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虚ろの鳥籠に夢は絶える
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家の中に気配がするとは思ったが、やはりそいつだった。ショロトルが留守であっても無遠慮に入り込んでくるのはいつものことだからと、もう咎める気も失せてしまった相手。
「何やってんだよ?」
「うるさい、黙ってろ」
身勝手で生意気な青年神は何がしたいのか、黒い大きな石の塊に目を落としたままで顔も上げない。帰宅した家主を振り向きもしないその横柄さにはつくづく呆れるが、言及するのも面倒なので好きにさせてやることにした。
つい最近まで少年神だった筈のその神は落ち着きのない言動もこのところ鳴りを潜めて、立ち居振る舞いも洗練されて、生意気にも優雅さのようなものを身につけつつある。いつの間にか背は伸びて、顔立ちにも精悍さらしきものが現れ始めていて、色香とでも呼ぶべきものを仕草の端々に漂わせている。けれどふとした時の表情はまだ幼くて、貪るように知識を欲しがるのも変わらない。
相変わらず身勝手で傲慢で、気紛れで、そして淫らで。今はどこで寝泊まりしているのかは知らないが、気が向けばふらりとショロトルの家に来て、満足するまでキモチイイことをして。そして気が済めば、またどこかへ姿を消して。
先だっては薬草だの毒草だの香草だのを絞ったりすり潰したり混ぜ合わせたりすることに夢中になっていたのに、好奇心ばかり強い青年神はもうそれに飽きたらしい。今は艶やかに黒いイツトリの大振りの塊を熱心に磨いている手は男らしい逞しさを備え始めているのに、相変わらずほっそりとしてもいた。
すんなりとした背中を盃を傾けながらぼんやりと眺めていたショロトルは、じんわりと欲が湧き起こるのを感じた。俯き加減のその首筋に、色気らしいものを嗅ぎ取った。
だから盃を置いて手を伸ばし、その体を引き寄せようとする。だが生意気で身勝手な青年神は不機嫌な顔をして、素っ気なくショロトルの腕を払い落とした。
「何だよ、邪魔するなよ」
「押し掛けて来ておいて、その言い草かよ?」
咎めて強引に組み敷こうとしたが、青年神はどこまでも強情で傲慢だった。その細腕からは思いがけないほどの力でショロトルを振り払い、素っ気なく言い捨てる。
「後で相手してやるから、離れろ」
取りつく島もない態度は殴り倒して踏み躙ってやっても良いほどの高慢で生意気なもので、今一度身の程を分からせてやるべきかとショロトルは束の間考えた。だがもしそうすれば臍を曲げてしばらく寄り付かなくなるのも分かりきっているので、仕方なく譲歩してやることを決める。
「後で覚えてろよ。泣いても許してやらねえからな」
「やってみろよ、できるもんなら」
ふんと鼻で笑った青年神はもうショロトルのことなど忘れたような顔をして、また石を磨くことに没頭し始める。その嫌味なほど整った横顔を眺めながら、ショロトルはぼんやりと別の神のことを考えた。
ショロトルとは決して相容れない、あのいけ好かない兄弟神。善良ぶった風の神。その目がいつも青年神を追いかけていることに、青年神だけが気付いていない。
苦しげな、ほとんど狂気を孕んでさえいる目付きで、食い入るように見つめて。物言いたげに、けれど言葉もない様子で、青年神に注がれている視線。脇から見ているだけのショロトルが薄気味悪く感じるほどのその眼差しは、青年神がまるで気付かずにいるのが不思議なほどのものだった。
それはもはや、庇護欲だとか愛おしさだとかそんな優しい感情ではなくなっている。執着或いは妄執とでも呼ぶべき背筋の寒くなるような仄暗い熱情しか、そこには見出せない。あの偽善的な兄弟神は、決してその暗鬱な激情をそうは名付けないだろうけれど。
警告くらいはしてやるべきか、そんな義理もないか。そう考えあぐねながら、無駄に整った作りの横顔を眺める。窓から漏れ入る弱い明かりに石を翳して矯めつ眇めつしていたその青年神は、やがて満足したのかそれを脇に置いた。そして晴れ晴れとした顔でこちらに擦り寄ってきて、甘えた声を出す。
「なあ、しようよ」
「ほんっと、勝手な奴だな」
あまりに身勝手な言い草には苛立つ気も失せて、苦笑しか出てこない。そんなことには構わず、気儘で淫らな青年神は甘ったるい声で体を擦り付けてきた。
「お前だって、したいだろ? 舐めてやるから、早くしようよ」
甘えた声でねだりながら、そのほっそりした手は早くもショロトルの腰衣を解こうとしている。不躾で自分本位なその手をはたき落としてやっても良かったが、それほど悪くない気分だったので好きにさせてやることにした。
咎められないことで気を良くした青年神は、さっさとショロトルの腰衣から中心を引き出してそこに顔を寄せる。熱く柔らかな口腔の感触に目を細めながら、教えてやる義理もないなと結論付けた。
あの独善的な兄弟神がどんな仄暗い妄念をこの青年神に抱いていようと、何か実際の行動を起こすような勇気などないだろう。生意気に力をつけているこの青年神はもはや力尽くで組み伏せられるほど弱くもないのだから、自分で自分を守るはずだ。万が一何かが起こったとしても、この傲岸で不遜な青年神はそんなことで傷つくような玉ではない。
だからショロトルがわざわざ警告してやる理由は全くないし、そのせいで生意気な青年神に不快な言葉を返される愚を犯す必要もないのだ。そう結論づけて、ショロトルは青年神の装束を脱がせることにした。
目を開けた筈なのに、何も見えない。そのことに驚いて、一気に眠気が覚める。
目元を触ろうとして、手も自由にならないことに気付いた。狼狽えそうになる心を鎮めて、何も見えないままに気配を探る。
どうやら、目隠しをされているようだった。腕も足も縛られているのか、動かすことさえできない。
誰の仕業だ、何のつもりだ。恐れや怒りが思考の邪魔をしないように努めて心を落ち着けながら、覚えている限り最後の記憶を辿り始めた。
そうだ、薬草を探しに森へ行ったのだ。最近はあまり立ち寄らなくなっているあの森で、獣達はいつも歓迎してくれる。もう歩き回るのも覚束無くなった老狐も、巣穴を覗きに行けば嬉しげに喉を鳴らして差し出す掌を舐めてくれる。老狐の尻尾にじゃれついて遊んでいた子狐も、その手を嗅いで嬉しそうに鳴いて軽く指を齧った。
ひとしきり獣達と遊んでから、獣達には巣に戻るように言って、自分だけで薬草を探し始めた。牙を持つ獣には毒になる草も多いから、それを獣達が間違って齧ってしまうといけないから、いつもそうしているように。獣達も心得ているから、残念そうに鳴きながらも大人しく帰っていった。
薬草を探しているうちに森の奥へ奥へと入り込んでしまっても、何も怖くなかった。今は離れているとはいえ慣れ親しんだ森に居るのは良い気分で、安心できた。獣達は自分を襲ったりしないと分かっているし、他の神々に不意を突かれたとしても、今は自分の方が強いのだから。
だから安心してどんどん奥へ奥へと入って行って、たくさんの種類の薬草を集めて。また生えてくるように若い草は残しながら、必要な分だけを少しずつ摘み集めた。
そんな時に、誰かに見られているような気がして、振り返ってみた。けれどそこには誰もいなくて、緑色のケツァール鳥が驚いて飛び立っただけだった。
「誰か居るのか?」
一応声を掛けてみても、返事はなかった。だから、鳥の気配を読み間違えたんだろうかと考えて、また手元に目を落として。けれど首筋がちりっとした気がして、また振り向こうとした時。
頭をぶつけた時のように衝撃が走って、何も分からなくなった。
どうやら、忍び寄ってきた誰かに頭を殴られて、気を失って、このどこだか分からない場所へ連れてこられたらしい。そう思ってみると、頭の傷が思い出したように痛みを主張し始めた。
少し体を動かしてみると、縛られて横向きに転がされている体の下には筵が敷いてあるようだった。そんな見当違いの気遣いをするくらいなら最初から襲うなと、毒づきたくなる。
何者なのかも分からないそいつは、何をしたいんだろう。自分に何か恨みがあるなら、勿体ぶったことなんてしないで一思いに殺せば良い。なのにどうして、どこかに運び込んで縛って目隠しをするなんて、中途半端なことをしたのだろう。
襲撃者の意図が分からないのは、不気味で不愉快だった。油断していてこんな無様な羽目に陥っている、自分自身のことも。だが思考の邪魔になるその感情は一旦脇に置いて、考えを巡らせる。どうやって戒めを外そうか、どうやって逃げようかと。
大声を出して近くに居るかも知れない誰かに助けを求めるという案は、最初に捨てた。誰かが声を聞いて来てくれる保証はないし、第一こんなみっともない姿なんて誰にも見せたくない。自分の力で、なんとかしなくてはならないことだ。
縛られている腕を少し動かし、目隠しをされている顔を筵に擦り付けてみる。だが、どちらも緩みさえしなかった。自分だけでなんとかするのは無理かもしれない、と冷静に考える。
自分をこんな目に合わせた奴は、遅かれ早かれ戻ってくるかもしれない。そいつを口先で騙して外させるのが一番良いなと結論づけた時、ふとそのことに気付いた。
いつからだろう、誰かが傍にいる。何も言わずに、この無様な姿を嘲る言葉さえ吐かずに、じっと自分を見つめている。何者なのかも分からないその気配は、声も出さずに自分を見下ろしている。
その得体の知れない気配に、不愉快さが一気に膨れ上がった。すっかり身についた甘えて宥める声音で騙くらかして縄を解かせようと考えていたのに、思わず苛立った声を上げてしまう。
「何だよ」
しまったと臍を噬む余裕さえなかったのは、自分で思っていたよりもこの薄気味悪い状況に屈辱を覚えていたのかも知れない。口を開いてしまうと、怒りが冷静な考えを吹き飛ばしてしまう。
「外せよ!」
怒鳴りつけても、その気配は揺るがなかった。やはり何も言わずに、声も出さずに、その気配はじっと自分を見つめている。怒鳴って少しだけ冷えた頭に、またかっと血が上る。
もう一度怒鳴りつけてやろうと息を吸い込んだ時、生温かい手が顔を触った。男神のものらしい厚みのある大きな掌に、頬を包み込まれる。顔を撫で回すように触れながら、そいつは初めて口を開いた。
「駄目だよ」
腹の立つほど落ち着き払ったその声を、いつかどこかで聞いたような気がした。その声の主を、知っているような気がした。ずっとずっと昔から、その声を知っているように思えた。
けれど、その声の持ち主を思い出せなくて。面影さえ浮かばなくて、誰なのかは分からないままで。誰のものとも知れない手にべたべたと触られるのは、とても不気味な感じがして不快だった。
いかにも優しいような手つきで、顔や首を撫で回している手。怖気が走って、気味の悪いその手を振り払う。その手から顔を背け、無様に転がされている姿でのできる限りの高慢さで、言い捨てる。
「馴れ馴れしく触るな」
吐き捨てながら、怒りが波のように引き始めているのを朧げに感じていた。それと入れ替わるように、恐ろしいような思いがじわじわと胸を満たし始めていることにも。
せり上がる恐怖を、必死で押し殺す。こんなことくらいで狼狽えてはいけない。冷静さを失ってはいけない。怖がったり、恐れに自分を支配させたりしてはいけない。
こんな得体の知れない相手などに、自分は打ち負かされたりしない。この相手だって、この自分がどんなに強いかを知っているから、忍び寄って背後から殴るような卑怯で卑劣な真似をしたのだ。本当なら、自分はこんな相手など歯牙にも掛けないほど強いのだ。
自分は誰にも、何にも、負けたりしない。もう二度と、誰にも、何も、奪わせたりしない。こんな下劣な相手が、自分から奪い取れるものなんて何もない。
大好きなあいつを取り戻すために、あの美しい獣を冥府から呼び戻すために。必ず戻ってきてくれる筈のあいつを、今度は誰にも害させたりせずに守り抜くために。自分は、とても強くなったのだから。
だから怖がる必要も、縮こまる必要もないのだ。そう必死で自分に言い聞かせても、芽生えてしまった恐怖を拭い取れない。何がしたいのかも分からないこの不気味な相手が、恐ろしかった。
卑劣な不意打ちをされたせいであっても、今の自分が無力で何もできない状態なのは動かせない事実だ。常の自分ならば決して負けない程度の相手にも、今は容易く打ち負かされてしまうかも知れない。この相手が自分に何をしようとしても、手も足も出ない。
恐ろしさが、萎縮が、伝わってしまったんだろうか。また触れてきた手が、首筋を撫でる。その悍ましい感触に、びくっと体が竦んでしまう。それを馬鹿にして笑う声さえも、落ちてこない。
「怖くないよ。大丈夫だから」
怖気の走るような薄気味悪い声で、その神は囁いた。
怯える青年神に優しく言い聞かせてやりながら、つい微笑んでしまう。ケツァルコアトルは、幸福で満ち足りた思いで青年神を見つめた。
今は目隠しをして手足を縛ってしまっているから、この青年神が怖がるのも無理はない。けれど仕方がないのだ。こうでもしなければ、きっと彼はすぐさま立ち上がってこの小さな洞窟から出て行ってしまうから。せっかく他の神々から引き離すためにここへ連れてきたのに、やっとの思いで彼を保護したのに、今すぐには彼はそれを理解しないだろうから。
青年神がきちんと理解してくれたら、ケツァルコアトルが根気強く言い含めてやる言葉を受け入れて納得してくれたら、すぐにでも縄も目隠しも解いて自由にさせてやれる。もちろん、二度と他の神々のところへは戻らないと、邪悪なショロトルに会いに行ったりも絶対にしないと、約束させなくてはならないが。
固く誓ってくれたならすぐさまその手足を自由にしてやり、洞窟の中やその周りならば好きに歩き回れるようにしてやろう。他の神々はこんな何もない場所には近付かないから、青年神を見つけて誘惑する何者も現れたりはしない。ケツァルコアトルしか知らないこの小さく美しい世界で、この青年神はもう一度伸びやかに笑ってくれる筈だ。
ケツァルコアトルはずっと、苦しい思いで青年神を見守ってきた。邪悪な兄弟神に唆されて穢らわしい淫らな遊戯に溺れていくのを、何もできずに見つめていた。重ねる悪徳とは裏腹なほどの優美で優雅な神に成長していく姿を、それが他の神々の目を一層惹き付け始めているのを、声も出せずに見ていることしかできなかった。
何故青年神自身は気付きもしないのかと、気にも留めないのかと、不思議なほどだった。他の神々が下劣な欲望をありありと宿した視線で、その肢体を舐め回しているのに。卑猥な夢想をしているのを隠しもしない目付きが、青年神のほっそりした腰やまだ薄さを残している胸元を、無作法に眺め渡しているのに。青年神自身は全くの無頓着で自由奔放に歩き回り、誰が見ていようと構いもせずに、ショロトルがその腰をいやらしい手付きで抱き寄せるのを許し、あるいは自分からショロトルに快楽をねだる。
このところの青年神はショロトルと出歩くよりは自分だけで歩き回るのを好むようになってきたようで、傍目も構わず公然と「いちゃつく」姿を目にする機会は減ってきている。だが、だからと言って彼らの淫らな遊戯がなされなくなったのではないことも、分かりきっている。
気軽な足取りでショロトルの家の方角へ向かう青年神を目にするたびに、ケツァルコアトルは苦悩と後悔に胸を締め付けられた。駆け寄ってその腕を掴んで引き留めたい衝動に駆られながら、ただ見ていることしかできなかった。
それでも、あの聡明な青年神ならば必ずや、いつかはその淫猥な遊びに飽きるだろうと信じていた。いつか行いを正してくれるだろうと、また正しい道に戻ってくれるだろうと、期待していた。夢見るように、その未来を祈っていた。
だが、その切ない望みが青年神自身の手で、粉々に打ち砕かれて。もう、ケツァルコアトルは耐え切れなくなったのだ。
その時も、青年神は気儘な様子で歩き回っていた。山の方で探して拾ってきたらしい宝石をいくつも入れた籠を抱え、どこかへ帰っていく途中らしかった。声を掛けることもできずに見守るケツァルコアトルには気付きもせずに、目もくれずに。
苦しい思いで、目を離すこともできずに、ケツァルコアトルが見つめていた時だった。青年神は、ふと何かに気を引かれたようにあらぬ方向へ視線を向けた。その視線を追い掛けて、ケツァルコアトルははっとした。
いつからかそこに居た神は、あの下劣で卑猥な視線を隠しもせずに青年神に向けていた。にやにやと下卑た笑みを浮かべ、品定めするようにその美しい姿を眺め回していた。
吐き気を覚えるほど悍ましいその眼差しに、怒りと不快を覚えながら。ケツァルコアトルは、無意識に青年神に目を戻していた。青年神が不快を露わにしてくれることを、その唾棄すべき神に軽蔑の視線を返してくれることを、ケツァルコアトルは期待した。なのに、青年神はそうしなかった。
挑発するように、誘惑するように。青年神はただ、淫らに笑った。淫猥な視線を真っ直ぐに受け止め、当たり前のようにそれを受け入れた。
殴られるような激しい衝撃を感じながら、ケツァルコアトルは朧げに理解した。あのきらきらと輝いていた少年神が、もう取り戻せないほど遠ざかって行こうとしていることを。誰かがその輝きを呼び戻さなければ、その美しい光は汚泥に埋もれて消えていってしまうことを。その最後の弱々しい瞬きが救いを求め、消え入りそうな声で自分を呼んでいるのが聞こえた。
もう興味を失ったように前を向いて歩き始める青年神に、何かを許されたと勘違いをしたらしい下劣な神が追い付いて話し掛けている。その忌まわしい声も、もう耳に入らなかった。ただ絶望しながら、ケツァルコアトルは決意を固めていた。
もう、見ていられなかった。穢れに身を落としていく、美しい青年神の姿を。あの遠い遠い時の清らかで無垢な姿を、なんとしてでも取り戻させなければと決意した。
青年神もきっと、心の奥底ではそれを望んでいるのだ。彼自身知らないままに、ケツァルコアトルが救い出してくれるのを待ち侘びているのだ。彼があの夢の家で、いつもケツァルコアトルを待ってくれているのと全く同じように。
眠りのたびにケツァルコアトルを訪れる夢の中では、青年神は嬉しそうに微笑んでくれるのだから。無垢で穢れを知らない笑顔でケツァルコアトルを待ち侘び、独りにされたことを無邪気に詰り、素直に甘えてくれるのだから。ケツァルコアトルが熱望してやまないその笑顔を、惜しみなく輝かせるのだから。あの遠く遥かなひと時に、オセロトルを傍に従えて笑ったように。
その夢はもう、歪んだりは決してしない。青年神はいつでも、いつまでも、清らかで穢れない姿で微笑んでいる。淫らな遊戯をケツァルコアトルに求めたりは、彼はもう絶対にしない。その美しい夢が、ケツァルコアトルの心を捉え、夢中にさせる。
その心地良い夢が実現するのが、ケツァルコアトルはもはや待ちきれなかった。その夢がこれ以上遠ざかるのは、耐えられなかった。だからこうして青年神を匿い、全ての穢れから遠ざけて、その魂を善意で洗い清めてやることにしたのだ。
ここに居てくれれば、守ってやれる。全ての痛みから、穢れから、苦難から、絶望から。きらきらと美しい光を蝕もうとするあらゆるものから、この手で守り通してやれる。今にも消えてしまいそうに弱っていた光を、もう一度取り戻してやれる。この自分の手は、必ず彼を救うことができる。
そのことが幸福で、嬉しくて、ケツァルコアトルは我知らずまた微笑んでいた。表情を強張らせている青年神を宥め諭すために、また優しく頬に触れる。
「もう、怖がらなくていいんだよ」
穏やかな声で、そう言い聞かせる。けれど青年神はますます表情を硬くして、物も言わずにまた手から顔を背けようとした。その態度を怪訝に思いながら、顔に零れかかっていた豊かな髪を優しく払ってやる。
彼が恐れなくてはならない何者も、ここへは踏み込んでこない。ここを知っているのはケツァルコアトルだけなのだから。
だから心配は要らない、心置きなく安らいでくれていい。夢の中でするように伸びやかに笑って、何不自由なく過ごしてくれればいい。そう言い聞かせてやろうとしたが、か細い声に遮られた。
「何、なんだよ。何がしたいんだよ。僕を、どうする気だよ」
その声は僅かに震えていて、青年神がまだ怖がっていることを察する。安心させてやるために、ケツァルコアトルはその髪を撫でてやりながらまた口を開いた。
「酷いことは何もしないよ。私は、君を助けたいだけだ」
他の神々から、邪悪な兄弟神から。痛みから、苦しみから、穢れから。彼を蝕もうとする全てから助け出して、遠ざけて、守り抜くためにここに連れてきた。その自分が、彼を傷付けたりなどする筈もないのだ。そのことをよく分かってもらうため、穏やかに言い含める。
「ここに居てさえくれれば、私が守る。何も不自由はさせない」
「っ……」
青年神が小さく息を飲むのが聞こえた。まだ怖がっているのだろうか。だがすぐに、賢い彼は理解するはずだ。ケツァルコアトルには一切、害意などないことを。ケツァルコアトルの庇護下にいれば、もう二度と苦しまなくて済むことを。
「これからは私が、ずっと傍にいる。もう何も心配しなくていい」
優しく囁いて、怯えて強張る体を抱き起こして抱き締めてやろうとする。だが、身を捩って振り解かれた。硬い表情の青年神が、激しく叫び散らす。
「お前なんか要らない! 触るな! 外せよ、ここから出せ!」
何を言われたのか、ケツァルコアトルには一瞬理解できなかった。微かに震える声が吐き捨てる、あまりにもはっきりしたその拒絶を。
けれど、じわじわと理解が追い付いてくる。湧き上がったのは、怒りよりも疑問に近い感情だった。
何故、彼はそんなことを言うのだ。ケツァルコアトルだけを見つめて、あんなにもきらきらと笑ってくれたのに。無邪気な親愛の目で、一心に見つめてくれたのに。何故ずっと傍に居てくれないのだと甘えた声で詰り、幸福そうに寄り添ってくれたのに。
それが虚ろな夢でしかないことさえ、ケツァルコアトルは既に忘れていた。夢想は真実を侵食し、事実を食い荒らし、虚実は混沌と入り混じって、もう何が真で何が夢なのかさえ思い出せなかった。ただ、青年神に思い出させなくてはならないという唯一の信念だけが、ケツァルコアトルを支配した。
そうだ、思い出させなくては。穢れに身を落として正しいことを思い出せなくなっているならば、優しく諭し導いてやらなくては。彼を守り救ってやれるのはケツァルコアトルだけなのだということを、彼自身もケツァルコアトルの庇護を望んでいるのだということを、思い出させてやらなくては。
どうすれば思い出してくれるだろうか。体を強張らせている青年神を見下ろしながら考えて、記憶を反芻して。そして、「それ」しかないのかもしれないと結論づけた。
悍ましいそれをもう一度しなくてはならないというのは、とても恐ろしくて苦しい考えだった。だが、きっとそれしか方法はないのだ。青年神にあるべき姿を思い出させ、彼が素直にケツァルコアトルの庇護を受け入れてくれるようにするためには、きっとそれが必要なのだ。
だから青年神の下肢に手を伸ばし、腰衣を解き始めた。びくっと体を震わせた青年神が、虚勢を張っていると分かる声で咎めようとする。
「何、する気だよ」
強がりながらも、恐れを隠しきれていない声。腰衣を外す手は休めないまま、優しく言い含めた。
「怖くないから。少しだけ、我慢して」
「ふざけるな、やめろよ、離れろ……っ」
縛られた手足のままに青年神がもがくので、極力優しく押さえ付けながら手を動かす。ぎしぎしと縄が軋んでいるのが気になって、また言葉を掛けた。
「擦れて痛いだろう。動かないほうがいい」
「うるさい、触るな、やめろと言ってるだろ、」
嫌がる青年神に無理を強いるのはケツァルコアトルとしても胸が痛むことだが、仕方ないのだ。彼のために、こうする必要があるのだ。だから腰衣を取り払い、現れ出た力無い部分を握りこんだ。
「ひ、っ……!」
「怖くないよ。大丈夫」
短い悲鳴を漏らす青年神に優しく語りかけながら、握りこんだ手を動かして刺激する。くぅっと喉を鳴らした青年神が、はっきりと怯えた顔をした。
「い、やだ、やめろ……!」
「君が大人しくしてくれれば、すぐに済むから」
言い含めてやりながらも、手は休めない。早くも熱を持ち始めたその場所はすでに形を変えつつあり、とろりと流れた蜜がケツァルコアトルの手を汚した。
嫌がって逃れようとする青年神を宥め諭しながら、手を動かす。青年神の中心はとうに張り詰めてとろとろと透明な蜜を流し、ケツァルコアトルが解放してやるのを待ち侘びている。洞窟に充満する淫らな香りに、ケツァルコアトルも眩暈を覚えた。
「やだ、やめて、おねが……っ」
泣き出しそうな声で懇願する青年神は、力の抜けている手足で必死に逃れようとするのをまだやめない。優しく押さえ付けながら、言い含めた。
「君のためなんだよ」
ケツァルコアトルとて、本当はこんなことはしたくない。この青年神が嫌がることなどしたくない。けれど仕方がないのだ。彼に理解してもらうためには、これが必要なのだ。
きっとこれが終われば、青年神も理解してくれる。ケツァルコアトルには善意しかないことが、ケツァルコアトルの庇護下に入れば何の憂いもなく過ごせるということが。これさえ終わらせれば、きっと彼は淫らな遊戯を忘れて、清らかで無垢な魂を取り戻してくれる。
魔酒に酔わされた彼に、淫らな熱を吐き出させてやった時と同じように。きっとこれで、彼は邪悪な熱から覚めて正しい道へ戻ってくれるのだ。
その期待に胸を高鳴らせながら、優しく青年神の熱を追い立てる。喉の奥で悲鳴を漏らした青年神が、弱々しく首を横に振った。
「ゃだ、ゆるして、もうやめて……!」
「あと少しだから」
諭しながらも手は休めない。絶頂の近づくそれを、いっそう激しく追い立てる。引き攣った声を漏らした青年神が、苦しげで熱い喘ぎを漏らして。
たすけて。声にならない声が、呟いた。
驚きに、思わず手が止まる。唖然として見下ろす先で、形の良い唇が震えながら何かを呟いた。
その唇が、邪悪な兄弟神を呼んだ気がした。助けを求めて、祈るように。
はっきりとは読み取れなかったそれに、それでも激しい怒りが湧き上がるのを感じた。怒りのあまり、目の前が白く明滅する。
そんなことではいけないのだ。彼が望んで良いのは、ケツァルコアトルだけなのだから。彼を庇護し導いてやれるのはケツァルコアトルであって、あんな邪悪な兄弟神ではないのだから。
諭してやることさえ、もう忘れていた。罰を与えなくてはならないと、胸の中で声が囁く。
そうだ、罰してやらなくては。それはいけないことなのだと、教えてやらなくては。二度としないように、二度とあのショロトルのことなど思い出しもしないように、よく教え込まなくては。
だから、その細い首に手を掛けた。それにも気付かない様子で、青年神は震えながら誰かの名前を呼んでいる。縋るように、呟いている。
「二度と、その名前を呼ぶんじゃない」
教え込みながら、手に力を込めた。青年神の折れそうに細い首を絞める。びくっと体を揺らした青年神は、ようやく我に返ったようにもがき出した。
細い体に馬乗りになり、尚もその首を絞める。そうしながら、よく言い含めた。
「君が呼んでいいのは、君が縋っていいのは、私だけだ。君を守り導けるのは、私だけだ。あいつじゃない。あいつのことなんて、二度と呼んではいけない」
努めて穏やかに諭してやる声は、聞こえているだろうか。首を絞める手から死に物狂いで逃れようとする青年神は、答えない。ケツァルコアトルの手の中で、喉仏がびくびくと苦しげに蠢いている。
「ぁ、……が、っ」
「あいつのことは早く忘れるんだ。あいつは君に害しかもたらさない。あいつのことなんて覚えていても、何ひとつ良いことはない」
優しく言い含める声が、やっと届いたのかもしれない。苦しげに歪む青年神の表情が、僅かに揺らいだ。
なのに。その首は、微かに横に振られた。
そのあまりの強情さに、聞き分けのなさに、怒りで目が眩む。もう言い聞かせてやる言葉さえ思いつかずに、ケツァルコアトルはその細い首を絞めた。
ふっと、青年神の手足から力が抜けた。それで、ケツァルコアトルも我に返った。
「ぁ……!」
慌てて手を離すと、ほっそりした首筋にはくっきりと手の形の痣が浮き始めている。それがいつか見た忌まわしい光景と重なって、あの虐げられて怯え切っていた少年神の姿を思い出させて、ぞっとした。
私は、何ということを。
してしまったことの恐ろしさと悍ましさに震えながら、青年神の呼吸を確認する。微かな吐息が感じられて、ほっと息を吐いた。
気を失っている青年神の手足の戒めも目隠しも解いてやったが、青年神はまだ目覚めない。どうやら目隠しの下で泣き出していたらしく、布も長い睫毛も濡れていた。
その顔を拭き清めてやり、縄に擦れた手足も薬草で労ってやらなくては。そのことをやっと思い出し、ケツァルコアトルは洞窟を走り出た。その背後で青年神が目を覚ましたことにも、気づかずに。
慌ただしく遠ざかっていく気配が、意識を呼び起こした。
ぼんやりと目を開けると、薄暗い岩壁が目に入る。少しして、目隠しが外されていることに気付いた。
同時に思い出す。誰とも分からない相手にされた事を。それになすがままだった自分を。思い出してしまうと、堰を切ったように涙が溢れた。色々な感情が胸を埋め尽くして、声も出ない。
恐怖と屈辱のためだけではない涙が、ぼろぼろと零れる。自分は強いと過信していた無知のあまりの大きさに、吐き気さえ覚えた。
もう誰にも、何も、奪わせないと決めたのに。そのために、死に物狂いで強くなったのに。実際にはこんなにも自分はまだまだ無力で、自分を守る力さえないのだ。
これでは、あいつに会えない。あいつが帰ってきても、あいつを取り戻すことができても、守ってやれない。またむざむざと、あいつを誰かに傷付けさせてしまう。
泣きながら、ぼんやりと思い出した。誰とも知れない相手にされた事を。それが何もかもが変わってしまったあの悪夢を思い出させて、怖くて堪らなくなってしまったこと。
怖くて、恐ろしくて。ほとんど無意識に、あいつを呼んでいた。あいつに縋ったりなんてしてはいけないのに、今度は自分があいつを守らなくてはいけないのに。
それの何が、あの誰とも分からない相手の気に障ったのだろう。その相手は声に怒りを露わにして、首を絞めてきた。そうしながら、気味の悪い声で言ってきた。
あいつを忘れろ、あいつのことはもう考えるな。首を絞めながらそんな命令をされたところで、頷くことなんてできない。あいつを忘れるくらいなら、あいつを取り戻せなくなるなら、殺された方がずっとずっとましだ。だから気を失うまで首を絞められても、頷いたりはしなかった。
まだ泣き止めないままによろよろと立ち上がり、嫌な匂いのこもっている洞窟をよろめきながら抜け出す。外に出て、まだ泣きながら空を見た。
涙に歪む視界に、弱々しい空の光が滲みた。そんなものよりもずっとずっと綺麗できらきらしていた、あの金色の目が恋しい。
けれど、まだ会えない。会うわけにはいかない。もっと強くなるまで、もっと力を得るまで。
だから、あそこへ上り詰めなくては。誰よりも高い場所まで、上らなくては。
そう心に刻んで、涙を乱暴に拭って。前を見据えて、歩き出した。
「何やってんだよ?」
「うるさい、黙ってろ」
身勝手で生意気な青年神は何がしたいのか、黒い大きな石の塊に目を落としたままで顔も上げない。帰宅した家主を振り向きもしないその横柄さにはつくづく呆れるが、言及するのも面倒なので好きにさせてやることにした。
つい最近まで少年神だった筈のその神は落ち着きのない言動もこのところ鳴りを潜めて、立ち居振る舞いも洗練されて、生意気にも優雅さのようなものを身につけつつある。いつの間にか背は伸びて、顔立ちにも精悍さらしきものが現れ始めていて、色香とでも呼ぶべきものを仕草の端々に漂わせている。けれどふとした時の表情はまだ幼くて、貪るように知識を欲しがるのも変わらない。
相変わらず身勝手で傲慢で、気紛れで、そして淫らで。今はどこで寝泊まりしているのかは知らないが、気が向けばふらりとショロトルの家に来て、満足するまでキモチイイことをして。そして気が済めば、またどこかへ姿を消して。
先だっては薬草だの毒草だの香草だのを絞ったりすり潰したり混ぜ合わせたりすることに夢中になっていたのに、好奇心ばかり強い青年神はもうそれに飽きたらしい。今は艶やかに黒いイツトリの大振りの塊を熱心に磨いている手は男らしい逞しさを備え始めているのに、相変わらずほっそりとしてもいた。
すんなりとした背中を盃を傾けながらぼんやりと眺めていたショロトルは、じんわりと欲が湧き起こるのを感じた。俯き加減のその首筋に、色気らしいものを嗅ぎ取った。
だから盃を置いて手を伸ばし、その体を引き寄せようとする。だが生意気で身勝手な青年神は不機嫌な顔をして、素っ気なくショロトルの腕を払い落とした。
「何だよ、邪魔するなよ」
「押し掛けて来ておいて、その言い草かよ?」
咎めて強引に組み敷こうとしたが、青年神はどこまでも強情で傲慢だった。その細腕からは思いがけないほどの力でショロトルを振り払い、素っ気なく言い捨てる。
「後で相手してやるから、離れろ」
取りつく島もない態度は殴り倒して踏み躙ってやっても良いほどの高慢で生意気なもので、今一度身の程を分からせてやるべきかとショロトルは束の間考えた。だがもしそうすれば臍を曲げてしばらく寄り付かなくなるのも分かりきっているので、仕方なく譲歩してやることを決める。
「後で覚えてろよ。泣いても許してやらねえからな」
「やってみろよ、できるもんなら」
ふんと鼻で笑った青年神はもうショロトルのことなど忘れたような顔をして、また石を磨くことに没頭し始める。その嫌味なほど整った横顔を眺めながら、ショロトルはぼんやりと別の神のことを考えた。
ショロトルとは決して相容れない、あのいけ好かない兄弟神。善良ぶった風の神。その目がいつも青年神を追いかけていることに、青年神だけが気付いていない。
苦しげな、ほとんど狂気を孕んでさえいる目付きで、食い入るように見つめて。物言いたげに、けれど言葉もない様子で、青年神に注がれている視線。脇から見ているだけのショロトルが薄気味悪く感じるほどのその眼差しは、青年神がまるで気付かずにいるのが不思議なほどのものだった。
それはもはや、庇護欲だとか愛おしさだとかそんな優しい感情ではなくなっている。執着或いは妄執とでも呼ぶべき背筋の寒くなるような仄暗い熱情しか、そこには見出せない。あの偽善的な兄弟神は、決してその暗鬱な激情をそうは名付けないだろうけれど。
警告くらいはしてやるべきか、そんな義理もないか。そう考えあぐねながら、無駄に整った作りの横顔を眺める。窓から漏れ入る弱い明かりに石を翳して矯めつ眇めつしていたその青年神は、やがて満足したのかそれを脇に置いた。そして晴れ晴れとした顔でこちらに擦り寄ってきて、甘えた声を出す。
「なあ、しようよ」
「ほんっと、勝手な奴だな」
あまりに身勝手な言い草には苛立つ気も失せて、苦笑しか出てこない。そんなことには構わず、気儘で淫らな青年神は甘ったるい声で体を擦り付けてきた。
「お前だって、したいだろ? 舐めてやるから、早くしようよ」
甘えた声でねだりながら、そのほっそりした手は早くもショロトルの腰衣を解こうとしている。不躾で自分本位なその手をはたき落としてやっても良かったが、それほど悪くない気分だったので好きにさせてやることにした。
咎められないことで気を良くした青年神は、さっさとショロトルの腰衣から中心を引き出してそこに顔を寄せる。熱く柔らかな口腔の感触に目を細めながら、教えてやる義理もないなと結論付けた。
あの独善的な兄弟神がどんな仄暗い妄念をこの青年神に抱いていようと、何か実際の行動を起こすような勇気などないだろう。生意気に力をつけているこの青年神はもはや力尽くで組み伏せられるほど弱くもないのだから、自分で自分を守るはずだ。万が一何かが起こったとしても、この傲岸で不遜な青年神はそんなことで傷つくような玉ではない。
だからショロトルがわざわざ警告してやる理由は全くないし、そのせいで生意気な青年神に不快な言葉を返される愚を犯す必要もないのだ。そう結論づけて、ショロトルは青年神の装束を脱がせることにした。
目を開けた筈なのに、何も見えない。そのことに驚いて、一気に眠気が覚める。
目元を触ろうとして、手も自由にならないことに気付いた。狼狽えそうになる心を鎮めて、何も見えないままに気配を探る。
どうやら、目隠しをされているようだった。腕も足も縛られているのか、動かすことさえできない。
誰の仕業だ、何のつもりだ。恐れや怒りが思考の邪魔をしないように努めて心を落ち着けながら、覚えている限り最後の記憶を辿り始めた。
そうだ、薬草を探しに森へ行ったのだ。最近はあまり立ち寄らなくなっているあの森で、獣達はいつも歓迎してくれる。もう歩き回るのも覚束無くなった老狐も、巣穴を覗きに行けば嬉しげに喉を鳴らして差し出す掌を舐めてくれる。老狐の尻尾にじゃれついて遊んでいた子狐も、その手を嗅いで嬉しそうに鳴いて軽く指を齧った。
ひとしきり獣達と遊んでから、獣達には巣に戻るように言って、自分だけで薬草を探し始めた。牙を持つ獣には毒になる草も多いから、それを獣達が間違って齧ってしまうといけないから、いつもそうしているように。獣達も心得ているから、残念そうに鳴きながらも大人しく帰っていった。
薬草を探しているうちに森の奥へ奥へと入り込んでしまっても、何も怖くなかった。今は離れているとはいえ慣れ親しんだ森に居るのは良い気分で、安心できた。獣達は自分を襲ったりしないと分かっているし、他の神々に不意を突かれたとしても、今は自分の方が強いのだから。
だから安心してどんどん奥へ奥へと入って行って、たくさんの種類の薬草を集めて。また生えてくるように若い草は残しながら、必要な分だけを少しずつ摘み集めた。
そんな時に、誰かに見られているような気がして、振り返ってみた。けれどそこには誰もいなくて、緑色のケツァール鳥が驚いて飛び立っただけだった。
「誰か居るのか?」
一応声を掛けてみても、返事はなかった。だから、鳥の気配を読み間違えたんだろうかと考えて、また手元に目を落として。けれど首筋がちりっとした気がして、また振り向こうとした時。
頭をぶつけた時のように衝撃が走って、何も分からなくなった。
どうやら、忍び寄ってきた誰かに頭を殴られて、気を失って、このどこだか分からない場所へ連れてこられたらしい。そう思ってみると、頭の傷が思い出したように痛みを主張し始めた。
少し体を動かしてみると、縛られて横向きに転がされている体の下には筵が敷いてあるようだった。そんな見当違いの気遣いをするくらいなら最初から襲うなと、毒づきたくなる。
何者なのかも分からないそいつは、何をしたいんだろう。自分に何か恨みがあるなら、勿体ぶったことなんてしないで一思いに殺せば良い。なのにどうして、どこかに運び込んで縛って目隠しをするなんて、中途半端なことをしたのだろう。
襲撃者の意図が分からないのは、不気味で不愉快だった。油断していてこんな無様な羽目に陥っている、自分自身のことも。だが思考の邪魔になるその感情は一旦脇に置いて、考えを巡らせる。どうやって戒めを外そうか、どうやって逃げようかと。
大声を出して近くに居るかも知れない誰かに助けを求めるという案は、最初に捨てた。誰かが声を聞いて来てくれる保証はないし、第一こんなみっともない姿なんて誰にも見せたくない。自分の力で、なんとかしなくてはならないことだ。
縛られている腕を少し動かし、目隠しをされている顔を筵に擦り付けてみる。だが、どちらも緩みさえしなかった。自分だけでなんとかするのは無理かもしれない、と冷静に考える。
自分をこんな目に合わせた奴は、遅かれ早かれ戻ってくるかもしれない。そいつを口先で騙して外させるのが一番良いなと結論づけた時、ふとそのことに気付いた。
いつからだろう、誰かが傍にいる。何も言わずに、この無様な姿を嘲る言葉さえ吐かずに、じっと自分を見つめている。何者なのかも分からないその気配は、声も出さずに自分を見下ろしている。
その得体の知れない気配に、不愉快さが一気に膨れ上がった。すっかり身についた甘えて宥める声音で騙くらかして縄を解かせようと考えていたのに、思わず苛立った声を上げてしまう。
「何だよ」
しまったと臍を噬む余裕さえなかったのは、自分で思っていたよりもこの薄気味悪い状況に屈辱を覚えていたのかも知れない。口を開いてしまうと、怒りが冷静な考えを吹き飛ばしてしまう。
「外せよ!」
怒鳴りつけても、その気配は揺るがなかった。やはり何も言わずに、声も出さずに、その気配はじっと自分を見つめている。怒鳴って少しだけ冷えた頭に、またかっと血が上る。
もう一度怒鳴りつけてやろうと息を吸い込んだ時、生温かい手が顔を触った。男神のものらしい厚みのある大きな掌に、頬を包み込まれる。顔を撫で回すように触れながら、そいつは初めて口を開いた。
「駄目だよ」
腹の立つほど落ち着き払ったその声を、いつかどこかで聞いたような気がした。その声の主を、知っているような気がした。ずっとずっと昔から、その声を知っているように思えた。
けれど、その声の持ち主を思い出せなくて。面影さえ浮かばなくて、誰なのかは分からないままで。誰のものとも知れない手にべたべたと触られるのは、とても不気味な感じがして不快だった。
いかにも優しいような手つきで、顔や首を撫で回している手。怖気が走って、気味の悪いその手を振り払う。その手から顔を背け、無様に転がされている姿でのできる限りの高慢さで、言い捨てる。
「馴れ馴れしく触るな」
吐き捨てながら、怒りが波のように引き始めているのを朧げに感じていた。それと入れ替わるように、恐ろしいような思いがじわじわと胸を満たし始めていることにも。
せり上がる恐怖を、必死で押し殺す。こんなことくらいで狼狽えてはいけない。冷静さを失ってはいけない。怖がったり、恐れに自分を支配させたりしてはいけない。
こんな得体の知れない相手などに、自分は打ち負かされたりしない。この相手だって、この自分がどんなに強いかを知っているから、忍び寄って背後から殴るような卑怯で卑劣な真似をしたのだ。本当なら、自分はこんな相手など歯牙にも掛けないほど強いのだ。
自分は誰にも、何にも、負けたりしない。もう二度と、誰にも、何も、奪わせたりしない。こんな下劣な相手が、自分から奪い取れるものなんて何もない。
大好きなあいつを取り戻すために、あの美しい獣を冥府から呼び戻すために。必ず戻ってきてくれる筈のあいつを、今度は誰にも害させたりせずに守り抜くために。自分は、とても強くなったのだから。
だから怖がる必要も、縮こまる必要もないのだ。そう必死で自分に言い聞かせても、芽生えてしまった恐怖を拭い取れない。何がしたいのかも分からないこの不気味な相手が、恐ろしかった。
卑劣な不意打ちをされたせいであっても、今の自分が無力で何もできない状態なのは動かせない事実だ。常の自分ならば決して負けない程度の相手にも、今は容易く打ち負かされてしまうかも知れない。この相手が自分に何をしようとしても、手も足も出ない。
恐ろしさが、萎縮が、伝わってしまったんだろうか。また触れてきた手が、首筋を撫でる。その悍ましい感触に、びくっと体が竦んでしまう。それを馬鹿にして笑う声さえも、落ちてこない。
「怖くないよ。大丈夫だから」
怖気の走るような薄気味悪い声で、その神は囁いた。
怯える青年神に優しく言い聞かせてやりながら、つい微笑んでしまう。ケツァルコアトルは、幸福で満ち足りた思いで青年神を見つめた。
今は目隠しをして手足を縛ってしまっているから、この青年神が怖がるのも無理はない。けれど仕方がないのだ。こうでもしなければ、きっと彼はすぐさま立ち上がってこの小さな洞窟から出て行ってしまうから。せっかく他の神々から引き離すためにここへ連れてきたのに、やっとの思いで彼を保護したのに、今すぐには彼はそれを理解しないだろうから。
青年神がきちんと理解してくれたら、ケツァルコアトルが根気強く言い含めてやる言葉を受け入れて納得してくれたら、すぐにでも縄も目隠しも解いて自由にさせてやれる。もちろん、二度と他の神々のところへは戻らないと、邪悪なショロトルに会いに行ったりも絶対にしないと、約束させなくてはならないが。
固く誓ってくれたならすぐさまその手足を自由にしてやり、洞窟の中やその周りならば好きに歩き回れるようにしてやろう。他の神々はこんな何もない場所には近付かないから、青年神を見つけて誘惑する何者も現れたりはしない。ケツァルコアトルしか知らないこの小さく美しい世界で、この青年神はもう一度伸びやかに笑ってくれる筈だ。
ケツァルコアトルはずっと、苦しい思いで青年神を見守ってきた。邪悪な兄弟神に唆されて穢らわしい淫らな遊戯に溺れていくのを、何もできずに見つめていた。重ねる悪徳とは裏腹なほどの優美で優雅な神に成長していく姿を、それが他の神々の目を一層惹き付け始めているのを、声も出せずに見ていることしかできなかった。
何故青年神自身は気付きもしないのかと、気にも留めないのかと、不思議なほどだった。他の神々が下劣な欲望をありありと宿した視線で、その肢体を舐め回しているのに。卑猥な夢想をしているのを隠しもしない目付きが、青年神のほっそりした腰やまだ薄さを残している胸元を、無作法に眺め渡しているのに。青年神自身は全くの無頓着で自由奔放に歩き回り、誰が見ていようと構いもせずに、ショロトルがその腰をいやらしい手付きで抱き寄せるのを許し、あるいは自分からショロトルに快楽をねだる。
このところの青年神はショロトルと出歩くよりは自分だけで歩き回るのを好むようになってきたようで、傍目も構わず公然と「いちゃつく」姿を目にする機会は減ってきている。だが、だからと言って彼らの淫らな遊戯がなされなくなったのではないことも、分かりきっている。
気軽な足取りでショロトルの家の方角へ向かう青年神を目にするたびに、ケツァルコアトルは苦悩と後悔に胸を締め付けられた。駆け寄ってその腕を掴んで引き留めたい衝動に駆られながら、ただ見ていることしかできなかった。
それでも、あの聡明な青年神ならば必ずや、いつかはその淫猥な遊びに飽きるだろうと信じていた。いつか行いを正してくれるだろうと、また正しい道に戻ってくれるだろうと、期待していた。夢見るように、その未来を祈っていた。
だが、その切ない望みが青年神自身の手で、粉々に打ち砕かれて。もう、ケツァルコアトルは耐え切れなくなったのだ。
その時も、青年神は気儘な様子で歩き回っていた。山の方で探して拾ってきたらしい宝石をいくつも入れた籠を抱え、どこかへ帰っていく途中らしかった。声を掛けることもできずに見守るケツァルコアトルには気付きもせずに、目もくれずに。
苦しい思いで、目を離すこともできずに、ケツァルコアトルが見つめていた時だった。青年神は、ふと何かに気を引かれたようにあらぬ方向へ視線を向けた。その視線を追い掛けて、ケツァルコアトルははっとした。
いつからかそこに居た神は、あの下劣で卑猥な視線を隠しもせずに青年神に向けていた。にやにやと下卑た笑みを浮かべ、品定めするようにその美しい姿を眺め回していた。
吐き気を覚えるほど悍ましいその眼差しに、怒りと不快を覚えながら。ケツァルコアトルは、無意識に青年神に目を戻していた。青年神が不快を露わにしてくれることを、その唾棄すべき神に軽蔑の視線を返してくれることを、ケツァルコアトルは期待した。なのに、青年神はそうしなかった。
挑発するように、誘惑するように。青年神はただ、淫らに笑った。淫猥な視線を真っ直ぐに受け止め、当たり前のようにそれを受け入れた。
殴られるような激しい衝撃を感じながら、ケツァルコアトルは朧げに理解した。あのきらきらと輝いていた少年神が、もう取り戻せないほど遠ざかって行こうとしていることを。誰かがその輝きを呼び戻さなければ、その美しい光は汚泥に埋もれて消えていってしまうことを。その最後の弱々しい瞬きが救いを求め、消え入りそうな声で自分を呼んでいるのが聞こえた。
もう興味を失ったように前を向いて歩き始める青年神に、何かを許されたと勘違いをしたらしい下劣な神が追い付いて話し掛けている。その忌まわしい声も、もう耳に入らなかった。ただ絶望しながら、ケツァルコアトルは決意を固めていた。
もう、見ていられなかった。穢れに身を落としていく、美しい青年神の姿を。あの遠い遠い時の清らかで無垢な姿を、なんとしてでも取り戻させなければと決意した。
青年神もきっと、心の奥底ではそれを望んでいるのだ。彼自身知らないままに、ケツァルコアトルが救い出してくれるのを待ち侘びているのだ。彼があの夢の家で、いつもケツァルコアトルを待ってくれているのと全く同じように。
眠りのたびにケツァルコアトルを訪れる夢の中では、青年神は嬉しそうに微笑んでくれるのだから。無垢で穢れを知らない笑顔でケツァルコアトルを待ち侘び、独りにされたことを無邪気に詰り、素直に甘えてくれるのだから。ケツァルコアトルが熱望してやまないその笑顔を、惜しみなく輝かせるのだから。あの遠く遥かなひと時に、オセロトルを傍に従えて笑ったように。
その夢はもう、歪んだりは決してしない。青年神はいつでも、いつまでも、清らかで穢れない姿で微笑んでいる。淫らな遊戯をケツァルコアトルに求めたりは、彼はもう絶対にしない。その美しい夢が、ケツァルコアトルの心を捉え、夢中にさせる。
その心地良い夢が実現するのが、ケツァルコアトルはもはや待ちきれなかった。その夢がこれ以上遠ざかるのは、耐えられなかった。だからこうして青年神を匿い、全ての穢れから遠ざけて、その魂を善意で洗い清めてやることにしたのだ。
ここに居てくれれば、守ってやれる。全ての痛みから、穢れから、苦難から、絶望から。きらきらと美しい光を蝕もうとするあらゆるものから、この手で守り通してやれる。今にも消えてしまいそうに弱っていた光を、もう一度取り戻してやれる。この自分の手は、必ず彼を救うことができる。
そのことが幸福で、嬉しくて、ケツァルコアトルは我知らずまた微笑んでいた。表情を強張らせている青年神を宥め諭すために、また優しく頬に触れる。
「もう、怖がらなくていいんだよ」
穏やかな声で、そう言い聞かせる。けれど青年神はますます表情を硬くして、物も言わずにまた手から顔を背けようとした。その態度を怪訝に思いながら、顔に零れかかっていた豊かな髪を優しく払ってやる。
彼が恐れなくてはならない何者も、ここへは踏み込んでこない。ここを知っているのはケツァルコアトルだけなのだから。
だから心配は要らない、心置きなく安らいでくれていい。夢の中でするように伸びやかに笑って、何不自由なく過ごしてくれればいい。そう言い聞かせてやろうとしたが、か細い声に遮られた。
「何、なんだよ。何がしたいんだよ。僕を、どうする気だよ」
その声は僅かに震えていて、青年神がまだ怖がっていることを察する。安心させてやるために、ケツァルコアトルはその髪を撫でてやりながらまた口を開いた。
「酷いことは何もしないよ。私は、君を助けたいだけだ」
他の神々から、邪悪な兄弟神から。痛みから、苦しみから、穢れから。彼を蝕もうとする全てから助け出して、遠ざけて、守り抜くためにここに連れてきた。その自分が、彼を傷付けたりなどする筈もないのだ。そのことをよく分かってもらうため、穏やかに言い含める。
「ここに居てさえくれれば、私が守る。何も不自由はさせない」
「っ……」
青年神が小さく息を飲むのが聞こえた。まだ怖がっているのだろうか。だがすぐに、賢い彼は理解するはずだ。ケツァルコアトルには一切、害意などないことを。ケツァルコアトルの庇護下にいれば、もう二度と苦しまなくて済むことを。
「これからは私が、ずっと傍にいる。もう何も心配しなくていい」
優しく囁いて、怯えて強張る体を抱き起こして抱き締めてやろうとする。だが、身を捩って振り解かれた。硬い表情の青年神が、激しく叫び散らす。
「お前なんか要らない! 触るな! 外せよ、ここから出せ!」
何を言われたのか、ケツァルコアトルには一瞬理解できなかった。微かに震える声が吐き捨てる、あまりにもはっきりしたその拒絶を。
けれど、じわじわと理解が追い付いてくる。湧き上がったのは、怒りよりも疑問に近い感情だった。
何故、彼はそんなことを言うのだ。ケツァルコアトルだけを見つめて、あんなにもきらきらと笑ってくれたのに。無邪気な親愛の目で、一心に見つめてくれたのに。何故ずっと傍に居てくれないのだと甘えた声で詰り、幸福そうに寄り添ってくれたのに。
それが虚ろな夢でしかないことさえ、ケツァルコアトルは既に忘れていた。夢想は真実を侵食し、事実を食い荒らし、虚実は混沌と入り混じって、もう何が真で何が夢なのかさえ思い出せなかった。ただ、青年神に思い出させなくてはならないという唯一の信念だけが、ケツァルコアトルを支配した。
そうだ、思い出させなくては。穢れに身を落として正しいことを思い出せなくなっているならば、優しく諭し導いてやらなくては。彼を守り救ってやれるのはケツァルコアトルだけなのだということを、彼自身もケツァルコアトルの庇護を望んでいるのだということを、思い出させてやらなくては。
どうすれば思い出してくれるだろうか。体を強張らせている青年神を見下ろしながら考えて、記憶を反芻して。そして、「それ」しかないのかもしれないと結論づけた。
悍ましいそれをもう一度しなくてはならないというのは、とても恐ろしくて苦しい考えだった。だが、きっとそれしか方法はないのだ。青年神にあるべき姿を思い出させ、彼が素直にケツァルコアトルの庇護を受け入れてくれるようにするためには、きっとそれが必要なのだ。
だから青年神の下肢に手を伸ばし、腰衣を解き始めた。びくっと体を震わせた青年神が、虚勢を張っていると分かる声で咎めようとする。
「何、する気だよ」
強がりながらも、恐れを隠しきれていない声。腰衣を外す手は休めないまま、優しく言い含めた。
「怖くないから。少しだけ、我慢して」
「ふざけるな、やめろよ、離れろ……っ」
縛られた手足のままに青年神がもがくので、極力優しく押さえ付けながら手を動かす。ぎしぎしと縄が軋んでいるのが気になって、また言葉を掛けた。
「擦れて痛いだろう。動かないほうがいい」
「うるさい、触るな、やめろと言ってるだろ、」
嫌がる青年神に無理を強いるのはケツァルコアトルとしても胸が痛むことだが、仕方ないのだ。彼のために、こうする必要があるのだ。だから腰衣を取り払い、現れ出た力無い部分を握りこんだ。
「ひ、っ……!」
「怖くないよ。大丈夫」
短い悲鳴を漏らす青年神に優しく語りかけながら、握りこんだ手を動かして刺激する。くぅっと喉を鳴らした青年神が、はっきりと怯えた顔をした。
「い、やだ、やめろ……!」
「君が大人しくしてくれれば、すぐに済むから」
言い含めてやりながらも、手は休めない。早くも熱を持ち始めたその場所はすでに形を変えつつあり、とろりと流れた蜜がケツァルコアトルの手を汚した。
嫌がって逃れようとする青年神を宥め諭しながら、手を動かす。青年神の中心はとうに張り詰めてとろとろと透明な蜜を流し、ケツァルコアトルが解放してやるのを待ち侘びている。洞窟に充満する淫らな香りに、ケツァルコアトルも眩暈を覚えた。
「やだ、やめて、おねが……っ」
泣き出しそうな声で懇願する青年神は、力の抜けている手足で必死に逃れようとするのをまだやめない。優しく押さえ付けながら、言い含めた。
「君のためなんだよ」
ケツァルコアトルとて、本当はこんなことはしたくない。この青年神が嫌がることなどしたくない。けれど仕方がないのだ。彼に理解してもらうためには、これが必要なのだ。
きっとこれが終われば、青年神も理解してくれる。ケツァルコアトルには善意しかないことが、ケツァルコアトルの庇護下に入れば何の憂いもなく過ごせるということが。これさえ終わらせれば、きっと彼は淫らな遊戯を忘れて、清らかで無垢な魂を取り戻してくれる。
魔酒に酔わされた彼に、淫らな熱を吐き出させてやった時と同じように。きっとこれで、彼は邪悪な熱から覚めて正しい道へ戻ってくれるのだ。
その期待に胸を高鳴らせながら、優しく青年神の熱を追い立てる。喉の奥で悲鳴を漏らした青年神が、弱々しく首を横に振った。
「ゃだ、ゆるして、もうやめて……!」
「あと少しだから」
諭しながらも手は休めない。絶頂の近づくそれを、いっそう激しく追い立てる。引き攣った声を漏らした青年神が、苦しげで熱い喘ぎを漏らして。
たすけて。声にならない声が、呟いた。
驚きに、思わず手が止まる。唖然として見下ろす先で、形の良い唇が震えながら何かを呟いた。
その唇が、邪悪な兄弟神を呼んだ気がした。助けを求めて、祈るように。
はっきりとは読み取れなかったそれに、それでも激しい怒りが湧き上がるのを感じた。怒りのあまり、目の前が白く明滅する。
そんなことではいけないのだ。彼が望んで良いのは、ケツァルコアトルだけなのだから。彼を庇護し導いてやれるのはケツァルコアトルであって、あんな邪悪な兄弟神ではないのだから。
諭してやることさえ、もう忘れていた。罰を与えなくてはならないと、胸の中で声が囁く。
そうだ、罰してやらなくては。それはいけないことなのだと、教えてやらなくては。二度としないように、二度とあのショロトルのことなど思い出しもしないように、よく教え込まなくては。
だから、その細い首に手を掛けた。それにも気付かない様子で、青年神は震えながら誰かの名前を呼んでいる。縋るように、呟いている。
「二度と、その名前を呼ぶんじゃない」
教え込みながら、手に力を込めた。青年神の折れそうに細い首を絞める。びくっと体を揺らした青年神は、ようやく我に返ったようにもがき出した。
細い体に馬乗りになり、尚もその首を絞める。そうしながら、よく言い含めた。
「君が呼んでいいのは、君が縋っていいのは、私だけだ。君を守り導けるのは、私だけだ。あいつじゃない。あいつのことなんて、二度と呼んではいけない」
努めて穏やかに諭してやる声は、聞こえているだろうか。首を絞める手から死に物狂いで逃れようとする青年神は、答えない。ケツァルコアトルの手の中で、喉仏がびくびくと苦しげに蠢いている。
「ぁ、……が、っ」
「あいつのことは早く忘れるんだ。あいつは君に害しかもたらさない。あいつのことなんて覚えていても、何ひとつ良いことはない」
優しく言い含める声が、やっと届いたのかもしれない。苦しげに歪む青年神の表情が、僅かに揺らいだ。
なのに。その首は、微かに横に振られた。
そのあまりの強情さに、聞き分けのなさに、怒りで目が眩む。もう言い聞かせてやる言葉さえ思いつかずに、ケツァルコアトルはその細い首を絞めた。
ふっと、青年神の手足から力が抜けた。それで、ケツァルコアトルも我に返った。
「ぁ……!」
慌てて手を離すと、ほっそりした首筋にはくっきりと手の形の痣が浮き始めている。それがいつか見た忌まわしい光景と重なって、あの虐げられて怯え切っていた少年神の姿を思い出させて、ぞっとした。
私は、何ということを。
してしまったことの恐ろしさと悍ましさに震えながら、青年神の呼吸を確認する。微かな吐息が感じられて、ほっと息を吐いた。
気を失っている青年神の手足の戒めも目隠しも解いてやったが、青年神はまだ目覚めない。どうやら目隠しの下で泣き出していたらしく、布も長い睫毛も濡れていた。
その顔を拭き清めてやり、縄に擦れた手足も薬草で労ってやらなくては。そのことをやっと思い出し、ケツァルコアトルは洞窟を走り出た。その背後で青年神が目を覚ましたことにも、気づかずに。
慌ただしく遠ざかっていく気配が、意識を呼び起こした。
ぼんやりと目を開けると、薄暗い岩壁が目に入る。少しして、目隠しが外されていることに気付いた。
同時に思い出す。誰とも分からない相手にされた事を。それになすがままだった自分を。思い出してしまうと、堰を切ったように涙が溢れた。色々な感情が胸を埋め尽くして、声も出ない。
恐怖と屈辱のためだけではない涙が、ぼろぼろと零れる。自分は強いと過信していた無知のあまりの大きさに、吐き気さえ覚えた。
もう誰にも、何も、奪わせないと決めたのに。そのために、死に物狂いで強くなったのに。実際にはこんなにも自分はまだまだ無力で、自分を守る力さえないのだ。
これでは、あいつに会えない。あいつが帰ってきても、あいつを取り戻すことができても、守ってやれない。またむざむざと、あいつを誰かに傷付けさせてしまう。
泣きながら、ぼんやりと思い出した。誰とも知れない相手にされた事を。それが何もかもが変わってしまったあの悪夢を思い出させて、怖くて堪らなくなってしまったこと。
怖くて、恐ろしくて。ほとんど無意識に、あいつを呼んでいた。あいつに縋ったりなんてしてはいけないのに、今度は自分があいつを守らなくてはいけないのに。
それの何が、あの誰とも分からない相手の気に障ったのだろう。その相手は声に怒りを露わにして、首を絞めてきた。そうしながら、気味の悪い声で言ってきた。
あいつを忘れろ、あいつのことはもう考えるな。首を絞めながらそんな命令をされたところで、頷くことなんてできない。あいつを忘れるくらいなら、あいつを取り戻せなくなるなら、殺された方がずっとずっとましだ。だから気を失うまで首を絞められても、頷いたりはしなかった。
まだ泣き止めないままによろよろと立ち上がり、嫌な匂いのこもっている洞窟をよろめきながら抜け出す。外に出て、まだ泣きながら空を見た。
涙に歪む視界に、弱々しい空の光が滲みた。そんなものよりもずっとずっと綺麗できらきらしていた、あの金色の目が恋しい。
けれど、まだ会えない。会うわけにはいかない。もっと強くなるまで、もっと力を得るまで。
だから、あそこへ上り詰めなくては。誰よりも高い場所まで、上らなくては。
そう心に刻んで、涙を乱暴に拭って。前を見据えて、歩き出した。
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陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
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漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
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