あまやかしても、いいですか?

藤川巴/智江千佳子

文字の大きさ
上 下
6 / 88
おさとうひとさじ

5.

しおりを挟む
「……あれは」


思わずつぶやいたら、俯いていた女性がすっとこちらを振り返った。ひどく、冷たい表情のその人は、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。


「――あかねさん?」


横で、ぼうぜんとした声が聴こえていた。

振り向いて、それが誰なのか問いを立てる暇はなさそうだ。

とにかく、状況がよくないことだけは分かる。恐ろしい体験をする時、人は不思議と体が動かなくなるものだ。


「どろぼうねこ」


聞いたことのない声が鳴った。

狼狽えているうちにすぐ目の前に詰め寄ってきた人の手が、大きく振りかぶられる。


「佐藤さんっ!」


橘専務がこんなに大きな声を出しているところを見ることになるとは、夢にも思わない。

同じく、聞いたこともないような音が耳にぶつかって、衝撃で目が回る。叩かれたのか、殴られたのか。理解できずに体がふらりと倒れかけて、誰かに後ろから抱えられた。


「佐藤さん!?」

「あ、」


何かを伝えなければならない気がしている。

遠くで誰かが騒ぎ立てていて、頭が回らない。どうしてこんなことになったのか。

上から覗き込む人の顔は今日も綺麗すぎて、見ているだけでおこがましい気分になってしまう。


「た、ちばなせん……、わた、しはだいじょう、」


最後まで言い切れたのだろうか。

わからないまま、優しい匂いに包まれて瞼が下りてしまった。




「――では、佐藤さんは巻き込まれてこんな目に遭ったのか」

「はい。申し訳ありません」

「いや、わしにも責任はある……。まさかあそこの娘さんが、そんなことをするとは」

「……やはり私は家庭を持つことを諦めたほうが良いということかと思います」

「うーむ、交際すると関係がこじれるとは……」


誰かの声がする。

瞼を押し開いてみれば、大きな背中が私を守るようにベッドわきに立っているのが見えた。

ぼんやりと、何が起きたのかを考えながら、専務の先に会長が立っているのを確認する。


すこし前まで担当していたその人は、この状況に眉を顰めているようだ。

普段はいつも、盆栽を趣味にしている優しいおじいさんだ。担当が外れる時にも、随分と気を使ってくれた。

目が合ったら、詰めていた眉を和らげて、私を見つめてくれた。


「あ、」

「佐藤さん、気分はどうだ?」

「会長……?」

「わしが整えた縁談のせいでひどい目に合わせてしまったらしいね。申し訳ない。代わりにお詫びしよう」

「え、いえ。大丈夫です」


耳の聞こえが悪い。

ぼやけて聞こえる声に不思議に思いながら、勢い良く振り返った橘専務と目が合った。会長がここにきていると言うことは、やはりあの女性は専務の婚約者だったのだろう。

あの迫力は本当にびっくりした。心臓が止まりかけたし、泣きそうになってしまったくらいだ。

見たところ、専務には特に怪我もなさそうだ。

たぶん、私が一度殴られて気を失ってしまったために、病院に連れてきてくれたのだろう。

かすかに薬品の匂いがする。


「……さとうさん、体の調子は」

「問題ないです。もしかしたら鼓膜が破れてしまったかもしれませんが、それ以外は」

「それはだめじゃないか! ああ、申し訳が立たぬ。わしの見立てが悪かったのか。佐藤さんにはどう詫びればよいか」

「いえ……、そんなにお気になさらずとも」

「女性の体に傷をつけるなど言語道断だ。橘くん、そう思わないか」

「そうですね。……佐藤さん、他に痛むところは?」

「いえ、本当に大丈夫です」

「いいや。だめだよ。……佐藤さんはすぐ無理をするから、ちゃんと言ってほしい」

「そんな」

「頬はどうかな。まだ腫れているようだ」

「いえ、あの」

「せっかく白いのに、痕が残ったら大変だ」

「あの」

「急に動いちゃいけない」

「たちばな、せん……」

「手が冷たい。……怖い思いをさせてしまったよね。もう大丈夫だよ」


真剣な瞳がこちらを見つめている。ゆっくりと、暖めるように両手を握られた。心臓が止まりかけて、必死で呼吸をしている。

いつの間に、橘専務の敬語が取れてしまっている。動揺しているのだろうか。


「よかった。すこし暖かくなったね」

「あの、」

「頬をよく見せて」


自然と頬に手を寄せて、検品するように見つめられた。その目に弱い。匂いもかなり好きだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
御曹司とお試し結婚 〜3ヶ月後に離婚します!!〜

Princess story 〜御曹司とは付き合いません〜

鳴宮鶉子
恋愛
Princess story 〜御曹司とは付き合いません〜

crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

鳴宮鶉子
恋愛
crazy Love 〜元彼上司と復縁しますか?〜

史上最強最低男からの求愛〜今更貴方とはやり直せません!!〜

鳴宮鶉子
恋愛
中高一貫校時代に愛し合ってた仲だけど、大学時代に史上最強最低な別れ方をし、わたしを男嫌いにした相手と復縁できますか?

小さな恋のトライアングル

葉月 まい
恋愛
OL × 課長 × 保育園児 わちゃわちゃ・ラブラブ・バチバチの三角関係 人づき合いが苦手な真美は ある日近所の保育園から 男の子と手を繋いで現れた課長を見かけ 親子だと勘違いする 小さな男の子、岳を中心に 三人のちょっと不思議で ほんわか温かい 恋の三角関係が始まった *✻:::✻*✻:::✻* 登場人物 *✻:::✻*✻:::✻* 望月 真美(25歳)… ITソリューション課 OL 五十嵐 潤(29歳)… ITソリューション課 課長 五十嵐 岳(4歳)… 潤の甥

Re_Love 〜婚約破棄した元彼と〜

鳴宮鶉子
恋愛
Re_Love 〜婚約破棄した元彼と〜

友情結婚してみたら溺愛されてる件

鳴宮鶉子
恋愛
幼馴染で元カレの彼と友情結婚したら、溺愛されてる?

優しい愛に包まれて~イケメンとの同居生活はドキドキの連続です~

けいこ
恋愛
人生に疲れ、自暴自棄になり、私はいろんなことから逃げていた。 してはいけないことをしてしまった自分を恥ながらも、この関係を断ち切れないままでいた。 そんな私に、ひょんなことから同居生活を始めた個性的なイケメン男子達が、それぞれに甘く優しく、大人の女の恋心をくすぐるような言葉をかけてくる… ピアノが得意で大企業の御曹司、山崎祥太君、24歳。 有名大学に通い医師を目指してる、神田文都君、23歳。 美大生で画家志望の、望月颯君、21歳。 真っ直ぐで素直なみんなとの関わりの中で、ひどく冷め切った心が、ゆっくり溶けていくのがわかった。 家族、同居の女子達ともいろいろあって、大きく揺れ動く気持ちに戸惑いを隠せない。 こんな私でもやり直せるの? 幸せを願っても…いいの? 動き出す私の未来には、いったい何が待ち受けているの?

処理中です...