君の思い出

生津直

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第1章 護衛

8  狙撃

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 九月八日。今日の浅葉はこれまでのスーツ姿とは打って変わって、カジュアルな黒のシャツとジーパン姿でハンドルを握っていた。手頃な駅前で車を停め、後部座席の千尋の方を見やる。千尋は覚悟を決め、黙って一つうなずいた。

 事前に説明された手順は明快。ここから普段の通学ルートに合流し、電車を乗り換えて大学に向かう。図書館で三十分ほど時間をつぶし、この駅に戻ってきて改札横のカフェに入り長尾を待つ。途中で知り合いに会ったら成り行きに任せてよいが、最終的にこの駅に戻る予定は守る。あくまでいつも通りに振る舞い、長尾の方を決して振り返らないこと。伏せろと言われたら伏せること。

 千尋は深呼吸を一つすると、車を降り、ドアを閉めた。長尾が、

「じゃ、行ってくるわ」

と浅葉に声を掛ける。バックミラーの中から、二つの目が長尾を捉えていた。締まってかかれ、という顔だ。長尾は、

「わかってるよ。俺だってこんなやり方に賛成した覚えはねえからな」

と車を降りる。千尋はちょうど改札を抜けるところだった。



 よく晴れた月曜の午前十一時。学生達は夏休みでもあり、ホームは結構な混雑だ。千尋には長尾の気配は全く感じられなかったが、きょろきょろと探すわけにもいかない。

(ほんとに近くにいるのかな……)

 平常心、平常心、と自分に言い聞かせ、千尋は電車に乗る。ニュースでも見ようかとバッグに手を入れ、そういえば携帯は預けたままだと気付いた。本もないので何となく中吊なかづりを眺める。

 二回の乗り換えも無事に済み、三本目の電車に乗る頃には不安も消えていた。むしろ図書館に行けることが楽しみにすらなってくる。学生証は財布に入っているから、暇潰し用の本でも借りようか。

 最寄駅からはオフィス街を十分ほど歩く。千尋はいつも通り右側の歩道を歩いた。ちょうどランチタイムで通りはにぎわっている。



 行きう人の群れの中、一つ動かぬ影が長尾の目に留まった。

「やべっ!」

 長尾は咄嗟とっさに銃を抜いたが、その人物の周囲は人通りが多すぎて手が出せない。逆に千尋の側にはさえぎるものがなかった。



 千尋は、それなりに周りを気にかけて歩いているつもりだった。しかしそこへ、前方の道路脇にめてあったトラックの陰から突然飛び出した人影。

 気付いた時には遅かった。背後から「伏せろ!」という叫び声。……と同時に、

「あっ!」

 一溜ひとたまりもなく歩道の上に突き飛ばされる。そこへ、パンッ、と乾いた銃声。続いてキャーッ、と悲鳴が上がった。

 長尾が走ってきて鋭く呼びかける。

「おい!」

 千尋の上におおかぶさった男は、アスファルトの歩道の上で千尋の頭を受け止めていた。左腕に体重をかけた瞬間その痛みにうめき、右手を付き直して体を起こそうとする。

 長尾はそれだけ見届けると、車道に飛び出した。歩道橋の上にいた革ジャンの男が反対側へと駆け下りていく。ブーッ、ブブーッと、方々ほうぼうからけたたましくクラクションの音。長尾は胸元から手帳を出し、それを掲げて怒鳴りながら驚異的なスピードで走っていった。

「警察です! 道をけてください!」

 千尋は何が起きたのかわからず、半ば放心状態でその場に横たわっていた。目の前に倒れた人物が浅葉であることをようやく理解した。

「浅葉さん……」

怪我けがはないか?」

 千尋は、歩道に手を付いた時に少しいた程度だった。

「大丈夫……です」

 千尋の返事が聞こえているのかいないのか、浅葉は、歩道に倒れたままの千尋の左肩の辺りに目をらしていた。その手が千尋の髪を払い、鎖骨に触れる。不謹慎にも、ほのかなときめきが千尋の胸を打った。

 浅葉の食い入るような視線が、その付近をしばらく彷徨さまよう。千尋はまさか銃弾が当たったのではあるまいかと思わず見やったが、特に血が出ている様子はないし、痛みもなかった。

 浅葉はふうっと息をつき、携帯を取り出した。ボタンを二つ三つ押し、

「現在地、三丁目南交差点。銃撃されました。男一人、四丁目方面に逃走中。長尾が追ってます。怪我人なし、田辺も無事です」

と告げると、ジーパンの腰に付けたホルダーに携帯を戻した。

 ゆっくりと体勢を立て直し膝を付いた浅葉の右腕が、千尋の背中を支え、ぐいと持ち上げる。

(えっ……?)

 一瞬ふっと抱き締められたような気がした。

(いやいや、気のせい、だよね……)

 気が付くと千尋は、ビルの壁に背をもたれて座っていた。浅葉は歩道の隅に座り込んだまま、ジーパンの上にかぶせて着ている黒い長袖シャツの下から手を入れ、下に着けているものをゆるめているらしい。浅葉は左の脇腹に手を当て、上体をゆっくりと左右にひねった。

 千尋がその様子をぼんやりと眺めていると、パトカーのサイレンが近付いてきた。歩道橋の先の交差点を曲がった辺りでサイレンが止まる。野次馬がそちらへ向かい、辺りはざわついていた。

 千尋は急に妙な寒気を感じた。自分がたった今殺されかけたという事実が、実感にまではならないまま、全身を包むように脅かしてくる。先ほどの銃声が思い出され、身震いした。ごく普通に生きてきただけなのに。こんな目に遭うような人生ではないはずなのに……。

 誰かの恨みを買った覚えは全くない。軽い気持ちのいたずらだか、不注意による間違いだか知らないが、はなはだ迷惑な話だ。

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