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二章 士官学校
マールのおつかい③
しおりを挟む「今年のチーズは量が少ないから、いつもより高いよ」
マールは突然かけられた声に驚いて顔を上げた。知らない声だ。
店の奥から、見た事のない少年がマールを見ていた。
マールより少し背が高い、同い年くらいの少年だ。
彼が着ている服装は、町の子供たちが着ている服とは違っていた。
生成りの麻の生地の貫頭衣のようなローブに腰紐を結び、その上から羊毛の防寒着をマントのように重ねている。
「だれ?」
初めて見る風体に、マールは困惑した表情を浮かべる。
(…何この怪しいやつ)
初対面の知らない相手に、マールは訝しげな目線を向けた。
あからさまな態度だったが、相手は気にすることもなくマールの前の硝子棚の前に近づいてきた。
「俺の親父がそのチーズを作ってる」
少年はマールの警戒した様子を無視して、真っ白なチーズを指差して言った。
「え?コンバルー山の羊飼いなのか」
「そうだ」
そう言いながら、少年は大きく頷いた。
彼の耳朶から垂れた、藍色の耳環が揺れるのをマールはつい眼で追ってしまう。
マールは知らなかったが、少年が着ているのは伝統的な羊飼いの装束だった。
牧畜で生計を立てている彼らは、普段は山で生活をしていて町に降りてくることは珍しい。
「……」
マールは、この少年相手に名乗るべきなのか迷って思わず口を噤んだ。
その様子に羊飼いの少年も、じっとマールを観察している。
気まずい沈黙が流れたところに、威勢の良い女将の声が2人の間に割って入った。
「待たせてごめんねぇ、マール」
慌てた様子で奥から出てきた女将は、小包を届けにきたマールに礼を言う。
娘と同じ蜂蜜色の髪をした、恰幅の良い女性である。
彼女はマールから小包を受け取りながら、うふふと笑いながら2人の少年に話しかけた。
「自己紹介を邪魔しちゃったかしら?」
包みを解く手を止めずに、彼女はそう言いながらマールに目配せをよこしてくる。
自己紹介を暗に促され、マールは苦笑いで口を開いた。
「ちょうど、しようと思っていたとこだったよ」
「あら、そうなの」
女将にしてみれば、息子をあしらうようなものだ。
マールの強がりを鼻で笑って、彼女は続きを促した。
「俺はマール。キヴェの公証案内人だよ。何かこの町で困ったことがあったら言って」
羊飼いの少年に向き直って、マールは少し照れた様子で名乗った。
「俺はヘレンの息子のアシャだ」
マールの差し出した手を握り返しながら、羊飼いの少年も名乗った。独特な名乗りだ。
「アシャって、女の子の名前じゃないの?」
名前を聞いて不思議そうな顔になったマールである。
男でアシャという名前は聞いたことがなかった。
「コンバルー山の羊飼いは、男女逆の名付けが伝統なんだ。ヘレンも親父の名前だからな」
言われ慣れているのか、アシャは涼しい顔でそう言った。
女将が笑いながら、そうそうと相槌を打つ。
「熊みたいにでっかい大男が、ヘレンって名乗るもんだから私もびっくりしちゃったわぁ」
ヘレンは美女と名高い女神の名前だ。
それを聞いたマールは、なんとも言えない表情で口を閉ざした。言わぬが花である。
「親父は最近、町では男性名のブレントって呼ばれることもあるよ。本人はヘレンって呼んで欲しいみたいだけど」
「ふーん。アシャは?」
アシャの男性名はアウグストゥスだ。古代語で「尊敬される者」という意味を持つ古い名前である。
「俺はアシャのままでいい」
アシャは首を振って、静かに答えた。
彼は一族の伝統に誇りを持っている。生まれた時から馴染みのあるアシャという響きを、彼は気に入っていた。
「そっか。俺もどっちでも良いと思う。アシャって響き、お前に合ってるし」
「それはどうも」
他意もなくさらりと言ったマールに、少しくすぐったそうにアシャは肩をすくめた。
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