上 下
24 / 78
第5章 差し伸べるのは手だけじゃない。

しおりを挟む
もうすぐ、曲が終わる。


奏と響の演奏は、いよいよ終盤に来ていた。
張り巡らせていた緊張感。
痛みで感覚のない、左手。
ただの個人の演奏なら、すぐにでもやめてしまいたい状況。

しかし、今の奏は違った。

(終わっちゃう……嫌だな、もっと弾いてたいな……)

世界的なピアニスト、麻生  響が隣にいる。
伴奏を聴いているだけで、その伴奏に合わせて弾いているだけで、自分が成長したような感じになる。
隣にいるだけで、勉強になる。

奏は自分の成長を実感していた。
ただ、隣に響がいるからそう錯覚しているのかもしれない。
それでも、今の奏はそんな錯覚にでも浸っていたかった。

客席を見る。うたが、うつむいて涙を流している。
奏はもう一度、たった1音だけを強く叩く。
大勢の観客から見たら、それは奏が力みすぎたであろうミスにも見える。

しかし、会場内でふたりだけ、その意図に気づく。
響と、うたである。

隣で響が、ふっと笑う。
うたを見ると、涙を流しながらも、こちらをしっかりと見る。

(ちゃんと、見てなさいよ!あんたのために弾いてるんだからね!)

満面の笑みを送ってやる。うたはもう、奏から目を逸らすことはしなかった。

長いようで短い、1曲が終わろうとしている。

(うた……届いた?私は、あなたと音楽がしたいの。あなたの歌の伴奏がしたいの!それが、私の夢…………!)

想いを、夢を、右手にのせ、鍵盤に伝え……
音として、客席に運ぶ。

響を見る。
やれやれ……と言っているような、呆れた笑いを浮かべながらも、頷き返してくれた。

(先生……ありがとうございます。私の夢……いつも後押ししてくれて。)


ふたりの手が同時に跳ねる。
全く崩れることなく、同時に演奏が終わる。


しばしの静寂。
響は、慣れた素振りで椅子を立つと、未だ座ったままの奏に左手を差し出す。

「ほら。最後まで、お前は凛としていろ。」

優しい笑顔。
響も、奏の覚悟と意志をその演奏から確かに感じ取っていた。
故に、奏を最後までしっかりと立たせておきたい。有終の美を飾らせたい、そう思ったのだろう。

奏はそっと、気恥ずかしそうに響の手を取り、立ち上がると深く頭を下げる。
その瞬間、大きな拍手と歓声が巻き起こった。
その大声援の中で。

「よく、頑張った。」

響が奏を見ずに言った。
憧れである存在の響に認めてもらえたと言う喜びと、片手になり、響に助けてもらいはしたものの、最後まで弾き切ったという達成感に、

「ありがとう……ございます!」

奏は大粒の涙を流すのであった。


しおりを挟む

処理中です...