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第二十話 三年目:ヒロインふたり、ヒーローふたり
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*今回のみ、ヒロイン:リーリエ視点です。
一体、何が起きているの…?
白の百合姫役として講堂の舞台に上がった私は、緊張しながらも無事に姫のお披露目を終えてほっとしていた。しかし、アルベール様の生徒会長挨拶から、事態は思わぬ方向へと進んだ。突然アルベール様がピヴォワンヌ様に婚約解消を願い出たのだ。
ふたりは私から見てとても仲の良い婚約者で、心から信頼し合っていると思っていた。急な婚約解消の申し入れなのに、なぜかあっさりと国王陛下とピアニー侯爵もそれを認めてしまった。それだけでも驚きだったけれど、私がいちばん驚いたのは、アルベール様が婚約を解消した理由だった。ピヴォワンヌ様の他に、想う方がいらっしゃるのだと。
浅ましい私は、誰とも知らないその方を羨ましいと思ってしまった。ピヴォワンヌ様ほど美しく優しく気高いご令嬢を差し置いて、アルベール様の心を捕まえた方。一体どれほど素晴らしいご令嬢なのだろうかと、どうしても気になってしまう。
そして、そんな思考を一瞬でもしてしまった自分に、本当に嫌気が差す。大切な友人であるピヴォワンヌ様が、私の目の前で突如婚約解消を言い渡され、毅然にもそれを受け入れたのだ。内心ではどれほど傷ついていらっしゃるのだろう。友人であるならばその心にすぐにでも寄り添うべきなのに、私はそれよりも先にアルベール様のお相手に考えを巡らせてしまった。
混乱と自己嫌悪に沈みそうになっているところ、今度は講堂に違う声が響いた。しかもその声は、私の隣から発せられたものだった。
「アルベール殿下、恐れ入りますが、私にも発言の許可をいただけますでしょうか」
講堂にいる誰もが第一王子の婚約解消劇に驚き固まっているところ、勇敢にもナディル様が話の流れに割って入っていく。さらに頭の中に混乱が広がる私に、ナディル様はとても小さな声で囁いた。私を安心させるように、いつもと同じ優しい声と微笑みで。
「リーリエさん、突然のことで戸惑わせてしまい申し訳ありません。そしてこれからあなたはさらに混乱されるのではと思います。謝罪は後でいくらでもします。今はただ、この場の流れを見守ってください。そして、あなた自身の幸せだけを、どうか考えてください。決して悪いようにはなりませんから、我々クラスメイトを信じてください」
ナディル様の言葉は、私には分からないことばかりだった。“我々クラスメイトを信じて”ということは、ここで起きることをナディル様は知っていたのだろうか?そして、ナディル様の言う私自身の幸せというのが、何を意味しているのか分からない。
私は呆然としたまま、ナディル様が舞台中央へ進み出て、ピヴォワンヌ様の前に膝を着くのを見ていた。ピヴォワンヌ様の赤百合のブーケを持つ手が微かに震えている。この事態は、ピヴォワンヌ様にとっては私と同じように何も知らないことなのかもしれない。分からないけれど、とにかく今は見守ることしかできない。
「ピヴォワンヌ様、傷心のあなたにこのような不躾な発言をすることをどうかお許しください。欲深い私は、この機会を見逃すことなどできないのです」
いつも柔和な印象のナディル様が、まるで獲物を捕らえる間際の鷹のような瞳をピヴォワンヌ様へ向けた。強い意志を湛えたその目でピヴォワンヌ様を見つめたまま、さらに言葉を続ける。
「私、ナディル・ディセントラは、初めてお目にかかった日から、ずっとあなたをお慕いしておりました。アルベール殿下のご婚約者でいらっしゃるからと、何度も何度も諦めようとしましたが、あなたにお会いするたびに募る想いを、今日まで捨てきることができずにおりました。すぐに私を愛してくれなどとは申しません。あなたの気持ちが私に向くまで、何年だって待ちます。どうか今はただ、今日この後のあなたをエスコートすることだけ、お許しいただけないでしょうか」
それは、ナディル様の心からの告白だった。混乱しているであろうピヴォワンヌ様が理解できるよう、ゆっくりと、丁寧に紡がれた愛の言葉。
私も驚いたが、ピヴォワンヌ様はおそらくもっと驚かれているのだろう。しかし、ナディル様が長いことずっとピヴォワンヌ様を想っていることは、もちろん私も知っていた。ナディル様からすれば、このような千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかないというのも頷ける。アルベール様との婚約が解消されたとはいえ、ピヴォワンヌ様は家柄・人柄・容姿の何もかもが優れたご令嬢なのだから、うかうかしていたら他の人に先を越されてしまうと考えたのかもしれない。
それに、ナディル様ははっきりと想いを口にされたものの、申し込んだのは交際でも婚約でもなく、今日のエスコートをすることだけだった。おそらくはピヴォワンヌ様が受け入れやすいように考えて提案したのだろう。常に思いやりの心を持ったナディル様らしい告白だと思えた。
突然の申し出にピヴォワンヌ様は逡巡を見せた後、一度ロイヤルボックスを見上げた。私の位置からも、ピヴォワンヌ様のお父上であるピアニー侯爵が頷いたのが見えた。ピヴォワンヌ様はそれを確認してから、ゆっくりと口を開く。
「ナディル様、そのような身に余るお言葉をいただき、大変ありがたく存じますわ。正直に申し上げて、今のわたくしに正常な思考ができる自信がございませんし、今日の状況にとても困惑しておりますの。…今すぐにナディル様のお気持ちにはお応えすることはできませんし、気持ちの整理が着くまでお時間をいただきとうございます。それでも良いと言ってくださるのならば、本日のわたくしのエスコートをお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。謹んで務めさせていただきます、私の愛しい赤百合の姫君」
ピヴォワンヌ様の答えにナディル様は満面の笑みを返し、ピヴォワンヌ様にそっと腕を差し出した。ナディル様の腕を取ったピヴォワンヌ様の表情は、照れて頬を赤らめながらも嬉しそうに見えた。その顔はアルベール様の隣にいたときには見せたことのない表情のように思える。
照れながらも微笑み合うナディル様とピヴォワンヌ様を見て、私はようやくこのおふたりが両想いであったことを知った。これまではアルベール様とピヴォワンヌ様の関係を疑いもしなかったので、ナディル様が叶わぬ恋に苦しんでいらっしゃってもどうにもならないと思っていたのだ。そしてそんなナディル様に対して、私はどこかで共感を抱いていたのだと思う。私と同じように、実ることのない恋をする同志なのだと。
私はこの二年と幾月を同じ教室で過ごしながら、クラスメイトの何を見ていたのだろう。アルベール様の気持ちも、ピヴォワンヌ様の気持ちも、ナディル様の気持ちも、正しく理解できていなかったのだ。彼らはいつも平民出身である私に対しても優しく公平で、温かく受け入れ、支えてくれていたのに。私は大切な友人たちの本心さえ見えていなかった。自分の恋の苦しさばかりに気を取られていた。幸せそうなピヴォワンヌ様とナディル様を祝福したいのに、自分の心の狭さと醜さばかりが見えてしまう。
いよいよ自己嫌悪が頂点に達しそうになっているところで、ナディル様に声をかけられた。
「リーリエさん、突然エスコート役を降りる無礼をどうかお許しください。そして、アルベール殿下。このような事態をしでかしてしまったのは、殿下と私であり、そのせいでリーリエさんにご迷惑をおかけすることは忍びないのです。どうか私に代わり、本日この後の彼女のエスコートをお願いできないでしょうか」
その言葉に、私の頭は真っ白になる。今の今まで、この壇上で起きたことの衝撃が強すぎて自分のエスコート役がいなくなってしまったことに考えが至っていなかった。確かにナディル様が赤百合の姫役のピヴォワンヌ様をエスコートするならば、私のエスコート役がいなくなってしまう。でも、そんな理由でアルベール様にエスコートをお願いするなんて…
必死に頭の中で状況を整理しているうちに、気付けばアルベール様が私の正面に立っていた。
「リーリエさん、突然の出来事で大いに困惑させていることと思う。申し訳ないと思っている。急な事態で迷惑をかけてすまないが、ナディルに代わってこの後のエスコートを私に務めさせてもらえるだろうか」
アルベール様は、いつもと変わらない、落ち着いた声で告げた。
確かに、今の私にとってその申し出はありがたいものだ。この騒動で予定より時間も押しているはずで、この後私のエスコート役を再度探すより、すでに儀式での一連の作法も練習されているアルベール様にお願いする方が手間も混乱も少ない。
咄嗟に頷きそうになった心を、私の良心が止めた。アルベール様がピヴォワンヌ様との婚約を解消されたのはなぜだったか。それは他に想う方がいるからだ。
私にはそのご令嬢が誰なのかは分からない。しかし、アルベール様が想う方ならば、その方は将来この国の王子妃になるかもしれない。そうなったときに、その方は私をどう思うだろうか。笑って許してくれるかもしれないが、共に学院で過ごしたというだけで学院祭で第一王子のエスコートを受けた女性がいるなんて、苦く思われるかもしれない。何よりあのジンクスがある限り、この出来事はきっとその方の耳にも入ってしまう。アルベール様と、彼が大切に想われる方を、傷つけるようなことなどできない。
私は答えを決めた。
「大変ありがたいお申し出です、アルベール殿下。…ですが、私はそのお申し出を受けるわけにはまいりません…」
自分で思っていたよりも弱々しい声になってしまった。私はもう少し声が出るようにお腹に力を入れ、必死に自分を鼓舞して続ける。
「皆様ご存知のとおり、双花奉納の儀には、長らく続くジンクスがございます。…私のような者が、アルベール殿下にエスコートしていただくわけにはまいりません。我儘を申していることは承知しておりますが、将来の王国を担うアルベール殿下にだけは、そのようなことをさせるわけにはいかないのです。殿下に想われる方がいらっしゃるのであれば、それはなおさらです。…大変なご迷惑をおかけしてしまいますが、私のエスコートはどなたか他の方にお願いを…」
最後がかすれてしまったが、なんとか自分の意思は伝えられたと思う。
正面に立つアルベール様は、断られるとは思っていなかったのか、最初は驚いた顔をしていた。その後、段々と難しい表情になっていき、今は唇を引き結んで何かを考えている様子だ。
私としてもアルベール様のエスコートを断る以上、何か代案を出さねばと思うが、うまく考えがまとまらない。そうこうしているうちに、見上げていたはずのアルベール様がすっと視界から消えた。私はあまりの驚きに大きく震えてしまった。
アルベール様が、なぜか私の前で片膝を着いている。先ほどピヴォワンヌ様との婚約解消の際には、誓うように胸に当てられていたその手は、私の前にそっと差し出されている。
「…リーリエさん、私の身勝手であなたを困らせてしまい、すまない。これまで何も告げることができなかったことも、すまなかった。そして今、何の保証もできぬまま、こんな状況で告げることも、先に謝罪しよう。どうか、あなたには、あなたの心のまま答えてほしい」
アルベール様がなぜこんなことをしているのか、何を言おうとしているのか分からず、私はまだ動けない。そのままアルベール様の次の言葉を待つ。
「ジプソフィラ子爵令嬢リーリエ殿、私は、二年前にあなたとこの学院で出会ってから、ずっと心の奥底であなたのことを想ってきた」
「……!」
アルベール様が何を言っているのか。頭と心がまったく追いつかない。混乱している私に言い聞かせるように、アルベール様はゆっくりと話してくれているが、それでも理解できない。
「こんな想いを抱いてはいけないと、すぐに心に蓋をした。第一王子として、ピヴォワンヌの婚約者として、許されることではないと、ずっと自分に言い聞かせてきた」
――アルベール様が、私を想っている?そんなことがあるの?では、ピヴォワンヌ様との婚約解消をした理由は…
私はまだうまく思考ができずにいる。
「しかし、毎朝あなたと挨拶を交わすだけで、あなたの髪が柔らかく揺れるのを視界の端に捉えただけで、クラスメイトと微笑み合うあなたを遠くから見ただけで、私の心はどうしようもないほど弾み、同時に重苦しくて仕方なかった。この気持ちが恋なのだと、私はあなたに出会って初めて知ったんだ」
――そんな都合の良いことが起こるはずがない。アルベール様をずっとこっそりと見つめていたのは、私のはずで…
「長年尽くしてくれたピヴォワンヌとの婚約を自分勝手に解消し、虫が良すぎることは分かっている。一国の王子にこのように言われてしまえば、あなたがどれほど迷惑するか、苦しい立場にしてしまうかも、分かっていた。だから本当は、今日あなたにこの気持ちを告げようとは思ってはいなかったのだ」
――苦し気にアルベール様が気持ちを告白してくださっている。これは本当に現実なの…?
「しかしそれでも、このまま私が真実を告げずにいるのは、私の大切な友人たちがこの場で見せてくれた真摯な姿に対し、あまりにも情けないと思った。私の突然の我儘を受け入れ、私の幸せを祈ると言ってくれた、大事な幼馴染であるピヴォワンヌも、彼女へ包み隠さず想いを告げたナディルも、私のエスコートの申し出を私の将来のためにきっぱり断って見せたあなたも、私などよりよほど勇敢で、誠実であった。私は王子である前に、あなたたちの友として、友に恥じない自分でありたい。だからどうか言わせてくれ」
白百合のブーケを持つ私の手は、いつからかずっと震え続けている。アルベール様は、両手を差し出し、私の指先を包み込むように、そっと優しく触れた。
「リーリエさん、私の心すべてをかけて、あなただけを愛している」
アルベール様の漆黒の瞳が私を映している。その言葉からも、声からも、指先の温かさからも、アルベール様の想いが伝わってくる。アルベール様が、私を愛している。心の中でその言葉を何度も反芻してしまう。
「今の私には、あなたに何も約束することができない。第一王子という立場上、あなたを必ず幸せにするとは言えない。だから、今誓えることは、アルベールという名のひとりの男として、あなたを想うこの気持ちに、一片たりとも嘘偽りがないということだけだ」
アルベール様の真っ直ぐな視線から、これが彼の本心なのだと、ようやく私にも理解ができた。きちんとアルベール様の顔を見たいのに、視界がぼやけて前がよく見えない。
「だから、リーリエさん。今日だけは、ひとりの男として、あなたの隣に立つことを許してもらえないだろうか。私の気持ちに応えてほしいとは、今は言えない。せめて今夜だけ、あなたのエスコートをさせてほしい」
私もアルベール様にしっかりと答えなければならない。こぼれそうな涙を必死に押し留めるためにどうにも恥ずかしい顔をしていると思うけれど、心を奮い立たせて口を開く。
「…アルベール様、誠実なお言葉をありがとうございます。…今、私がすべきことは、このまま何もお答えせず、ただ殿下のお手を取ることだけなのでしょう。…ですが、先ほどのアルベール様のお言葉で、私も心が決まりました。…私も、アルベール様やピヴォワンヌ様、ナディル様、そしてこれまで二年以上の時を共に過ごしてきた大切な友人たちに、恥じない自分でありたいです。だから、私もひとりの女性として、この場で口にすることをどうかお許しください」
最後の勇気が出せずに、一度口を噤んでしまう。思わず俯いた足元には、ターニャがひと針ひと針丁寧に刺繍してくれた白百合の模様が広がっていた。私が自信を持って舞台に立てるよう、自慢の侍女が仕立ててくれた渾身のドレスだ。少しだけ顔を上げると、ウエストに飾られた金色のリボンが目に入る。そして初めて気付く。この金色は、アルベール様の髪と同じ色だと。もう少し顔を上げると、私を心配そうに見守るピヴォワンヌ様とナディル様が見える。お揃いのデザインで仕立てられたピヴォワンヌ様の赤いドレスのリボンは濃い灰色。これはナディル様の瞳の色。
ターニャは、きっと今日何が起きるかを知っていたのだ。知っていて、私が勇気を持てるよう、最高に綺麗に支度をしてくれた。そういえば、辛かったら私を連れて他国へ逃げるとも言ってくれていた。だから私は、失敗したって怖くない。舞台袖に目をやると、ターニャが祈るように手を組んで私を見つめていた。いつも余裕な表情の、何でもできる私の侍女が、本当に心配そうな顔で私を見ている。
反対側の舞台袖では、カイとロータス先生が。生徒たちの列の最前には、イーサン様やエヴリン様も見える。皆が私を安心させるように、大きく手を振ったり、頷いたりしてくれている。再度檀上に視線を戻すと、紅玉の瞳を潤ませ、今にも私の代わりに泣き出しそうなピヴォワンヌ様と、彼女を支えるナディル様。自分の婚約解消とナディル様からの告白では、毅然としていて涙も見せなかったのに、ピヴォワンヌ様は本当にお優しい方だ。そしてナディル様の先ほどの言葉を思い出した。クラスメイトを信じて、私自身の幸せを考えて良いのだと言っていた。
私の周りは、本当に素敵な人ばかりだ。だから、私も勇気を出して…
「…私、リーリエ・ジプソフィラは」
最後の躊躇いで、言葉が止まってしまったけれど、大丈夫。一度深呼吸をして、しっかりとアルベール様の瞳を見つめて告げる。
「…アルベール様を、ずっと前からお慕い申し上げております」
私の言葉が講堂に響いた。心臓がものすごい勢いでドクンドクンと音を立てている。
「…第一王子としての殿下を心から尊敬しておりますが、それ以上にひとりの男性として、お慕いしております。…ずっと、この想いは胸に秘め、決して口には出さないと決めておりました…」
ようやく言えたと思った瞬間に、涙が溢れだしてしまった。その途端に、目の前が真っ暗になった。驚いたが、すぐにそれは黒のジャケットに身を包んだアルベール様の腕の中なのだと分かった。それはとても温かくて、私を周囲から守るように優しい抱擁だった。
アルベール様の腕に包まれている私からは見えないが、わあっという歓声が沸き、たちまち拍手に包まれた。その音から、批難ではなく祝福の声であることが察せられ、安堵の気持ちが広がる。その拍手は、しばらくの間鳴りやまず、その間ずっとアルベール様に抱擁されていた私は、拍手が落ち着いた後には恥ずかしさで消えたくなった。アルベール様に肩を抱かれてしまったので逃げられなかったけれど。
そのとき、ウォッホン、という咳払いのお手本のような音が響いた。ロイヤルボックスから発せられたものだと誰もが理解し、歓声から一転して沈黙が訪れる。国王陛下が立ち上がり、ゆっくりと告げた。
「アルベール、言わねばならぬことは山ほどあるが、今は置いておこう。皆の者、そして来賓としてお越しくだすった方々、愚息がお騒がせしたことをまずは詫びよう。可憐な赤百合の姫と白百合の姫の今宵のエスコート役がようやく決まったようだ。さあ、儀式と学院祭を続けようではないか」
その言葉は、アルベール様がこの後の私のエスコートを務めることを認めるものだった。これから先、どんな未来が待ち受けているのかは分からないが、少なくとも今夜はアルベール様の隣に立つことを、国王陛下が許可してくださったのだ。
陛下の言葉を合図に、再度講堂には大きな歓声が上がり、アルベール様と私を、そしてナディル様とピヴォワンヌ様を祝福する声が響いた。
長かった姫のお披露目が終了し、私たちは双花奉納の儀を進めるため、神殿へと向かうことになる。退場時のエスコートのため、アルベール様が私に左腕を差し出した。夢のようだと思う一方でどうしても畏れ多く感じてしまい、私はそっと触れるか触れないかくらいの力で右手をそっとアルベール様の腕に添えた。
そんな弱々しい私の手の上に、アルベール様の右手が重ねられ、大きく一度ギュッと握られる。大丈夫だと私に伝えるように、力強く。思わず顔を上げると、アルベール様の漆黒の瞳が私を覗き込んでいた。いつも静かで穏やかな、私の大好きな色だ。
「…リーリエさん、ありがとう。今、心の底から嬉しくて、変な顔をしてしまいそうだ。詳しい話と詫びは後でする。さあ、行こう」
耳元で囁かれ、ただでさえ赤くなっていると思われる頬がさらに熱を持ってしまった気がする。でも、この腕に着いていけば心配ないのだと、なぜかとても安心した。ターニャや他のクラスメイトたちも笑顔で拍手をしてくれているのが見える。
不安なことはたくさんあるけれど、今は思いがけず得たこの幸せな時間を、めいっぱい楽しもうと決め、私はアルベール様と共に歩き出すのだった。
一体、何が起きているの…?
白の百合姫役として講堂の舞台に上がった私は、緊張しながらも無事に姫のお披露目を終えてほっとしていた。しかし、アルベール様の生徒会長挨拶から、事態は思わぬ方向へと進んだ。突然アルベール様がピヴォワンヌ様に婚約解消を願い出たのだ。
ふたりは私から見てとても仲の良い婚約者で、心から信頼し合っていると思っていた。急な婚約解消の申し入れなのに、なぜかあっさりと国王陛下とピアニー侯爵もそれを認めてしまった。それだけでも驚きだったけれど、私がいちばん驚いたのは、アルベール様が婚約を解消した理由だった。ピヴォワンヌ様の他に、想う方がいらっしゃるのだと。
浅ましい私は、誰とも知らないその方を羨ましいと思ってしまった。ピヴォワンヌ様ほど美しく優しく気高いご令嬢を差し置いて、アルベール様の心を捕まえた方。一体どれほど素晴らしいご令嬢なのだろうかと、どうしても気になってしまう。
そして、そんな思考を一瞬でもしてしまった自分に、本当に嫌気が差す。大切な友人であるピヴォワンヌ様が、私の目の前で突如婚約解消を言い渡され、毅然にもそれを受け入れたのだ。内心ではどれほど傷ついていらっしゃるのだろう。友人であるならばその心にすぐにでも寄り添うべきなのに、私はそれよりも先にアルベール様のお相手に考えを巡らせてしまった。
混乱と自己嫌悪に沈みそうになっているところ、今度は講堂に違う声が響いた。しかもその声は、私の隣から発せられたものだった。
「アルベール殿下、恐れ入りますが、私にも発言の許可をいただけますでしょうか」
講堂にいる誰もが第一王子の婚約解消劇に驚き固まっているところ、勇敢にもナディル様が話の流れに割って入っていく。さらに頭の中に混乱が広がる私に、ナディル様はとても小さな声で囁いた。私を安心させるように、いつもと同じ優しい声と微笑みで。
「リーリエさん、突然のことで戸惑わせてしまい申し訳ありません。そしてこれからあなたはさらに混乱されるのではと思います。謝罪は後でいくらでもします。今はただ、この場の流れを見守ってください。そして、あなた自身の幸せだけを、どうか考えてください。決して悪いようにはなりませんから、我々クラスメイトを信じてください」
ナディル様の言葉は、私には分からないことばかりだった。“我々クラスメイトを信じて”ということは、ここで起きることをナディル様は知っていたのだろうか?そして、ナディル様の言う私自身の幸せというのが、何を意味しているのか分からない。
私は呆然としたまま、ナディル様が舞台中央へ進み出て、ピヴォワンヌ様の前に膝を着くのを見ていた。ピヴォワンヌ様の赤百合のブーケを持つ手が微かに震えている。この事態は、ピヴォワンヌ様にとっては私と同じように何も知らないことなのかもしれない。分からないけれど、とにかく今は見守ることしかできない。
「ピヴォワンヌ様、傷心のあなたにこのような不躾な発言をすることをどうかお許しください。欲深い私は、この機会を見逃すことなどできないのです」
いつも柔和な印象のナディル様が、まるで獲物を捕らえる間際の鷹のような瞳をピヴォワンヌ様へ向けた。強い意志を湛えたその目でピヴォワンヌ様を見つめたまま、さらに言葉を続ける。
「私、ナディル・ディセントラは、初めてお目にかかった日から、ずっとあなたをお慕いしておりました。アルベール殿下のご婚約者でいらっしゃるからと、何度も何度も諦めようとしましたが、あなたにお会いするたびに募る想いを、今日まで捨てきることができずにおりました。すぐに私を愛してくれなどとは申しません。あなたの気持ちが私に向くまで、何年だって待ちます。どうか今はただ、今日この後のあなたをエスコートすることだけ、お許しいただけないでしょうか」
それは、ナディル様の心からの告白だった。混乱しているであろうピヴォワンヌ様が理解できるよう、ゆっくりと、丁寧に紡がれた愛の言葉。
私も驚いたが、ピヴォワンヌ様はおそらくもっと驚かれているのだろう。しかし、ナディル様が長いことずっとピヴォワンヌ様を想っていることは、もちろん私も知っていた。ナディル様からすれば、このような千載一遇のチャンスを逃すわけにはいかないというのも頷ける。アルベール様との婚約が解消されたとはいえ、ピヴォワンヌ様は家柄・人柄・容姿の何もかもが優れたご令嬢なのだから、うかうかしていたら他の人に先を越されてしまうと考えたのかもしれない。
それに、ナディル様ははっきりと想いを口にされたものの、申し込んだのは交際でも婚約でもなく、今日のエスコートをすることだけだった。おそらくはピヴォワンヌ様が受け入れやすいように考えて提案したのだろう。常に思いやりの心を持ったナディル様らしい告白だと思えた。
突然の申し出にピヴォワンヌ様は逡巡を見せた後、一度ロイヤルボックスを見上げた。私の位置からも、ピヴォワンヌ様のお父上であるピアニー侯爵が頷いたのが見えた。ピヴォワンヌ様はそれを確認してから、ゆっくりと口を開く。
「ナディル様、そのような身に余るお言葉をいただき、大変ありがたく存じますわ。正直に申し上げて、今のわたくしに正常な思考ができる自信がございませんし、今日の状況にとても困惑しておりますの。…今すぐにナディル様のお気持ちにはお応えすることはできませんし、気持ちの整理が着くまでお時間をいただきとうございます。それでも良いと言ってくださるのならば、本日のわたくしのエスコートをお願いしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。謹んで務めさせていただきます、私の愛しい赤百合の姫君」
ピヴォワンヌ様の答えにナディル様は満面の笑みを返し、ピヴォワンヌ様にそっと腕を差し出した。ナディル様の腕を取ったピヴォワンヌ様の表情は、照れて頬を赤らめながらも嬉しそうに見えた。その顔はアルベール様の隣にいたときには見せたことのない表情のように思える。
照れながらも微笑み合うナディル様とピヴォワンヌ様を見て、私はようやくこのおふたりが両想いであったことを知った。これまではアルベール様とピヴォワンヌ様の関係を疑いもしなかったので、ナディル様が叶わぬ恋に苦しんでいらっしゃってもどうにもならないと思っていたのだ。そしてそんなナディル様に対して、私はどこかで共感を抱いていたのだと思う。私と同じように、実ることのない恋をする同志なのだと。
私はこの二年と幾月を同じ教室で過ごしながら、クラスメイトの何を見ていたのだろう。アルベール様の気持ちも、ピヴォワンヌ様の気持ちも、ナディル様の気持ちも、正しく理解できていなかったのだ。彼らはいつも平民出身である私に対しても優しく公平で、温かく受け入れ、支えてくれていたのに。私は大切な友人たちの本心さえ見えていなかった。自分の恋の苦しさばかりに気を取られていた。幸せそうなピヴォワンヌ様とナディル様を祝福したいのに、自分の心の狭さと醜さばかりが見えてしまう。
いよいよ自己嫌悪が頂点に達しそうになっているところで、ナディル様に声をかけられた。
「リーリエさん、突然エスコート役を降りる無礼をどうかお許しください。そして、アルベール殿下。このような事態をしでかしてしまったのは、殿下と私であり、そのせいでリーリエさんにご迷惑をおかけすることは忍びないのです。どうか私に代わり、本日この後の彼女のエスコートをお願いできないでしょうか」
その言葉に、私の頭は真っ白になる。今の今まで、この壇上で起きたことの衝撃が強すぎて自分のエスコート役がいなくなってしまったことに考えが至っていなかった。確かにナディル様が赤百合の姫役のピヴォワンヌ様をエスコートするならば、私のエスコート役がいなくなってしまう。でも、そんな理由でアルベール様にエスコートをお願いするなんて…
必死に頭の中で状況を整理しているうちに、気付けばアルベール様が私の正面に立っていた。
「リーリエさん、突然の出来事で大いに困惑させていることと思う。申し訳ないと思っている。急な事態で迷惑をかけてすまないが、ナディルに代わってこの後のエスコートを私に務めさせてもらえるだろうか」
アルベール様は、いつもと変わらない、落ち着いた声で告げた。
確かに、今の私にとってその申し出はありがたいものだ。この騒動で予定より時間も押しているはずで、この後私のエスコート役を再度探すより、すでに儀式での一連の作法も練習されているアルベール様にお願いする方が手間も混乱も少ない。
咄嗟に頷きそうになった心を、私の良心が止めた。アルベール様がピヴォワンヌ様との婚約を解消されたのはなぜだったか。それは他に想う方がいるからだ。
私にはそのご令嬢が誰なのかは分からない。しかし、アルベール様が想う方ならば、その方は将来この国の王子妃になるかもしれない。そうなったときに、その方は私をどう思うだろうか。笑って許してくれるかもしれないが、共に学院で過ごしたというだけで学院祭で第一王子のエスコートを受けた女性がいるなんて、苦く思われるかもしれない。何よりあのジンクスがある限り、この出来事はきっとその方の耳にも入ってしまう。アルベール様と、彼が大切に想われる方を、傷つけるようなことなどできない。
私は答えを決めた。
「大変ありがたいお申し出です、アルベール殿下。…ですが、私はそのお申し出を受けるわけにはまいりません…」
自分で思っていたよりも弱々しい声になってしまった。私はもう少し声が出るようにお腹に力を入れ、必死に自分を鼓舞して続ける。
「皆様ご存知のとおり、双花奉納の儀には、長らく続くジンクスがございます。…私のような者が、アルベール殿下にエスコートしていただくわけにはまいりません。我儘を申していることは承知しておりますが、将来の王国を担うアルベール殿下にだけは、そのようなことをさせるわけにはいかないのです。殿下に想われる方がいらっしゃるのであれば、それはなおさらです。…大変なご迷惑をおかけしてしまいますが、私のエスコートはどなたか他の方にお願いを…」
最後がかすれてしまったが、なんとか自分の意思は伝えられたと思う。
正面に立つアルベール様は、断られるとは思っていなかったのか、最初は驚いた顔をしていた。その後、段々と難しい表情になっていき、今は唇を引き結んで何かを考えている様子だ。
私としてもアルベール様のエスコートを断る以上、何か代案を出さねばと思うが、うまく考えがまとまらない。そうこうしているうちに、見上げていたはずのアルベール様がすっと視界から消えた。私はあまりの驚きに大きく震えてしまった。
アルベール様が、なぜか私の前で片膝を着いている。先ほどピヴォワンヌ様との婚約解消の際には、誓うように胸に当てられていたその手は、私の前にそっと差し出されている。
「…リーリエさん、私の身勝手であなたを困らせてしまい、すまない。これまで何も告げることができなかったことも、すまなかった。そして今、何の保証もできぬまま、こんな状況で告げることも、先に謝罪しよう。どうか、あなたには、あなたの心のまま答えてほしい」
アルベール様がなぜこんなことをしているのか、何を言おうとしているのか分からず、私はまだ動けない。そのままアルベール様の次の言葉を待つ。
「ジプソフィラ子爵令嬢リーリエ殿、私は、二年前にあなたとこの学院で出会ってから、ずっと心の奥底であなたのことを想ってきた」
「……!」
アルベール様が何を言っているのか。頭と心がまったく追いつかない。混乱している私に言い聞かせるように、アルベール様はゆっくりと話してくれているが、それでも理解できない。
「こんな想いを抱いてはいけないと、すぐに心に蓋をした。第一王子として、ピヴォワンヌの婚約者として、許されることではないと、ずっと自分に言い聞かせてきた」
――アルベール様が、私を想っている?そんなことがあるの?では、ピヴォワンヌ様との婚約解消をした理由は…
私はまだうまく思考ができずにいる。
「しかし、毎朝あなたと挨拶を交わすだけで、あなたの髪が柔らかく揺れるのを視界の端に捉えただけで、クラスメイトと微笑み合うあなたを遠くから見ただけで、私の心はどうしようもないほど弾み、同時に重苦しくて仕方なかった。この気持ちが恋なのだと、私はあなたに出会って初めて知ったんだ」
――そんな都合の良いことが起こるはずがない。アルベール様をずっとこっそりと見つめていたのは、私のはずで…
「長年尽くしてくれたピヴォワンヌとの婚約を自分勝手に解消し、虫が良すぎることは分かっている。一国の王子にこのように言われてしまえば、あなたがどれほど迷惑するか、苦しい立場にしてしまうかも、分かっていた。だから本当は、今日あなたにこの気持ちを告げようとは思ってはいなかったのだ」
――苦し気にアルベール様が気持ちを告白してくださっている。これは本当に現実なの…?
「しかしそれでも、このまま私が真実を告げずにいるのは、私の大切な友人たちがこの場で見せてくれた真摯な姿に対し、あまりにも情けないと思った。私の突然の我儘を受け入れ、私の幸せを祈ると言ってくれた、大事な幼馴染であるピヴォワンヌも、彼女へ包み隠さず想いを告げたナディルも、私のエスコートの申し出を私の将来のためにきっぱり断って見せたあなたも、私などよりよほど勇敢で、誠実であった。私は王子である前に、あなたたちの友として、友に恥じない自分でありたい。だからどうか言わせてくれ」
白百合のブーケを持つ私の手は、いつからかずっと震え続けている。アルベール様は、両手を差し出し、私の指先を包み込むように、そっと優しく触れた。
「リーリエさん、私の心すべてをかけて、あなただけを愛している」
アルベール様の漆黒の瞳が私を映している。その言葉からも、声からも、指先の温かさからも、アルベール様の想いが伝わってくる。アルベール様が、私を愛している。心の中でその言葉を何度も反芻してしまう。
「今の私には、あなたに何も約束することができない。第一王子という立場上、あなたを必ず幸せにするとは言えない。だから、今誓えることは、アルベールという名のひとりの男として、あなたを想うこの気持ちに、一片たりとも嘘偽りがないということだけだ」
アルベール様の真っ直ぐな視線から、これが彼の本心なのだと、ようやく私にも理解ができた。きちんとアルベール様の顔を見たいのに、視界がぼやけて前がよく見えない。
「だから、リーリエさん。今日だけは、ひとりの男として、あなたの隣に立つことを許してもらえないだろうか。私の気持ちに応えてほしいとは、今は言えない。せめて今夜だけ、あなたのエスコートをさせてほしい」
私もアルベール様にしっかりと答えなければならない。こぼれそうな涙を必死に押し留めるためにどうにも恥ずかしい顔をしていると思うけれど、心を奮い立たせて口を開く。
「…アルベール様、誠実なお言葉をありがとうございます。…今、私がすべきことは、このまま何もお答えせず、ただ殿下のお手を取ることだけなのでしょう。…ですが、先ほどのアルベール様のお言葉で、私も心が決まりました。…私も、アルベール様やピヴォワンヌ様、ナディル様、そしてこれまで二年以上の時を共に過ごしてきた大切な友人たちに、恥じない自分でありたいです。だから、私もひとりの女性として、この場で口にすることをどうかお許しください」
最後の勇気が出せずに、一度口を噤んでしまう。思わず俯いた足元には、ターニャがひと針ひと針丁寧に刺繍してくれた白百合の模様が広がっていた。私が自信を持って舞台に立てるよう、自慢の侍女が仕立ててくれた渾身のドレスだ。少しだけ顔を上げると、ウエストに飾られた金色のリボンが目に入る。そして初めて気付く。この金色は、アルベール様の髪と同じ色だと。もう少し顔を上げると、私を心配そうに見守るピヴォワンヌ様とナディル様が見える。お揃いのデザインで仕立てられたピヴォワンヌ様の赤いドレスのリボンは濃い灰色。これはナディル様の瞳の色。
ターニャは、きっと今日何が起きるかを知っていたのだ。知っていて、私が勇気を持てるよう、最高に綺麗に支度をしてくれた。そういえば、辛かったら私を連れて他国へ逃げるとも言ってくれていた。だから私は、失敗したって怖くない。舞台袖に目をやると、ターニャが祈るように手を組んで私を見つめていた。いつも余裕な表情の、何でもできる私の侍女が、本当に心配そうな顔で私を見ている。
反対側の舞台袖では、カイとロータス先生が。生徒たちの列の最前には、イーサン様やエヴリン様も見える。皆が私を安心させるように、大きく手を振ったり、頷いたりしてくれている。再度檀上に視線を戻すと、紅玉の瞳を潤ませ、今にも私の代わりに泣き出しそうなピヴォワンヌ様と、彼女を支えるナディル様。自分の婚約解消とナディル様からの告白では、毅然としていて涙も見せなかったのに、ピヴォワンヌ様は本当にお優しい方だ。そしてナディル様の先ほどの言葉を思い出した。クラスメイトを信じて、私自身の幸せを考えて良いのだと言っていた。
私の周りは、本当に素敵な人ばかりだ。だから、私も勇気を出して…
「…私、リーリエ・ジプソフィラは」
最後の躊躇いで、言葉が止まってしまったけれど、大丈夫。一度深呼吸をして、しっかりとアルベール様の瞳を見つめて告げる。
「…アルベール様を、ずっと前からお慕い申し上げております」
私の言葉が講堂に響いた。心臓がものすごい勢いでドクンドクンと音を立てている。
「…第一王子としての殿下を心から尊敬しておりますが、それ以上にひとりの男性として、お慕いしております。…ずっと、この想いは胸に秘め、決して口には出さないと決めておりました…」
ようやく言えたと思った瞬間に、涙が溢れだしてしまった。その途端に、目の前が真っ暗になった。驚いたが、すぐにそれは黒のジャケットに身を包んだアルベール様の腕の中なのだと分かった。それはとても温かくて、私を周囲から守るように優しい抱擁だった。
アルベール様の腕に包まれている私からは見えないが、わあっという歓声が沸き、たちまち拍手に包まれた。その音から、批難ではなく祝福の声であることが察せられ、安堵の気持ちが広がる。その拍手は、しばらくの間鳴りやまず、その間ずっとアルベール様に抱擁されていた私は、拍手が落ち着いた後には恥ずかしさで消えたくなった。アルベール様に肩を抱かれてしまったので逃げられなかったけれど。
そのとき、ウォッホン、という咳払いのお手本のような音が響いた。ロイヤルボックスから発せられたものだと誰もが理解し、歓声から一転して沈黙が訪れる。国王陛下が立ち上がり、ゆっくりと告げた。
「アルベール、言わねばならぬことは山ほどあるが、今は置いておこう。皆の者、そして来賓としてお越しくだすった方々、愚息がお騒がせしたことをまずは詫びよう。可憐な赤百合の姫と白百合の姫の今宵のエスコート役がようやく決まったようだ。さあ、儀式と学院祭を続けようではないか」
その言葉は、アルベール様がこの後の私のエスコートを務めることを認めるものだった。これから先、どんな未来が待ち受けているのかは分からないが、少なくとも今夜はアルベール様の隣に立つことを、国王陛下が許可してくださったのだ。
陛下の言葉を合図に、再度講堂には大きな歓声が上がり、アルベール様と私を、そしてナディル様とピヴォワンヌ様を祝福する声が響いた。
長かった姫のお披露目が終了し、私たちは双花奉納の儀を進めるため、神殿へと向かうことになる。退場時のエスコートのため、アルベール様が私に左腕を差し出した。夢のようだと思う一方でどうしても畏れ多く感じてしまい、私はそっと触れるか触れないかくらいの力で右手をそっとアルベール様の腕に添えた。
そんな弱々しい私の手の上に、アルベール様の右手が重ねられ、大きく一度ギュッと握られる。大丈夫だと私に伝えるように、力強く。思わず顔を上げると、アルベール様の漆黒の瞳が私を覗き込んでいた。いつも静かで穏やかな、私の大好きな色だ。
「…リーリエさん、ありがとう。今、心の底から嬉しくて、変な顔をしてしまいそうだ。詳しい話と詫びは後でする。さあ、行こう」
耳元で囁かれ、ただでさえ赤くなっていると思われる頬がさらに熱を持ってしまった気がする。でも、この腕に着いていけば心配ないのだと、なぜかとても安心した。ターニャや他のクラスメイトたちも笑顔で拍手をしてくれているのが見える。
不安なことはたくさんあるけれど、今は思いがけず得たこの幸せな時間を、めいっぱい楽しもうと決め、私はアルベール様と共に歩き出すのだった。
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