91 / 92
第5章 記憶
91 恋
しおりを挟む
肩越しに目をやると、眠たそうに煙を吐き出す重松が目に入る。そう、両親の秘密を知ってしまったのは、浅葉がちょうど今の彼ぐらいの年齢だった頃だ。
「俺も年とったな……」
アメリカの高校では、周りは当然のようにマリファナを吸っていた。オレゴン州でも当時は違法だったにもかかわらず……。
浅葉は、酒、煙草、賭博、女こそ日本で中学時代に覚えていたものの、違法薬物という線引きだけは根深く刷り込まれており、未だに一度も手を出していない。自分の中に論理的な根拠は見当たらず、認めたくはなかったが、どう考えても亡き父の職業の影響だった。
カリフォルニアに移り、二十歳になった浅葉は、仲の良かった友人がハードドラッグに手を染め、心身共に変わり果ててゆくのを目の当たりにした。こんな風に人としての尊厳を失い、地の底に堕ち、廃人と化してゆくことこそが何よりの罰なのだという気がした。
やめさせようにも浅葉の手には負えず、他の友達は次々と彼を見放した。浅葉が彼の母親と相談して警察に通報した結果、最終的に彼は回復施設に入れられたらしいが、それで全てが解決するとは到底思えなかった。
「罪と罰、か……」
一人の女性を図らずも痛めつけた挙句、いわく付きの取引の阻止に失敗した過去が重くのしかかってくる。周りは皆、最善を尽くしたが叶わなかったというムードだった。
しかし、そこに最善など尽くされていなかったことを、浅葉だけが知っていた。浅葉自身の私情が彼女に深い傷を負わせ、社会をも危険にさらしかけたのだ。
それでも、天は浅葉を見放さなかった。いや、少なくとも浅葉自身がそう感じた瞬間があった。犯した罪をなかったことにはできないが、その後に辿る道には己の手で改める余地があるのだと、神の慈悲を受けた思いだった。
だが、神が浅葉に与えたもうたその後の人生は、胸をえぐられるような思いをしながら生き続けなければならない時間でもあった。
未練を振り切って新たなスタートを切ろうと思えば、可能なのかもしれない。それがもし叶うとすれば、唯一の方法は、このまま今からまっすぐ、病院にいる彼女を訪ねること。
それだけのことが、できる気がしなかった。もちろん彼女は失った記憶を近いうちに取り戻すかもしれない。あるいは思い出せなくても、再び好意を抱いてくれるかもしれない。その一方で、結局二度と結ばれない可能性もまた否定できなかった。
「だから何だ。どこにでもある失恋じゃないのか……」
浅葉は、だいぶ古びた天井を見上げた。彼女にとっては決して悪い話ではない。浅葉のせいで危険な目に遭い、苦しみ、悲しんだ一年分の記憶。そんなものは失った方が彼女のためだ。浅葉を知らない一年前の自分に戻り、何事もなかったかのように幸せに生きていけばいい。
また酸っぱいものが込み上げそうになる。左胸に指を滑らせ、上着のポケットに入った鍵の輪郭を辿る。彼女の目の前で取り出すわけにはいかなかった、あの部屋の鍵だ。
遠い昔にこれを手渡された時のことを思い出す。端の穴には彼女自身が付けた細いリング。その先には、浅葉が通した一回り小さなもう一つの輪が連なっている。彼女の華奢な指をつい思い浮かべた。
その誓いを掌で覆うと、無意識にその向こうの鼓動を探した。こんな時にばかり聞こえてくるあの声が、頭の中でこだまする。
――秀治、先に進めないのはびびってるからだぞ……。
「そうかもな……」
浅葉は思わずニヒルな笑いをこぼした。
昔は、強靭な意志の力と健康な体さえあれば大抵のことは叶う気がしていた。しかし浅葉は知ってしまった。これ以上あり得ないほどの幸福を一度味わってしまうと、それを失う勇気などそうそう持てないということを。人間とは弱いものだと、今はつくづく思う。
「びびってる、か……もう何とでも言ってくれ。これ以外に一体どういう償い方があるっていうんだ……」
自分自身に言い聞かせるようにそう呟き、浅葉はゆらりと立ち上がった。
透き通った扉に近付くと、その姿を目にした重松が慌てて吸いさしを灰皿に押し付け、黙って頭を下げて出て行った。
浅葉は扉を閉めると、煙たい部屋に一人佇み、内ポケットから煙草の箱を取り出そうとして、やめた。
壁にもたれると、急に視界が開けるような感覚を覚えた。
波の音が聞こえる。砂の匂い。カモメの声。日に焼けた肌を癒やす乾いた風。そして隣には、お前がいる。
浅葉は拳を握り締めた。
会いに行く。俺のことを知らないお前に……。
「俺も年とったな……」
アメリカの高校では、周りは当然のようにマリファナを吸っていた。オレゴン州でも当時は違法だったにもかかわらず……。
浅葉は、酒、煙草、賭博、女こそ日本で中学時代に覚えていたものの、違法薬物という線引きだけは根深く刷り込まれており、未だに一度も手を出していない。自分の中に論理的な根拠は見当たらず、認めたくはなかったが、どう考えても亡き父の職業の影響だった。
カリフォルニアに移り、二十歳になった浅葉は、仲の良かった友人がハードドラッグに手を染め、心身共に変わり果ててゆくのを目の当たりにした。こんな風に人としての尊厳を失い、地の底に堕ち、廃人と化してゆくことこそが何よりの罰なのだという気がした。
やめさせようにも浅葉の手には負えず、他の友達は次々と彼を見放した。浅葉が彼の母親と相談して警察に通報した結果、最終的に彼は回復施設に入れられたらしいが、それで全てが解決するとは到底思えなかった。
「罪と罰、か……」
一人の女性を図らずも痛めつけた挙句、いわく付きの取引の阻止に失敗した過去が重くのしかかってくる。周りは皆、最善を尽くしたが叶わなかったというムードだった。
しかし、そこに最善など尽くされていなかったことを、浅葉だけが知っていた。浅葉自身の私情が彼女に深い傷を負わせ、社会をも危険にさらしかけたのだ。
それでも、天は浅葉を見放さなかった。いや、少なくとも浅葉自身がそう感じた瞬間があった。犯した罪をなかったことにはできないが、その後に辿る道には己の手で改める余地があるのだと、神の慈悲を受けた思いだった。
だが、神が浅葉に与えたもうたその後の人生は、胸をえぐられるような思いをしながら生き続けなければならない時間でもあった。
未練を振り切って新たなスタートを切ろうと思えば、可能なのかもしれない。それがもし叶うとすれば、唯一の方法は、このまま今からまっすぐ、病院にいる彼女を訪ねること。
それだけのことが、できる気がしなかった。もちろん彼女は失った記憶を近いうちに取り戻すかもしれない。あるいは思い出せなくても、再び好意を抱いてくれるかもしれない。その一方で、結局二度と結ばれない可能性もまた否定できなかった。
「だから何だ。どこにでもある失恋じゃないのか……」
浅葉は、だいぶ古びた天井を見上げた。彼女にとっては決して悪い話ではない。浅葉のせいで危険な目に遭い、苦しみ、悲しんだ一年分の記憶。そんなものは失った方が彼女のためだ。浅葉を知らない一年前の自分に戻り、何事もなかったかのように幸せに生きていけばいい。
また酸っぱいものが込み上げそうになる。左胸に指を滑らせ、上着のポケットに入った鍵の輪郭を辿る。彼女の目の前で取り出すわけにはいかなかった、あの部屋の鍵だ。
遠い昔にこれを手渡された時のことを思い出す。端の穴には彼女自身が付けた細いリング。その先には、浅葉が通した一回り小さなもう一つの輪が連なっている。彼女の華奢な指をつい思い浮かべた。
その誓いを掌で覆うと、無意識にその向こうの鼓動を探した。こんな時にばかり聞こえてくるあの声が、頭の中でこだまする。
――秀治、先に進めないのはびびってるからだぞ……。
「そうかもな……」
浅葉は思わずニヒルな笑いをこぼした。
昔は、強靭な意志の力と健康な体さえあれば大抵のことは叶う気がしていた。しかし浅葉は知ってしまった。これ以上あり得ないほどの幸福を一度味わってしまうと、それを失う勇気などそうそう持てないということを。人間とは弱いものだと、今はつくづく思う。
「びびってる、か……もう何とでも言ってくれ。これ以外に一体どういう償い方があるっていうんだ……」
自分自身に言い聞かせるようにそう呟き、浅葉はゆらりと立ち上がった。
透き通った扉に近付くと、その姿を目にした重松が慌てて吸いさしを灰皿に押し付け、黙って頭を下げて出て行った。
浅葉は扉を閉めると、煙たい部屋に一人佇み、内ポケットから煙草の箱を取り出そうとして、やめた。
壁にもたれると、急に視界が開けるような感覚を覚えた。
波の音が聞こえる。砂の匂い。カモメの声。日に焼けた肌を癒やす乾いた風。そして隣には、お前がいる。
浅葉は拳を握り締めた。
会いに行く。俺のことを知らないお前に……。
0
お気に入りに追加
122
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
隠れドS上司をうっかり襲ったら、独占愛で縛られました
加地アヤメ
恋愛
商品企画部で働く三十歳の春陽は、周囲の怒涛の結婚ラッシュに財布と心を痛める日々。結婚相手どころか何年も恋人すらいない自分は、このまま一生独り身かも――と盛大に凹んでいたある日、酔った勢いでクールな上司・千木良を押し倒してしまった!? 幸か不幸か何も覚えていない春陽に、全てなかったことにしてくれた千木良。だけど、不意打ちのように甘やかしてくる彼の思わせぶりな言動に、どうしようもなく心と体が疼いてしまい……。「どうやら私は、かなり独占欲が強い、嫉妬深い男のようだよ」クールな隠れドS上司をうっかりその気にさせてしまったアラサー女子の、甘すぎる受難!
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
イケメン彼氏は警察官!甘い夜に私の体は溶けていく。
すずなり。
恋愛
人数合わせで参加した合コン。
そこで私は一人の男の人と出会う。
「俺には分かる。キミはきっと俺を好きになる。」
そんな言葉をかけてきた彼。
でも私には秘密があった。
「キミ・・・目が・・?」
「気持ち悪いでしょ?ごめんなさい・・・。」
ちゃんと私のことを伝えたのに、彼は食い下がる。
「お願いだから俺を好きになって・・・。」
その言葉を聞いてお付き合いが始まる。
「やぁぁっ・・!」
「どこが『や』なんだよ・・・こんなに蜜を溢れさせて・・・。」
激しくなっていく夜の生活。
私の身はもつの!?
※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
隠れ御曹司の手加減なしの独占溺愛
冬野まゆ
恋愛
老舗ホテルのブライダル部門で、チーフとして働く二十七歳の香奈恵。ある日、仕事でピンチに陥った彼女は、一日だけ恋人のフリをするという条件で、有能な年上の部下・雅之に助けてもらう。ところが約束の日、香奈恵の前に現れたのは普段の冴えない彼とは似ても似つかない、甘く色気のある極上イケメン! 突如本性を露わにした彼は、なんと自分の両親の前で香奈恵にプロポーズした挙句、あれよあれよと結婚前提の恋人になってしまい――!? 「誰よりも大事にするから、俺と結婚してくれ」恋に不慣れな不器用OLと身分を隠したハイスペック御曹司の、問答無用な下克上ラブ!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる