからマティルダは大丈夫だとオズワルドを慰め続けた。おかしな状況である。彼のせいでこれまで数え切れないほど理不尽な目に遭い、傷を負ったというのに。普通だったら、とっくに愛想を尽かしている。

 でもマティルダは不思議とオズワルドを突き放す気にはなれず、むしろ彼が迷い、弱さを曝け出すほどに、優しくしてやりたいような、この人このままどうなってしまうのかしら、という好奇心と愉快な気持ちが混じりあった気持ちになった。

(聖女様みたいな考えかしら……)

 あるいは――

 次の日。メイドが部屋へ入ってくると、驚いた表情をした。オズワルドがまだ寝ていたからだろう。

 一人先に起き上がってヘッドボードに背中をもたせかけていたマティルダは、あと少しだけ寝かせてあげるよう身振りで伝え、二人の親密な様子にメイドは慌てて部屋を出て行った。

 その姿にマティルダはくすりと微笑んで、自分のお腹に頬を寄せて眠る夫を見下ろした。その眼差しはまるで聖女のように慈しみにあふれ、前髪を指先でそっと払う手つきもこの上なく優しかった。


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