君の思い出

生津直

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第5章 記憶

85 任務

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 千尋はしばらく個室で待たされた後、打ち合わせに呼ばれた。

 浅葉、長尾に続いて現れた二人の男性は、今日共に現場に向かう刑事だという。天パの方は中川なかがわ、丸刈りは小谷こたにと名乗った。

 現場での流れについてひと通り説明を受け、いざ二台の車に分かれて現場に向かうことになった。浅葉は千尋の方を見向きもせず、駐車場へと歩き出す。

 浅葉は、中川と小谷の車に千尋を乗せるよう指示し、自分の車には長尾だけを同乗させた。

 メンバーは四人と少数ながら、精鋭で固めているという話だ。交渉現場となるのは、人気ひとけの絶えたオフィスビルの地下駐車場。

 今朝出所したばかりの宇田川は、そのビルのどこかで今、大事な恩人に会っている。出所報告を終えて出てきたところを囲んで話をつけるというのが浅葉の計画らしい。

 千尋は到着早々、当初の予定が変更になり、浅葉の代わりに長尾が千尋のそばに付くと長尾から聞かされた。千尋はそれを聞いて不安がつのるような、却ってほっとしたような、複雑な気分だった。

 各々配置にいて待つこと約四十分。駐車場の奥の鉄扉が開く音が聞こえ、千尋は車の後部座席に横たわったまま身を固くした。数人の足音が響く。



 その音が通路の反対側の車までやってきた時、運転席で体を低くしていた長尾は慎重に扉を開けた。男たちが一斉に足を止める。

 長尾は警察手帳を高々と掲げてゆっくりと車を降りた。宇田川の顔に不敵な笑みが広がる。

「これはこれは」

 用心棒らしき黒いスーツの三人に緊張が走った。

「いや、刑事ならむしろ安心だ。どうせ無実の人間には手出しできないからな。ここはいい」

と宇田川がその三人に目くばせし、彼らは何食わぬ顔で三方向へと歩き出した。

 もっと別の危険を警戒してお前らは周りをきっちり固めておけ、という意味だったに違いないが、警察の前でそうはっきり言ってしまっては銃器の所持を白状するようなものだ。所持品検査はあくまで任意。要求されても拒否するつもりだろう。しかし警察も今日はそんな用件でここに来ているのではない。

 長尾は車の脇から通路へと移動し、三台先に停めてある車に手を上げて合図した。その運転席から小谷が出てくる。宇田川は長尾と小谷に挟まれる形になり、愛想笑いと共に言った。

「こんな日に職務質問とはね。断ればそれをダシにあれこれほじくり返すつもりでしょう。一体何の用です?」

「質問じゃない、大至急お知らせだ」

と前置きし、長尾は本題に踏み込んだ。

麻紀勢まきせ組で、田辺千尋の誘拐計画が持ち上がってる」

 これは浅葉が捏造ねつぞうした筋書きだが、実際あり得ない話ではない。

 千尋の名を聞いた宇田川が内心の動揺を悟られまいとする表情を、長尾は見逃さなかった。

「本来なら警察がこんな情報を流す義理はない。ただ、お宅で計画中の取引の中止を指示すれば、麻紀勢組を別件で挙げるまで、田辺千尋は警察で護衛してやる。やめないというなら先方の好きにさせるまでだ。連中の無法ぶりはお宅の方がよく知ってるだろ」

「取引……何のことですかな?」

 宇田川は当然ながらしらを切る。そうなることがわかっていたからこそ、一発でこいつを揺さぶるべく、いつも以上に入念に情報の裏を取ったのだ。

「残念ながらハッタリじゃないんだ、これが。九月十八日、場所は隆静会りゅうせいかいの第二事務所、だろ?」

 宇田川はわずかに目を細めただけで、即答を避けた。

「心当たりないはずはないよな?」

と長尾が詰め寄ると、宇田川はさりげなくを取りながらゆっくりと返す。

「取引と呼ばれるようなことは一切……」

 長尾はそれをさえぎり、

「何と呼ぼうと好きにしろ。趣旨が何であれ、その集合を取りやめろと言ってんだ。でなけりゃ、田辺千尋の身の安全については警察では面倒見ない」

 長尾は宇田川の表情を注視していた。動じないふりをしつつも素早く頭を回転させているのがわかる。長尾はさらに畳みかけた。

「お宅のメンバーだけで守り切れるか? 優秀な奴ほど引き抜かれちまって、ちょいと心許こころもとないんじゃないのか?」

 宇田川は口元だけの笑みを作る。

「何か勘違いしてませんか。なぜ私がそんなことを気にしなきゃならないんです?」

 読み通りの展開だった。長尾は予定通り次の行動を起こす。

「さて、いつまで強がってられるかな?」

 長尾は先ほど降りてきた車の後部座席のドアを開いた。そこからおずおずと姿を現した千尋の姿を、宇田川が一瞬でそれと見分けたことは長尾にもはっきりとわかった。

 時々部下に様子を確認させ、密かに写真まで撮らせているという噂は本当だったらしい。受刑中は検閲があるから、さすがに盗み撮りした写真を送らせることはできなかっただろうが、六年前の写真を見ていれば十分見分けはつくはずだ。

 千尋は車と長尾の間にたたずみ、宇田川の目を直視できないまま、その姿に視線を泳がせていた。

 何の変哲へんてつもないグレーのスーツ。ごま塩の髪を短く刈り込み、レンズに薄く色の付いたメタルフレームの眼鏡をかけている。

 昨日見せられた写真にあった口髭くちひげは、綺麗さっぱりり落とされていた。髭がなくなってみると、そこには昔の面影がよりはっきりと表れた。ただ、当然ながら十七年分、年をとっている。

 長い沈黙を経て、宇田川がようやく口を開いた。

「本人だという証拠は?」

 駆け引きに出たな、と長尾は気を引き締めた。

「確信持てなくても無理はないが、別人をこんな危ない場所に連れてくると金がかかるんだ」

「直接話をさせてくれ」

と宇田川が一歩前へ踏み出すと、小谷が腰の拳銃に手をやる。長尾はそれを手で制して、

「いいだろう」

と応じ、千尋を促して宇田川の方へと歩み寄った。

 その時、宇田川が上着のふところに素早く手を入れた。

 咄嗟とっさに拳銃を抜いた長尾の手を、宇田川が蹴り上げる。

 長尾の手からすべり落ちた拳銃を、すかさず拾い上げる宇田川。その背後で小谷が銃を構えて叫んだ。

「動くな。銃を捨てろ!」

 しかし、宇田川の動きも素早かった。

「あっ!」

 千尋は短い悲鳴を上げた。宇田川に両腕ごと腹を抱き抱えられ、身動きが取れない。

「お前が捨てろ」

と宇田川は振り向き、手にした拳銃を千尋のこめかみに突き付けた。

 千尋は呼吸を忘れて全身を緊張させる。まさか撃ちなどしない。そんなことはできるはずがない、と、呪文のように胸の内で唱え続けた。
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