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第5章 差し伸べるのは手だけじゃない。

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うたは、観客席の最前列で、二人の演奏を見ていた。

ピアノが弾けない自分でもわかる、ハイレベルのやり取り。
天才に挑む親友。

その心境は、複雑だった。

私と母を、頑なに拒絶する響。うたと奏の憧れの存在だっただけに、どう接すれば良いのか、わからなかった。

そんな響と並んでピアノを弾くのは、親友の奏。
左手を使っていない。手首にはハンカチが巻かれている。
怪我をしたのだろうか?と考えて、うたは息を飲んだ。

(奏ちゃん……まさか、この前会ったときに……?)

心臓が高鳴る。
奏に誘われたあの日、うたは奏を最後に突き飛ばしていた。もし、その時の手のつき所が悪かったら……

(私の……せいかもしれない……)

うたは込み上げる涙を必死に我慢した。
また、自分が迷惑をかけた。人を傷つけた。そう思ったから。
奏に支えてもらうばかりで、自分は奏を傷つけてばかりだ。と、うつむいたその時。

1音だけ、ピアノの鍵盤が荒々しく鳴った。
端から見ると、ただのミス。しかし……顔をあげると、奏がうたを見ていた。

(しっかり見て!聴いて!)

そう言わんばかりの、鋭い視線。奏からだった。
奏と目が合う。
その瞬間、奏はにこりと満面の笑みを浮かべると、再び鍵盤へと目を落とした。

「あ…………」

その時、うたは思い出した。今、ふたりが弾いている、この曲を。

「奏……ちゃん……!」

もう、涙を堪えることはできなかった。


今演奏中のこの曲は、知り合ったばかりのうたと奏が、初めて一緒に出掛けたときの、思い出の曲。
みらい音楽ホール。

響がオーケストラとともに演奏し、圧倒的な存在感を見せつけた、ショパンの名曲。

ふたりともその日の演奏で心を撃ち抜かれ、ふたりでひとつの夢を語った、あの曲。

「私があなたの歌の伴奏をして、あなたが歌って……今日の歓声を超えたい!」

「こんな広いホールで、こんなに沢山の人に私たちの音楽を聴いて貰えたら、幸せ、だね……」


コンサートの後、静かになったホールで、ふたりだけ客席に座ったままで、余韻に浸りながら語った、ふたりの夢。
感動のままに夢を語った、あの日の思い出……。

「でも、私は、私は……っ!」

しかし、あの時とは何もかもが変わってしまっていて……。
流れる涙は止まらない。視線がステージから、奏から離れない。

(ホントは、どうしたいの……?)

曲が、うたに語りかけてくるように聴こえる。
奏の気持ちが乗せられた演奏に答えるように、歌は小さく呟いた。

「歌いたい……ホントは歌いたいんだよ……!」


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