7 / 88
おさとうひとさじ
6.
しおりを挟む
いつものあの絶妙な距離感はどこへ行ってしまったのだろうか。
「瞳が、震えてる。佐藤さん、守れなくてごめんね。次があったら、どんなものからも守るから」
動揺して目をそらせば、優しい声が耳に届いてくる。
「俺はどう責任をとったらいいかな。取らせてほしい、何でもするよ」
跪いた人がまっすぐにこちらを見つめていた。
まるで愛の告白のようなシーンに目が眩んで、起こしているからだがふらりと倒れかけた。
このまま気絶したい気分のくせに、橘専務のあたたかい胸に抱き留められたら、ぱちりと瞼が持ち上がってしまった。
「さとうさん。無理しちゃダメだよ」
後ろから見つめている人には、もしかすると、突然抱擁しはじめた男女に見えているかもしれない。
仕事モードが外れてしまっている専務は、こうも甘ったるいのだろうか。おそろしい甘さに指先がしびれる。
そうか、あの女性もこうして誑し込まれてしまったのか。
どこかで危険信号が流れているのに、抜け出すこともできずに抱き寄せられている。
「……きみたち」
後ろから会長の声が聞こえて、さすがに目が覚めた。どう考えても、上司と部下の距離ではない。
嫌な予感がする。
会長は、一度こうだと思い込んでしまうと、まったく意見が聴こえなくなるタイプのすこし困ったお爺さんだ。可愛らしいところだと思っていた。
今の今までは。
「そうか、まったく気が利かない爺で申し訳がない」
「会長?」
「……二人が良い仲だったなら、初めから教えてくれていればよかったじゃないか」
「あの、」
「わしは大歓迎だ。なに、社内では言わなければいい。そうすれば秘書も続けていられるだろう? 橘くんと佐藤さんなら、お似合いじゃないか! 橘くんが懸念するようなことを佐藤さんがするとは思えん」
「会長、佐藤さんと私はそういう仲では……」
「そうと決まったら、さっそく入籍してくれて構わない。いやあ、よかったよかった。これで先方にもしっかり断りを入れられる。なあに、心配ないさ。爺がお節介して、恋人の仲を引き裂いてしまったと言えば、相手も分が悪い分、大ごとにはせんだろう」
「ですから、かいちょ……」
「いやあ~。二人が夫婦になるのなら、万事解決じゃないか。よかったよかった。このままでは、橘くんを婚約者が居ながら佐藤さんを誑かした悪い男として処分することになるところだった。二人が思いあっているのなら、すべてが丸く収まる」
「橘くん、責任を取りたいんだろう。隠していないで、早く結婚しなさい」
にっこりと微笑んだおじいさんは、まるで都合の悪いことのすべてが聴こえなくなってしまったような口ぶりだ。
まるで聞いてくれない。
「そういうことで、よろしく頼むよ」
脅しのように聞こえなくもない善意で扉が閉まる。
静まり返った病室で、今更のように橘専務の腕の中から解放された。
「……ええと、橘、専務?」
「今すぐ掛け合ってくる。本当に申し訳ない……。佐藤さんは心配しないでください」
「あの、」
「変な誤解を招くようなことをしました。ごめんね。……すぐに会長には理解してもらうから」
「でも、違うってわかったら、橘専務は」
「佐藤さんには迷惑をかけないから」
あの口ぶりでは、外部の会社のことも関わっているのだろう。たしかにさっき見た女性はお嬢様のような風貌だった。
最悪、退職に追い込まれる可能性もありそうだ。
専務が悪かったことは一度もない。しいて言うなら、かなり優しすぎて勘違いさせてしまうことくらいだ。
「なにか、方法はあるんですか?」
「……それは」
どんなに愛想がなくても、橘専務は気にすることなく笑いかけてくれていた。いつも仕事に真剣に取り組んでいることも知っている。
この会社の仕事も好きなのだと思う。
専務の瞳が揺れている。動揺しているのだと知った。
いつも、優しく微笑んで私を安心させてくれる橘専務のことは尊敬しているし、人間的にも好感を持っていた。
それにしたって、どうしてそんなことを、言おうと思ったのか。
たぶん、他の女性と同じで私も橘遼雅の引力に引き寄せられていたのかもしれない。
「――本当に、結婚しましょう、か?」
提案したときの私の顔は、いつもと同じくまったくの無表情だったらしい。
「瞳が、震えてる。佐藤さん、守れなくてごめんね。次があったら、どんなものからも守るから」
動揺して目をそらせば、優しい声が耳に届いてくる。
「俺はどう責任をとったらいいかな。取らせてほしい、何でもするよ」
跪いた人がまっすぐにこちらを見つめていた。
まるで愛の告白のようなシーンに目が眩んで、起こしているからだがふらりと倒れかけた。
このまま気絶したい気分のくせに、橘専務のあたたかい胸に抱き留められたら、ぱちりと瞼が持ち上がってしまった。
「さとうさん。無理しちゃダメだよ」
後ろから見つめている人には、もしかすると、突然抱擁しはじめた男女に見えているかもしれない。
仕事モードが外れてしまっている専務は、こうも甘ったるいのだろうか。おそろしい甘さに指先がしびれる。
そうか、あの女性もこうして誑し込まれてしまったのか。
どこかで危険信号が流れているのに、抜け出すこともできずに抱き寄せられている。
「……きみたち」
後ろから会長の声が聞こえて、さすがに目が覚めた。どう考えても、上司と部下の距離ではない。
嫌な予感がする。
会長は、一度こうだと思い込んでしまうと、まったく意見が聴こえなくなるタイプのすこし困ったお爺さんだ。可愛らしいところだと思っていた。
今の今までは。
「そうか、まったく気が利かない爺で申し訳がない」
「会長?」
「……二人が良い仲だったなら、初めから教えてくれていればよかったじゃないか」
「あの、」
「わしは大歓迎だ。なに、社内では言わなければいい。そうすれば秘書も続けていられるだろう? 橘くんと佐藤さんなら、お似合いじゃないか! 橘くんが懸念するようなことを佐藤さんがするとは思えん」
「会長、佐藤さんと私はそういう仲では……」
「そうと決まったら、さっそく入籍してくれて構わない。いやあ、よかったよかった。これで先方にもしっかり断りを入れられる。なあに、心配ないさ。爺がお節介して、恋人の仲を引き裂いてしまったと言えば、相手も分が悪い分、大ごとにはせんだろう」
「ですから、かいちょ……」
「いやあ~。二人が夫婦になるのなら、万事解決じゃないか。よかったよかった。このままでは、橘くんを婚約者が居ながら佐藤さんを誑かした悪い男として処分することになるところだった。二人が思いあっているのなら、すべてが丸く収まる」
「橘くん、責任を取りたいんだろう。隠していないで、早く結婚しなさい」
にっこりと微笑んだおじいさんは、まるで都合の悪いことのすべてが聴こえなくなってしまったような口ぶりだ。
まるで聞いてくれない。
「そういうことで、よろしく頼むよ」
脅しのように聞こえなくもない善意で扉が閉まる。
静まり返った病室で、今更のように橘専務の腕の中から解放された。
「……ええと、橘、専務?」
「今すぐ掛け合ってくる。本当に申し訳ない……。佐藤さんは心配しないでください」
「あの、」
「変な誤解を招くようなことをしました。ごめんね。……すぐに会長には理解してもらうから」
「でも、違うってわかったら、橘専務は」
「佐藤さんには迷惑をかけないから」
あの口ぶりでは、外部の会社のことも関わっているのだろう。たしかにさっき見た女性はお嬢様のような風貌だった。
最悪、退職に追い込まれる可能性もありそうだ。
専務が悪かったことは一度もない。しいて言うなら、かなり優しすぎて勘違いさせてしまうことくらいだ。
「なにか、方法はあるんですか?」
「……それは」
どんなに愛想がなくても、橘専務は気にすることなく笑いかけてくれていた。いつも仕事に真剣に取り組んでいることも知っている。
この会社の仕事も好きなのだと思う。
専務の瞳が揺れている。動揺しているのだと知った。
いつも、優しく微笑んで私を安心させてくれる橘専務のことは尊敬しているし、人間的にも好感を持っていた。
それにしたって、どうしてそんなことを、言おうと思ったのか。
たぶん、他の女性と同じで私も橘遼雅の引力に引き寄せられていたのかもしれない。
「――本当に、結婚しましょう、か?」
提案したときの私の顔は、いつもと同じくまったくの無表情だったらしい。
1
お気に入りに追加
362
あなたにおすすめの小説
甘過ぎるオフィスで塩過ぎる彼と・・・
希花 紀歩
恋愛
2021 宝島社 この文庫がすごい大賞 優秀作品🎊
24時間二人きりで甘~い💕お仕事!?
『膝の上に座って。』『悪いけど仕事の為だから。』
小さな翻訳会社でアシスタント兼翻訳チェッカーとして働く風永 唯仁子(かざなが ゆにこ)(26)は頼まれると断れない性格。
ある日社長から、急ぎの翻訳案件の為に翻訳者と同じ家に缶詰になり作業を進めるように命令される。気が進まないものの、この案件を無事仕上げることが出来れば憧れていた翻訳コーディネーターになれると言われ、頑張ろうと心を決める。
しかし翻訳者・若泉 透葵(わかいずみ とき)(28)は美青年で優秀な翻訳者であるが何を考えているのかわからない。
彼のベッドが置かれた部屋で二人きりで甘い恋愛シミュレーションゲームの翻訳を進めるが、透葵は翻訳の参考にする為と言って、唯仁子にあれやこれやのスキンシップをしてきて・・・!?
過去の恋愛のトラウマから仕事関係の人と恋愛関係になりたくない唯仁子と、恋愛はくだらないものだと思っている透葵だったが・・・。
*導入部分は説明部分が多く退屈かもしれませんが、この物語に必要な部分なので、こらえて読み進めて頂けると有り難いです。
<表紙イラスト>
男女:わかめサロンパス様
背景:アート宇都宮様
誘惑の延長線上、君を囲う。
桜井 響華
恋愛
私と貴方の間には
"恋"も"愛"も存在しない。
高校の同級生が上司となって
私の前に現れただけの話。
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
Иatural+ 企画開発部部長
日下部 郁弥(30)
×
転職したてのエリアマネージャー
佐藤 琴葉(30)
.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚+.。.:✽・゚
偶然にもバーカウンターで泥酔寸前の
貴方を見つけて…
高校時代の面影がない私は…
弱っていそうな貴方を誘惑した。
:
:
♡o。+..:*
:
「本当は大好きだった……」
───そんな気持ちを隠したままに
欲に溺れ、お互いの隙間を埋める。
【誘惑の延長線上、君を囲う。】
隠れオタクの女子社員は若社長に溺愛される
永久保セツナ
恋愛
【最終話まで毎日20時更新】
「少女趣味」ならぬ「少年趣味」(プラモデルやカードゲームなど男性的な趣味)を隠して暮らしていた女子社員・能登原こずえは、ある日勤めている会社のイケメン若社長・藤井スバルに趣味がバレてしまう。
しかしそこから二人は意気投合し、やがて恋愛関係に発展する――?
肝心のターゲット層である女性に理解できるか分からない異色の女性向け恋愛小説!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる