主婦、王になる?

鷲野ユキ

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王をこの手に

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「なんだか最近、陽子さん明るくなりましたよね」
講義が終わって夕方。ほぼ毎日発掘作業だの授業だの、報告書作成だの学会準備だので多忙な碓井は、あてがわれた教授室で一息ついていた。さっさと家に戻れば、なにかしら唐澤が用意してくれていたのだろうが、家に帰る気力もなかった。陽が翳り薄暗くなる部屋の明かりもつけずソファでうとうとしていると、控えめなノックと共に、粕川がこれまた大量の資料を持って現れた。
なにやらゼミの発表があるとかで――そもそもそのゼミを受け持っているのが碓井なので、相談と言う名目で彼女はやって来たようだった。
その彼女は相談と言うわりには疲労した碓井に遠慮でもしたのだろうか、あまり質問してこなかったのでありがたかった。そんなことよりも考えなければならないことが碓井にはあったからだ。
粕川が入れてくれた、スティックシュガーが三本入った実に甘ったるいコーヒーを四杯ほど飲んだところで、ようやく落ち着いてきたと判断したのだろう。そう彼女は碓井に口を開いたのだった。
「陽子さんか?そうかな」
しかし碓井の返答はそっけないものだった。
「先生だって誉めてたじゃないですか、陽子さんの服」
「服?ああ、動きやすそうでいいなって思ったんだ。それだけだよ」
「先生、そんなんだからモテないんですよ……」
「そんなことはないさ。だが、どうにも付き合ったところで長続きしないんだ。仕事で忙しいせいかな?」
「仕事や忙しさに原因を求めてる時点で、モテる人間なんかじゃありません」
「なんだ、俺に小言を言いにわざわざ来たのか?」
「そうじゃありませんけど」
ただ、あまり鈍感なのも考えものですね。喉まで出かかった言葉を粕川は飲み込む。
もうほんと先生ったら鈍いんだから!先生を見る陽子さんのあの視線に気がつかないなんて!
粕川が王の目だから、なんて理由ではなく、それは誰の目にも明らかだった。いや、唐澤先生や息子の勇樹くんがどう思っているかは知らないが、少なくとも同性である粕川の目には明らかだった。せいぜい週に一度会う程度なのに、その視線の熱が会うたびに増していること!
確かに陽子さんは会うたびにその輝きを取り戻しているようだった。母さん、若い頃は美人だったらしいよ。そう勇樹君は言っていた。確かにその雰囲気はあった。けれど疲れた表情に、手入れの行き届いていない髪。もったいない、そう思っていたから彼女が生き生きとし始めたのは単純に嬉しかった。
将来自分が結婚して、子供ができて日々忙しさに追われて。その結果、ああなってしまうだなんて考えたくなかった。そのイメージを陽子は見事払拭してくれたのだ。
ただ、気がかりはその光を与えてくれた存在だ。彼女は既婚者だ、本来配偶者以外の人間に好意を寄せてはならない存在。その彼女が、まさかこの先生に恋してるだなんて。
惹かれてしまうのは過去のことが関係しているのかも知れなかった。何せ碓井先生だって、王に再び会いたくて、夢を追いかけていたようなものではないか。あるいは王だって、ようやく会えた王妃に愛を感じても不思議ではない。
だが、陽子から秋波を送られた側は一向に気がついていない。そう粕川には見えた。執着具合から言えば、まだ逆のほうが納得が行く。「王」に恋い焦がれた碓井先生の内なるルクレティウスが、陽子のなかのフュオンティヌスを求める。過去しか見ていないその関係はひどく不健全だったが、まだその方が自然だった。
けれど、明らかに陽子のそれは、王として王妃を見やる目付きではなかった。単純に、好きな男を追いかける視線。例えばそれは、鈍感ではあるが見た目は悪くない碓井にお熱な同級生が持つものと同じだった。先生と仲良くするなんてずるい。なんなら、粕川に当てられる嫉妬の視線もそれと同じだった。正直、粕川にとって碓井は過去の繋がりなどなければ、ただの面白い先生でしかなかったのだけれど。
「まあ、明るくなってくれたならいいことだ。フュオン王も国の再建を心待ちにしてくれてるってことだろ」
「だから先生、いくら大昔に高度な文化を持つ国があって、そこに住んでいたのが私たちのご先祖様でしたって証明できたとしてもですよ?ここにはもう日本っていう国があるんですから」
「再建は無理だとでも?」
「少なくとも、あまり現実的ではないかと」
「まあな。事実、シャンポリオンより日本のほうが広い。あの国があったのは、せいぜい今の静岡近辺、東海地方のあたりぐらいだろう。そんな小国が、いかに世界から見て狭い島国といえども立派な国家を奪還するのは不可能だろう」
「なら先生、なんでそんなことを」
「復讐、かな?」
薄暗い部屋で、その声が妙に響いた。
「復讐?そんな、まさかネアンデルタールを追いやったサピエンスにとか言わないですよね?」
「さすがに今いる人類のほとんどを敵にするほど俺は愚かじゃない。それに、ネアンデルタールが滅んだ原因は目下研究中だ、サピエンスにどうこうされたかの確実な証拠はない」例えその記憶があってもな。碓井は胸の奥でそう呟く。
「じゃあ、誰に?」
「私から、大切なものを奪ったやつに」
「それは……」
「私」とは、ルクレティウスのことですか?
そう聞き返したかったが、喉が張り付いてしまってうまく声にできなかった。碓井の瞳の奥に、狂気に似た何かを見てしまったような気がして。
恐らく、碓井が陽子と関係を持つのは近いだろう。粕川はそう直感した。だが、それは愛だの恋だのと呼べるようなものなのだろうか。
もしかしたら陽子さんだって、過去の自分に引きずられてしまう日が来るのかもしれない。今は純粋に先生のことが好きなのかもしれない。けれど、そこから先は?自身に眠る、偉大な王の力に飲み込まれることなどないとどうして言い切れる?
あるいは。そう、私だって。
陽が落ち、秋のぼんやりとした月明かりに照らされた夜が部屋に入ってきた。少し開けられた窓から、ひんやりとした空気が流れてくる。まるで遥か昔の古代、氷河期の空気のような懐かしさを携えて。
寒さと不安で思わず自身の腕をかき抱いた粕川に、「大丈夫か?」と声をかけた碓井はいつもと同じ眼差しだった。生徒を気遣う先生の目。
そうだ、私は何をバカなことを。
そんな、過去の記憶に今の自分が上書きされるだなんてあり得ない。私は私じゃない。粕川理央。静東大学の二年生。まして先生が、ルクレティウスそのものに成り代わるだなんて無理がある。
なによ、急にオカマにでもなるっていうの?こんな無精髭を生やした、筋肉質でいかにも男の人なこの人が。そんなの滑稽すぎる。じゃあ陽子さんは厳ついオナベになるとでも?どだい、無理がありすぎるじゃない!
「いえ、少し冷えてきたみたいですね」
そう返した声は、けれども少し上擦ってしまっていたかもしれない。けれど人の気持ちに鈍い先生がそれに気づくはずない、粕川はそう思っていた。
「そうだな、もうこんな時間だしな。粕川くんもゼミの発表なんてどうでもいいから早く帰った方がいい」とやはり気づかなかったのだろう、優しい言葉をかけてくれる。
「どうでもいいって先生。先生の授業なんですけど」
「まあ、正直力作を持ってこられてもなぁ。俺も忙しいし、そんな丁寧に対応なんてしていられんし」
「そんなことゼミ生に言うことじゃないですよ」
「じゃあ、聞かなかったことにしておいてくれ」
そうだ、これでこそいつもの先生だ。その事実にほっとした粕川は、再び資料を抱えて教授室を後にした。
さしもの〈王の目〉といえども、気がつかなかったのだ。それも仕方がなかろう、粕川はカスティリオーネその人ではないのだから。
去り行くその背を見送って、碓井は大きく息を吐くとソファに崩れ落ちた。自覚はあった。無理をしすぎているとも。だが彼のなかの彼女がそう急かすのだ。
急げ、王を取られてなるものか。
この気持ちは単にルクレティウスの気持ちなのだろう。だって相手は人妻だ、10も上の、最近会ったばかりの他人。彼女のなかに王がいなければ、こんな感情抱くはずがないではないか。そう、唐澤のなかのカラシャールがルクレティウスに思いを寄せたように。
碓井だって、気づいていないはずがなかったのだ、唐澤の善意に。さらには、陽子の視線に。
だがすべては過去の産物だ。自分はどうすればいいのだろう。
急げ、王を取られてはならない、あの女に。
そう思うたびに、頭のなかの王妃がささやく。ああこれじゃあまるで、俺は王妃様の操り人形じゃないか。
一方、なにをバカなことをとわめいている俺がいる。取られるわけないじゃないか。女に成り代わった王が、女を抱くとでも?
だが、アナトリアが男に生まれ変わっていないとも言い切れない。現に王と王妃は入れ替わってしまっているのだから。あの今の王の夫が実はアナトリアだったとしたら?けれどあの男を見たときになにも思わなかったのは事実だ。ならばあいつは今どこにいるのだろう。
途端に焦りが碓井を襲った。そうだ、早く王を私のものにしなければ。
そうだ――、作ってしまえばいいのだ、既成事実を。
そう言う声はどちらのものだったのだろう。その判別もつかぬまま、碓井は疲れた身体と意識を手放してしまっていた。
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