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おさとうひとさじ
5.
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「……あれは」
思わずつぶやいたら、俯いていた女性がすっとこちらを振り返った。ひどく、冷たい表情のその人は、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
「――あかねさん?」
横で、ぼうぜんとした声が聴こえていた。
振り向いて、それが誰なのか問いを立てる暇はなさそうだ。
とにかく、状況がよくないことだけは分かる。恐ろしい体験をする時、人は不思議と体が動かなくなるものだ。
「どろぼうねこ」
聞いたことのない声が鳴った。
狼狽えているうちにすぐ目の前に詰め寄ってきた人の手が、大きく振りかぶられる。
「佐藤さんっ!」
橘専務がこんなに大きな声を出しているところを見ることになるとは、夢にも思わない。
同じく、聞いたこともないような音が耳にぶつかって、衝撃で目が回る。叩かれたのか、殴られたのか。理解できずに体がふらりと倒れかけて、誰かに後ろから抱えられた。
「佐藤さん!?」
「あ、」
何かを伝えなければならない気がしている。
遠くで誰かが騒ぎ立てていて、頭が回らない。どうしてこんなことになったのか。
上から覗き込む人の顔は今日も綺麗すぎて、見ているだけでおこがましい気分になってしまう。
「た、ちばなせん……、わた、しはだいじょう、」
最後まで言い切れたのだろうか。
わからないまま、優しい匂いに包まれて瞼が下りてしまった。
「――では、佐藤さんは巻き込まれてこんな目に遭ったのか」
「はい。申し訳ありません」
「いや、わしにも責任はある……。まさかあそこの娘さんが、そんなことをするとは」
「……やはり私は家庭を持つことを諦めたほうが良いということかと思います」
「うーむ、交際すると関係がこじれるとは……」
誰かの声がする。
瞼を押し開いてみれば、大きな背中が私を守るようにベッドわきに立っているのが見えた。
ぼんやりと、何が起きたのかを考えながら、専務の先に会長が立っているのを確認する。
すこし前まで担当していたその人は、この状況に眉を顰めているようだ。
普段はいつも、盆栽を趣味にしている優しいおじいさんだ。担当が外れる時にも、随分と気を使ってくれた。
目が合ったら、詰めていた眉を和らげて、私を見つめてくれた。
「あ、」
「佐藤さん、気分はどうだ?」
「会長……?」
「わしが整えた縁談のせいでひどい目に合わせてしまったらしいね。申し訳ない。代わりにお詫びしよう」
「え、いえ。大丈夫です」
耳の聞こえが悪い。
ぼやけて聞こえる声に不思議に思いながら、勢い良く振り返った橘専務と目が合った。会長がここにきていると言うことは、やはりあの女性は専務の婚約者だったのだろう。
あの迫力は本当にびっくりした。心臓が止まりかけたし、泣きそうになってしまったくらいだ。
見たところ、専務には特に怪我もなさそうだ。
たぶん、私が一度殴られて気を失ってしまったために、病院に連れてきてくれたのだろう。
かすかに薬品の匂いがする。
「……さとうさん、体の調子は」
「問題ないです。もしかしたら鼓膜が破れてしまったかもしれませんが、それ以外は」
「それはだめじゃないか! ああ、申し訳が立たぬ。わしの見立てが悪かったのか。佐藤さんにはどう詫びればよいか」
「いえ……、そんなにお気になさらずとも」
「女性の体に傷をつけるなど言語道断だ。橘くん、そう思わないか」
「そうですね。……佐藤さん、他に痛むところは?」
「いえ、本当に大丈夫です」
「いいや。だめだよ。……佐藤さんはすぐ無理をするから、ちゃんと言ってほしい」
「そんな」
「頬はどうかな。まだ腫れているようだ」
「いえ、あの」
「せっかく白いのに、痕が残ったら大変だ」
「あの」
「急に動いちゃいけない」
「たちばな、せん……」
「手が冷たい。……怖い思いをさせてしまったよね。もう大丈夫だよ」
真剣な瞳がこちらを見つめている。ゆっくりと、暖めるように両手を握られた。心臓が止まりかけて、必死で呼吸をしている。
いつの間に、橘専務の敬語が取れてしまっている。動揺しているのだろうか。
「よかった。すこし暖かくなったね」
「あの、」
「頬をよく見せて」
自然と頬に手を寄せて、検品するように見つめられた。その目に弱い。匂いもかなり好きだ。
思わずつぶやいたら、俯いていた女性がすっとこちらを振り返った。ひどく、冷たい表情のその人は、こちらに向かってゆっくりと歩いてくる。
「――あかねさん?」
横で、ぼうぜんとした声が聴こえていた。
振り向いて、それが誰なのか問いを立てる暇はなさそうだ。
とにかく、状況がよくないことだけは分かる。恐ろしい体験をする時、人は不思議と体が動かなくなるものだ。
「どろぼうねこ」
聞いたことのない声が鳴った。
狼狽えているうちにすぐ目の前に詰め寄ってきた人の手が、大きく振りかぶられる。
「佐藤さんっ!」
橘専務がこんなに大きな声を出しているところを見ることになるとは、夢にも思わない。
同じく、聞いたこともないような音が耳にぶつかって、衝撃で目が回る。叩かれたのか、殴られたのか。理解できずに体がふらりと倒れかけて、誰かに後ろから抱えられた。
「佐藤さん!?」
「あ、」
何かを伝えなければならない気がしている。
遠くで誰かが騒ぎ立てていて、頭が回らない。どうしてこんなことになったのか。
上から覗き込む人の顔は今日も綺麗すぎて、見ているだけでおこがましい気分になってしまう。
「た、ちばなせん……、わた、しはだいじょう、」
最後まで言い切れたのだろうか。
わからないまま、優しい匂いに包まれて瞼が下りてしまった。
「――では、佐藤さんは巻き込まれてこんな目に遭ったのか」
「はい。申し訳ありません」
「いや、わしにも責任はある……。まさかあそこの娘さんが、そんなことをするとは」
「……やはり私は家庭を持つことを諦めたほうが良いということかと思います」
「うーむ、交際すると関係がこじれるとは……」
誰かの声がする。
瞼を押し開いてみれば、大きな背中が私を守るようにベッドわきに立っているのが見えた。
ぼんやりと、何が起きたのかを考えながら、専務の先に会長が立っているのを確認する。
すこし前まで担当していたその人は、この状況に眉を顰めているようだ。
普段はいつも、盆栽を趣味にしている優しいおじいさんだ。担当が外れる時にも、随分と気を使ってくれた。
目が合ったら、詰めていた眉を和らげて、私を見つめてくれた。
「あ、」
「佐藤さん、気分はどうだ?」
「会長……?」
「わしが整えた縁談のせいでひどい目に合わせてしまったらしいね。申し訳ない。代わりにお詫びしよう」
「え、いえ。大丈夫です」
耳の聞こえが悪い。
ぼやけて聞こえる声に不思議に思いながら、勢い良く振り返った橘専務と目が合った。会長がここにきていると言うことは、やはりあの女性は専務の婚約者だったのだろう。
あの迫力は本当にびっくりした。心臓が止まりかけたし、泣きそうになってしまったくらいだ。
見たところ、専務には特に怪我もなさそうだ。
たぶん、私が一度殴られて気を失ってしまったために、病院に連れてきてくれたのだろう。
かすかに薬品の匂いがする。
「……さとうさん、体の調子は」
「問題ないです。もしかしたら鼓膜が破れてしまったかもしれませんが、それ以外は」
「それはだめじゃないか! ああ、申し訳が立たぬ。わしの見立てが悪かったのか。佐藤さんにはどう詫びればよいか」
「いえ……、そんなにお気になさらずとも」
「女性の体に傷をつけるなど言語道断だ。橘くん、そう思わないか」
「そうですね。……佐藤さん、他に痛むところは?」
「いえ、本当に大丈夫です」
「いいや。だめだよ。……佐藤さんはすぐ無理をするから、ちゃんと言ってほしい」
「そんな」
「頬はどうかな。まだ腫れているようだ」
「いえ、あの」
「せっかく白いのに、痕が残ったら大変だ」
「あの」
「急に動いちゃいけない」
「たちばな、せん……」
「手が冷たい。……怖い思いをさせてしまったよね。もう大丈夫だよ」
真剣な瞳がこちらを見つめている。ゆっくりと、暖めるように両手を握られた。心臓が止まりかけて、必死で呼吸をしている。
いつの間に、橘専務の敬語が取れてしまっている。動揺しているのだろうか。
「よかった。すこし暖かくなったね」
「あの、」
「頬をよく見せて」
自然と頬に手を寄せて、検品するように見つめられた。その目に弱い。匂いもかなり好きだ。
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