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第5章 記憶
84 覚悟
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九月二日。田辺千尋は、万一に備えて動きやすい服装で、という坂口からの指示通り、着古したスラックスとスニーカーで警察署に現れた。長尾が先ほど見かけた時には、泣き腫らしたような目が痛々しかったが、それでも背筋をぴんと伸ばし、健気に前を向いていた。
昨日の田辺へのブリーフィングの時、浅葉は田辺の説得材料になるはずの重大な事実に敢えて触れず、長尾には「何か付け足すことがあるなら、後は任せる」と言って部屋を出た。
長尾はしばし迷った末、田辺には「いろいろ難しいと思うけど、ゆっくり考えてね」とだけ声をかけて浅葉の後を追った。
警察は間違いなく彼女の助けを必要としている。躊躇させるようなことはなるべく言わず、協力に傾かせるための情報は極力告げておきたい。あれはそういう場だった。
浅葉だって自らこの戦法を強く推した以上、田辺が引き受けてくれることを想定し、期待してもいたはず。だが、恋人を前にしてどんな思いでブリーフィングの中身を取捨選択したのか……。
それを考えると、十五年前に浅葉の父親が警部として抗争収拾のために出動し、その現場で殉職したという経緯を「付け足す」ことは長尾にはできなかった。それを知れば彼女は、断りたくても断れない状況へと追い込まれてしまう。今朝、田辺がこの依頼を引き受けたと聞いた時、長尾は心底安堵した。
長尾は、配置や段取りの最終確認をそろそろ始めたかったが、浅葉が見当たらない。
「さては……」
案の定、ガラス張りの喫煙室にその姿があった。
浅葉は普段全く吸わない。ただ、目の前の事件に何か不安要素がある時、現場に向かう前に喫煙室を使うことがあった。儀式のようなものなのだろう。浅葉が喫煙室に入ったら他の者は出ていくこと、浅葉が自ら出てくるまでは話しかけないことが暗黙の了解になっていた。
「しかし、長いな」
長尾がしびれを切らしてガラス越しに覗くと、浅葉は二本目に火を付けているところだった。普段ならこもっても五分程度。煙草もせいぜい火を付けてくわえる程度なのだが、今日はやけに深々と吸い込んでいる様子だ。
長尾の経験上、一度喫煙室に入り、そして出てきた浅葉にはそれ以降何の心配もないとわかっていたが、いつまでも出てこない浅葉など初めてだ。そのストライプのスーツの背中を眺めながら、現場でブレんのだけは勘弁してくれよ、とぼやく。
これまでそんな心配をしたことはない。感情も私生活も全く匂わせない浅葉は、長尾にとって最高の相棒だった。しかし、浅葉も恋をするらしいという新しい概念が長尾の脳にインプットされた今、長年慣れ親しんできた法則がどこまで頼りになるのかは未知数だ。
生半可な気持ちでわざわざこんな相手を選ぶとは思えない。浅葉も人の子だ。個人的な感情から一瞬の迷いが生じることもないとは言えない。そうなれば全員の命に関わる可能性だってある。
「できないなら下りろと言ってやろうか……」
今それを言ってやれるのは長尾しかいない。しかし、そう簡単に代わりが見つかるぐらいなら苦労しないのも確かだ。宇田川は、浅葉が長いことこだわり続けてきた男だった。
長尾が頭を抱えかけた時、扉が開いた。煙の匂いと共に浅葉が現れる。その表情に苦悩の色はなかった。長尾に対して何かと容赦のない、いつもの浅葉の顔。
こうなったらもう長尾が気を揉むことはマイナスにしかならない。命が惜しければ浅葉を信じろ、と長尾は自分に言い聞かせた。
昨日の田辺へのブリーフィングの時、浅葉は田辺の説得材料になるはずの重大な事実に敢えて触れず、長尾には「何か付け足すことがあるなら、後は任せる」と言って部屋を出た。
長尾はしばし迷った末、田辺には「いろいろ難しいと思うけど、ゆっくり考えてね」とだけ声をかけて浅葉の後を追った。
警察は間違いなく彼女の助けを必要としている。躊躇させるようなことはなるべく言わず、協力に傾かせるための情報は極力告げておきたい。あれはそういう場だった。
浅葉だって自らこの戦法を強く推した以上、田辺が引き受けてくれることを想定し、期待してもいたはず。だが、恋人を前にしてどんな思いでブリーフィングの中身を取捨選択したのか……。
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長尾は、配置や段取りの最終確認をそろそろ始めたかったが、浅葉が見当たらない。
「さては……」
案の定、ガラス張りの喫煙室にその姿があった。
浅葉は普段全く吸わない。ただ、目の前の事件に何か不安要素がある時、現場に向かう前に喫煙室を使うことがあった。儀式のようなものなのだろう。浅葉が喫煙室に入ったら他の者は出ていくこと、浅葉が自ら出てくるまでは話しかけないことが暗黙の了解になっていた。
「しかし、長いな」
長尾がしびれを切らしてガラス越しに覗くと、浅葉は二本目に火を付けているところだった。普段ならこもっても五分程度。煙草もせいぜい火を付けてくわえる程度なのだが、今日はやけに深々と吸い込んでいる様子だ。
長尾の経験上、一度喫煙室に入り、そして出てきた浅葉にはそれ以降何の心配もないとわかっていたが、いつまでも出てこない浅葉など初めてだ。そのストライプのスーツの背中を眺めながら、現場でブレんのだけは勘弁してくれよ、とぼやく。
これまでそんな心配をしたことはない。感情も私生活も全く匂わせない浅葉は、長尾にとって最高の相棒だった。しかし、浅葉も恋をするらしいという新しい概念が長尾の脳にインプットされた今、長年慣れ親しんできた法則がどこまで頼りになるのかは未知数だ。
生半可な気持ちでわざわざこんな相手を選ぶとは思えない。浅葉も人の子だ。個人的な感情から一瞬の迷いが生じることもないとは言えない。そうなれば全員の命に関わる可能性だってある。
「できないなら下りろと言ってやろうか……」
今それを言ってやれるのは長尾しかいない。しかし、そう簡単に代わりが見つかるぐらいなら苦労しないのも確かだ。宇田川は、浅葉が長いことこだわり続けてきた男だった。
長尾が頭を抱えかけた時、扉が開いた。煙の匂いと共に浅葉が現れる。その表情に苦悩の色はなかった。長尾に対して何かと容赦のない、いつもの浅葉の顔。
こうなったらもう長尾が気を揉むことはマイナスにしかならない。命が惜しければ浅葉を信じろ、と長尾は自分に言い聞かせた。
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