君の思い出

生津直

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第4章 苦悩

79 哀哭

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 千尋は少し落ち着きを取り戻すと、上がり口に置かれていたバッグから携帯を取り出した。三枚目の写真を選び、黙って手渡す。

 浅葉は画面にほんの一瞬目を落としただけで、表情ひとつ変えずにパタンとカバーを閉じてしまった。

 千尋には、自分が浅葉のどんな反応を期待しているのかわからなかった。だから何だ、と正論を盾にする浅葉に自分の怒りをぶつけたいのか、傷付けてすまない、という言葉で全てをリセットしたいのか……。しかし浅葉が発した言葉は、そのどちらでもなかった。

「この写真、どこで手に入れたんだ?」

 刑事の顔だった。声は落ち着いていたが、答えを既に知っているとでもいうようなそのトーンに千尋はひるんだ。ごまかさないで、と言い返したいところだが、浅葉に非がないのはわかっていた。あくまで仕事をしていただけなのだ。

「友達が撮ったの」

「友達?」

「高校の同級生」

「念のため聞くけど、その友達は、知ってるのか? 俺があの店で本当は何をしてたのか」

 遠回しだった。俺が刑事だってことしゃべったんじゃないだろうな、と問い詰められた方がまだ気が楽だ。

「ううん、言ってない。気付いてもいないと思う」

 どこからどう見てもヤクザだったから、とは言わなかった。

 浅葉は再びカバーを開き、次々と写真を繰り始めた。千尋はその横顔をぼんやり眺めるばかりだった。

 どれぐらいの時間が経ったのだろう。気付くと、目の前に携帯が差し出されていた。

 見上げると、それはもう職務にあたる刑事の姿ではなかった。千尋が激昂のあまり忘れかけていた恋人の顔。やるせない「好き」をともした眼差しに、深い憂いの影が落ちていた。こんな人に私は何をしようとしていたのだろう、と千尋は我に返りつつあった。

 携帯を受け取りながら、千尋は浅葉自身の痛みを思った。捜査対象に身分がバレれば命に関わるかもしれない。もし自分が仕事でそういう状況に置かれたら……という千尋なりのシミュレーションは、その先へ進むことができなかった。

 結局、この件について浅葉がそれ以上口を開くことはなかった。弁解しようと、開き直ろうと、ちゃかそうと、誰の得にもならないと悟り切っているようだった。

 浅葉は腕の時計に目をやり、短くため息をついた。千尋のバイトが終わる時間を見計らって、無理やり抜けてきたのかもしれない。千尋が電話を無視し続けたばかりに……。

 浅葉は何か言いかけたように見えたが、その代わりに玄関口に膝をつくと、座り込んだままの千尋の頬にそっと手を当てた。その手に、何の言い訳もしなかった浅葉の全てが詰まっているような気がした。

 千尋の涙の跡を親指でそっとなぞり、浅葉は重そうに目を伏せた。その目を再び上げると、

「おやすみ」

と言って立ち上がり、ドアを押し開けた。それを追うように、千尋も慌てて立ち上がった。

 浅葉は廊下を足早に歩きながら、電話をかけ始める。千尋はその後ろ姿を見送り、階段を駆け降りる足音を聞いていた。程なく車が走り出した。

 たった今この部屋にいた浅葉が靴を脱ぐことすらなく去っていったことに、全てがこれで終わりになってしまうような気がしてくる。

 浅葉は自分の仕事のせいで千尋を傷付けていることなど百も二百も承知なのだ。神経を擦り減らして全うした任務について文句を言われるために、疲れと重い心を引きずり、ありもしない時間を費やしてここまでやってきた浅葉を、なぜ何も知らないふりをして迎え、癒してやれなかったのだろう。

 今この手にある携帯だけが浅葉との繋がりのように思えて、千尋は無意識にくだんの写真を探していた。だが、それはこの小さな機械からも、ちょうど開いてあったクラウドの保存場所からも、完全に消し去られていた。

 突然、サイレンのようなけたたましい音が鳴り響く。それが自分の声だと気付いた時には、視界の全てが水没していた。泣き叫ぶことでしか呼吸ができなかった。

 たった一本の命綱をつかむような思いで、千尋は番号をった。発信ボタンを押しながら、ベッドに崩れ落ちる。

 本人に届くことのないその電話は、むなしく鳴り続けた。二人の甘い思い出が残る、あの部屋で。
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