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第5章 差し伸べるのは手だけじゃない。

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演奏は、ついに奏の番となった。

奏の横を、成功したと喜ぶ者、失敗したと涙を流す者、様々な表情を見せる出演者が通り過ぎていく。
そんな出演者を見ながら、奏は決意する。

「私は……笑うんだ。」


演奏会の運営委員が、奏に入場を促す。奏は頷くとステージの中央へと歩み出た。

黒のドレスを身に纏った美少女の入場に、会場がどよめく。
奏はピアノの前に立つと客席に深く一礼し、椅子に座った。

その立ち居振舞いは、凛とした中にも優雅さがあった。

鍵盤、譜面。交互に目をやり、息を吐く。
静かに目を閉じ集中し、意を決して曲を弾き始めた。

『華麗なる大円舞曲:ショパン』

よく耳にするクラシック曲であり、聴衆にとっても親しみやすい曲でもある。
しかし、その譜面には難易度の高い部分も随所にみられる。
親しみやすい曲=簡単な曲ではないのだ。

奏は最初の数秒で、音楽関係者を唸らせた。
絶好の入り方だったらしい。流れるように音が響く。

左手首が痛む。この曲は、伴奏部分に高い技術が必要となる。奏は必死に譜面に食らいつく。


ミスはない。それが奏の長所であるのだ。しかし、左手首が痛む。
ズキズキと痛みを伴いながらも、必死に演奏する奏。

(痛い……痛い……!)

演奏をしていれば、集中して痛みを感じなくなると奏は思っていた。
しかし、そう上手くことは運ばないもので、じわじわと痛みだす左手首が感覚を、そして集中力を奪っていく。

湿布もしていない左手首は、良く見れば腫れているのが分かるほど。次第に伴奏と主旋律のバランスが崩れてくる。

「何か、ミスしてる……?」

「うん……なんだかちぐはぐな感じ……。」

音楽に精通していないものでも、その違和感は聴いていて分かった。


(まだ、まだ終われない……!!)

必死に自分を奮い立たせる奏。しかしその額には脂汗が滲む。
伴奏は主旋律から徐々に遅れていき……


……演奏が止まった。


演奏を、止めるつもりはなかった。奏は弾きたかったのだが、手が、指先が動かなかった。
足掻くように続けようとするが、また演奏は止まる。

(動け、動け……!!)

必死に手を動かそうと試みるが、もはや痛みで言うことを聞かない左手。
奏は唇を噛むと、俯いた。
涙が溢れてくる。
自分の不甲斐なさに、親友を目の前に何も出来ない悔しさに。


会場はどよめいていた。
何故、演奏を中断したのか。

「あれ……左手、腫れてない?」

「本当だ、真っ赤だ……。」

「もしかして、あの状態で弾こうとしたの……?」

観客たちが、やがて奏の異変に気付き始める。
会場がざわめいた。
やがて、そのざわめきは少しずつ拍手へと変わっていく。。

「よく頑張った!」

「無理しないで!」

拍手と歓声の中、奏は悔しさで唇を噛みしめた。

もっと弾きたいのに。
最後まで弾きたいのに。

観客の善意の拍手が、自分の出番に幕を引いていこうとしている。


涙が止まらない。

しかし、もはやどうしようもない。
自分に送られている拍手が、奏には『お疲れ様』と労っているようにも聞こえた。

(そうだよね。こんな演奏聴いたって……耳障り、だよね。)

奏は、諦めることにした。
涙を拭うこともなく、立ち上がった、その時……。


舞台袖から声が聞こえた。

「本当に、それで良いのか?」


「まだ、終わりじゃないだろう?」


辺りが静まりかえる。

奏は声のする方……舞台袖を見やる。
そこには、響が居た。

響は、ゆっくりとステージ中央へと進むと、観客に向かい、深く一礼する。
その姿に、奏の登場時以上のどよめきが起こる。

「あれ……麻生  響?」
「マジ!?俺、ファンなんだよね!」
「あの天才ピアニストの?」
「奏とどんな関係なの!?」

音楽関係者の中で、世界的なピアニストである響は有名人である。
そんな響が突然、学生の演奏中に、しかも文化祭という非公式の場に現れたのだから、周囲が驚くのも無理はない。

響は奏の肩を手で支え、ゆっくりと椅子に座らせる。

「先……生?」

状況が飲み込めていない奏。
響はふぅっ……と溜め息を吐くと、

「他の誰が何を言っても、演奏は諦めないだろうと思っていた。」

と呟き、ハンカチを取り出すと奏の左手をきつめに縛る。

「いたっ……!」

声をあげる奏。響はその様子に小さくため息を吐くと、

「こんな状態で弾こうとするのが間違いなんだ。だから、諦めろと言った。」

と冷たく言う。奏は何も出来なかった不甲斐なさから、俯いて何も言い返せない。

「だが、それだけ本気で聴かせたい相手なんだろう、その親友は。」

やれやれ……と響が苦笑いを浮かべ、奏を見る。

「え……?え?」

その言葉の真意が、全く見えてこない奏は、目を白黒させる。

「……俺の言うことも聞かず、練習を続けてたくらいだ。左手は動かないにしても、右手は完璧なんだろうな?」

響は、真剣な表情で奏に問う。

「右手なら完璧にマスターしました。でも、左手が……どうしても動かないんです。痛くて……」

まったく痛みのない右手。奏は痛む左手を休ませながら、右手だけでも完璧に弾き切ろうと練習を怠らなかった。
自信を持って響に答える。

「だったら、お前は右手だけで弾け。」

「……はい?」

響は、ただ一言だけ奏に告げた。
右手だけで弾け。
ピアノという楽器は、両手10本の指で弾くからこそ、音に深みや壮大さが加わる楽器。
それを片手で弾けという響の言葉が、いまいち理解できない奏。

響は楽譜を一度だけパラパラと捲ると、

「俺が、お前の左手になってやる。教え子として恥ずかしいから、せめて最後まで弾ききってくれ。」

と、無表情のまま言った。
その突拍子のない響の申し出に、

「えーーー!!!?」

奏は大きな声をあげると、観客が奏に注目する。
観客には二人のやり取りは聞こえていない。急に奏が叫んだように見えただろう。

「え?連弾?私が……先生と?」

憧れのピアニストとの共演。
突然のことに理解が追い付かない奏。

「やるのか?やらないのか?見に来てるんだろう?大切な友達が。」

あまり中断したまま時間を浪費するわけにはいかない。
響は決断を迫る。
奏は、観客席を見渡す。最前列には、うた。

「……やる!お願いします。」

意を決し、奏は座ったまま響に頭を下げる。響は静かに頷いた。

未だざわめきのおさまらない会場内。
その中で響と奏は、目も合わせずに息を吸う。

そして、響が静かに呟いた。


「……again」


「……again」


響の呟いた言葉を合図に、ふたりが同時に演奏に入る。
目も合わせていないのに、全くの同時。その完璧な入りに、会場内のざわめきは止まった。

「連弾……?」
「いや、二宮さんは片手で弾いてる……」

周囲は、目の前で起こっていることを飲み込めていない。
しかし、誰よりも驚いていたのは奏だった。

(この人……なんでこんな完璧に合わせられるの?)

奏の性格、弾き方に合わせた、完璧な伴奏。しかも……

(うそ!?左手の伴奏、完全にオリジナル!?)

曲の雰囲気を崩さない、まるで連弾の時のような『別の譜面』が存在しているかのような、自然な曲運び。

(伴奏、右手で弾くのだって難しいのに……どれだけスキルが高いのよ!)

本来、ピアノとは両手で弾くもの。
右手で弾きやすい譜面と、左手で弾きやすい譜面とで構成されている。
響は、本来奏が弾くはずだった『左手で弾きやすい譜面』を右手で弾き、さらに自分の左手で、曲のイメージを損なわない、新たな伴奏をその場で作り出して弾いているのだ。
奏が驚かないはずがない。
呆気にとられている奏に、響が小さく囁く。

「……集中。」

その一言で、奏は変実に引き戻される。

(そうよ。相手は天才ピアニスト、麻生  響だよ!このままのまれるわけにはいかない!)

全力で、隣で圧倒的な存在感を出す響に食らいつく。
響は奏を挑発するかのように、完璧に伴奏を進める。

(私があれだけ苦労した部分を、あんなに簡単に……!)

何度も練習しても詰まってしまった部分を、すらすらと丁寧に、そして流れるように弾いていく。

すると、今度は響の左手のオリジナル伴奏が止む。
その部分は、主旋律一番の見せ場。高度なテクニックを要する部分だった。

(ついてこいよ、奏。)

まるでそう言うかのように、視線を奏に送る響。
そんな余裕の師を横に、奏の口許が緩む。


(……楽しい!こんなにテンション上がる演奏は、生まれて始めて!)

悔しさよりも、痛みよりも、この時の奏の心を支配したのは『楽しさ』だった。

完全に、奏は響の世界に入り込んでいた。
不適に笑うと、望むところだ、と言わんばかりに右手を構える。

響の右手、伴奏を弾く手が跳ねた。それを合図に、奏の見せ場が始まる。

白、黒鍵盤が複雑に入り乱れる、難しい譜面。奏自身も時折間違えてしまう難度の高さだったが、今の奏には失敗する気はしなかった。

(なんでだろ……今日は、絶対ノーミスだ!そんな気がする!)

響に負けず劣らずの指運び。会場からは感嘆の溜め息が漏れる。

今、奏の眠っていた才能は、響により少しずつ引き出されようとしていた。


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