79 / 92
第4章 苦悩
79 哀哭
しおりを挟む
千尋は少し落ち着きを取り戻すと、上がり口に置かれていたバッグから携帯を取り出した。三枚目の写真を選び、黙って手渡す。
浅葉は画面にほんの一瞬目を落としただけで、表情ひとつ変えずにパタンとカバーを閉じてしまった。
千尋には、自分が浅葉のどんな反応を期待しているのかわからなかった。だから何だ、と正論を盾にする浅葉に自分の怒りをぶつけたいのか、傷付けてすまない、という言葉で全てをリセットしたいのか……。しかし浅葉が発した言葉は、そのどちらでもなかった。
「この写真、どこで手に入れたんだ?」
刑事の顔だった。声は落ち着いていたが、答えを既に知っているとでもいうようなそのトーンに千尋はひるんだ。ごまかさないで、と言い返したいところだが、浅葉に非がないのはわかっていた。あくまで仕事をしていただけなのだ。
「友達が撮ったの」
「友達?」
「高校の同級生」
「念のため聞くけど、その友達は、知ってるのか? 俺があの店で本当は何をしてたのか」
遠回しだった。俺が刑事だってこと喋ったんじゃないだろうな、と問い詰められた方がまだ気が楽だ。
「ううん、言ってない。気付いてもいないと思う」
どこからどう見てもヤクザだったから、とは言わなかった。
浅葉は再びカバーを開き、次々と写真を繰り始めた。千尋はその横顔をぼんやり眺めるばかりだった。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。気付くと、目の前に携帯が差し出されていた。
見上げると、それはもう職務にあたる刑事の姿ではなかった。千尋が激昂のあまり忘れかけていた恋人の顔。やるせない「好き」を灯した眼差しに、深い憂いの影が落ちていた。こんな人に私は何をしようとしていたのだろう、と千尋は我に返りつつあった。
携帯を受け取りながら、千尋は浅葉自身の痛みを思った。捜査対象に身分がバレれば命に関わるかもしれない。もし自分が仕事でそういう状況に置かれたら……という千尋なりのシミュレーションは、その先へ進むことができなかった。
結局、この件について浅葉がそれ以上口を開くことはなかった。弁解しようと、開き直ろうと、ちゃかそうと、誰の得にもならないと悟り切っているようだった。
浅葉は腕の時計に目をやり、短くため息をついた。千尋のバイトが終わる時間を見計らって、無理やり抜けてきたのかもしれない。千尋が電話を無視し続けたばかりに……。
浅葉は何か言いかけたように見えたが、その代わりに玄関口に膝をつくと、座り込んだままの千尋の頬にそっと手を当てた。その手に、何の言い訳もしなかった浅葉の全てが詰まっているような気がした。
千尋の涙の跡を親指でそっとなぞり、浅葉は重そうに目を伏せた。その目を再び上げると、
「おやすみ」
と言って立ち上がり、ドアを押し開けた。それを追うように、千尋も慌てて立ち上がった。
浅葉は廊下を足早に歩きながら、電話をかけ始める。千尋はその後ろ姿を見送り、階段を駆け降りる足音を聞いていた。程なく車が走り出した。
たった今この部屋にいた浅葉が靴を脱ぐことすらなく去っていったことに、全てがこれで終わりになってしまうような気がしてくる。
浅葉は自分の仕事のせいで千尋を傷付けていることなど百も二百も承知なのだ。神経を擦り減らして全うした任務について文句を言われるために、疲れと重い心を引きずり、ありもしない時間を費やしてここまでやってきた浅葉を、なぜ何も知らないふりをして迎え、癒してやれなかったのだろう。
今この手にある携帯だけが浅葉との繋がりのように思えて、千尋は無意識に件の写真を探していた。だが、それはこの小さな機械からも、ちょうど開いてあったクラウドの保存場所からも、完全に消し去られていた。
突然、サイレンのようなけたたましい音が鳴り響く。それが自分の声だと気付いた時には、視界の全てが水没していた。泣き叫ぶことでしか呼吸ができなかった。
たった一本の命綱をつかむような思いで、千尋は番号を繰った。発信ボタンを押しながら、ベッドに崩れ落ちる。
本人に届くことのないその電話は、空しく鳴り続けた。二人の甘い思い出が残る、あの部屋で。
浅葉は画面にほんの一瞬目を落としただけで、表情ひとつ変えずにパタンとカバーを閉じてしまった。
千尋には、自分が浅葉のどんな反応を期待しているのかわからなかった。だから何だ、と正論を盾にする浅葉に自分の怒りをぶつけたいのか、傷付けてすまない、という言葉で全てをリセットしたいのか……。しかし浅葉が発した言葉は、そのどちらでもなかった。
「この写真、どこで手に入れたんだ?」
刑事の顔だった。声は落ち着いていたが、答えを既に知っているとでもいうようなそのトーンに千尋はひるんだ。ごまかさないで、と言い返したいところだが、浅葉に非がないのはわかっていた。あくまで仕事をしていただけなのだ。
「友達が撮ったの」
「友達?」
「高校の同級生」
「念のため聞くけど、その友達は、知ってるのか? 俺があの店で本当は何をしてたのか」
遠回しだった。俺が刑事だってこと喋ったんじゃないだろうな、と問い詰められた方がまだ気が楽だ。
「ううん、言ってない。気付いてもいないと思う」
どこからどう見てもヤクザだったから、とは言わなかった。
浅葉は再びカバーを開き、次々と写真を繰り始めた。千尋はその横顔をぼんやり眺めるばかりだった。
どれぐらいの時間が経ったのだろう。気付くと、目の前に携帯が差し出されていた。
見上げると、それはもう職務にあたる刑事の姿ではなかった。千尋が激昂のあまり忘れかけていた恋人の顔。やるせない「好き」を灯した眼差しに、深い憂いの影が落ちていた。こんな人に私は何をしようとしていたのだろう、と千尋は我に返りつつあった。
携帯を受け取りながら、千尋は浅葉自身の痛みを思った。捜査対象に身分がバレれば命に関わるかもしれない。もし自分が仕事でそういう状況に置かれたら……という千尋なりのシミュレーションは、その先へ進むことができなかった。
結局、この件について浅葉がそれ以上口を開くことはなかった。弁解しようと、開き直ろうと、ちゃかそうと、誰の得にもならないと悟り切っているようだった。
浅葉は腕の時計に目をやり、短くため息をついた。千尋のバイトが終わる時間を見計らって、無理やり抜けてきたのかもしれない。千尋が電話を無視し続けたばかりに……。
浅葉は何か言いかけたように見えたが、その代わりに玄関口に膝をつくと、座り込んだままの千尋の頬にそっと手を当てた。その手に、何の言い訳もしなかった浅葉の全てが詰まっているような気がした。
千尋の涙の跡を親指でそっとなぞり、浅葉は重そうに目を伏せた。その目を再び上げると、
「おやすみ」
と言って立ち上がり、ドアを押し開けた。それを追うように、千尋も慌てて立ち上がった。
浅葉は廊下を足早に歩きながら、電話をかけ始める。千尋はその後ろ姿を見送り、階段を駆け降りる足音を聞いていた。程なく車が走り出した。
たった今この部屋にいた浅葉が靴を脱ぐことすらなく去っていったことに、全てがこれで終わりになってしまうような気がしてくる。
浅葉は自分の仕事のせいで千尋を傷付けていることなど百も二百も承知なのだ。神経を擦り減らして全うした任務について文句を言われるために、疲れと重い心を引きずり、ありもしない時間を費やしてここまでやってきた浅葉を、なぜ何も知らないふりをして迎え、癒してやれなかったのだろう。
今この手にある携帯だけが浅葉との繋がりのように思えて、千尋は無意識に件の写真を探していた。だが、それはこの小さな機械からも、ちょうど開いてあったクラウドの保存場所からも、完全に消し去られていた。
突然、サイレンのようなけたたましい音が鳴り響く。それが自分の声だと気付いた時には、視界の全てが水没していた。泣き叫ぶことでしか呼吸ができなかった。
たった一本の命綱をつかむような思いで、千尋は番号を繰った。発信ボタンを押しながら、ベッドに崩れ落ちる。
本人に届くことのないその電話は、空しく鳴り続けた。二人の甘い思い出が残る、あの部屋で。
0
お気に入りに追加
121
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない
月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。
人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。
2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる